瀬田更紗様宛ての招待状
前世の記憶を持つエルフの少女セラフィナは、王都の下町で四人の仲間とひっそりと暮らしていた。転生者が処刑されるこの世界で、前世の名を誰にも明かせぬまま。だがある朝、彼女の枕元に一通の招待状が置かれる。宛名にはこう記されていた――「瀬田更紗様」。この世界の誰も知るはずのない、前世の自分の名前。動揺を隠せぬセラフィナの前で、街では不穏な噂が囁かれ始める。貴族街の密会、転生者狩り、廃教会に現れる謎の影。やがて彼女は、仲間に真実を告げぬまま、一人その招待状の差出人に会いに行くことを決意する。隠し続けた秘密が、静かに綻び始める――。記憶と現在、守るべき仲間と明かせない過去が交錯する、切なくも温かなファンタジー開幕。
瀬田更紗様宛ての招待状 - 裏口の亡霊 ―― 揺らぐ決意と、イリスの一言
目覚めは、ぬるま湯の中から引き上げられるようだった。
セラフィナの意識は、眠りの底からゆっくりと浮上する。まぶたの裏に、朝の光が白く滲んだ。体はまだ重い。昨夜のことが、骨の芯まで染み込んでいる。
(また、朝が来た)
下町地区の外れ、酒場「ランプの灯」の二階。木造の建物は、夜明けの静けさに包まれていた。窓の外から、朝市の準備をする荷馬車の音が、かすかに聞こえる。
セラフィナは、ゆっくりと目を開けた。
天井の木目。見慣れた節の位置。何度も夜更けに見つめた、あの模様。
(何も変わってない)
そう思った。でも、それは嘘だ。自分の中で、何かが変わった。昨夜、確かに変わった。
右の手を見る。
そこに、マルグリットの手があった。
黒髪を後ろで束ねた、三十一歳の元没落貴族。酒場の切り盛りと家事を担う、静かな母性の持ち主。彼女は、寝台の縁に座ったまま、上半身を寝台に預けるようにして眠っていた。青い瞳は閉じられ、長い睫毛が頬に影を落としている。
その指が、セラフィナの手を、まだ握っていた。
一晩中。
ほどけなかった。
(この手の温もりが、私をここに繋ぎ止めてる)
セラフィナは、指を動かした。ほんの少しだけ。マルグリットの指に、自分の指を重ねる。
温かい。
昨夜、寝台で失禁した。四十歳の女の魂と、エルフの若い体。その歪みが、ついに体の制御を奪った。みっともなくて、情けなくて、消えてしまいたかった。
でも、この手が、離さなかった。
マルグリットは何も問わなかった。ギルダは黙って床を拭いた。ラズリは軽口で空気を和らげた。イリスは「誰にも言わない」と短く告げた。
四人の無言の気遣いが、セラフィナの心を、さらに深くえぐった。
(この人たちに、隠し事をしたままじゃいられない)
胸の奥で、何かが固く結ばれる。
(話さなきゃ)
(私が何者なのか。本当のことを)
(四人にだけは)
セラフィナは、マルグリットの手を、そっと握り返した。
その瞬間、マルグリットのまぶたが、ふるりと震えた。
「……あら、起きてたのね」
目を開けたマルグリットが、柔らかく微笑む。寝起きの掠れた声。でも、その声には、昨夜の疲れを微塵も感じさせない温かさがあった。
「……ごめんなさい。一晩中、手を」
声が、うまく出ない。喉の奥が、熱い塊で塞がれている。
「いいのよ。私が、そうしたかったの」
マルグリットは、セラフィナの手を、もう一度、ぎゅっと握った。それから、ゆっくりと指をほどいていく。名残惜しそうに、一本ずつ。
「朝ごはん、作ってくるわね。今日は、少し遅く起きてきても大丈夫よ」
そう言って、マルグリットは立ち上がった。黒いスカートの裾を軽く払い、寝台から離れる。その背中が、部屋の入り口へ向かう。
「待って」
声が、出た。
マルグリットの足が、止まる。
(今、言うの?)
心臓が、激しく脈打つ。指先が、かすかに震えている。
(今、ここで、話したいことがあるって)
セラフィナは、息を吸った。
「今夜……話したいことがあるの」
言葉が、喉の奥から、絞り出すように出てきた。
(言えた)
(まだ、内容は言えてない。でも、話したいことがあるって、伝えられた)
マルグリットは、振り向かなかった。
その背中が、静かに言った。
「待ってるわ」
たった一言。
振り向きもせず、確認もせず、ただ、それだけ。
(この人は、ずっと待っててくれたんだ)
セラフィナの胸に、熱いものが込み上げる。涙が、目の奥に滲んだ。
(私の決意が、初めて、私以外の人の手に渡った)
マルグリットは、そのまま部屋を出て行った。階段を下りる足音が、ゆっくりと遠ざかる。
セラフィナは、寝台の上で、握りしめた自分の手を見つめた。
(もう、後戻りできない)
怖かった。でも、それ以上に、ほっとしていた。
(話す。今夜、四人に、全部)
朝の光が、窓から差し込んで、部屋を明るく照らしていた。
昼過ぎ。
下町地区の市場は、活気に満ちていた。
石畳の通りに、所狭しと露店が並ぶ。野菜を山積みにした籠、魚を並べた木箱、布を広げた台。商人たちの威勢のいい掛け声が、空気を震わせる。焼きたてのパンの香ばしい匂い、香辛料の刺激的な香り、汗と埃の混ざった匂い。それらが入り混じって、市場独特の熱気を作り出していた。
セラフィナは、買い物籠を片手に、人混みの中を歩いていた。
(今夜、なんて言おう)
朝からずっと、頭の中はそのことでいっぱいだった。
(「私は、前世の記憶があります」?)
(「実は、四十歳の女でした」?)
(「瀬田更紗っていう名前で、日本の会社で経理をしてました」?)
どれも、違う気がする。どれも、正しい気がする。言葉が、まとまらない。
(こんなの、何度も考えてきたはずなのに)
セラフィナは、苦笑いを浮かべた。心の中で、何度もシミュレーションしてきた。四人の顔を思い浮かべて、言葉を選んで。でも、いざその時が近づくと、全部が白紙に戻ってしまう。
(まあ、なんとかなるって。大丈夫、慣れてるから)
心の中で、口癖を唱える。でも、その言葉は、今日に限って、空っぽに響いた。
「お嬢さん、今日はトマトが安いよ!」
露店の親父が声をかけてきた。セラフィナは、足を止めて、赤く熟れたトマトを見る。
「あら、本当に美味しそう。五つちょうだい」
「毎度あり! ほら、おまけに一つ付けとくよ」
セラフィナは、銅貨を払って、トマトを籠に入れた。
(今夜の夕食、何にしよう。シチューか、それとも)
そうやって、日常のことを考える。でも、すぐに、頭の中は告白の言葉に戻ってしまう。
(グルグル回ってる)
セラフィナは、小さくため息をついた。
その時だった。
人混みの向こうに、白いものを見た。
セラフィナの足が、止まった。
(あれは)
市場の端、香辛料を売る露店の横。小さな影が、こちらを見ていた。
黒い髪を肩のあたりで切りそろえた、十二歳の少女。白いワンピース。
ミナトだ。
セラフィナの胸が、きゅっと冷たくなった。指先が、かすかに痺れる。
(また、来た)
ミナトは、セラフィナと目が合うと、にっこりと笑った。無邪気な、あどけない笑顔。
それから、小さな手を、ひらひらと振った。
(追ってこない)
ミナトは、その場から動かなかった。ただ、笑って、手を振っている。まるで、また明日ね、とでも言うように。
セラフィナは、動けなかった。
(あの子は、敵じゃない)
心の中で、そう言い聞かせる。
(でも、私を過去へ連れて行こうとする)
矛盾が、胃を締め付ける。敵意がないからこそ、逃げられない。憎めないからこそ、拒絶できない。
(あの子は、私を想って、ここにいる)
それが、一番つらかった。
ミナトは、手を振るのをやめると、くるりと背を向けた。白いワンピースの背中が、人混みの中に、ゆっくりと消えていく。
セラフィナは、その後ろ姿を、ただ見つめていた。
(ごめんね、ミナト)
心の中で、呟いた。
(私は、あの子の望むようには、できない)
(私は、ここにいる。四人の隣に)
セラフィナは、買い物籠を握り直した。
四人の顔を、思い浮かべる。
ギルダの無骨な横顔。ラズリの軽薄な笑み。マルグリットの静かな微笑み。イリスの鋭い眼差し。
(この人たちに、話すんだ)
足が、動いた。
一歩、また一歩。
市場の喧騒が、セラフィナの背中を押していた。
夕暮れ。
酒場「ランプの灯」の閉店後。
一階の酒場は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。カウンターの上は綺麗に拭かれ、椅子は全て机の上に上げられている。窓から差し込む夕日が、床に長い影を落としていた。
セラフィナは、四人をカウンターの前に集めた。
ギルダは、いつものように壁際に立っている。赤褐色の短い髪、鋭い琥珀の目、口元の古い傷跡。無骨で強面だが、その目つきはどこか優しい。彼は、何も言わずに、セラフィナを見ていた。
ラズリは、カウンターの椅子に腰掛けて、指先で硬貨を弄んでいた。青みがかった黒髪を無造作に伸ばし、ラピスラズリのような青い瞳が、いつもの飄々とした光を宿している。左耳の三つのピアスが、夕日にきらりと光った。
マルグリットは、竈の前に立っていた。黒髪を後ろで束ね、落ち着いた青の瞳が、セラフィナを静かに見つめている。その手には、茶器が握られていた。
イリスは、酒場の入り口の扉の側に立っていた。黒に近い藍色の長い髪、切れ長の紫の瞳。左耳の小さな金環が、かすかに揺れる。彼女は、腕を組んで、扉に背を預けていた。
セラフィナは、四人の顔を、一人ずつ見た。
(この人たちだ)
(私が、話すべき相手は)
喉が、からからに乾いている。心臓が、胸を叩く音が、自分に聞こえる。
(言うのよ。今、ここで)
セラフィナは、震える声で、切り出した。
「今夜、聞いてほしいの」
声が、掠れた。小さく、弱々しく。
でも、四人には、確かに届いた。
ギルダが、無言で動いた。
カウンターの奥から、燭台を取り出す。火打石を打ち、灯を点ける。一つ、また一つ。酒場の中に、暖かな光が広がっていく。
(灯を、増やしてくれてる)
セラフィナの胸が、じわりと温かくなった。
「お、なんだ、改まっちゃって。まあ、座れよ。立って話すことでもないだろ?」
ラズリが、軽口を引っ込めて、カウンターの席を勧めた。その声には、いつものお調子者らしさはなく、静かな真剣さがあった。
マルグリットが、茶を淹れた。
湯気の立ち上るカップを、セラフィナの前に、そっと置く。
「熱いから、気をつけてね」
その声は、いつもと同じ、柔らかいものだった。
イリスは、扉の側から動かなかった。
でも、その紫の瞳は、セラフィナをまっすぐに見つめていた。
(この人たちは、逃げ道を塞いでるんじゃない)
セラフィナは、気づいた。
(私を受け止めるために、ここに立ってる)
ギルダは、光を。ラズリは、場所を。マルグリットは、温もりを。イリスは、見守りを。
四人の構えが、セラフィナの心を、包み込んでいた。
(ああ、ここなら、話せる)
胸の奥で、決意が満ちていく。
(この人たちになら、全部)
セラフィナは、茶の入ったカップを、両手で包んだ。
温かい。
その温もりが、震える指を、少しだけ落ち着かせてくれた。
夜半。
セラフィナは、二階の自室で、一人、告白の言葉を反芻していた。
(「私は、前世の記憶があります」)
(「瀬田更紗っていう名前で、四十歳で死にました」)
(「あなたたちと出会う前の、私の話です」)
何度も、何度も、心の中で繰り返す。でも、どれも、しっくりこない。
(言葉って、こんなに難しかったっけ)
セラフィナは、窓の外を見た。月が、薄い雲に隠れて、ぼんやりと光っている。下町の家々の屋根が、青白い月光に照らされて、静かに眠っていた。
(明日、いや、今夜中に、話すって決めたのに)
夕暮れのあの場では、確かに、決意が満ちていた。でも、一人になると、また、怖くなる。
(話したら、どうなるの)
(軽蔑される? 気味悪がられる? それとも)
(何も変わらずに、笑ってくれる?)
分からない。
分からないから、怖い。
その時だった。
トン、トン。
小さな音が、聞こえた。
(今の音)
セラフィナは、耳を澄ませた。
トン、トン、トン。
(裏口だ)
酒場の裏口を、誰かが叩いている。
(こんな時間に、誰?)
心臓が、早鐘を打ち始める。
(まさか)
セラフィナは、階段を下りた。一階の酒場は、真っ暗だった。月明かりが、窓から細く差し込んで、床に白い筋を作っている。
裏口へ向かう。
トン、トン。
音は、続いている。
セラフィナは、震える手で、閂に触れた。
(開けちゃダメ)
頭の中で、誰かが叫ぶ。
(でも、開けなきゃ、この音は止まない)
セラフィナは、閂を外した。
扉を、ゆっくりと開ける。
月明かりの下。
そこに、ミナトが立っていた。
黒い髪。白いワンピース。大きな黒い瞳。
「先輩、まだこんなところにいるの?」
ミナトは、笑っていた。
無邪気な、あどけない笑顔。
でも、その言葉は、セラフィナの胸を、冷たく刺した。
(「こんなところ」)
(この子にとって、ここは、そういう場所なんだ)
ミナトは、一歩、セラフィナに近づいた。
「先輩、私、ずっと考えてたんです。どうしたら、先輩が目を覚ましてくれるのかって」
小さな手が、伸びてくる。
「あの人たちは、先輩を縛ってるだけです。前世の亡霊です。先輩の本当の居場所は、ここじゃない。私の隣です。あのオフィスの、あの時間です。先輩が、本当に生きてた場所です」
ミナトの指が、セラフィナの手首を、ぎゅっと掴んだ。
細い、白い指。
でも、その力は、驚くほど強かった。
「やめて」
声が、震えた。
振りほどこうとした。でも、体が動かない。
(この子を、傷つけられない)
(この子の手を、払えない)
(だって、この子は、私を想って)
ミナトの黒い瞳が、セラフィナを、じっと見つめる。
「先輩、帰りましょう。私が、先輩の記憶を守ってあげます。消えかけてる記憶も、全部。私が、ずっと先輩のそばにいますから」
手首を掴む力が、強くなる。
(痛い)
(でも、それ以上に、苦しい)
セラフィナは、殴ることも、逃げることもできなかった。
ただ、震えながら、呟いた。
「私が……話すべきことよ」
その言葉は、ミナトにではなく、自分自身に向けられていた。
(私が、四人に、話すべきことなの)
(あの子に、連れて行かれる前に)
その時だった。
「話すなら、聞く」
低い、静かな声が、闇の中から響いた。
セラフィナが振り返ると、そこに、イリスが立っていた。
いつの間に来たのか。音もなく、裏口の影から、こちらを見ている。
藍色の長い髪が、夜風に揺れる。切れ長の紫の瞳が、月明かりを反射して、冷たく光っていた。
イリスは、ミナトを、まっすぐに見た。
「ここで待つのは、あんたの役目じゃない」
静かな、でも、有無を言わせない声だった。
ミナトの顔から、笑みが消えた。
黒い瞳が、イリスを見つめる。
「……先輩は、私が守ります」
「守るって、手首を掴んで脅すことか」
イリスの言葉に、ミナトの肩が、びくりと震えた。
「これは、違います。私は、先輩を」
「離しな」
短い、命令。
ミナトの指が、セラフィナの手首から、ゆっくりと離れていく。
その小さな顔は、悔しさで歪んでいた。唇を、ぎゅっと噛みしめている。
「……先輩、また来ます。絶対に、迎えに来ますから」
そう言って、ミナトは、闇の中へ消えていった。
白いワンピースの背中が、夜の闇に溶けるように、見えなくなる。
セラフィナは、その場に、立ち尽くしていた。
手首には、ミナトの指の感触が、まだ残っている。
(助かった)
(でも、あの子を、傷つけた)
胸の奥で、罪悪感が、じわりと広がる。
ミナトが去ったあと。
裏口に一人残ったセラフィナの元へ、四人が集まってきた。
ギルダが、裏口の閂を、静かに確認する。
ガチャリ、と重い音がして、扉が閉ざされた。
「ったく、幽霊退治は俺の仕事だぜ? 先に呼べよな」
ラズリが、わざと軽い調子で言った。
(この人は、いつも、こうやって)
セラフィナは、ラズリの気遣いが、痛いほど分かった。
「……大丈夫か」
ギルダが、ぶっきらぼうに尋ねた。
セラフィナは、頷こうとした。でも、首が、うまく動かない。
「寒いでしょう。中に入りましょう」
マルグリットが、震えるセラフィナの肩を、そっと抱いた。
その腕が、温かい。
セラフィナの体から、ゆっくりと、力が抜けていく。
「明日でも、今日でもいい」
イリスが、静かに言った。
「あんたが決めた夜に、話しな」
セラフィナは、イリスの紫の瞳を見た。
その瞳は、冷たくも、優しかった。
(この人は、私の嘘を、ずっと見抜いてた)
(それでも、待っててくれた)
セラフィナは、四人の顔を、一人ずつ見た。
ギルダ。ラズリ。マルグリット。イリス。
四つの目が、セラフィナを、まっすぐに見つめていた。
(ああ、私は、この人たちに支えられてる)
(一人じゃない)
決意は、揺らいでいた。
ミナトの言葉が、手首の痛みが、心を乱す。
(でも、それでも)
セラフィナは、深く息を吸った。
「……明日の夜、話すわ。全部」
声は、まだ震えていた。
でも、その言葉には、確かな意志があった。
四人は、何も言わなかった。
ただ、静かに、頷いた。
夜風が、裏口の外で、ひゅう、と鳴った。
月が、雲の切れ間から、顔を出した。
青白い光が、五つの影を、石畳の上に、長く伸ばしていた。
セラフィナは、四人に支えられながら、酒場の中へ戻った。
背中の向こうで、夜が、静かに深まっていく。
(明日、話す)
(私が、何者なのか)
(四十歳の女だったってこと)
(瀬田更紗だったってこと)
(全部)
心の中で、そう繰り返した。
決意は、揺らぎながらも、確かに、そこにあった。
――その夜、セラフィナは眠らなかった。
寝台の上で、何度も寝返りを打った。目を閉じると、ミナトの指の感触が戻ってくる。手首の内側、細い骨の上に、冷たい圧が残っている。感触を消そうと皮膚を擦った。擦るたびに、皮膚が熱を持った。赤くなった。それでも、冷たさは消えない。
朝が来た。窓の外が白み始めるのを、天井の木目を見ながら待った。階下で、マルグリットが竈に火を入れる音がした。薪のはぜる音。鍋を置く音。いつもと変わらない音。いつもと変わらない朝。
(今日の夜)
(今日の夜、話す)
セラフィナは、起き上がった。体が、鉛のように重い。
昼の市場は、昨日と何も変わらなかった。魚屋の前で、セラフィナは足を止めた。鱗の光り方が、昨日と同じだった。トマトの赤も、パンの埃っぽい匂いも、全部。ただ、セラフィナの耳の奥で、ミナトの声が繰り返されていた。
「先輩の本当の居場所は、ここじゃない」
魚屋の親父が、セラフィナに声をかけた。セラフィナは、何を買ったか覚えていない籠を持っていた。銅貨を払ったかどうかも、覚えていない。気づけば、酒場の前に戻っていた。
夕暮れが来た。
酒場の椅子を、机の上から下ろす。一つ、また一つ。手が、かすかに震えた。椅子の脚が、石の床に当たって、乾いた音を立てた。その音が、やけに大きく聞こえた。
四人が、集まった。
ギルダが、燭台に火を点けた。ラズリが、席を勧めた。マルグリットが、茶を置いた。イリスが、扉の側に立った。昨日と同じだった。でも、違った。
セラフィナは、カップを両手で包んだ。湯気が、鼻の奥に触れた。温かい。指の震えが、少しだけ止まった。
セラフィナは、口を開いた。
「前世の記憶があるの」
声が出た。掠れていたが、出た。四人は、黙っていた。ギルダの琥珀の目が、まばたきもしない。ラズリの指が、止まっている。マルグリットの手が、胸の前で組まれている。イリスの紫の瞳が、まっすぐにこちらを射ている。
「私は、瀬田更紗。日本の会社で、経理をしてた。四十歳だった。……死んだの。それで、気づいたら、この体だった。エルフの、若い女の子の体に」
セラフィナは、言葉を継いだ。
「あんたたちと出会う前から、ずっと。隠してた。ずっと、隠してて。ごめん」
沈黙。
セラフィナは、カップから手を離した。指の跡が、カップの側面に、白く残っていた。
最初に動いたのは、ギルダだった。
ギルダは、壁際から離れた。一歩、二歩。カウンターを回った。セラフィナの隣に来た。そして、右手を出した。
「……俺は、お前さんが誰でもいい。今、ここにいるお前さんが、お前さんだ」
セラフィナは、その手を見た。無骨な、傷だらけの手。差し出された手。
握り返そうとして、セラフィナの指が、止まった。
(握ったら)
(この人を、巻き込む)
セラフィナの手が、膝の上で、握りしめられた。
「……ありがとう。でも、私、あんたたちを巻き込みたくないの。あの子は、私を連れて行こうとしてる。私がここにいたら、あんたたちにも、何か」
「はっ」
ラズリが、短く笑った。乾いた、いつもと違う笑い方だった。
「巻き込む? おいおい、セラフィナ。俺たちは、もう巻き込まれてるんだよ。あんたが失禁した夜から、ずっと一緒に生きてんだ。今さら、何を言ってんだ」
ラズリの声が、少しだけ震えていた。硬貨を弄る指が、止まっていた。
「そうよ。セラフィナ。あなたが何者でも、私は、あなたと一緒にいたいの。それは、あなたが決めることじゃないわ。私が、決めたことよ」
マルグリットが、茶器を置いた。陶器が、木の台に当たって、小さな音を立てた。その音が、やけに澄んで聞こえた。
セラフィナの喉が、詰まった。目の奥が、熱くなった。
「……でも」
「でも、じゃない」
イリスが、扉から離れた。ゆっくりと、カウンターへ歩いてくる。ブーツの音が、石の床に、規則正しく響いた。
「あんたは、隠すのが下手すぎる。ずっと、見てれば分かった。分かった上で、待ってた。あんたが、自分で話すのを」
イリスは、セラフィナの前に立った。
「あの子に、連れて行かれる前に、話すと決めたのは、あんた自身だ。だったら、あんたが決めたことを、あんたが曲げるな」
セラフィナは、四人の顔を、もう一度見た。
ギルダの差し出された手。ラズリの真剣な目。マルグリットの組まれた手。イリスの射抜くような視線。
(この人たちは)
(私を、巻き込みたくないんじゃない)
(私と、一緒にいたいんだ)
セラフィナの視界が、歪んだ。涙が、頬を伝った。止めようとした。でも、止まらなかった。カップの縁に、水滴が落ちた。ぽたり、と小さな音を立てて。
セラフィナは、ギルダの手を、握った。
「……ありがとう」
声が、喉の奥で、何度も途切れた。
「ありがとう。ありがとう。私、一人じゃないんだ。私、ここにいていいんだ」
ラズリが、セラフィナの肩に手を置いた。マルグリットが、背中に手を添えた。イリスが、黙って、その場に立っていた。
その夜、五人で、遅い夕食を食べた。シチューだった。トマトの赤い色が、皿の上で、湯気を立てていた。
セラフィナは、スプーンを口に運んだ。温かい。舌の上で、トマトの酸味が広がった。飲み込むと、喉の奥が、じんわりと熱くなった。
(これが、私の場所)
食事が終わって、セラフィナは、自分の部屋に戻った。
寝台に座って、窓の外を見た。月が、雲のない空に、白く浮かんでいた。下町の屋根が、青白い光に照らされて、静かに連なっている。風が、窓の木枠を、かすかに鳴らした。
(話した)
(全部、話した)
(あの人たちは、受け止めてくれた)
セラフィナは、手のひらを見た。ギルダの手の温もりが、まだ残っている。指を、そっと握った。握り返すものが、そこにあった。
(これで、いい)
(これで、よかったんだ)
セラフィナは、寝台に横になった。毛布を、胸まで引き上げた。目を閉じた。今日は、眠れそうだった。長い一日だった。でも、心は、昨日より軽かった。
(明日から)
(明日からも、ここで)
眠りが、ゆっくりと訪れた。ぬるま湯のような、優しい眠り。セラフィナは、深く、深く、沈んでいった。
――朝。
セラフィナは、目を覚ました。
天井の木目。見慣れた節の位置。何度も夜更けに見つめた、あの模様。窓の外から、朝市の準備をする荷馬車の音が、かすかに聞こえる。
(朝だ)
体が、軽かった。昨日までの重さが、嘘のようだった。セラフィナは、寝台から起き上がった。カーテンを開けた。朝の光が、部屋に満ちた。白く、柔らかい光。
セラフィナは、服を着替えた。髪を梳いた。鏡を見た。エルフの若い顔が、そこにあった。でも、その目は、四十歳の女の目だった。ずっと、そうだった。これからも、そうだ。
(それで、いい)
セラフィナは、部屋を出た。階段を下りた。一階の酒場は、朝の支度で、慌ただしかった。マルグリットが、竈の前に立っていた。ギルダが、椅子を下ろしていた。ラズリが、窓を開けていた。イリスが、戸口に立っていた。
「おはよう」
四人が、振り向いた。
「おはよう。よく眠れた?」
「お、顔色がいいじゃねえか」
「……ああ」
「遅い」
セラフィナは、笑った。自然に、笑えた。
(これが、私の朝)
(これからも、続く朝)
セラフィナは、マルグリットの手伝いを始めた。野菜を切った。包丁の音が、規則正しく響いた。鍋が、湯気を立てた。パンの焼ける匂いが、酒場の中に広がった。
やがて、酒場の扉が、開いた。常連の客が、入ってくる。いつもの顔ぶれ。いつもの挨拶。いつもの笑い声。
セラフィナは、カウンターの奥で、グラスを拭いていた。布が、ガラスの表面を、きゅっ、きゅっと鳴らす。客の話し声。マルグリットの笑い声。ラズリの軽口。ギルダの相槌。イリスの静かな視線。
(ここだ)
(ここが、私の場所)
セラフィナは、グラスを棚に戻した。ガラスが、木の棚に当たって、小さな音を立てた。その音が、酒場の喧騒の中に、すっと溶けていった。
――昼下がり。
酒場の扉が、開いた。
客ではない。小さな影だった。
セラフィナは、グラスを拭く手を止めた。布が、指から滑り落ちた。カウンターの上に、はらりと落ちた。
ミナトが、立っていた。
白いワンピース。黒い髪。大きな黒い瞳。酒場の入り口に、小さな影が、ぽつんと立っていた。
酒場の客たちが、振り向いた。ラズリが、硬貨を弄る手を止めた。ギルダが、壁際から、一歩、動いた。マルグリットが、竈の前で、振り向いた。イリスが、扉の側で、目を細めた。
ミナトは、セラフィナを、まっすぐに見ていた。
「先輩」
小さな声だった。酒場の喧騒の中でも、はっきりと聞こえた。
「先輩、話があります」
セラフィナは、カウンターから出た。布を、カウンターの上に置いた。一歩、一歩。ミナトに近づいた。ミナトは、動かなかった。
セラフィナは、ミナトの前に立った。
「……何?」
ミナトは、セラフィナを見上げた。黒い瞳が、潤んでいた。
「先輩、私、間違ってました」
セラフィナは、息を呑んだ。
「先輩を、連れて行こうとして。前世に、戻そうとして。私、それが、先輩のためだと思ってました。でも、違ったんです。先輩は、ここで、生きてる。あの人たちと、生きてる。私、それが、見えなかった」
ミナトの声が、震えていた。小さな手が、ワンピースの裾を、ぎゅっと握っていた。
「先輩、ごめんなさい。私、先輩のそばにいたくて。それだけだったのに。先輩を、縛ってたのは、私の方でした」
セラフィナは、ミナトの頭に、手を置いた。黒い髪が、指の間を、さらりと流れた。温かい。子どもの頭の、温かさ。
「ミナト」
セラフィナは、しゃがんだ。ミナトの目を、まっすぐに見た。
「あなたは、何も間違ってない。私を想って、ここに来てくれた。それだけは、本当でしょ」
ミナトの目から、涙が、こぼれ落ちた。一粒、また一粒。白い頬を、伝っていった。
「でも、私、先輩の手首、掴んで。痛いって、言わせて。私、最低です」
「ううん。あなたは、私を、一人にしなかった。あの夜、裏口を叩いたのは、あなたでしょ。私が、一人で、怖がってたとき。あなたが、来てくれた」
セラフィナは、ミナトの手を、握った。小さな、白い手。冷たい。でも、握り返してくる力は、温かかった。
「ミナト。私は、ここにいる。この人たちと。でも、あなたとも、いたい。それじゃ、ダメ?」
ミナトは、顔を上げた。涙で濡れた黒い瞳が、セラフィナを、じっと見つめた。
「……いいんですか?」
「いいのよ。あなたは、私の後輩でしょ。先輩が、後輩を、切り捨てるわけないでしょ」
ミナトの顔が、くしゃりと歪んだ。泣き笑いの、子どもの顔。
「先輩、大好きです」
「知ってる」
セラフィナは、ミナトを、抱きしめた。小さな体が、腕の中に収まった。肩が、小さく震えていた。セラフィナの胸に、ミナトの涙が、染み込んでいく。温かい。
(これで、いい)
(これが、私の答え)
酒場の客たちが、拍手をした。誰かが、口笛を吹いた。ラズリが、硬貨を弄りながら、にやっと笑った。ギルダが、壁際で、小さく頷いた。マルグリットが、竈の前で、微笑んだ。イリスが、扉の側で、目を細めた。
――その夜。
酒場「ランプの灯」は、満員だっNoveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。