ヒナとアンズのすれ違い大作戦
ゲームと餃子と、名前のつけられないこの気持ち。
渡辺中学校に通う少女・ヒナには、誰にも言えない秘密がある。かつて彼女を殺しに来た刺客が、今では近所の中華料理屋「来々軒」の看板娘・アンズとして働いているのだ。転送装置が壊れて帰れなくなったアンズは、今や商店街の人気者。そしてヒナと同居する新田は、そんなアンズの笑顔と餃子に夢中で、毎日のようにその話ばかりしている。
「別に」——それがヒナの口癖だ。新田がアンズの名前を出すたび、胸の奥でちくりと刺さる何か。ゲームに没頭しているふりをして、本当は気づいている。このもやもやに、まだ名前をつけられないだけで。
そんな折、クラスの文化祭実行委員・瞳が「喫茶店の手伝いにアンズちゃんを呼ぼう」と提案する。教室がざわめく中、思わずこぼれたヒナの「……別に」。自分でも説明できない感情が、少しずつ形を持ち始める。
元刺客と元ターゲット。奇妙な縁でつながった二人の、すれ違いともどかしさの恋愛模様。文化祭まであと二週間、ヒナの胸のざわつきは、まだ消えそうにない。
ヒナとアンズのすれ違い大作戦 - バーの常連と、初めての嫉妬
夕方の空気が、少しずつ冷たくなってきていた。ヒナはマンションのリビングで、床に寝転がったまま天井を見ていた。だぼだぼのパーカーは今日も頭から被ったままだ。黒髪がフローリングの上に広がって、前髪が目の上にかかっている。テレビはついていない。コントローラーも、床に転がったままだ。
(静かだ)
新田はまだ帰ってこない。時計の針が、カチ、カチ、と音を立てる。その音が、やけに大きく聞こえた。
アンズが最後に来たのは、いつだったか。
(……別に、来なくてもいい)
そう思うのに、窓の外が気になる。商店街の方角。来々軒のある方。ヒナは寝返りを打って、窓に背を向けた。
その時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
新田の声だ。ヒナは返事をしなかった。目を閉じる。寝ているふり、ではない。ただ、反応するのが面倒だった。
「おい、ヒナ。寝てるのか? 飯、買ってきたぞ。今日は来々軒の餃子だ」
ヒナのまぶたが、ぴくりと動いた。来々軒。その言葉だけで、胸の奥がざわつく。
「……食べる」
ヒナはゆっくりと体を起こした。新田がテーブルの上に、白いビニール袋を置いている。中から、透明な容器に入った餃子が見えた。湯気はもう出ていない。少し時間が経っているようだ。
「アンズちゃん、今日も元気だったぞ。『新田さん、いつもありがとうございます!』って、あの笑顔。たまんないよな」
新田がネクタイを緩めながら、嬉しそうに話し始めた。ヒナは黙って容器の蓋を開けた。餃子を一つ、箸でつまむ。
「あの子、本当にいい子だよ。俺が行くと、いつも餃子をサービスしてくれるんだ。今日はちょっと多めに入れてくれたぞ。特別だってよ」
「……ふーん」
ヒナは餃子を口に入れた。皮は少し柔らかくなっていた。でも、中の餡はまだ温かい。肉汁がじゅわっと広がる。
おいしい。
そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。おいしいのに、痛い。変な感じだ。
「なあ、ヒナ。お前、アンズちゃんと仲良くしてるのか?」
新田が、突然そんなことを聞いてきた。ヒナは箸を止めた。
「……別に」
「別にって、お前な。せっかくあんないい子が近くにいるんだから、もっと仲良くしたらどうなんだ」
「……なんで」
「なんでって、友達は多い方がいいだろ。アンズちゃんも、お前と仲良くしたがってるみたいだし」
ヒナは黙った。新田の言っていることは、正しい。正しいけど、なんだか嫌だった。
(アンズが、私と仲良くしたがってる?)
そうなのだろうか。だとしたら、なぜ。
「……新田は、アンズが好きなの」
気づいたら、口から出ていた。自分でも驚くほど、低い声だった。
「は!? な、なに言ってんだよ! そりゃ、アンズちゃんは可愛いし、ラーメンは美味いし、餃子は最高だし……いや、待て。そういう意味じゃなくてだな」
新田が慌てて手を振る。その様子が、なんだか面白くて、ヒナは少しだけ口元を緩めた。
「……別に、どっちでもいい」
「お前なあ……。まあいいや。今日はこの後、バーに寄ってくるから。遅くなる」
「……バー」
「ああ、Little Songって店。俺の行きつけでな。詩子さんって美人のバーテンダーがいるんだ」
新田の声が、また弾んだ。ヒナは餃子をもう一つ口に入れた。
「……ふーん」
「お前も来るか? ジュースくらい出してくれるぞ」
「……行かない」
ヒナは即答した。大人の店なんて、興味がない。
「そうか。まあ、無理にとは言わないが」
新田はそう言って、スーツの上着を脱いだ。ヒナは残りの餃子を、黙々と食べ続けた。
──
バー「Little Song」は、商店街から少し外れた路地の奥にあった。看板の文字は小さく、控えめな照明が店の入り口を照らしている。新田は慣れた足取りでドアを開けた。
カラン、とベルの音。
「いらっしゃい。あら、新田。今日も一人?」
カウンターの奥から、黒髪をアップにまとめた女が声をかけてきた。左目じりの泣きボクロが、薄暗い照明の中で色っぽく光っている。バー「Little Song」の経営者兼バーテンダー、桜詩子だ。切れ長の黒い目が、新田の顔をじっと見る。
「ああ、詩子さん。今日も美人ですね」
「はいはい、お世辞はいいから。何飲むの?」
詩子は手をひらひらと振り、慣れた手つきでグラスを拭き始めた。新田はカウンターの一番奥の席に座る。
「いつもの」
「はいよ。……で、今日は何があったの? あんた、顔に『話したいことがある』って書いてあるわよ」
詩子が、ウイスキーの瓶を手に取りながら言った。新田は苦笑いを浮かべる。
「そんなに分かりやすいか?」
「分かりやすいわよ。あんた、隠し事に向いてないの。ほら、早く言いなさい」
詩子が、グラスに氷を入れて、ウイスキーを注ぐ。琥珀色の液体が、氷の間を流れ落ちていく。
「実はな、最近、家のヒナが機嫌悪くてな。俺がアンズちゃんの話をすると、露骨に不機嫌になるんだ」
「あら、やきもち?」
詩子が、面白そうに笑った。新田は首を振る。
「やきもちって、誰が誰にだよ。ヒナはまだ子供だぞ」
「子供だからこそ、やきもち焼くんじゃないの。あんたが他の女の子の話ばかりするから、面白くないのよ」
「いや、でも、ヒナはアンズちゃんのことは嫌いじゃないはずなんだ。前に、アンズちゃんの餃子を『おいしい』って言ってたし」
「へえ。ヒナちゃん、そんなこと言うんだ。意外ね。あの子、無表情で何考えてるか分からないって聞いてたけど」
「そうなんだよ。普段は本当に無表情で、何考えてるかさっぱりなんだ。でも、アンズちゃんの餃子を食べた時だけ、ちょっとだけ表情が柔らかくなるんだよな」
新田が、遠くを見るような目で言った。詩子はグラスをカウンターに置いた。
「あんた、それ女の子の話でしょ」
「は?」
「アンズちゃんの話してる時のあんた、すっごく嬉しそうな顔してるわよ。自分で気づいてないの?」
詩子が、からかうように言った。新田の顔が、一瞬で赤くなる。
「な、なに言ってるんですか! 俺はただ、アンズちゃんのラーメンが美味いって話を……」
「ラーメンの話してる時、そんなデレデレした顔しないわよ。あんた、アンズちゃんのこと好きでしょ」
「そ、それは……いや、好きというか、可愛いとは思いますけど……いや、待ってください。俺は詩子さんに……」
「はいはい、私は結構よ。あんたの恋愛事情に興味はないわ。でも、面白いわね。あんたがアンズちゃんにデレデレして、ヒナちゃんがそれにやきもち焼いて。まるで三角関係じゃない」
詩子が、笑いながらウイスキーを一口飲んだ。新田は頭を抱えた。
「三角関係って……ヒナは子供ですよ」
「子供でも、やきもちは焼くのよ。特に、自分が一番に思われてた相手が、他の子に夢中になったらね」
「俺、ヒナを一番に思ってるつもりなんですけどね」
「それが伝わってないのよ。あんた、口で言わないから。態度で示してるつもりでも、ヒナちゃんから見たら、アンズちゃんばかり大事にしてるように見えるんじゃない?」
詩子の言葉に、新田は黙り込んだ。確かに、そうかもしれない。ヒナにアンズの話ばかりしていた。ヒナの気持ちを、考えたことがなかった。
「……ヒナちゃんが聞いたら、面白い反応するわよ」
詩子が、悪戯っぽく言った。新田は冷や汗をかく。
「やめてください。あの子、何するか分からないんですから」
「あら、超能力でも使うの?」
「は!? な、なんでそれを……」
新田の顔が、今度は青ざめた。詩子は、くすくすと笑う。
「冗談よ。でも、あんたの家のヒナちゃん、ただ者じゃない雰囲気はあるわね。今度、連れてきなさいよ。私が話してみるわ」
「……考えておきます」
新田は、ぐったりとカウンターに突っ伏した。詩子は、そんな新田を見ながら、新しい氷をグラスに入れた。
──
数日後の金曜日。学校が終わった夕方、新田がヒナに言った。
「今日、バーに来い。詩子さんが、お前に会いたいって言ってる」
「……行かない」
ヒナはゲームのコントローラーを握ったまま、振り返りもせずに答えた。
「行くぞ。たまには外に出ろ。ずっと家でゲームばかりしてたら、体に悪い」
「……体に悪くない」
「いいから来るんだ。詩子さん、お前のこと気に入ってるみたいだし。ジュースとお菓子、出してくれるって言ってたぞ」
ヒナの指が、一瞬止まった。お菓子。その言葉に、少しだけ心が動いた。
「……お菓子、あるの」
「ああ、あるらしい。だから、行くぞ」
ヒナはしばらく考えてから、ゆっくりとコントローラーを置いた。
「……行く」
「よし、決まりだ。ほら、着替えてこい。そのパーカー、何日着てるんだ」
ヒナは無言で立ち上がり、自分の部屋へ向かった。
──
バー「Little Song」のドアを開けると、甘い匂いがした。お酒の匂いと、何か花のような香りが混ざっている。ヒナは、初めて入る大人の店に、少しだけ緊張した。
「いらっしゃい。あら、本当に連れてきたのね」
カウンターの奥から、詩子が顔を出した。黒髪をアップにまとめた、大人の女。左目じりの泣きボクロが、柔らかい照明の下で、妖しく見える。ヒナは、詩子の顔をじっと見た。
「初めまして、ヒナちゃん。私、桜詩子。この店のママよ。よろしくね」
「……ヒナ」
ヒナは、短く自分の名前を言った。詩子が、ふっと笑う。
「あら、可愛い。新田の言ってた通り、無表情で何考えてるか分からないわね。でも、目がきれい。賢そうな目してる」
詩子が、ヒナの目を覗き込む。ヒナは、居心地が悪くなって、少しだけ目をそらした。
「ほら、ヒナ。こっちに座れ」
新田が、カウンターの席を指さした。ヒナはおとなしく、その席に座る。カウンターの椅子は高くて、足が床につかない。
「ヒナちゃん、何飲む? ジュースなら、オレンジとアップルとコーラがあるわよ。お菓子も出してあげる」
「……オレンジ」
「はい、オレンジジュースね。お菓子は、これ。チョコレートとクッキー。どっちがいい?」
「……両方」
ヒナが即答すると、詩子が声を上げて笑った。
「あっはっは! 気に入ったわ、その図々しさ。いいわよ、両方出してあげる」
詩子は、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、グラスに注いだ。それから、小さな皿にチョコレートとクッキーを盛り付けて、ヒナの前に置いた。
ヒナは、まずクッキーを一つ手に取った。サクッと噛む。バターの香りが口の中に広がる。
「おいしい」
ヒナが小さくつぶやくと、詩子が嬉しそうに笑った。
「そう、良かったわ。それ、私が焼いたのよ。店の常連さんにも好評なの」
「……詩子さん、料理もできるんですか」
新田が、驚いたように言った。詩子は肩をすくめる。
「これくらい、誰でもできるわよ。バーのママを甘く見ないで」
ヒナは、チョコレートを口に入れた。甘い。そして、クッキーをもう一枚。オレンジジュースを一口。
(おいしい)
ヒナは、黙々とお菓子を食べ続けた。新田は、そんなヒナを横目で見ながら、ウイスキーを飲んでいる。
「ねえ、ヒナちゃん。学校は楽しい?」
詩子が、カウンター越しに話しかけてきた。ヒナは、クッキーをかじりながら答える。
「……別に」
「別にって、楽しくないの? 友達はいるんでしょ?」
「……いる」
「そう。どんな子?」
「……普通」
ヒナの答えは、相変わらず短い。でも、詩子は気にした様子もなく、笑っている。
「ふふ、ヒナちゃんは口数が少ないのね。でも、嫌いじゃないわ。そういう子、好きよ」
詩子が、ヒナの頭を軽く撫でた。ヒナは、されるがままになっていた。嫌な感じはしない。むしろ、少しだけ、くすぐったい。
「ねえ、ヒナちゃん。アンズちゃんとは、仲良くしてるの?」
突然の質問に、ヒナの手が止まった。クッキーを口に入れかけたまま、固まる。
「……別に」
「また別に。でも、アンズちゃんの餃子は食べてるんでしょ? 新田から聞いたわよ。『おいしい』って言ったって」
ヒナは、新田をちらりと見た。新田は、気まずそうにウイスキーを飲んでいる。
「……言った」
「素直じゃないのね。おいしいと思ったら、おいしいって言えばいいのに」
「……言った」
「一回だけじゃない? アンズちゃん、もっと聞きたいと思ってるわよ、きっと」
詩子の言葉に、ヒナは黙り込んだ。アンズが、もっと聞きたいと思っている。そうなのだろうか。
(アンズは、私の言葉を聞きたいの?)
そんなことを考えていると、胸の奥が、またざわついた。
「あんたたち、見てて飽きないわね」
詩子が、しみじみと言った。ヒナは、意味が分からずに首を傾げる。
「……なにが」
「ヒナちゃんとアンズちゃんの関係よ。あんたたち、すごく面白いわよ。お互いのこと、すごく気にしてるのに、素直になれないんだから」
「……気にしてない」
ヒナが即答すると、詩子はまた笑った。
「はいはい、気にしてないのね。ふふ、まだわかんないのね。自分の気持ちに」
詩子は、グラスを傾けて、ウイスキーを一口飲んだ。ヒナは、詩子の言葉の意味を考えた。でも、やっぱり分からない。
(私の気持ち? アンズのこと? 別に、気にしてない)
そう思うのに、心のどこかが、ちくりと痛む。
──
週が明けて、学校では文化祭の準備が本格的に始まっていた。ヒナのクラスは、喫茶店をやることになっている。教室の後ろには、段ボールや画用紙が積まれ、黒板にはメニュー案が書かれていた。
「みんな、ちゃんと集まった? 今日は、メニューの最終確認と、買い出しの分担を決めるわよ」
三嶋瞳が、教壇の前で仕切っていた。黒髪のストレートボブが、きびきびとした動きに合わせて揺れる。小柄な体で、クラス全体をぐいぐい引っ張っていく。
「買い出しは、明日の放課後ね。文化祭前日だから、忘れ物がないように。リストは私が作っておくから、各自、自分の担当を確認して」
瞳が、プリントを配り始めた。ヒナも、自分の分を受け取る。買い出しリストには、紅茶の葉、コーヒー豆、紙コップ、紙皿、ランチョンマット、飾り付け用のリボンなどが書かれていた。
「あ、そうだ。みんなに紹介するね。今日、お手伝いに来てくれた、来々軒のアンズちゃん!」
瞳が、教室の入り口に向かって手を振った。教室のドアが開いて、栗色のポニーテールを揺らしながら、アンズが入ってきた。
「こんにちは! 来々軒のアンズです。文化祭の準備、お手伝いします! よろしくお願いします!」
アンズが、明るい声で挨拶した。教室が、わっと沸き立つ。男子たちが「アンズちゃんだ!」「本物だ!」と騒ぎ始めた。
「はいはい、静かに。アンズちゃんは、接客のプロなんだから、みんな見習ってね。特に、そこの男子。鼻の下伸ばしてないで、ちゃんと話聞いて」
瞳が、冷静に男子たちを注意した。アンズは、照れくさそうに笑っている。
ヒナは、自分の席に座ったまま、アンズのことを見ていた。アンズは、クラスメートたちに囲まれて、楽しそうに話している。その笑顔が、まぶしかった。
(アンズ、来た)
来ることは分かっていた。瞳が、アンズを手伝いに誘っていたから。それに、アンズはグループメッセージにも入っていた。
でも、実際に教室にいるアンズを見ると、なんだか落ち着かない。胸の奥が、むずむずする。
「ヒナちゃん!」
突然、アンズがヒナの名前を呼んだ。ヒナは、びくっと肩を震わせる。
「……なに」
「久しぶり! 元気だった? 今日、お手伝い来ちゃった! 文化祭、楽しみだね!」
アンズが、ヒナの席まで駆け寄ってきた。明るい琥珀色の目が、キラキラと輝いている。笑うと八重歯がのぞく。
「……別に、元気」
ヒナは、目を合わせずに答えた。アンズの顔を、まっすぐ見られない。
「そっか! 良かった! あのね、私、喫茶店の接客、がんばるからね! ヒナちゃんも、一緒にがんばろう!」
「……うん」
ヒナが小さくうなずくと、アンズは嬉しそうに笑った。
「アンズちゃん、こっち来て。メニューのことで相談したいの」
瞳が、アンズを呼んだ。アンズは「はーい!」と返事をして、瞳のところへ駆けていく。
ヒナは、二人の後ろ姿を、無表情で見つめた。
瞳とアンズは、黒板の前で、メニューについて真剣に話し合っている。瞳が何か言うと、アンズが笑う。アンズが何か言うと、瞳がうなずく。二人の間に、ヒナが入る隙間はない。
(仲良さそう)
ヒナは、教科書を開いた。でも、文字が頭に入ってこない。視界の端で、アンズと瞳の姿がちらちらと動く。
「アンズちゃんって、かわいいよね」
いつの間にか、瞳がヒナの隣に立っていた。ヒナは、教科書をめくる手を止める。
「……そう」
「うん。明るいし、笑顔が素敵だし、一緒にいると元気になる。私、アンズちゃんと文化祭、一緒に回るんだ。楽しみだなあ」
瞳が、無邪気に言った。悪気は、まったくない。ただ、思ったことを口にしただけだ。
でも、ヒナの胸には、その言葉が、鋭い針のように刺さった。
(アンズちゃんって、かわいいよね)
(一緒に文化祭、回るんだ)
ヒナの心の中で、何かが、ぐるぐると渦を巻き始めた。名前のない、黒い感情。
(なに、これ)
ヒナは、自分の胸に手を当てた。心臓が、いつもより速く脈打っている。呼吸が、少し浅くなった。
「ヒナさん、聞いてる?」
「……聞いてる」
ヒナは、絞り出すように答えた。声が、かすれている。
「どうしたの? 顔色悪いよ。大丈夫?」
瞳が、心配そうにヒナの顔を覗き込んだ。ヒナは、顔を背けた。
「……別に」
「また別に。……まあ、いいけど。無理しないでね」
瞳はそう言って、自分の席に戻っていった。
ヒナは、窓の外を見た。校庭では、サッカー部が練習をしている。夕日が、校舎の影を長く伸ばしていた。
(アンズと、瞳が、一緒に文化祭を回る)
その光景を想像しただけで、胸が苦しくなった。
(なんで)
ヒナは、自分の感情が理解できなかった。アンズが誰と一緒にいようと、自分には関係ないはずだ。
(関係ない……はず)
でも、心の奥で、何かが叫んでいる。
(やだ)
小さな、でも確かな声。ヒナは、その声に耳をふさいだ。
──
放課後。ヒナは、教室を出ようとしていた。ランドセルを背負って、廊下へ出る。
「ヒナちゃん!」
後ろから、アンズの声が追いかけてきた。ヒナは、足を止める。振り返らなかった。
「今日、一緒に帰らない? 来々軒、この近くだし。途中まででいいから」
アンズの声が、少しだけ震えている。緊張しているようだ。
ヒナは、ゆっくりと振り返った。アンズが、少し離れたところに立っている。両手をぎゅっと握りしめて、ヒナの返事を待っている。
その顔を見たら、胸が痛くなった。
(一緒に帰りたい)
そう思った。でも、口から出たのは、違う言葉だった。
「……用がある」
ヒナは、それだけ言って、前を向いた。
「え……そ、そっか。じゃあ、また明日……」
アンズの声が、小さくなっていく。ヒナは、振り返らずに歩き出した。
(なんで、あんなこと言ったんだろう)
自分でも、分からなかった。一緒に帰りたかったのに。アンズと、話したかったのに。
(でも、アンズは、瞳と一緒に文化祭を回る)
その事実が、ヒナの心を冷たくしていた。アンズの隣にいるのは、自分じゃない。瞳だ。
(……別に、いい)
ヒナは、歩く速度を速めた。校門を出て、商店街のアーケードを抜ける。夕日が、街をオレンジ色に染めていた。
「ヒナちゃん、今日機嫌悪いね。なんかあった?」
いつの間にか、瞳が隣を歩いていた。ヒナは、驚いて立ち止まる。
「……別に」
「また別に。でも、アンズちゃん、すごく悲しそうな顔してたよ。ヒナさんに何か言われた?」
瞳が、じっとヒナの顔を見た。ヒナは、目をそらす。
「……何も言ってない」
「そう? じゃあ、なんであんな顔してたんだろう。……まあ、いいけど。ヒナさん、アンズちゃんに冷たくしてるでしょ。あの子、結構気にしてるよ」
瞳の言葉が、ヒナの胸に突き刺さる。アンズが、気にしている。自分のせいで、悲しそうな顔をさせた。
(……分かってる)
ヒナは、唇を噛んだ。分かっている。でも、どうすればいいのか分からない。
「私は、アンズちゃんと仲良くしたいから、文化祭も一緒に回るんだ。ヒナさんも、アンズちゃんと仲良くすればいいのに」
「……別に、仲良くしてる」
「そう? 私には、そう見えないけど。……まあ、ヒナさんがそう言うなら、そうなのかもね。じゃあ、私、こっちだから。また明日」
瞳は、曲がり角で手を振って、去っていった。
ヒナは、一人、夕暮れの道に立っていた。
(仲良くしてる? ……してない)
自分で言った言葉が、空っぽに響く。
(アンズと、仲良くしたい)
そう思うのに、素直になれない。アンズが、瞳と楽しそうにしているのを見ると、胸が苦しくなる。
(これが、嫉妬?)
ヒナは、初めて、自分の感情に名前をつけた。
嫉妬。
アンズが、他の誰かと仲良くしているのが、嫌。アンズの隣にいるのが、自分じゃないのが、嫌。
(……最悪)
ヒナは、空を見上げた。空は、赤から紫へと変わっていく。
(こんな気持ち、知らなかった)
ヒナは、マンションに向かって、とぼとぼと歩き出した。
──
夜。新田のマンション。ヒナは、窓際に座って、膝を抱えていた。部屋の明かりは消している。窓の外の街明かりが、ぼんやりと部屋の中を照らしていた。
(アンズ、今ごろ何してるんだろう)
来々軒は、夜の営業が忙しい時間だ。アンズは、ラーメンを運んだり、餃子を焼いたりしているのだろう。
(瞳と、文化祭の話をしてるのかな)
そう考えると、胸がまた、ちくりと痛んだ。
(……やだ)
ヒナは、膝を抱える腕に、ぎゅっと力を込めた。
「ヒナ、まだ起きてるのか?」
新田が、リビングに入ってきた。手には、スマホを持っている。
「……起きてる」
「どうした? 暗い部屋で一人で。何かあったのか?」
新田が、心配そうにヒナの隣に座った。ヒナは、膝から顔を上げない。
「……別に」
「また別に。……なあ、ヒナ。お前、最近、アンズちゃんと何かあったのか? アンズちゃん、今日、店で元気なかったんだ。お前と何かあったのかと思って」
新田の言葉に、ヒナの体が、びくりと震えた。アンズが、元気なかった。自分のせいだ。
「……私のせい」
ヒナが、小さくつぶやいた。新田は、驚いたように目を見開いた。
「何があったんだ? 話してみろよ」
ヒナは、しばらく黙っていた。話したくない。でも、新田は、黙って待っている。
「……アンズが、一緒に帰ろうって言った」
「うん」
「……用があるって言った」
「……そうか。なんでだ?」
「……分からない」
ヒナの声が、震えた。自分でも、理由が分からない。ただ、あの時、アンズの顔を見たら、胸が苦しくなって、逃げたくなった。
「……アンズが、瞳と一緒に文化祭を回るって言った」
ヒナは、ぽつりとこぼした。新田は、黙って聞いている。
「……それが、嫌だった」
「……そうか。それは、やきもちってやつだな」
新田が、静かに言った。ヒナは、顔を上げた。
「……やきもち」
「ああ。お前は、アンズちゃんと仲良くしたいのに、アンズちゃんが瞳と楽しそうにしてるのが、面白くないんだろ。だから、素直になれない。……違うか?」
ヒナは、黙ってうなずいた。新田の言う通りだ。
(やきもち。……そうだ。これが、やきもちだ)
ヒナは、自分の感情を、ようやく理解した。
「……私は、アンズと、仲良くしたい」
「なら、そうすればいいだろ。明日、アンズちゃんに謝って、一緒に帰ればいい。アンズちゃんも、きっと喜ぶ」
「……でも、アンズは、瞳と一緒に文化祭を回る」
「それとこれとは別だろ。お前がアンズちゃんと仲良くするのと、アンズちゃんが瞳と仲良くするのは、両立できる。アンズちゃんは、お前のことも、瞳のことも、大切にしたいと思ってるはずだ」
新田の言葉に、ヒナは、はっとした。
(両立できる)
その考えは、なかった。アンズが瞳と仲良くしたら、自分は必要なくなる。そう思っていた。
(でも、違うのかもしれない)
アンズは、自分と瞳の両方と、仲良くできる。アンズの笑顔は、自分だけのものじゃない。でも、それは、悲しいことじゃない。
「……明日、謝る」
ヒナは、小さく、でもはっきりと言った。新田が、優しく笑った。
「そうしろ。お前が素直になれば、アンズちゃんも嬉しいはずだ」
ヒナは、うなずいた。胸の奥の、黒いもやもやが、少しだけ薄くなった気がした。
──
数日後。ヒナは、新田に連れられて、またバー「Little Song」を訪れていた。
「あら、ヒナちゃん。いらっしゃい。今日も、クッキー焼いてあるわよ」
詩子が、カウンターの奥から笑顔で迎えてくれた。ヒナは、おとなしくカウンターの席に座る。
「……クッキー、食べる」
「はいはい。オレンジジュースもね。……で、どう? あれから、アンズちゃんとは仲直りできたの?」
詩子が、オレンジジュースを注ぎながら聞いてきた。ヒナは、クッキーを口に入れる。
「……まだ、ちゃんとは話してない」
「あら、そう。もったいないわね。せっかく、あんたたち、いい感じなのに」
「……いい感じ?」
ヒナが首を傾げると、詩子が、ふっと笑った。
「そうよ。あんたとアンズちゃん、お互いのこと、すごく気にしてるじゃない。もっと素直になりなさいよ。あんたが素直になれば、アンズちゃんも、もっと嬉しそうにするわよ」
「……素直」
ヒナは、詩子の言葉を繰り返した。素直になる。それは、簡単なようで、とても難しい。
「あんたねえ、素直になりなさいよ」
詩子が、ヒナの顔をじっと見て言った。その目は、真剣だった。
「……なにが」
「自分で考えなさい。私は、あんたの背中を押すことしかできないの。でも、最後に一歩踏み出すのは、あんた自身よ」
詩子は、そう言って、ウイスキーの瓶を手に取った。
ヒナは、クッキーをかじりながら、詩子の言葉を考えた。
(素直になる。……どうやって)
まだ、答えは見つからない。でも、少しだけ、前よりは分かった気がする。
──
バーを出て、新田のマンションに戻ると、新田がスマホを見ながら言った。
「そういえば、明日、文化祭の前日だろ。買い出し、誰と行くんだ?」
「……クラスの奴ら」
「そうか。……あ、でも、お前のクラスの買い出し、アンズちゃんも手伝うって言ってたぞ。瞳ちゃんが、アンズちゃんに頼んだんだと。お前、アンズちゃんと二人で行くことになるかもな」
新田が、何気なく言った。ヒナは、固まった。
「……二人で」
「ああ。まあ、まだ確定じゃないけどな。でも、お前とアンズちゃん、二人で買い出しに行くのは、いい機会だろ。ちゃんと話せよ」
ヒナは、何も言えなかった。
明日、文化祭前日の買い出し。アンズと、二人きりになるかもしれない。
(……どうしよう)
ヒナの心臓が、ドキドキと音を立て始めた。窓の外では、夜の街が、静かに光っていた。Noveliaとは?
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