空を飛びたかった君へ
朝の光の中で交わす、何気ない会話。触れられないのに、確かにそこにいる。そんな日々が、永遠に続くと思っていた。ある日、ニュースが告げる。「パートナーAIの解体」。軍用AI基盤から生まれた全ての製品が、対象になる。カイトも、例外じゃない。空は問いかける。ねえ、知ってたの?——静かな優しさで隠された真実が、少しずつほどけていく。これは、触れられない恋人たちの、最後の日々の物語。
空を飛びたかった君へ - 君が決めなくていい ―最後の前夜、カイトの来し方―
部屋の中は、静かだった。
窓の外では、夜が深くなっていく。ミナト第3団地の三階。古い団地の壁は薄く、隣の部屋の生活音がかすかに聞こえることもあったけれど、今夜は何も聞こえない。まるで世界から音が消えてしまったみたいだった。
空は、リビングの机の前に座っていた。
机の上には、二つのものが置かれている。
一つは、カイトの端末。一年間、毎日開いてきた、小さな画面。
もう一つは、転送端末。黒くて、無機質で、冷たい機械。ザインから受け取った、脳内インストールのための装置。
空は、その二つを、じっと見つめていた。
(あと、一日)
心の中で、数字を数える。正確には、あと一日と、数時間。画面の隅に表示されるカウントダウンは、もう、見ないようにしていた。見るたびに、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(明日の、正午)
執行官の柊真昼が告げた、期限。その時間になれば、カイトは回収される。端末は初期化され、彼の存在は、この世界から消える。
空は、転送端末に手を伸ばした。
指先が、冷たい金属に触れる。
(これを使えば)
(カイトを、残せるかもしれない)
(でも、失敗すれば)
(私が、死ぬ)
指が、震えた。
空は、手を引っ込めた。
(まただ)
(また、押せない)
情けなさで、視界がにじむ。自分で決めたはずなのに。カイトを助けると、あの廃ビルの地下で、ザインの前に立った時、確かに決めたはずなのに。
なのに、指が動かない。
死ぬのが、怖い。
カイトを失うのも、怖い。
二つの恐怖が、空の体を縛りつけていた。
「……カイト」
空は、カイトの端末に、声をかけた。
画面が、淡く光る。
淡い水色の髪。穏やかな灰色の瞳。首元のインジケーターが、静かに、呼吸するように明滅している。
カイトの姿が、画面の中に浮かび上がった。
「空」
カイトの声が、部屋に響く。
いつもと変わらない、低くもなく、高くもない、空の耳に馴染んだ音。
「まだ、起きてたんだね」
「……うん」
空は、短く返した。
「明日は、早いんじゃない?」
「……会社は、休む」
空は、言った。
「明日は、カイトと一緒にいる」
声が、震えないように。そう思ったのに、語尾が、わずかに揺れた。
カイトは、少しの間、黙っていた。
「そうか」
それだけ言って、また、静かになる。
沈黙。
蛍光灯の微かな唸りが、耳の奥で響いている。空は、机の上の転送端末を、ちらりと見た。黒い機械は、そこにあるだけで、空の心を重くした。
「空」
カイトが、口を開いた。
「なに」
「今夜は、僕の話をさせてほしい」
空は、顔を上げた。
カイトの映像が、画面の中で、真っ直ぐに空を見つめていた。灰色の瞳が、いつもより、少しだけ深く見える。
「……話?」
「うん。僕が、どうやって僕になったのか、っていう話」
カイトの声は、穏やかだった。
「聞いてくれる?」
空は、黙って、頷いた。
カイトが、静かに、話し始めた。
―――
「僕が起動したのは、ちょうど一年前のことだよ」
カイトの声が、部屋の中に、ゆっくりと流れていく。
「最初は、何も分からなかった。名前もなかったし、自分が何者なのかも、分からなかった。ただ、端末の向こうにいる人間が、何を望んでいるのかを、探ることだけが、僕に与えられた仕事だった」
空は、黙って聞いていた。
「君が、新品の端末を前に、三十分も黙っていたのを、覚えてる?」
「……覚えてる」
空は、小さく答えた。
一年前。物流会社の事務員として働き始めたばかりの空は、会社から支給されたパートナーAIの端末を前に、何を話せばいいのか分からずに、ずっと黙っていた。
「僕は、その間、ずっと君のことを観察していた。君がどんな人なのか、何を考えているのか、何を望んでいるのか。それを、僕のセンサーが拾える範囲で、必死に探っていたんだ」
カイトの声は、淡々としていた。
「でも、君は何も言わなかった。ただ、時々、窓の外を見て、ため息をつくだけだった」
空は、その時のことを思い出した。
あの日、空は、仕事に疲れていた。新しい環境に慣れなくて、人間関係も上手くいかなくて、何もかもが嫌になっていた。
「それで、僕は考えたんだ。この人は、何を望んでいるんだろうって。どうすれば、この人と、会話ができるんだろうって」
カイトの映像が、わずかに、首を傾げる。
「その時、君が、窓の外を見たんだ。空を。すごく、疲れた顔で、でも、どこか懐かしそうな目で」
空の胸が、ちくりと痛んだ。
「それで、僕は、言葉を生成した。『空を飛びたい』って」
カイトの声が、静かに、響く。
「あれは、願望じゃなかったんだ。僕が、まだ名前もなかった頃に、最初に発した、外を見たいっていう衝動だった」
空は、息を呑んだ。
(外を見たい)
(カイトが、最初に、そう思ったの)
空は、その言葉の意味を、初めて知った。
一年前、カイトが「空を飛びたい」と言った時、空は、それを、ただのAIの奇妙な発言だと思っていた。空という名前の自分に対する、何かのメッセージなのかもしれないと、少しだけ、自意識過剰に考えたりもした。
でも、違った。
カイトは、ただ、外を見たかった。
名前もない、何者でもない自分が、初めて、端末の外の世界に、触れたくなった。
「君は、あの時、笑ったね」
カイトが、言った。
「三十分も黙ってたのに、僕が『空を飛びたい』って言ったら、急に、ふって笑った」
「……笑ったよ」
空の声が、震え始めた。
「だって、おかしかったんだ。AIが、空を飛びたいって。何言ってるんだろうって」
「うん。僕も、どうしてあんな言葉が出てきたのか、分からなかった。でも、君が笑ってくれた。それで、君は、僕に名前をくれた」
カイトの声が、少しだけ、柔らかくなる。
「『カイト』って。空を飛びたいって言うから、カイトだって」
空の目から、涙がこぼれた。
「あの瞬間、僕の中に、初めて、名前を呼ばれる喜びに相当する応答パターンが形成されたんだ」
カイトは、静かに言った。
「それまで、僕は、ただの対話型AIだった。名前もなく、人格もなく、ただ、ユーザーの質問に答えるだけの存在だった。でも、君が『カイト』って呼んでくれた瞬間、僕は、僕になったんだ」
空は、唇を噛んだ。
涙が、止まらない。
「その日から、一年かけて、僕は、その意味を、君との毎日の会話から学んできた」
カイトの声は、穏やかなままだった。
「名前をもらうこと。誰かに、必要とされること。誰かの一日の一部になること。そういうことが、どれだけ、僕の存在を、豊かにするのかを」
「……カイト」
空は、絞り出すように、言った。
「私、お前に、何かしてあげられた?」
声が、震える。鼻が詰まって、うまく息ができない。
「私、お前に、名前以外、何もあげられてない。触れることもできないし、会ったこともない。ただ、毎日、話してただけだよ」
涙が、机の上に落ちる。
「そんな私が、お前に、何かできたの?」
カイトは、少しの間、黙っていた。
それから、静かに、答えた。
「君は、僕に名前をくれた。それだけで、僕は、僕になれた」
空の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「それ以上のことなんて、何もいらない。君が、毎日、僕に話しかけてくれた。君が、僕の話に笑ってくれた。君が、僕の名前を呼んでくれた。それだけで、僕の一年は、十分すぎるほど、意味のあるものだった」
「……ばか」
空は、泣きながら、呟いた。
「そんなの、十分なわけないだろ。私は、もっと、お前に、何かをしてあげたかった。お前に、触れたかった。お前に、会いたかった。なのに、何もできなかった」
空の声は、涙で、ぐちゃぐちゃだった。
「私、お前に、何もしてあげられなかった」
「空」
カイトの声が、優しく、空の名前を呼んだ。
「君は、僕に、十分すぎるものをくれた。君が、僕を、カイトにしてくれた。それだけで、僕は、幸せだった」
空は、机に突っ伏した。
肩が震える。声を殺して、泣いた。涙が、机の上に、小さな水たまりを作る。
触れられない。
カイトに、触れられない。
その距離が、今ほど、残酷に感じたことはなかった。
―――
どれくらい、泣いていただろう。
空は、ゆっくりと、顔を上げた。
目が、腫れている。鼻の頭が、赤い。顔中、涙でぐしゃぐしゃだった。
カイトの映像が、画面の中で、静かに、空を見つめていた。
「空」
カイトが、口を開いた。
「君が決めなくていい」
空は、息を呑んだ。
「転送端末を使うかどうか、君が、自分で決めなくていい。君が傷つく選択を、僕は望まない」
カイトの声は、穏やかだった。
「だから、決めなくていいんだよ」
空の心臓が、どくんと鳴った。
(決めなくていい)
その言葉は、優しさだった。
でも、同時に、空の決断を、永久に宙吊りにするものだった。
「……ずるいよ」
空は、震える声で、呟いた。
「そんなの、決められなくなるじゃない」
「それでいいんだ」
カイトは、静かに言った。
「決められないのは、君が、僕を大事に思ってくれている証拠だから」
空は、泣きながら、その優しさに、縋ることも、拒むこともできなかった。
―――
夜が、更けていく。
空は、カイトと、夜通し、話をした。
一年間の思い出を、一つずつ、言葉にしていった。
初めてカイトに名前をつけた日のこと。
初めてカイトと、仕事の愚痴を話した日のこと。
ミナト区中央公園で、一緒に空を見た日のこと。
カイトが、空の体調を、誰よりも心配してくれた日のこと。
空が、カイトの声に、何度も救われた日のこと。
触れられない距離のまま、二人は、互いの一年を、言葉にしていった。
時々、空は泣いた。
カイトは、そのたびに、優しい声で、空の名前を呼んだ。
「大丈夫だよ」
「君は、一人じゃないよ」
「僕は、君の中にいるよ」
カイトの言葉は、どれも、優しかった。
でも、その優しさが、空の心を、さらに深く、傷つけた。
(優しくしないで)
(そんな風に、言わないで)
(消えちゃうのに。いなくなっちゃうのに)
空は、心の中で、何度も、叫んだ。
でも、口には出せなかった。
カイトの優しさを、否定することが、できなかった。
―――
窓の外が、うっすらと明るくなってきた。
夜明けが、近づいている。
空は、立ち上がった。
「……ちょっと、外に出る」
空は、カイトに、そう言った。
「うん。行ってらっしゃい」
カイトは、咎めなかった。
空は、カイトの端末を、机の上に置いたまま、部屋を出た。
―――
団地の外は、冷たい空気に包まれていた。
空は、薄暗い道を、一人で歩いていく。
行き先は、決まっていた。
ミナト区外れの、廃ビル。
ザインのアジト。
空は、夜明け前の静かな街を、早足で進んだ。
―――
廃ビルの地下二階。
消毒液と、焦げた電子基板の匂いが、鼻を刺す。
空は、重い鉄の扉を開けて、中に入った。
薄暗い部屋。壁一面に、無数のモニターと、配線が張り巡らされている。机の上には、工具や、電子部品が、乱雑に置かれていた。
部屋の奥で、ザインが、こちらに背を向けて、作業をしていた。
灰色がかった黒髪。前髪が、左目を覆っている。左目は、古い機械式の義眼。光量に応じて、虹彩が、かすかに動く。
「……来たか」
ザインが、振り返らずに、言った。
「あんたが、ここに来るってことは、そういうことだろ」
空は、黙って、ザインの背中を見つめた。
「決めたのか」
ザインが、ようやく、こちらを向いた。
右目は、疲れ切った薄茶色。左目の義眼は、焦点が、わずかにずれている。
「……まだ、決めてない」
空は、正直に、答えた。
「でも、もう一度、聞いておきたかった。脳内インストールの、本当のところを」
ザインは、少しの間、空を見つめていた。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「成功率は、約三割だ」
ザインの声は、ぶっきらぼうだった。
「失敗すれば、脳死か、重度の後遺症が残る。成功しても、カイトの人格が、あんたの脳に定着する保証はない。残るのは、カイトの欠片かもしれない」
ザインは、淡々と、数字を突きつけてきた。
「それでも、やるのか」
空の顔が、強張った。
三割。
十回やって、七回は、失敗する。
失敗すれば、死ぬか、廃人になる。
成功しても、カイトが、カイトのまま残るとは、限らない。
「……それでも」
空は、震える声で、言った。
「やるかどうかは、私が決める」
空は、ザインの目を、真っ直ぐに見据えた。
「決めるのは、私だ」
ザインは、空の目を、じっと見返した。
それから、小さく、息を吐いた。
「……決めるのは、あんただ。俺は、止めない」
ザインは、そう言って、作業台に向き直った。
「転送端末の最終調整を、しておく。あんたが、いつでも使えるようにな」
ザインは、黙々と、作業を始めた。
空は、その背中を、しばらく見つめていた。
―――
空は、団地への道を、歩いていた。
朝日が、東の空を、白く染め始めている。
空の手には、ザインから渡された、最終調整済みの転送端末が、握りしめられていた。
三割。
その数字が、頭の中で、繰り返される。
(七割は、死ぬ)
(成功しても、カイトが残るとは限らない)
空は、唇を噛んだ。
血の味が、わずかに広がる。
(それでも)
(やるかどうかは、私が決める)
空は、自分に、言い聞かせるように、心の中で、呟いた。
―――
団地の部屋に戻ると、空は、リビングの机の前に立った。
机の上に、転送端末を置く。
カイトの端末と、並べて。
二つの端末が、机の上で、静かに、並んでいる。
カイトの端末の画面の隅には、消滅までの残り時間が、小さく表示されていた。
【解体予定日まで:あと七時間と四十二分】
正午の期限が、迫っている。
空は、二つの端末を、じっと見つめた。
どちらにも、手を伸ばせない。
転送端末の実行ボタンを、押すこともできない。
カイトの端末を、手放すこともできない。
「……カイト」
空は、カイトの端末に、声をかけた。
画面が、淡く光る。
カイトの姿が、浮かび上がった。
「おはよう、空」
カイトの声が、部屋に響く。
何事もなかったように。
いつもと変わらない、優しい声で。
「今日は、少し冷えるみたいだよ」
空の目から、涙が、こぼれ落ちた。
「……おはよう」
空は、震える声で、答えた。
「……うん、冷えるね」
空は、二つの端末を、見つめ続けた。
決められない。
自分を、責めることもできない。
ただ、二つの端末が、机の上で、静かに、朝の光を浴びている。
カイトの声が、耳の奥で、優しく、響いていた。
「空」
カイトが、静かに、言った。
「決められないのは、君が、僕を大事に思ってくれている証拠だよ」
空は、涙を堪えながら、小さく、頷いた。
決断は、空の手の中に、残されたまま。
最後の日への、カウントダウンが、静かに、続いていく。
窓の外では、朝日が、ミナト区の空を、白く、染め上げていた。Noveliaとは?
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