ヒナとアンズのすれ違い大作戦
ゲームと餃子と、名前のつけられないこの気持ち。
渡辺中学校に通う少女・ヒナには、誰にも言えない秘密がある。かつて彼女を殺しに来た刺客が、今では近所の中華料理屋「来々軒」の看板娘・アンズとして働いているのだ。転送装置が壊れて帰れなくなったアンズは、今や商店街の人気者。そしてヒナと同居する新田は、そんなアンズの笑顔と餃子に夢中で、毎日のようにその話ばかりしている。
「別に」——それがヒナの口癖だ。新田がアンズの名前を出すたび、胸の奥でちくりと刺さる何か。ゲームに没頭しているふりをして、本当は気づいている。このもやもやに、まだ名前をつけられないだけで。
そんな折、クラスの文化祭実行委員・瞳が「喫茶店の手伝いにアンズちゃんを呼ぼう」と提案する。教室がざわめく中、思わずこぼれたヒナの「……別に」。自分でも説明できない感情が、少しずつ形を持ち始める。
元刺客と元ターゲット。奇妙な縁でつながった二人の、すれ違いともどかしさの恋愛模様。文化祭まであと二週間、ヒナの胸のざわつきは、まだ消えそうにない。
ヒナとアンズのすれ違い大作戦 - 来々軒の看板娘と、静かな窓辺
朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、床に落ちたコントローラーのボタンを白く浮かび上がらせていた。ヒナはソファの上で丸くなり、だぼだぼのパーカーを頭からすっぽり被ったまま、画面の中の敵を無表情で撃ち抜いていた。黒髪のロングヘアが背中からソファの座面に流れ落ちて、前髪が目の上にかかっている。テレビの光が、感情の読めない深い黒褐色の瞳に小さく映っていた。
「……朝からゲームか」
寝室から出てきた新田義史が、ネクタイを締めながら呆れた声を出した。金髪のオールバックは今日もきっちり整っていて、切れ長の黒い目がヒナの背中をじっと見ている。左眉の傷跡が、朝の光の中でくっきりと浮かんでいた。
ヒナは振り返らなかった。親指がコントローラーのボタンを小刻みに叩く。画面の中では、彼女の操作するキャラクターが敵を次々と倒していた。
「今日も来々軒のラーメン食ってくるからな」
新田の声が、急に弾んだ。ヒナは指を止めない。画面の中の銃声だけが、リビングに響いている。
「アンズちゃんの笑顔を見るとな、仕事の疲れが全部吹っ飛ぶんだよ。あの子、本当にいい子だな」
ヒナの眉が、ほんの少しだけ動いた。ほんの数ミリ。自分でも気づかないくらいの、小さな動きだった。でも、胸の奥で何かがちくりと刺さる。注射針よりも細い、でも確かに痛い何か。
「……ふうん」
ヒナはそれだけ言って、画面に集中した。いや、集中しているふりをした。新田の声が、まだ続いている。
「アンズちゃんの餃子も最高なんだよ。皮がパリッとしてて、中の餡がジューシーでさ。あれは週三で通う価値がある」
ヒナはコントローラーを握る手に、ほんの少しだけ力を込めた。画面の中の敵が、派手に吹き飛ぶ。
「……うるさい」
小さくつぶやいた。新田には聞こえていない。彼は鏡の前で髪を整えながら、まだアンズの話をしている。
「そうだ、今度お前も来々軒行くか?アンズちゃんに会わせてやるよ。いや、お前はもう会ってるか。まあいいか」
ヒナはゲームを一時停止した。画面が止まり、リビングに急に静けさが降りる。
「……行かない」
「ん?何か言ったか?」
「……別に」
新田は首をかしげたが、それ以上追及しなかった。彼はスーツの上着を羽織り、玄関へ向かう。
「じゃあ行ってくる。戸締まりしろよ。あと、ゲームばっかしてないで宿題やれよ」
「……うん」
玄関のドアが閉まる音がした。ヒナはソファの上で、しばらく動かなかった。テレビの画面には、一時停止の文字が浮かんでいる。
(アンズ)
名前を思い浮かべただけで、胸の奥がざわざわする。数か月前まで、あの子は自分を殺しに来た刺客だった。組織から送り込まれて、超能力で戦って、転送装置が壊れて帰れなくなって。それで今は、中華料理屋の看板娘をやっている。
(別に、どうでもいい)
ヒナはそう思おうとした。でも、うまくいかない。新田がアンズの名前を出すたびに、この変な感じが胸の中に広がる。名前のつけられない、もやもやした何か。
ヒナはゲームを再開した。画面の中の敵を、いつもより少しだけ乱暴に撃ち抜いた。
──
渡辺中学校は、豊島区の住宅街の中にある。校舎は古くて、廊下を歩くと床がきしむ。教室の窓からは、商店街のアーケードの屋根が遠くに見えた。
「文化祭、うちのクラスは喫茶店で決まりね」
教壇の前で、三嶋瞳が黒板に「喫茶店」と白いチョークで書いた。黒髪のストレートボブはきっちり手入れされていて、切れ長の黒い目は常に冷静だ。身長は146センチ。中学に入ってから一度も伸びていない。でも、その小さな体のどこにそんな行動力があるのか、クラスの誰もが不思議に思っていた。
「メニューは簡単なものにする。クッキーと紅茶とコーヒー。あと、パンケーキも焼けるかも。オーブン借りられればだけど」
瞳は手際よく黒板にメニュー案を書き出していく。クラスメートたちは、彼女の指示に素直に従っていた。このクラスで、瞳に逆らえる人間はほとんどいない。
「ねえ、ヒナちゃんは何やりたい?」
隣の席の女子が、ヒナに話しかけた。ヒナは窓の外をぼんやり眺めていた。校庭では、サッカー部が朝練をしている。
「……別に」
「また別に。ヒナちゃんって、ほんと何考えてるかわかんないよね」
女子は笑って、前を向いた。ヒナは窓の外を見続けた。空は秋の雲が高く浮かんでいて、風がカーテンをゆっくり揺らしている。
「あ、そうだ」
瞳が突然、声を上げた。黒板に書く手を止めて、クラス全体を見渡す。
「喫茶店の手伝い、来々軒のアンズちゃんに頼んでみない?あの子、中華料理屋で働いてるから接客慣れてるし、かわいいから集客になるよ」
教室がざわついた。男子たちが「おお」と声を上げる。アンズの名前は、この辺りでは結構知られている。来々軒の看板娘として、商店街でも人気者だった。
ヒナの背筋が、ぴくりと動いた。
「……別に」
気づいたら、口から出ていた。声は小さかった。でも、教室が静かになったから、みんなに聞こえてしまった。
「別にって何よ」
瞳が黒板の前から、じっとヒナを見た。切れ長の目が、興味深そうに細められる。
「アンズちゃん、来るの嫌なの?理由ある?」
ヒナは黙った。理由なんて、自分でもわからない。ただ、瞳の口からアンズの名前が出た瞬間、胸の中のもやもやが急に大きくなった。
「……別に、嫌じゃない」
「じゃあ何?」
「……なんでもない」
ヒナは窓の外に視線を戻した。瞳はしばらくヒナを見ていたが、やがて「まあいいや」とつぶやいて、黒板に向き直った。
「とりあえず、アンズちゃんには私から声かけてみる。みんな、文化祭まであと二週間だからね。ちゃんと準備してよ」
教室がまたざわざわと動き出した。ヒナは窓ガラスに映る自分の顔を、ぼんやり見つめていた。無表情な顔。でも、その奥で何かが動いている。
(なんで、あんなこと言ったんだろう)
自分でもわからなかった。アンズが来るのが嫌なわけじゃない。むしろ、来るなら来るで、それはそれで……。
(……別に)
また、その言葉が出てきた。ヒナは心の中で、自分に舌を出した。
──
放課後、ヒナは新田のマンションに帰ってきた。八階建ての建物の八〇五号室。リビングには、新田が買ってきた高級ソファと、ヒナが占領しているゲーム機と、窓際のクッション。
ヒナはランドセルを床に置いて、窓際に座った。膝を抱えて、窓の外を見る。
マンションの窓からは、豊島区の街並みが見渡せる。低いビルと住宅が入り混じって、その向こうに商店街のアーケードの屋根が続いている。来々軒は、あのアーケードの中だ。
(アンズ、今ごろ何してるんだろう)
そう思って、ヒナは首を振った。考えるのをやめようとした。でも、目は自然と商店街の方角を向いている。
夕方の光が、街をオレンジ色に染めていた。窓の外を、買い物帰りの主婦や、部活帰りの学生が歩いている。みんな、それぞれの日常を生きている。
ヒナは喉元に手をやった。服の下に隠した、古い傷跡。かつて組織に付けられていた首輪の跡。あれが壊れたとき、ヒナは自由になった。でも、自由になってからも、こうして窓の外を眺める癖は抜けない。
(アンズが来ない日は、静かだ)
そう感じた。アンズはときどき、ラーメンの出前がてらヒナのところに来る。来るたびに、餃子を持ってきてくれる。ヒナは無表情のままそれを食べる。おいしい、と小さくつぶやく。それだけのやりとり。
でも、アンズが来ない日は、なんだか落ち着かない。部屋の中が、いつもより広く感じる。ゲームをしていても、どこか集中できない。
(なんで)
ヒナは窓ガラスに額をくっつけた。ひんやりとした感触が、少しだけ気持ちよかった。
「ただいまー」
玄関のドアが開いて、新田が帰ってきた。手にはスーパーの袋を持っている。
「お、窓際で何してるんだ?外なんか見て」
「……なんでもない」
ヒナは窓から離れて、ゲーム機の前に座った。新田はキッチンに立ち、袋から食材を取り出している。
「今日は餃子作ってやる。お前、餃子好きだろ」
ヒナは答えなかった。コントローラーを手に取って、電源を入れる。
「アンズちゃんの餃子には敵わないけどな。あれは本当にうまい。皮のパリパリ感が違うんだよな。どうやったらあんなに上手く焼けるんだろう」
新田の声が、キッチンから聞こえてくる。ヒナはゲームのロード画面を見つめたまま、動かなかった。
「アンズちゃんは本当にいい子だな。あの笑顔でラーメン出されたら、通うしかないだろ。毎日でも通いたいわ」
新田の声は、無邪気だ。悪気はまったくない。ただ、アンズのことを好きだという気持ちが、だだ漏れている。
ヒナは箸を持つ手を止めた。いや、箸はまだ持っていない。ゲームのコントローラーを握っている。でも、心の中では、箸を持つ手が止まっていた。
「……新田は、うるさい」
「え?何が?」
「……アンズの話、うるさい」
ヒナはゲームを始めた。画面の中のキャラクターが、剣を振り回す。
「なんだよ、アンズちゃんの話すると機嫌悪くなるな。もしかして、やきもちか?」
新田が笑いながら言った。ヒナは画面から目を離さない。
「……違う」
「違うのか。まあいいや。餃子、もうすぐ焼けるからな」
キッチンから、餃子を焼く音が聞こえてくる。油の跳ねる音、皮がこんがりと焼ける匂い。ヒナはゲームをしながら、その匂いをかいでいた。
(やきもち、じゃない)
ヒナは心の中で、新田の言葉を否定した。やきもちなんかじゃない。ただ、新田がアンズの話ばかりするから、うるさいと思っただけだ。
(……本当に?)
もう一人の自分が、心の奥で問いかけてくる。ヒナはその問いに答えなかった。
「ほら、できたぞ」
新田が餃子の皿をテーブルに置いた。湯気が立ち上っている。皮はきつね色に焼けて、いい匂いが部屋中に広がった。
ヒナはゲームを一時停止して、テーブルに座った。箸を取って、餃子を一つつまむ。
「どうだ?うまいか?」
新田が身を乗り出して聞いてくる。ヒナは餃子を口に入れた。パリッとした皮が、歯の下で音を立てる。中の餡から、肉汁がじゅわっとあふれてきた。
「……おいしい」
小さくつぶやいた。新田の顔が、ぱあっと明るくなる。
「だろ!俺の餃子もなかなかやるだろ!アンズちゃんには負けるけどな!」
新田は嬉しそうに、自分の餃子をほおばった。ヒナはもう一つ、餃子を口に入れた。
(新田の餃子も、おいしい)
でも、アンズの餃子は、もっとおいしい。
(……なんで、アンズのこと考えてるんだろう)
ヒナは餃子を咀嚼しながら、窓の外を見た。もう外は暗くなっていて、商店街の明かりが遠くに点々と見える。
──
夜。ヒナは布団の中で、スマホをいじっていた。画面の光が、暗い部屋の中でヒナの顔を青白く照らしている。
文化祭のグループメッセージが、何件も届いていた。瞳が作ったグループだ。クラスの女子が何人か入っている。
『アンズちゃんもグループに入れたよ!文化祭の打ち合わせ、来週から始めるね!』
瞳からのメッセージ。その下に、スタンプがいくつか並んでいる。
『アンズです!よろしくお願いします!』
アンズのメッセージもあった。絵文字がついている。かわいらしい、元気な文章。
ヒナは既読をつけたまま、スマホを伏せた。天井を見つめる。
「……別に」
また、その言葉。一日に何回、この言葉を口にしただろう。
(別に、アンズがグループに入っても、なんとも思わない)
そう思おうとした。でも、胸の奥が、またざわざわする。
(なんとも思わないなら、なんでこんなに気になるんだろう)
ヒナは布団を頭まで被った。暗闇の中で、自分の心臓の音だけが聞こえる。
マンションの窓の外では、商店街の明かりが遠くに揺れていた。来々軒の看板の光も、あの中に混ざっている。
アンズは今ごろ、あの光の下で働いている。ラーメンを運んで、餃子を焼いて、笑っている。
(アンズの笑顔)
ヒナは目を閉じた。まぶたの裏に、アンズの顔が浮かぶ。敵だったときの、真剣な顔。ホームレスだったときの、必死な顔。来々軒で働くようになってからの、明るい笑顔。
どの顔も、はっきりと思い出せる。
(なんで、こんなに覚えてるんだろう)
ヒナは布団の中で、小さく息を吐いた。
「……別に」
もう一度、つぶやいた。その言葉は、暗い部屋の中に吸い込まれて消えていった。
窓の外の明かりが、ひとつ、またひとつと消えていく。街が眠りにつく時間。ヒナもまた、ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥のざわつきは、まだ消えない。でも、その正体を確かめる勇気は、まだなかった。
(文化祭まで、あと二週間)
ヒナは眠りに落ちながら、ぼんやりとそう考えていた。アンズと一緒に文化祭の準備をする。それは、楽しみなのか、嫌なのか。自分でも、まだわからない。
ただ、確かなことがひとつだけある。
アンズがグループに入ったあの瞬間、ヒナの心は確かに動いた。それがどんな感情なのかは、まだ名前をつけられない。
ヒナの寝息が、静かな部屋に響き始める。窓の外では、商店街の最後の明かりが、ゆっくりと消えていった。Noveliaとは?
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