ヒナとアンズのすれ違い大作戦
ゲームと餃子と、名前のつけられないこの気持ち。
渡辺中学校に通う少女・ヒナには、誰にも言えない秘密がある。かつて彼女を殺しに来た刺客が、今では近所の中華料理屋「来々軒」の看板娘・アンズとして働いているのだ。転送装置が壊れて帰れなくなったアンズは、今や商店街の人気者。そしてヒナと同居する新田は、そんなアンズの笑顔と餃子に夢中で、毎日のようにその話ばかりしている。
「別に」——それがヒナの口癖だ。新田がアンズの名前を出すたび、胸の奥でちくりと刺さる何か。ゲームに没頭しているふりをして、本当は気づいている。このもやもやに、まだ名前をつけられないだけで。
そんな折、クラスの文化祭実行委員・瞳が「喫茶店の手伝いにアンズちゃんを呼ぼう」と提案する。教室がざわめく中、思わずこぼれたヒナの「……別に」。自分でも説明できない感情が、少しずつ形を持ち始める。
元刺客と元ターゲット。奇妙な縁でつながった二人の、すれ違いともどかしさの恋愛模様。文化祭まであと二週間、ヒナの胸のざわつきは、まだ消えそうにない。
ヒナとアンズのすれ違い大作戦 - 文化祭の喧騒と、言えなかった来ないで
朝の教室は、文化祭という非日常に浮き足立っていた。
黒板には色とりどりのチョークで「喫茶店」と書かれ、その下に手書きのメニュー表が貼り出されている。机はすべて教室の後ろに寄せられ、代わりに白いテーブルクロスをかけた長机が四つ、窓際に並べられていた。
ヒナは無表情のまま、その長机の上を白い布巾で拭いていた。黒髪のロングヘアは無造作に背中へ流れ、前髪が目にかかっている。深い黒褐色の瞳は、手元の布巾の動きだけを追っていた。
「ヒナさん、テーブルクロスの端、まだ曲がってるよ」
三嶋瞳が後ろから声をかけてきた。黒髪のストレートボブは今日もきっちり整えられ、切れ長の黒い目が教室全体を見渡している。小柄な体に、なぜか場を仕切る空気があった。
ヒナは黙って布巾を置き、クロスの端を引っ張った。
「もっとゆっくり。そう、そこで止めて。うん、完璧」
瞳は手際よく指示を出していく。ヒナは言われるままに動く。他のクラスメイトたちも、瞳の指示で着々と準備を進めていた。
「そうだ、ヒナさん」
瞳が、何かを思い出したように言った。
「アンズちゃん、昼から来てくれるって。餃子の差し入れ持ってきてくれるんだって」
ヒナの手が、一瞬止まった。
布巾を握る指に、ほんの少し力が入る。
「……ふーん」
ヒナは短く答えて、またテーブルを拭き始めた。何事もなかったように。でも、心の中は違った。
(アンズが、来る)
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。昨日の朝のことを思い出した。マンションの前で、アンズに言ってしまった言葉。
——もう来なくていい。
あの時のアンズの顔が、まぶたの裏に浮かぶ。笑顔が、凍りついた瞬間。
(違う。そうじゃない)
心の中で、何度も否定する。でも、その言葉はもう、アンズに届けてしまった。取り消せない。
ヒナは窓の外を見た。校庭では、他のクラスの生徒たちが模擬店の準備をしている。楽しそうな声が、窓ガラス越しに聞こえてきた。
(アンズ、来るのかな)
来てほしい。でも、来てほしくない。自分でも、どっちなのかわからない。
胸の奥が、ざわざわする。
──
開店は十時。
それまでに、ヒナのクラスの喫茶店はなんとか形になった。メニューはクッキーと紅茶とコーヒー。紙コップと紙皿。飾り付けのリボンは、窓枠に沿って貼られている。
「いらっしゃいませー!」
クラスメイトの女子が、元気よく声を張り上げた。文化祭が始まったのだ。
ヒナはカウンターの奥に立って、注文を受ける係だった。無表情のまま、来る客を順番にさばいていく。
「紅茶を一つ」
「コーヒー二つ」
「クッキーセットください」
ヒナは黙ってうなずき、紙コップに飲み物を注ぎ、紙皿にクッキーを載せる。手際は悪くない。むしろ、無駄がなく正確だった。
「ヒナさん、意外と接客できるんだね」
瞳が、感心したように言った。
「……別に」
「また別に。でも、お客さん、ヒナさんの無表情にびっくりしてる人いるよ。まあ、それも味ってことで」
瞳はくすくす笑いながら、レジの前に立った。
客足は、予想以上だった。
開店から一時間も経たないうちに、教室はほぼ満席になった。ヒナは注文をさばき、瞳は会計をこなし、他のクラスメイトたちもそれぞれの持ち場で動き回る。
その時だった。
「こんにちはー! 差し入れ持ってきたよ!」
教室の入り口から、明るい声が聞こえた。
ヒナの体が、ぴくりと反応した。
振り返ると、アンズが立っていた。栗色のポニーテールが、秋の日差しに透けて光っている。今日は来々軒のエプロン姿ではなく、薄い黄色のカーディガンに、花柄のスカート。手には、白い風呂敷に包まれた籠を抱えている。
(アンズだ)
ヒナの胸の奥で、何かが跳ねた。
「アンズちゃん!」
瞳が、ぱっと顔を輝かせて駆け寄っていく。
「わーい、ありがとう! 餃子だよね? すごくいい匂い!」
「うん、お店の餃子。朝、おじさんに特別に包ませてもらったんだ。みんなで食べてね」
アンズが笑顔で風呂敷をほどく。中から、透明な容器に入った餃子がいくつも出てきた。
「アンズちゃん、ほんとにありがとう。ね、後で一緒に文化祭回ろうね。約束してたでしょ」
「うん、楽しみにしてたんだ!」
二人が、楽しそうに笑い合っている。
ヒナは、その光景をカウンターの奥から見ていた。
声をかけようと思った。でも、出かけた言葉が喉の奥で止まる。
(昨日のことを、謝らなきゃ)
そう思うのに、足が動かない。
アンズは、ヒナの視線に気づいていないようだった。瞳と話すのに夢中で、こちらを見ていない。
ヒナは、紙コップを握る手に力を込めた。
──
昼過ぎ。
喫茶店は、午前中よりもさらに混雑していた。
ヒナは無表情のまま、注文をさばき続けていた。でも、心のどこかは、ずっとアンズのことを考えていた。
アンズは、開店からずっと教室の隅で餃子を配っていた。来る客に笑顔で「どうぞ」と手渡している。その笑顔が、やけに眩しく見えた。
(アンズ、笑ってる)
昨日の朝の、凍りついた笑顔とは違う。
(よかった)
そう思った。でも、同時に、胸の奥がチクリと痛む。
アンズが笑っているのは、自分に向けてじゃない。瞳や、他の客に向けての笑顔だ。
「お、アンズちゃん!」
聞き覚えのある声がして、ヒナは顔を上げた。
教室の入り口に、新田義史が立っていた。金髪のオールバックは今日もきっちり整えられ、切れ長の黒い目がアンズを見つめて緩んでいる。スーツ姿で、手には大きな紙袋を提げている。
「新田さん! いらっしゃいませ」
アンズが、ぺこりと頭を下げた。
「アンズちゃん、今日も可愛いなあ。差し入れ持ってきたぞ。お前ら、これ食べな」
新田が紙袋を差し出す。中から、高級そうな和菓子の箱がいくつも出てきた。
「わあ、ありがとうございます! 新田さん、気前いいですね」
アンズが嬉しそうに受け取る。
「アンズちゃんのためなら、これくらい当然だろ。なあ、ヒナ」
新田が、カウンターの奥にいるヒナに声をかけてきた。
ヒナは無表情のまま、新田をじっと見た。
「……新田は、うるさい」
「は? なんでだよ。俺、差し入れ持ってきてやったんだぞ」
新田が不満そうに言う。でも、すぐにまたアンズの方を向いて、デレデレと笑った。
「アンズちゃん、後で一緒に文化祭回らないか? 俺、案内するよ」
「え? あ、その……私、瞳ちゃんと回る約束してるので……」
アンズが、申し訳なさそうに言う。
「そうなのか。残念だなあ。でも、仕方ない。アンズちゃんが楽しんでくれれば、それでいいよ」
新田は、まったく悪びれずに言った。
「ねえ、アンズちゃん」
瞳が、二人の会話に割って入った。
「私、午後のシフト終わったら、アンズちゃんと一緒に回るんだ。楽しみだなあ」
「うん、私も! どこ行こうか。お化け屋敷とか、あるのかな」
「あるよ。三年生のクラスでやってるやつ。結構本格的だって」
「わあ、楽しみ! でも、私、お化け苦手かも……」
「大丈夫だよ。私がついてるから」
二人が、また楽しそうに話し始めた。
ヒナは、カップを置く手に力がこもるのを感じた。
(瞳と、アンズが、一緒に回る)
その事実が、胸の奥に重くのしかかる。
(私は、誘われてない)
当たり前だ。自分から「来なくていい」と言ったのだから。
でも、面白くない。
面白くない、と思う自分が、さらに面白くない。
「ヒナ、お前も後で一緒に回るか?」
新田が、何気なく聞いてきた。
ヒナは、新田の顔を見た。
「……別に」
「別にって、お前な。せっかくの文化祭だろ。少しは楽しめよ」
「……楽しくない」
ヒナの声は、自分でも驚くほど低かった。
「は? なんでだよ。まだ始まったばかりだろ」
新田が首を傾げる。
ヒナは、それ以上何も言わなかった。言えなかった。
(楽しくない。アンズが、瞳と楽しそうだから)
そんなこと、口に出せるわけがない。
──
午後二時。
瞳のシフトが終わり、アンズと二人で教室を出ていった。
「行ってくるね、ヒナさん。お店、よろしく」
「ヒナちゃん、また後でね」
アンズが、ヒナに向かって笑いかけた。
その笑顔を見た瞬間、ヒナの胸の奥で、何かが弾けた。
(また後で?)
(来なくていいって、言ったのに)
(なんで、笑ってるの)
(なんで、普通に接してくるの)
ぐるぐると、わけのわからない感情が渦を巻く。
「……もう来なくていい」
気づいたら、口から出ていた。
教室の空気が、一瞬で凍りついた。
アンズの笑顔が、固まる。
「……え?」
アンズの声が、震えている。
「ヒナさん、今の、どういう意味?」
瞳が、眉をひそめてヒナを見た。
「おい、ヒナ。お前、何言ってんだ」
新田も、驚いた顔でヒナを見ている。
でも、ヒナは止まらなかった。
「……餃子も、いらない。もう、来なくていい」
ヒナは、カウンターの上に置かれた餃子の容器を見ながら言った。
自分でも、なんでこんなことを言っているのかわからない。
でも、止められない。
(違う。そうじゃない)
心の中で、誰かが叫んでいる。
(来てほしい。餃子も、食べたい。アンズに、来てほしい)
でも、口から出るのは、真逆の言葉ばかりだった。
「……うん、わかった」
アンズが、小さく答えた。
その声は、消え入りそうだった。
アンズは、ゆっくりと籠を抱え直すと、教室の入り口に向かって歩き出した。
「アンズちゃん、待って!」
瞳が追いかけようとする。
でも、アンズは振り返らなかった。
「……ごめんね、瞳ちゃん。今日は、帰るね」
アンズの声が、背中越しに聞こえた。
その声は、泣いているようにも聞こえた。
アンズの姿が、廊下の向こうに消えていく。
教室に、重い沈黙が残った。
「ヒナちゃん、今の言い方、ひどくない?」
瞳が、静かな声で言った。
悪意のない、でも、まっすぐに刺さる言葉だった。
「……別に」
ヒナは、それしか言えなかった。
「おい、ヒナ。お前、アンズちゃんに何てことを言うんだ。あの子、泣きそうだったぞ」
新田が、困った顔で言う。
ヒナは、カウンターの上を見た。
アンズが持ってきた餃子の容器が、まだそこに置いてある。
(いらない、なんて)
(本当は、食べたかった)
ヒナは、容器の蓋を開けた。
餃子が、きれいに並んでいる。アンズが、朝早く起きて、一つ一つ包んだ餃子。
ヒナは、一つつまんで、口に入れた。
おいしい。
おいしいのに、胸が痛い。
(なんで、あんなことを言ったんだろう)
涙は出なかった。でも、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
──
後夜祭が終わったのは、夜の八時過ぎだった。
校庭では、キャンプファイヤーの残り火が、まだ赤くくすぶっている。生徒たちの歓声が、夜の空気に溶けていった。
ヒナは一人で、校門を出た。
秋の夜風が、冷たく頬を撫でる。
商店街の方角に向かって歩く。アーケードの明かりは、もうほとんど消えていた。シャッターの閉まった店が並ぶ中を、ヒナは無言で歩いていく。
(アンズ、どうしてるかな)
頭の中は、そのことばかりだった。
来々軒の前まで来た。
店の明かりは消えている。林夫妻も、もう休んでいるのだろう。
ヒナは、ふと上を見上げた。
来々軒の屋上に、人影が見えた。
給水塔のそばに、誰かが座っている。
栗色のポニーテール。
(アンズだ)
ヒナは、電柱の影に身を隠した。
心臓が、ドキドキと音を立てている。
アンズは、星空を見上げていた。
その横顔が、月明かりに照らされて、青白く浮かび上がっている。
「……ヒナちゃん、やっぱり私のこと、嫌いなのかな」
アンズの声が、風に乗って聞こえてきた。
小さな、消え入りそうな声だった。
「来なくていいって、言われちゃった。……やっぱり、私のこと、嫌いなんだよね。元々、ヒナちゃんを殺そうとしたんだもん。嫌われて当然だよ」
アンズが、膝を抱えた。
「でも、私は……ヒナちゃんのこと、嫌いじゃないのに。むしろ、もっと仲良くなりたいのに」
ヒナは、電柱の影で、拳を握りしめた。
(違う)
心の中で、叫ぶ。
(違う。嫌いじゃない。来なくていいなんて、思ってない)
でも、声が出ない。
足が、地面に張り付いたように動かない。
「……なんで、うまくいかないのかな」
アンズが、空を見上げたまま、つぶやいた。
「私、ヒナちゃんと、友達になりたいだけなのに。それだけなのに」
アンズの目から、涙が一粒こぼれた。
それが、月明かりに反射して、きらりと光る。
ヒナは、それ以上見ていられなかった。
でも、目を逸らすこともできなかった。
(謝らなきゃ)
頭では、わかっている。
(今すぐ、行って、謝らなきゃ)
でも、体が動かない。
一歩を踏み出す勇気が、どこにも見つからない。
アンズが、ゆっくりと立ち上がった。
「……帰ろ」
アンズは、手の甲で涙を拭うと、屋上の入り口に向かって歩いていった。
その背中が、暗闇に消えていく。
ヒナは、電柱の影から出られないまま、その場に立ち尽くしていた。
秋の夜風が、ヒナの黒髪を揺らした。
──
翌朝。
ヒナは、来々軒の前に立っていた。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
目を閉じると、アンズの泣きそうな顔が浮かぶ。
(謝らなきゃ)
何度も、そう思った。
(昨日の言葉を、取り消さなきゃ)
朝の商店街は、まだ静かだった。シャッターの閉まった店が並ぶ中、来々軒だけが、開店準備の気配を見せている。
ヒナは、深呼吸をした。
(大丈夫。言える。ごめん、って。あれは、違う、って)
そう自分に言い聞かせて、店の前に一歩踏み出した。
その時だった。
「おはよう、ヒナちゃん」
声がして、ヒナは顔を上げた。
アンズが、店の入り口に立っていた。
来々軒のエプロン姿で、手には出前用の箱を抱えている。
「……おはよう」
ヒナは、絞り出すように言った。
アンズは、笑っていた。
いつもの、明るい笑顔。
でも、ヒナにはわかった。
その笑顔が、無理をしていることが。
目の下に、うっすらとクマができている。まぶたが、少し腫れている。
(泣いたんだ)
ヒナの胸が、ずきりと痛んだ。
「昨日は……ごめん」
ヒナは、うつむきながら言った。
「あの……あれは、違う。来なくていいなんて、思ってない」
声が、震える。
うまく言葉が出てこない。
でも、伝えなきゃ。
「……私、ヒナの言ったこと、気にしてないよ」
アンズが、明るい声で言った。
ヒナは、顔を上げた。
アンズは、笑っていた。
「うん、大丈夫。気にしてないよ。文化祭、楽しかったでしょ? 私も、お手伝いできて楽しかった」
「……アンズ」
「あ、そろそろ出前行かないと。おじさんに怒られちゃう。じゃあね、ヒナちゃん」
アンズは、そう言って、自転車にまたがった。
「待って、アンズ」
ヒナが呼び止める。
でも、アンズは振り返らなかった。
「……大丈夫だから。本当に、気にしてないから」
アンズの声が、背中越しに聞こえた。
その声は、笑っているのに、泣いているようにも聞こえた。
アンズは、自転車を漕ぎ出した。
栗色のポニーテールが、朝の光の中で揺れる。
ヒナは、その背中を、ただ見つめていた。
(違う。大丈夫じゃない)
ヒナには、わかっていた。
アンズが、無理をしていること。
作り笑いの裏で、泣いていること。
でも、それを暴く言葉も、追いかける勇気も、ヒナにはなかった。
アンズの自転車が、商店街の角を曲がって、見えなくなる。
ヒナは、来々軒の前に、一人で立ち尽くしていた。
朝の光が、ヒナの影を、長く伸ばしていた。
胸の奥が、ずきずきと痛む。
(私、また、アンズを傷つけた)
謝ったのに。
謝ったのに、何も解決していない。
むしろ、もっと深く、アンズを傷つけてしまった。
ヒナは、ぎゅっと拳を握った。
爪が、手のひらに食い込む。
痛い。
でも、胸の痛みに比べたら、全然痛くなかった。
秋の風が、商店街を吹き抜けていった。
アーケードの屋根が、かたかたと音を立てる。
ヒナは、その場に、いつまでも立ち尽くしていた。
アンズの作り笑いが、目に焼き付いて離れない。
(どうすれば、よかったんだろう)
答えは、どこにもなかった。
ヒナは、来々軒の屋上を、もう一度見上げた。
昨夜、アンズが星を見上げていた場所。
今は、誰もいない。
空には、薄い雲がかかっていた。
ヒナは、ゆっくりと、マンションの方へ歩き出した。
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