瀬田更紗様宛ての招待状
前世の記憶を持つエルフの少女セラフィナは、王都の下町で四人の仲間とひっそりと暮らしていた。転生者が処刑されるこの世界で、前世の名を誰にも明かせぬまま。だがある朝、彼女の枕元に一通の招待状が置かれる。宛名にはこう記されていた――「瀬田更紗様」。この世界の誰も知るはずのない、前世の自分の名前。動揺を隠せぬセラフィナの前で、街では不穏な噂が囁かれ始める。貴族街の密会、転生者狩り、廃教会に現れる謎の影。やがて彼女は、仲間に真実を告げぬまま、一人その招待状の差出人に会いに行くことを決意する。隠し続けた秘密が、静かに綻び始める――。記憶と現在、守るべき仲間と明かせない過去が交錯する、切なくも温かなファンタジー開幕。
瀬田更紗様宛ての招待状 - 夜明け前の五つの影 ―― 戸口の亡霊と静かな朝
酒場「ランプの灯」の一階。閉店後の静けさは、もうずいぶん長く続いていた。
カウンターの上の燭台が、細く揺れている。火の粉が、時折ぱちりと弾けた。蝋が溶けて、燭台の縁を伝い、雫になって落ちる。誰も、それを拭わない。
セラフィナは、椅子に座ったまま、俯いていた。淡い金の長い髪が、顔の両側に垂れている。深い緑の瞳は、涙で腫れて、床の一点を見つめていた。床板の節穴が、滲んだ視界で、二重に見える。
指先の震えが、止まらない。膝の上で組んだ手が、小さく揺れている。さっきまで自分の口から出た言葉が、耳の奥で、何度も何度も、繰り返し響いていた。
——私、四十歳の女だったの。
前世の名前。瀬田更紗。地味な経理部の会社員。恋もせず、静かに年を重ねて、交通事故で死んだ。その記憶を隠したまま、このエルフの体で生きてきた。
全部、話した。
四人の顔を、まともに見られない。どんな顔をしているのか、確かめる勇気がなかった。俯いたまま、耳だけが、 four人の気配を、必死に探っていた。
(もう、終わりかもしれない)
この温かい場所が。この人たちとの、穏やかな毎日が。
でも——。
「来なさい」
低く、落ち着いた声が、沈黙を破った。
セラフィナは、顔を上げた。
扉の側に立っていたイリスが、腕を解いて、自分の隣の椅子を、軽く叩いた。黒に近い藍色の長い髪が、燭台の灯りを受けて、つややかに光っている。切れ長の紫の瞳は、いつも通り、静かにセラフィナを見つめていた。
「え……?」
声が、掠れた。喉の奥が、乾いている。
「こっちに、座れ。それとも、立てないか」
イリスは、もう一度、椅子を叩いた。その仕草には、迷いがない。有無を言わせない、柔らかな強さがあった。
セラフィナの胸の奥で、何かが、ぐらりと揺れた。
(どうして)
(どうして、そんなに普通なの)
足が、動いた。ふらつきながら、セラフィナは立ち上がる。椅子の脚が、床を擦って、短い悲鳴を上げた。涙で歪んだ視界のまま、イリスの隣の椅子に、腰を下ろした。
木の椅子が、ぎしりと鳴る。
その瞬間、別の方向から、手が伸びてきた。
マルグリットだった。
黒髪を後ろで束ねた、三十一歳の元没落貴族。彼女は、セラフィナの隣に立つと、何も言わずに、セラフィナの肩を、そっと抱き寄せた。
温かい。
ほんのりと、茶の葉と、薪の匂いがした。マルグリットの胸元に、セラフィナの額が触れる。心臓の音が、聞こえる。ゆっくりで、落ち着いた、安心する音。セラフィナの早鐘のような鼓動とは、まるで違うリズムで、それは鳴っていた。
「マルグリット……私……」
「いいのよ。今は、何も言わなくて」
マルグリットの指が、セラフィナの髪を、ゆっくりと梳いた。まるで、泣き止まない子供をあやすみたいに。髪の間を、指が通るたび、同じ場所を、もう一度、撫でた。
セラフィナの目の奥が、また熱くなった。
(だめ。また、泣いてしまう)
唇を噛みしめる。でも、涙は止まらなかった。ほろほろと、頬を伝って、マルグリットのエプロンに染みていく。染みの広がる感触が、頬の下で、じわりと分かった。
「やっと聞けたな」
カウンターの向こうから、軽やかな声が飛んできた。
顔を上げると、ラズリが、いつもの飄々とした笑みを浮かべて、こちらを見ていた。青みがかった黒髪を無造作に伸ばし、左耳の三つのピアスが、灯りを反射して、きらりと光る。ラピスラズリのような青い瞳が、優しく細められていた。
「いやあ、長かった。あんたが自分から話すまで、俺たち、どれだけ待ったと思ってる?」
ラズリは、指先で銅貨を弄びながら、軽い調子で続けた。
「ま、俺は最初から気づいてたけどな。あんた、たまに妙な言葉使うだろ。『コピー』とか『残業』とか。あれ、この世界の言葉じゃないぜ」
セラフィナは、目を見開いた。
(気づいて……た)
ラズリは、銅貨を空中に弾いた。くるくると回転して、手のひらに落ちる。銅貨が、指の間で、じゃらりと鳴った。
「でも、本人が話さないなら、聞かないのが筋だろ。そう決めてたんだ。俺はな」
その言葉に、セラフィナの胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
(この人も、ずっと)
(私の嘘に、気づいていながら)
(黙って、待っていてくれた)
視界が、また滲む。
その時、重い足音が、床を鳴らした。
ギルダだった。
短く切った赤褐色の髪。鋭い琥珀の目。口元の古い傷跡。無骨で強面の、二十七歳の戦士。彼は、セラフィナの前に立つと、ゆっくりと、頭を下げた。
深く。
まるで、王に忠誠を誓う騎士のように。首の後ろが、赤褐色の髪の間から、見えた。
「……すまなかった」
低い声が、酒場の静寂に沈んでいく。
「ギルダ……何を謝るの? 君が謝ることなんて、何もないわ」
セラフィナは、慌てて首を振った。
ギルダは、頭を下げたまま、言葉を続けた。
「お前が、一人で抱えていることに、俺は気づいていた。なのに、何もできなかった。問うことも、助けることも、できなかった。……すまない」
セラフィナの喉が、詰まった。
(違う)
(違うのよ、ギルダ)
(君は、いつも、私を守ってくれてた)
(道に倒れてた私を、拾ってくれた)
(黙って、隣にいてくれた)
(それだけで、十分すぎるほど、救われてた)
声にならない想いが、胸の奥で渦巻く。
「違う……違うの……私は、君たちに、守られてばかりで……」
涙が、止まらなかった。喉の奥が、ひくりと鳴った。
「それでいいのよ」
マルグリットの声が、耳元で、柔らかく響いた。
「守られることは、悪いことじゃないわ。私たちは、あなたを守りたくて、ここにいるんだもの」
セラフィナは、マルグリットの腕の中で、声を上げて泣いた。
子供みたいに。
みっともなく。
でも、もう、隠す必要はなかった。
長い間、心の奥底に押し込めてきた罪悪感が、涙と一緒に、少しずつ溶けていく。涙の粒が、顎を伝い、首筋を伝い、エプロンの布に、次々と吸い込まれていった。
(もう、隠さなくていいんだ)
その感覚が、セラフィナの全身を、ゆっくりと満たしていった。
しばらくして、セラフィナが泣き止むと、マルグリットが、温かい茶を淹れ直してくれた。
五人で、床に座り込む。
酒場の片隅。木の床の上。燭台の灯りが、五つの影を、壁に映していた。影と影が、重なり合って、ひとつの大きな塊のように見えた。
茶の入ったカップが、順番に回される。一口飲むたびに、体の芯から温かくなっていく。カップの縁が、唇に当たる。湯気が、鼻の奥を、くすぐった。
「でさ、あんたの前世の話、もっと聞かせてくれよ。経理部って何するんだ? 数字を数えるのか?」
ラズリが、茶を回しながら、軽口を叩いた。
セラフィナは、少しだけ笑った。頬が、泣いた後で、つっぱっていた。
「そうね。会社のお金を、計算するの。書類に、数字を書いて、帳簿をつけて……地味な仕事よ」
「へえ。じゃあ、あんた、計算が得意なのか。今度、店の帳簿も見てくれよ。俺、数字が苦手でさ」
「嫌よ。あんた、売上をちょろまかしてるんでしょ」
「ひどいな! 俺がそんなことするわけないだろ!」
ラズリが、大げさに胸を押さえた。銅貨が、ポケットの中で、ちゃりんと鳴る。
マルグリットが、くすくすと笑う。肩が、小さく揺れた。
「でも、経理部って、どんな場所だったの? あなたの、前世の職場」
セラフィナは、カップを両手で包みながら、少し遠くを見た。カップの熱が、指の腹に、じんわりと染みる。
「……狭い部屋で、書類がたくさんあって。蛍光灯……あ、光る管みたいなもの、が、ずっと点いてて。紙と、インクと、コーヒーの匂いが混ざった場所」
言葉を探しながら、ゆっくりと話す。
「残業の夜は、自販機……お金を入れると、飲み物が出てくる機械、で、缶コーヒーを買って。温かいのを、両手で持って、窓の外を見るの。街の灯りが、ずっと遠くまで続いてて。……あの光を見るのが、好きだった」
四人は、黙って聞いていた。ラズリの銅貨を弄る音も、止んでいた。
「後輩が、一人いて。ミナトっていうの。いつも、私のことを気にかけてくれて。残業の時、お菓子をくれたり、コーヒーを買ってきてくれたり。……私は、あの子の気持ちに、気づいていたのに、何も返せなかった」
声が、少し震えた。カップを持つ指に、力が入る。
「気づかないふりをしてた。知らないふりをしてた。だって、私は四十歳で、あの子は若くて、きっと、もっと素敵な人と出会えるはずで。……だから、逃げた。そうやって、ずっと、逃げてきたの」
セラフィナは、うつむいた。
カップの中の茶が、小さく揺れている。表面に、灯りが映って、歪んだ。
「十分に、生きたのね」
マルグリットが、静かに言った。
セラフィナは、顔を上げた。
マルグリットの青い瞳が、まっすぐに、セラフィナを見つめていた。そこには、哀れみも、軽蔑もなかった。ただ、深い共感だけがあった。
「恋をしなかったって、あなたが言うけど。あなたは、誰かの想いを受け止められなかったことを、こんなに苦しんでる。それって、十分に、人の心で生きてきた証拠よ」
セラフィナの胸の奥が、じわりと温かくなる。
「……あんたは、あんたのままでいい」
不意に、ギルダが口を開いた。
セラフィナは、ギルダを見た。
琥珀の目が、まっすぐに、セラフィナを捉えている。
「前世がどうとか、四十歳だったとか、そんなことは、どうでもいい。俺が知ってるのは、今のあんただ。道で倒れてた、弱っちいエルフで。それなのに、俺に『大丈夫、慣れてるから』って笑った、馬鹿みたいに強い女だ。それだけで、十分だ」
セラフィナの目が、見開かれた。
(それだけで、十分)
涙が、また、こぼれた。今度は、温かいものが、頬を伝った。
でも、今度の涙は、さっきまでと違っていた。
悲しみでも、苦しみでもない。
胸の奥から、温かいものが、込み上げてくる。喉の詰まりが、ゆっくりと、ほどけていく。
「……ありがとう」
声が、震えた。
「ありがとう……みんな……」
セラフィナは、涙を拭いながら、四人の顔を、順番に見た。
ギルダ。ラズリ。マルグリット。イリス。
みんな、セラフィナを見ていた。
優しい目で。
夜が、更けていく。
燭台の火が、短くなって、影が長く伸びる。溶けた蝋が、燭台の足元で、小さな白い湖を作っていた。
「……そろそろ、寝るか」
イリスが、静かに立ち上がった。椅子が、床から離れる時、小さく音を立てた。
セラフィナは、少し寂しくなった。この温かい時間が、終わってしまうのが。
でも、イリスは、そのまま二階へは行かずに、セラフィナの前に立った。
そして、無言で、セラフィナの手を取った。
「イリス……?」
イリスの手は、ひんやりとしていた。でも、その指は、セラフィナの手を、確かに握っていた。骨ばった指が、手の甲に、そっと添えられる。
イリスは、セラフィナの手を引いて、床の一点を指した。
自分の隣。
酒場の片隅の、木の床。
「ここに、いなさい」
たった一言。
それだけだった。
でも、セラフィナには、その言葉が、何よりも深く、胸に刺さった。
(ここに、いなさい)
(ここに、いていいのよ)
(この世界に。この場所に。私たちの隣に)
セラフィナの喉が、熱い塊で塞がれた。何か言おうとして、口を開けたが、声にならなかった。
「……うん」
セラフィナは、ようやく、それだけを、小さく頷いた。
イリスは、それ以上何も言わずに、床に座り込んだ。そして、自分の隣の床を、もう一度、軽く叩いた。乾いた音が、一度だけ、響いた。
セラフィナは、イリスの隣に、腰を下ろした。床板が、少しだけ、冷たかった。
「お、いいな。俺も混ぜろよ」
ラズリが、セラフィナの反対側に、ごろりと横になった。腕が、セラフィナの背中に、触れるか触れないかの距離で、止まる。
「では、私も、ここでご一緒していいかしら」
マルグリットが、ラズリの隣に、品よく座る。膝を揃えて、スカートの裾を、整えた。
ギルダは、無言で、五人の輪の外側に、どっかりと腰を下ろした。壁際で、いつでも動ける位置。でも、その目は、柔らかく、仲間たちを見つめていた。
五人が、床に並ぶ。
肩が、触れ合う。
温かい。
セラフィナは、目を閉じた。
イリスの体温。ラズリの軽い寝息。マルグリットの、茶の香り。ギルダの、静かな存在感。
それらすべてが、セラフィナを包んでいた。床の木目が、背中に、硬く当たっていた。でも、それが、不思議と、心地よかった。
(前世の私も)
(今の私も)
(どっちも、私なんだ)
(その全部を、この人たちは、受け入れてくれた)
セラフィナの心の中で、長い間、別々だった二つの自分が、ゆっくりと、重なっていく。
瀬田更紗として生きた、四十歳の女。
セラフィナとして生きる、エルフの冒険者。
その二つが、初めて、一つの輪郭になった。
(ああ)
(私は、私のままで、いいんだ)
涙が、一筋、こめかみを伝って、床に落ちた。
でも、それは、悲しい涙じゃなかった。
同じ刻。
酒場「ランプの灯」の戸口。
外の石畳に、小さな影が、立っていた。
ミナト。
十二歳の少女。黒い髪。白いワンピース。大きな黒い瞳。前世の瀬田更紗と、瓜二つの顔。
彼女は、酒場の戸の隙間から、中を覗いていた。戸の隙間から、細い光が、彼女の頬に、一本の線を引いている。
燭台の灯りが、五つの影を、壁に映している。
肩を寄せ合って、床に並ぶ、五つの影。
その真ん中に、セラフィナがいた。
ミナトの瞳から、涙が、静かに溢れ出した。頬を伝って、顎の先で、しばらく留まり、それから、白いワンピースに落ちた。
「先輩は……あっち側なんだ……」
小さな、かすれた声。
「先輩は、あの人たちのところに、行っちゃったんだ」
ミナトは、戸に、手を置いた。指先が、木の表面を、なぞる。
でも、開けられなかった。
開ける勇気が、なかった。
「私が、守るって、言ったのに」
涙が、白いワンピースに、落ちた。染みが、ひとつ、またひとつと、増えていく。
「私が、先輩を、守るって……あの時も、今も、ずっと……」
ミナトの指が、戸の木目を、ぎゅっと掴んだ。
爪が、食い込む。白い指先が、みっつ、木の表面で、白くなっていた。
(あの人たちは、先輩を縛ってる)
(この世界に、縛り付けてる)
(先輩は、本当は、あっちにいるべきなのに)
(私と、同じ場所に)
ミナトの胸の中で、黒い感情が、渦を巻く。
嫉妬。
執着。
そして、燃えるような、独占欲。
「必ず……必ず、取り戻すから」
ミナトは、涙で濡れた顔で、それでも、はっきりと呟いた。
「先輩を、あの人たちから、奪い返す。今度こそ、私が、先輩を守るんだから」
夜明け前の、下町地区。
誰も、通らない。
ミナトの小さな影だけが、酒場の戸口に、長く伸びていた。影は、石畳の目地を、ひとつ、またひとつと、数えるように、伸びていた。
誰も、彼女の存在に、気づかなかった。
東の空が、うっすらと白み始めた頃。
風が、吹いた。
酒場「ランプの灯」の二階の窓が、かたん、と音を立てて、少し開いた。
朝風が、部屋の中に、滑り込んでくる。カーテンの裾が、ふわりと膨らんだ。
その風に乗って、床の上に置かれていた一枚の紙が、するりと動いた。
招待状。
宛名は、『瀬田更紗様』。
差出人は、ない。
紙は、床を滑って、窓の下で、ひらりと舞い上がった。紙の端が、朝の光を受けて、白く透けた。
一階の床で、セラフィナが、薄く目を開けた。
(朝……?)
体が、重い。でも、不思議と、心は軽かった。床の木目が、背中に、跡を付けている。
隣では、イリスが、静かな寝息を立てている。反対側では、ラズリが、大の字になって眠っていた。口が、少しだけ開いている。マルグリットは、セラフィナの足元で、きちんと膝を揃えて、眠っている。ギルダは、壁にもたれて、目を閉じていた。腕を組んだまま、呼吸だけが、静かに続いている。
(みんな、ここにいる)
セラフィナは、ゆっくりと、体を起こした。背骨が、軋むように、軋んだ。
「……あれ?」
床の上に、あったはずの招待状が、ない。
セラフィナは、周りを見回した。床の上を、手のひらで、探る。指先に、紙の感触は、なかった。
その時、二階から、ひらりと、一枚の紙が、階段を滑り降りてきた。
朝風に乗って、ふわり、ふわりと。紙は、階段の一段を、跳ねるように、降りてくる。
「……!」
セラフィナは、手を伸ばした。
紙が、指先に触れる。ひやりとした、紙の感触。
それは、招待状だった。
宛名は、『瀬田更紗様』。
差出人は、ない。
「……まだ、分からないのね」
セラフィナは、招待状を、じっと見つめた。紙の繊維が、朝の光に、細かく浮かんでいる。
この手紙を、誰が、何のために送ったのか。
前世の名前を知る者は、この世界にいるはずがない。
(ミナト……なの?)
でも、ミナトは、この手紙のことは、何も言っていなかった。
「お、何だそれ」
ラズリが、寝転んだまま、片目を開けて、セラフィナを見た。声が、まだ、寝ぼけていた。
「招待状よ。差出人が、いまだに分からなくて」
セラフィナは、ラズリに、招待状を差し出した。
ラズリは、ごそごそと起き上がって、封をしげしげと眺めた。指で、紙の端を、何度か、弾いた。
「……やっぱり、差出人の名は、どこにもないな。紙も、この辺で売ってる普通のやつだ。封蝋も、安物。手がかりは、ゼロに近い」
ラズリの声が、少しだけ、真剣になった。目の焦点が、別の場所を、探っている。
「……そのうち、必ず動く」
いつの間にか、イリスが、目を覚ましていた。寝起きとは思えない、まっすぐな声だった。
紫の瞳が、静かに、招待状を見つめている。
「差出人は、セラに、何かを伝えたい。それなら、いずれ、直接、動いてくる。待てばいい」
イリスは、それだけ言うと、立ち上がった。床に、彼女の座っていた跡が、薄く、残っていた。
「……窓を、閉める」
ギルダも、目を覚ましていた。
彼は、無言で二階に上がると、開いていた窓を、静かに閉めた。窓枠が、こつりと、音を立てた。閉め切った窓の向こうで、朝の光が、少しだけ、霞んで見えた。
朝の支度が、始まる。
マルグリットが、竈に火を入れる。ラズリが、椅子を並べ直す。イリスが、カウンターを布で拭く。ギルダが、外の井戸から、水を汲んでくる。
いつもの朝。いつもの音。
でも、何かが、少しだけ違っていた。
(ああ)
(これが、私の場所なんだ)
セラフィナは、招待状を、そっと、カウンターの引き出しにしまった。引き出しの奥で、紙が、滑る音がした。
謎は、まだ残っている。
ミナトの執着も、自分の体の異変も、何も解決していない。
でも、今は、この四人と一緒に、朝を迎えられる。
それだけで、十分だった。
「セラフィナ、朝ごはんができるわよ。今日は、少しだけ、腕によりをかけたの」
マルグリットが、振り返って、柔らかく微笑んだ。竈の火が、彼女の横顔を、橙色に照らしている。
「……うん。ありがとう」
セラフィナは、笑って、頷いた。
窓の外では、下町地区の朝が、静かに始まっていた。
市場の準備をする荷馬車の音。パンを焼く匂い。子供たちの声。
すべてが、いつも通りで、でも、セラフィナには、すべてが、新しいもののように感じられた。
(行こう)
(私の、日常へ)
セラフィナは、深く息を吸って、一歩、踏み出した。床板が、足の裏で、小さく鳴った。
酒場「ランプの灯」の、新しい朝が、始まる。
その日の夜。
下町地区の外れ、静寂の聖堂。
崩れた屋根の下、割れたステンドグラスの前で、ミナトは、膝を抱えて座っていた。
月明かりが、彼女の黒い髪を、青白く照らしている。割れたステンドグラスが、月の光を、いくつもの色の欠片に、分けて、床に落としていた。
「……先輩」
ミナトは、呟いた。
「私は、諦めない。絶対に、諦めないから」
彼女の手には、一枚の紙切れが握られていた。
それは、朝風に飛ばされて、聖堂の前まで流れ着いた、招待状の欠片だった。
宛名の一部、『更紗様』の文字が、月明かりに浮かび上がる。紙の端が、ちぎれて、毛羽立っていた。
ミナトは、その紙切れを、そっと、唇に当てた。
「先輩を、あの人たちから、奪い返す。そのために、私は、もっと強くなる」
彼女の瞳は、涙で濡れていた。
でも、その奥には、燃えるような決意が、静かに宿っていた。涙の膜の向こうで、月明かりが、小さく揺れていた。
「待ってて。先輩。今度こそ、私が、先輩を、守ってみせるから」
夜風が、聖堂の壊れた窓を通り抜けて、ミナトの髪を、そっと揺らした。紙切れが、彼女の指の間で、かさりと鳴った。
彼女の執着は、まだ、終わらない。
むしろ、それは、これから、もっと深く、もっと暗く、彼女の心を蝕んでいく。
セラフィナの新しい日常は、始まったばかりだった。
そして、その日常のすぐ隣に、ミナトの影が、静かに、寄り添っていた。Noveliaとは?
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