ヒナとアンズのすれ違い大作戦
ゲームと餃子と、名前のつけられないこの気持ち。
渡辺中学校に通う少女・ヒナには、誰にも言えない秘密がある。かつて彼女を殺しに来た刺客が、今では近所の中華料理屋「来々軒」の看板娘・アンズとして働いているのだ。転送装置が壊れて帰れなくなったアンズは、今や商店街の人気者。そしてヒナと同居する新田は、そんなアンズの笑顔と餃子に夢中で、毎日のようにその話ばかりしている。
「別に」——それがヒナの口癖だ。新田がアンズの名前を出すたび、胸の奥でちくりと刺さる何か。ゲームに没頭しているふりをして、本当は気づいている。このもやもやに、まだ名前をつけられないだけで。
そんな折、クラスの文化祭実行委員・瞳が「喫茶店の手伝いにアンズちゃんを呼ぼう」と提案する。教室がざわめく中、思わずこぼれたヒナの「……別に」。自分でも説明できない感情が、少しずつ形を持ち始める。
元刺客と元ターゲット。奇妙な縁でつながった二人の、すれ違いともどかしさの恋愛模様。文化祭まであと二週間、ヒナの胸のざわつきは、まだ消えそうにない。
ヒナとアンズのすれ違い大作戦 - 文化祭フィナーレ ~見つめ合うだけの、僕らの答え合わせ~
教室の空気は、昨日までとは違っていた。
文化祭最終日の午後。窓から差し込む秋の日差しはすでに傾き始め、教室の中をオレンジ色に染めている。机の上には閉店を知らせる小さな看板が置かれ、白いテーブルクロスのかかった長机の上には、売れ残ったクッキーがいくつか寂しそうに残っていた。
ヒナは窓際の席に座り、外を眺めていた。黒髪のロングヘアが背中に流れ、前髪が目にかかっている。深い黒褐色の瞳は、校庭の向こうに見える商店街の屋根のあたりを、ぼんやりと見つめていた。
(終わった)
文化祭が、終わった。
二日間の喧騒が、嘘のように静かだった。廊下の向こうからは、後夜祭の準備をしている生徒たちの声がかすかに聞こえてくる。でも、この教室の中は、取り残されたように静かだった。
「ヒナさん、売上集計終わったよ」
声がして、ヒナはゆっくりと振り返った。
三嶋瞳が、教壇の前に立っていた。黒髪のストレートボブは今日もきっちり整えられ、切れ長の黒い目が手元のノートを見ている。小柄な体に、今日も場を仕切る空気があった。
「アンズちゃんのおかげで、餃子が飛ぶように売れたね。あれ、すごかったよ。二日とも、昼過ぎには完売だったんだから」
瞳は、ノートに書かれた数字を見ながら、満足そうに言った。
ヒナは、何も言わなかった。
でも、胸の奥で、小さく安堵している自分がいた。
(アンズが、来てくれた)
昨日、来々軒で餃子を食べて、おいしいと言った。あの時、アンズの目に涙が浮かんでいた。それから、少しだけ、関係が戻った気がする。
「ヒナちゃんも、今日は機嫌いいじゃん」
瞳が、ノートから顔を上げて、ヒナを見た。
「別に」
ヒナは、短く答えた。
「また別に。でも、顔に書いてあるよ。昨日より、ちょっとだけ柔らかい顔してる」
瞳は、くすっと笑った。悪意はない。ただ、事実を言っただけだ。
ヒナは、窓の外に視線を戻した。
(柔らかい顔)
自分では、わからない。
でも、そうなのかもしれない。アンズに、おいしいと言えた。それだけで、こんなに違うのか。
胸の奥の、ざわざわが、少しだけ小さくなっていた。
──
後夜祭の準備が始まった校舎は、昼間とは違う賑やかさだった。
廊下には、暗くなった校内を照らすためのキャンドルや、色とりどりの飾り付けが並べられている。生徒たちが、楽しそうに笑いながら、それぞれの持ち場へと走っていく。
ヒナは、その人混みを避けるように、校舎の裏手へと続く通路を歩いていた。
(うるさい)
心の中で、そう思った。
文化祭は、楽しかった。でも、終わった後のこの感じは、いつも少しだけ苦手だった。
体育館の裏は、校舎の影になっていて、人目につきにくい。ヒナは、そこへ向かっていた。
誰もいない場所で、一息つきたかった。
体育館の壁が、夕日に照らされて、長い影を落としている。通路の突き当たりを曲がると、そこはもう、体育館裏の死角だった。
——先客がいた。
ヒナは、足を止めた。
体育館の壁にもたれて、一人で空を見上げている人影があった。
栗色のポニーテール。
夕日に透けて、金色に光っている。
アンズだった。
ヒナの心臓が、一瞬、跳ねた。
(アンズ)
どうして、ここに。
声をかけようか、かけまいか。迷っているうちに、アンズが、ゆっくりと振り返った。
「……ヒナちゃん」
アンズの声は、驚きを含んでいた。でも、それ以上に、どこかほっとしたような響きがあった。
ヒナは、何も言えなかった。
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
風が、校庭の落ち葉を、かさかさと転がしていった。
「ヒナちゃんも、人混み苦手?」
アンズが、小さく笑いながら言った。
「……別に」
ヒナは、短く答えた。
「そっか。私も、ちょっと疲れちゃって。ここ、静かでいいなって思って」
アンズは、そう言って、また空を見上げた。
ヒナも、つられて空を見上げた。
夕焼けが、西の空を赤く染めている。雲の端が、金色に縁取られていた。
「ねえ、ヒナちゃん」
アンズが、空を見上げたまま言った。
「文化祭、楽しかった?」
「……普通」
ヒナは、答えた。
「普通かあ。私は、楽しかったよ。ヒナちゃんのクラスの喫茶店、すごく盛況だったし。餃子も、みんなおいしいって食べてくれたし」
アンズは、笑った。
その笑顔は、昨日までの、無理をしている笑顔ではなかった。
ヒナの胸の奥が、じわりと温かくなる。
(よかった)
心の中で、そう思った。
アンズが、笑っている。
それだけで、よかった。
「ヒナちゃん」
アンズが、急に、真剣な声で言った。
ヒナは、アンズを見た。
アンズは、空を見上げたまま、唇をぎゅっと結んでいた。
何かを、言おうとしている。
「私、ヒナちゃんのこと……」
アンズが、言いかけた。
ヒナは、無表情のまま、アンズを見つめた。
アンズの横顔が、夕日に照らされて、赤く染まっている。
(何を、言おうとしてるの)
ヒナは、心の中で思った。
自分も、何か言わなければ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
喉の奥で、言葉が、つかえてしまう。
アンズは、ヒナの視線を感じて、ゆっくりとヒナの方を向いた。
目が、合った。
アンズの琥珀色の瞳が、夕日を受けて、きらきらと輝いている。
その瞳が、ヒナをまっすぐに見つめている。
「……なんでもない」
アンズは、そう言って、笑った。
でも、その笑顔は、少しだけ、悲しそうだった。
「なんでもない。忘れて」
アンズは、そう言って、背を向けた。
「待って」
ヒナは、口を開きかけた。
でも、声は、出なかった。
「……そう」
ヒナは、小さくつぶやいた。
アンズの背中が、遠ざかっていく。
栗色のポニーテールが、夕日の中で、揺れている。
ヒナは、その背中を、ただ見つめていた。
(今、何を言おうとしたの)
(私も、何を言いたかったの)
答えは、どこにもなかった。
風が、校庭を吹き抜けていった。
夕日が、体育館の影を、長く伸ばしていた。
──
夜。
文化祭が終わり、校舎の明かりが、一つ、また一つと消えていく。
ヒナは、一人で帰路についていた。
秋の夜風が、冷たかった。
制服の上から、腕をさすりながら、商店街へと続く道を歩く。
商店街は、もう閉まっている店が多かった。シャッターの下りた店先に、街灯の光が、ぼんやりと落ちている。
ヒナは、足を止めた。
来々軒の前だった。
店は、もう閉まっていた。
でも、屋上に、人影が見えた。
給水塔のそばに、座っている。
アンズだった。
星空を見上げている。
ヒナは、電柱の影に、そっと身を隠した。
(アンズ)
心臓が、ドキドキと音を立てている。
アンズは、気づいていない。
一人で、星空を見上げて、何かをつぶやいている。
「ヒナちゃんのこと、好き、なのかな……」
アンズの声が、夜風に乗って、ヒナの耳に届いた。
小さな、かすかな声だった。
でも、ヒナには、はっきりと聞こえた。
(好き)
ヒナの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
(アンズが、私のことを、好き)
その言葉の意味を、頭の中で、何度も繰り返す。
胸の奥が、ざわざわと騒いでいる。
今まで感じたことのない、変な感覚だった。
嬉しいのか、苦しいのか、自分でも、わからない。
ヒナは、電柱の影から、アンズの背中を見つめた。
声をかけたい。
でも、かけられない。
今、ここで、なんて言えばいいの。
「好き、なのかな……」
アンズが、もう一度、つぶやいた。
その声は、誰にも届かず、夜空に消えていった。
ヒナは、唇を噛んだ。
(私も、わからない)
心の中で、そう思った。
アンズのことが、嫌いじゃない。
それは、わかっている。
でも、それが「好き」なのかどうか、ヒナには、まだわからなかった。
ただ、アンズが、来ない日は、そわそわする。
アンズが、笑っていると、安心する。
アンズが、泣いていると、胸が痛い。
それって、なんなんだろう。
ヒナは、アンズの背中から、目を離せなかった。
アンズは、膝を抱えて、星空を見上げている。
秋の夜風が、アンズのポニーテールを、ゆらゆらと揺らしていた。
(声を、かけたい)
でも、ヒナの足は、地面に張り付いたように、動かなかった。
何を言えばいいのか、わからない。
どんな顔をすればいいのか、わからない。
ヒナは、黙って、その場を離れた。
足音を、殺して。
心臓が、まだ、ドキドキと音を立てていた。
──
マンションに戻ると、リビングの明かりがついていた。
新田義史が、ソファに座って、テレビを見ている。金髪のオールバックは、今日もきっちり整えられ、左眉の古い傷跡が、リビングの明かりに浮かび上がっていた。
「おかえり。遅かったな」
新田が、テレビから目を離さずに言った。
「……ただいま」
ヒナは、小さく言って、ソファに座った。
テレビでは、お笑い番組が流れている。芸人たちが、楽しそうに笑っている。
ヒナは、テレビの画面を見つめた。
でも、心は、ここにはなかった。
(好き、なのかな)
アンズの声が、頭の中で、何度も繰り返される。
「そういえば」
新田が、思い出したように言った。
「アンズちゃん、組織からは戦死扱いになってるらしいぞ」
ヒナの体が、ぴくりと反応した。
「詩子が言ってた。もう追われる心配はないって」
新田は、テレビを見たまま、何気なく言った。
「……戦死」
ヒナは、小さく繰り返した。
「まあ、自由になったってことだな。あの子もいろいろあったんだろうな。ホームレスやってた時もあったらしいし」
新田は、コーヒーカップを手に取って、一口飲んだ。
ヒナは、テレビの画面を見つめたまま、動かなかった。
(戦死扱い)
その言葉が、頭の中で、重く響く。
(アンズは、組織に捨てられた)
帰る場所を失って、ホームレスになって、それでも生きて。
今は、来々軒で、笑っている。
(それなのに)
ヒナは、膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
(それなのに、アンズは、あんなに笑ってる)
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……そう」
ヒナは、それだけ言った。
新田は、ヒナの様子に気づいていない。
「アンズちゃん、ほんと頑張ってるよな。俺も見習わないと」
新田が、しみじみと言った。
ヒナは、テレビの画面を見つめた。
画面の中では、芸人たちが笑っている。
でも、ヒナの心は、少しも笑っていなかった。
(アンズが、組織に捨てられた)
その事実が、ヒナの胸に、重く、暗く、沈んでいった。
──
同じ夜。
アンズは、来々軒の屋上にいた。
給水塔のそばに座って、星空を見上げている。
秋の夜風が、栗色のポニーテールを揺らした。
「ヒナちゃん、私のこと、なんて思ってるんだろう……」
アンズは、誰にともなくつぶやいた。
「あの時、なんでもないって言っちゃったけど、ほんとは……ほんとはね、ヒナちゃんに、ちゃんと伝えたかったの」
アンズは、胸に手を当てた。
ドキドキしている。
「伝えたかったのに、怖くて、言えなかった。もし、ヒナちゃんに、嫌われたらどうしようって、そう思ったら、言葉が、喉の奥で、つかえちゃった」
アンズの声は、誰にも聞こえない。
星空だけが、その声を、静かに聞いていた。
「私、ヒナちゃんに、おいしいって言ってもらえて、すごく嬉しかった。あの時、涙が出ちゃったのは、悲しかったからじゃなくて、嬉しかったからなんだよ」
アンズは、膝を抱えた。
「ヒナちゃんは、無口で、無表情で、何を考えてるかわかんないけど、でも、餃子を食べてる時のヒナちゃん、すごく幸せそうな顔するんだよ。あの顔を見るのが、私、好きなんだ」
アンズは、空を見上げた。
星が、静かにまたたいている。
「これが、友達としての好きなのか、それとも、別の好きなのか、私には、まだわからない。でも、ヒナちゃんのことを考えると、胸がドキドキして、苦しくなって、でも、もっと近くにいたいって思う。それって、なんなんだろう」
アンズは、小さくため息をついた。
白い息が、夜空に、ふわりと消えていく。
「……わかんないよ」
アンズは、小さくつぶやいた。
その言葉は、誰にも届かず、夜空に消えていった。
星が、静かにまたたいている。
アンズは、空を見上げたまま、動かなかった。
胸の奥で、何かが、確かに芽吹いている。
その名前を、アンズはまだ、知らない。
でも、それは確かに、そこにあった。
──
ヒナは、自分の部屋のベッドに横たわっていた。
天井を見つめている。
(好き、なのかな)
アンズの声が、頭から離れない。
(戦死扱い)
新田の言葉も、胸に重く沈んでいる。
(アンズは、組織に捨てられた)
(それでも、笑ってる)
(私に、おいしいって言われて、泣いた)
ヒナは、目を閉じた。
まぶたの裏に、アンズの笑顔が浮かぶ。
夕日に照らされた、アンズの横顔。
「私、ヒナちゃんのこと……」
言いかけて、飲み込んだ言葉。
あの時、アンズは、何を言おうとしていたんだろう。
ヒナは、布団を、ぎゅっと握った。
(私も、わからない)
胸の奥が、ざわざわする。
このざわざわが、何なのか。
名前をつけることができないまま、時間だけが過ぎていく。
窓の外で、風が、木の葉を揺らす音がした。
秋の夜は、静かに、更けていった。
そして、遠くの空の下で、組織という名の暗がりが、アンズの生存を、まだ、知らないでいた。Noveliaとは?
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