夜明け前の許婚
冷酷なヴァンパイア当主×契約許婚の人間。期限付きの結婚から始まる、すれ違い溺愛ロマンス。
「守るとは、距離を取ることだ」——両親を失った夜にそう誓ったノクス辺境伯レイヴンは、感情を捨て、彫像のように生きてきた。家の利害のためだけに、人間の許婚を迎えに行くその夜。書庫から消えた盟約封緘、霧の向こうから近づく気配。そして、名前も顔も知らない契約の相手。夜明け前には必ず閉じる門の下で、冷たいはずの胸の奥が、初めて微かに揺れる。
家同士の契約が結ぶ、三年間の誓約許婚。血判の契約書に縛られた二人は、やがて互いの孤独に触れ、凍りついた心を溶かしていく——「夜明け前の許婚」、第一章開幕。
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夜明け前の許婚 - 夜明け前の手 ―― 離さない指と、帰さないでという呟き
夜の空気が、屋敷の隅々まで冷え切っていた。
ユウは自室の寝台の端に座り、膝の上の荷箱を見つめていた。木の蓋を開けたまま、中に畳んだ衣服を収めていく。白いシャツを二枚、薄手の上着を一枚、それからセラフィが用意してくれたらしい柔らかい靴下。
(これで、全部かな)
指先が、微かに震えている。
畳んだ衣服を荷箱の底に押し込むたび、あの日のレイヴンの声が、胸の奥で繰り返された。
『契約は契約だ』
『家の掟に従え』
感情のない、平坦な声。ユウを突き放した、あの言葉。
(分かってる。分かってるけど)
ユウは、荷箱の縁をぎゅっと握った。木の角が手のひらに食い込む。痛い。でも、その痛みで、溢れそうになるものを必死に押さえつけた。
窓の外では、夜守の従者たちが、出立の準備を進めている。荷物を運ぶ足音。馬車の車輪が石畳を擦る音。そして、遠くで、夜明けの門の蝶番が、ぎしり、と軋む音がした。
(夜明け前に、出て行かなきゃいけない)
誓約許婚の出立は、夜明け前に行う。それが、この家の掟。門が開く前に屋敷を出て、門が閉まる音を聞きながら去る。それが、契約終了の合図なのだと、セラフィが教えてくれた。
(あと、どれくらい残ってるんだろう)
ユウは、窓の外の空を見た。
まだ暗い。星が、凍りついたように瞬いている。東の空は、まだ黒いまま。夜明けは、まだ先。
でも、時間は、確実に、削られていく。
一呼吸ごとに、一瞬ごとに、この屋敷にいられる時間が、消えていく。
(レイヴンさん)
名前を、心の中で呼んだ。
あの人の、何も言わない背中。書庫で見せた、震える左手。血露の杯に口をつけず、月明かりの窓辺に立っていた、孤独な姿。
(全部、本当は、違うんじゃないの?)
(本当は、帰さないでって、思ってくれてるんじゃないの?)
でも、そんなの、ユウの願望に過ぎない。レイヴンは、はっきりと言った。契約は契約だと。家の掟に従えと。
否定も、説明も、何も与えられないまま、ユウは、ただ部屋に戻された。
(あの時、何か言えたらよかった)
(でも、何も言えなかった)
ユウは、荷箱に最後の一枚、寝間着を畳んで入れた。
蓋を、閉める。
カチリ、と留め金が噛み合う音が、静かな部屋に響いた。
(おしまいだ)
ユウは、荷箱の上に、そっと手を置いた。
冷たい木の感触。
(これで、全部、おしまい)
目の奥が、熱くなった。
でも、泣かなかった。
泣いたら、全部、崩れてしまいそうだったから。
夜更けを過ぎても、ユウは眠れなかった。
寝台に横になっても、目を閉じても、心臓の音が耳の奥でずっと鳴っている。冷えた空気が、毛布の隙間から入り込んで、体を冷やしていく。
(喉、渇いた)
ユウは、ゆっくりと体を起こした。
水を飲もう。そう思った。
寝台を抜け出し、足音を忍ばせて部屋の外へ出る。廊下は、夜の闇に沈んでいた。壁際のガス灯が、青白い炎を揺らしているが、その光は、廊下の隅々まで届かない。
ユウは、ひんやりとした石畳の上を、裸足のまま歩いた。
一歩、一歩。
足の裏から、冷たさが這い上がってくる。
(水は、どこにあったっけ)
セラフィに教えてもらった給水室は、確か、渡り廊下の向こう。ユウは、廊下の角を曲がった。
その時だった。
月明かりが、渡り廊下に、銀色の光を落としていた。
石造りの柱が、等間隔に並ぶ、屋根のない渡り廊下。その真ん中に、黒い影が、一つ。
ユウは、足を止めた。
(レイヴン、さん)
影の正体は、すぐに分かった。
黒に近い焦げ茶の短髪。赤みを帯びた瞳。広い胸と肩を持つ、長身の男。
レイヴンが、渡り廊下の真ん中に、立っていた。
月明かりが、その横顔を、冷たく照らしている。
左手が、胸の高さに上げられていた。甲に刻まれた古い家紋に、指が触れている。
(書庫から、戻ったのかな)
ユウは、そう思った。
レイヴンの指先は、家紋の上を、何かを確かめるように、ゆっくりと這っていた。その姿は、祈るようにも、呪うようにも見えた。
(あの人の、あんな姿、初めて見た)
ユウは、声をかけられなかった。
いや、かけるべきではないと思った。
これは、きっと、見てはいけないものだ。
でも、足が、動かない。
目が、離せない。
無表情の奥に、ユウは、初めて、レイヴンの疲労を見た。
深い、深い、疲れ。
何日も、何年も、一人で何かを背負い続けてきた者の、疲れ。
(レイヴンさん……)
胸の奥が、ぎゅう、と締め付けられた。
その時、レイヴンが、顔を上げた。
赤みを帯びた瞳が、真っ直ぐに、ユウを捉える。
ユウは、心臓が、跳ね上がるのを感じた。
(見つかった)
(逃げなきゃ)
でも、体が、動かない。
二人の間に、冷えた空気と、短い沈黙が満ちる。
夜守の灯りは、遠い。
この渡り廊下には、月明かりと、二人の影だけ。
レイヴンは、何も言わない。
ユウも、何も言えない。
沈黙が、一秒、二秒、三秒と、積み重なっていく。
(何か、言わなきゃ)
(でも、何を?)
(契約の話? 出立の話? そんなの、聞きたくない)
(聞きたくないのに、でも、このままじゃ)
ユウの唇が、震えた。
喉の奥から、言葉が、勝手に溢れ出そうになる。
(だめだ、言っちゃだめだ)
(そんなこと、言ったら、困らせるだけだ)
(分かってる。分かってるのに)
「……帰さないで」
声は、自分でも驚くほど、小さく、か細かった。
言ってしまった。
言ってしまった、と、ユウは思った。
喉の奥が、凍りつくような後悔。
(なんてことを)
(今、こんな時に、そんなことを)
(レイヴンさんを、困らせるだけなのに)
ユウは、俯いた。
顔が、熱い。
目尻に、涙が滲む。
(ごめんなさい)
(ごめんなさい、レイヴンさん)
心の中で、何度も謝った。
謝ることしか、できなかった。
次の瞬間。
ユウの右手首に、強い力が、加わった。
「えっ……?」
ユウは、顔を上げた。
レイヴンが、ユウの手首を、掴んでいた。
その指は、骨が浮き出るほど、強く、強く、ユウの細い手首を握りしめていた。
(いたっ……!)
痛い。
骨が、軋む。
手首に、赤い痕が残るほどの、強い力。
でも。
でも、ユウは、その痛みを、痛いとは感じなかった。
痛みより先に、熱が、届いた。
レイヴンの手の、熱。
初めて触れた、レイヴンの手。
その熱が、ユウの手首から、腕を伝って、胸の奥にまで、じわりと広がっていく。
(あったかい)
(レイヴンさんの手、あったかい)
そして、脈。
レイヴンの指先から、ユウの手首に、規則正しい脈が、伝わってくる。
ドクン、ドクン、ドクン。
(生きてる)
(レイヴンさんも、ちゃんと、生きてる)
涙が、溢れた。
止めようと思っても、止まらない。
熱い雫が、頬を伝って、顎から、落ちていく。
「……ぅ、……ふ、ぇ……」
声にならない声が、漏れた。
レイヴンは、何も言わない。
契約の話もしない。
祖母の掟の話もしない。
何も、説明しない。
ただ、ユウの手首を、掴んだまま、立っていた。
夜明け前の、冷えた廊下に。
月明かりの下に。
二人は、影を落として、立っていた。
レイヴンの指は、ユウの手首を、離さなかった。
渡り廊下の遠くで、一つの影が、足を止めた。
薄紫がかった銀の髪を、肩で切り揃えた小柄な少女。
セラフィだった。
彼女は、給水室へ向かう途中、廊下の角から、渡り廊下の光景を、視界の端に捉えた。
月明かりの下で、向かい合う、二人の姿。
主人であるレイヴンが、ユウの手首を、掴んでいる。
(レイヴン様が……)
セラフィは、緑の瞳を、大きく見開いた。
主人が、誰かに、自分から手を伸ばす。
その姿を、セラフィは、初めて見た。
レイヴンは、いつも、一人だった。
誰とも、距離を置いていた。
触れようとも、触れられようともしなかった。
そのレイヴンが、今、ユウの手首を、掴んでいる。
(ああ……)
セラフィの胸に、温かいものが、込み上げてきた。
(やっと、ですね)
(レイヴン様、やっと、ご自分の気持ちに)
セラフィは、声をかけなかった。
かけるべきではないと、思った。
これは、二人だけの時間だ。
誰にも、邪魔をさせてはいけない。
セラフィは、そっと、その場を離れた。
そして、廊下のガス灯を、一つずつ、静かに消していった。
カチリ。
青白い炎が、一つ、また一つと、消えていく。
暗がりが、廊下を、ゆっくりと満たしていく。
でも、渡り廊下の上の月明かりは、消えない。
むしろ、周りが暗くなるほど、その銀色の光は、くっきりと、二人の姿を浮かび上がらせた。
セラフィは、最後のガス灯を消し終えると、振り返った。
暗闇の中に、月明かりの渡り廊下だけが、白く、浮かび上がっている。
その真ん中に、二人の影が、寄り添うように、一つに重なっていた。
(どうか、この時間が、少しでも長く続きますように)
セラフィは、心の中で、そう祈った。
そして、静かに、門の支度へと向かった。
どれくらいの時間が、過ぎたのだろう。
ユウには、分からなかった。
一瞬にも、永遠にも感じられる、不思議な時間。
涙は、いつの間にか、止まっていた。
レイヴンの手の熱は、変わらず、ユウの手首を包んでいる。
指の力も、変わらず、強い。
(離さないでくれてる)
ユウは、そう思った。
離さない、という、その事実だけが、今のユウの全てだった。
(このまま、朝が来なければいいのに)
(ずっと、こうしていたい)
でも、夜明けは、確実に、近づいていた。
東の空が、うっすらと、色を変え始めている。
黒から、深い藍へ。
藍から、仄かな紫へ。
空の色が、ゆっくりと、変わっていく。
その変化を、レイヴンも、感じていた。
夜巡りの眼を持つヴァンパイアには、人間よりも早く、夜明けの気配が分かる。
レイヴンは、空を見上げた。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「……夜明けの門が開く前に、済ませることがある」
低く、静かな声。
ユウは、レイヴンの顔を見上げた。
無表情。
でも、その赤みを帯びた瞳は、真っ直ぐに、夜明けの門の方向を見ていた。
(済ませること?)
ユウには、その意味が分からなかった。
でも、問わなかった。
問う必要はないと思った。
今はただ、この手を、離したくない。
それだけだった。
レイヴンは、ユウの手首を掴んだまま、歩き出した。
ユウは、されるがままに、その一歩に続いた。
掴まれた手首の熱を、離さぬように。
二人は、月明かりの渡り廊下を抜け、夜明けの門へと、共に歩き出す。
冷たい石畳の上を、裸足のユウと、黒衣のレイヴンが、並んで歩いていく。
その後ろ姿を、月明かりが、静かに照らしていた。
門の前には、すでに、一つの人影があった。
銀白の髪を固く結い上げた、黒衣の老女。
手には、石突きが家紋の形をした杖。
オルガ・ヴェスペルが、夜明け前の門の前に、立っていた。
レイヴンは、足を止めなかった。
ユウの手首を、離さなかった。
そのまま、オルガの前に、歩みを進める。
オルガは、灰色の瞳で、二人を、じっと見据えていた。
その視線は、氷のように冷たく、鋭い。
でも、レイヴンは、怯まなかった。
ユウの手首を掴んだ手に、さらに、力が込められる。
(レイヴンさん……)
ユウは、その力の強さに、レイヴンの決意を感じた。
夜明け前の、薄明かり。
門の前に、三人の影が、長く伸びている。
レイヴンは、口を開いた。
契約の破棄を、告げるために。
ユウを選ぶと、宣言するために。
家の掟を捨てる、最後の一歩を、踏み出すために。
東の空が、紫から、薄い紅へと、色を変え始めていた。Noveliaとは?
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