瀬田更紗様宛ての招待状
前世の記憶を持つエルフの少女セラフィナは、王都の下町で四人の仲間とひっそりと暮らしていた。転生者が処刑されるこの世界で、前世の名を誰にも明かせぬまま。だがある朝、彼女の枕元に一通の招待状が置かれる。宛名にはこう記されていた――「瀬田更紗様」。この世界の誰も知るはずのない、前世の自分の名前。動揺を隠せぬセラフィナの前で、街では不穏な噂が囁かれ始める。貴族街の密会、転生者狩り、廃教会に現れる謎の影。やがて彼女は、仲間に真実を告げぬまま、一人その招待状の差出人に会いに行くことを決意する。隠し続けた秘密が、静かに綻び始める――。記憶と現在、守るべき仲間と明かせない過去が交錯する、切なくも温かなファンタジー開幕。
瀬田更紗様宛ての招待状 - 私は四十歳の女だった ―― 沈黙を破る来なさい
酒場「ランプの灯」の二階。閉店後の静けさが、木造の建物を包んでいた。一階からは、ラズリが片付けに使う水の音が、かすかに聞こえる。
セラフィナは、カウンターの前に立っていた。
淡い金の長い髪が、肩から背中に流れている。深い緑の瞳は、四人の顔を順番に見た。
ギルダ。短く切った赤褐色の髪、鋭い琥珀の目。口元の古い傷跡。左手にはいつもの篭手。無骨で強面の、二十七歳の戦士。
ラズリ。青みがかった黒髪を無造作に伸ばし、左耳に三つの小さなピアス。ラピスラズリのような青い瞳が、普段の飄々とした笑みを引っ込めて、静かにセラフィナを見つめている。
マルグリット。黒髪を後ろで束ね、落ち着いた青の瞳。長い指先を、エプロンの前で組んでいる。三十一歳の、静かな母性。
イリス。黒に近い藍色の長い髪。切れ長の紫の瞳。左耳の小さな金環が、燭台の灯りを反射して、ちかりと光った。扉の側に、背を預けて立っている。
セラフィナは、息を吸った。
肺の奥まで、夜の空気が入っていく。心臓が、胸の内側を強く打っていた。指先が、かすかに震えている。
(今夜、話すって、決めた)
マルグリットには、朝、伝えた。今夜、話したいことがあると。彼女は「待ってるわ」と言った。それだけだった。
それから、一日中、この瞬間のことだけを考えていた。
野菜を切っている時も。市場で買い物をしている時も。常連客の相手をしている時も。
頭の片隅で、ずっと、言葉を探していた。
(どうやって、話せばいい?)
(どこから、話せばいい?)
答えは、見つからなかった。
セラフィナは、もう一度、息を吸った。
「今夜、聞いてほしいの」
声が、震えた。
自分でも分かるほど、かすれて、弱々しい声だった。
四人が、動いた。
ギルダが、壁際の燭台に、火を灯した。灯りが一つ、増える。酒場の片隅が、ほんの少し、明るくなった。
ラズリが、カウンターの椅子を引いた。いつもの軽口は、ない。ただ、静かに、そこに座れと言うように。
マルグリットが、竈の火を入れて、薬缶をかけた。湯の沸く音が、静かな酒場に響き始める。彼女は、茶葉の入った急須を、手に取った。
イリスは、動かなかった。
扉の側に、背を預けたまま。腕を組んで、紫の瞳で、セラフィナをまっすぐに見ている。
(逃げ道を、塞いでるんじゃない)
セラフィナは、思った。
(この人たちは、私の話を、受け止めようとしてる)
胸の奥で、熱いものが、ゆっくりと広がっていく。
マルグリットが、湯を注いだ。茶の香りが、ふわりと立ち上る。彼女は、カップを一つ、セラフィナの前に置いた。
「座って。お茶を淹れたわ」
セラフィナは、頷いた。
椅子に、腰を下ろす。木の感触が、冷たかった。カップを、両手で包む。温かい。
四人が、それぞれの場所に座った。ギルダは、セラフィナの斜め前の席。ラズリは、カウンター越しに。マルグリットは、セラフィナの隣。イリスは、まだ、扉の側に立っている。
沈黙が、降りた。
湯気が、天井に向かって、ゆっくりと昇っていく。
セラフィナは、カップの中の茶を見つめた。
茶葉が、底で、小さく渦を巻いている。
(ここから、話すしかない)
セラフィナは、顔を上げた。
「私、四十歳の女だったの」
声は、まだ震えていた。
でも、前よりは、はっきりと、出た。
四人の顔が、変わった。
ギルダの琥珀の目が、わずかに見開かれる。ラズリの青い瞳から、笑みが消えた。マルグリットの指が、エプロンをぎゅっと握る。イリスだけが、表情を変えずに、セラフィナを見つめていた。
セラフィナは、続けた。
「前世の名前は、瀬田更紗。地味な経理部の会社員で、恋もせず、静かに年を重ねて……交通事故で、死んだの」
言葉が、口からこぼれ落ちていく。
「死んだはずなのに、気づいたら、この世界にいて。この、エルフの体に宿ってて。……道に倒れてたところを、ギルダに拾われて」
ギルダの顔を見た。
ギルダは、何も言わなかった。ただ、セラフィナの目を、まっすぐに見ていた。
「四人と、暮らすようになって。ここが、居場所になった。……そう思えば思うほど、本当のことが、言えなくなった」
声が、かすれた。
喉の奥が、熱い。
「言ったら、壊れると思った。この、温かい場所が。……だから、ずっと、隠してた」
セラフィナは、うつむいた。
カップの中の茶が、揺れている。
自分の手が、震えているのが、分かった。
「ミナトは……あの子は、前世の、私の後輩だったの。私、あの子の気持ちに、気づいてた。……なのに、何も、応えられなかった。あの子が、私を想ってたのに。私は、四十歳の、ただの会社員で。あの子の気持ちに、向き合う勇気もなくて」
涙が、一筋、頬を伝った。
「あの子が、死んだ。私のせいで。私が、ちゃんと、向き合わなかったから」
声が、震える。
「だから、あの子が、この世界に転生して。私を、追いかけてきたのは……私の、せいなの」
涙が、止まらなかった。
カップを握る指に、力が入る。
「全部、私が、悪いの。四人に、隠してたのも。あの子を、傷つけたのも。……全部、私が」
声が、涙で、ぐちゃぐちゃになる。
セラフィナは、もう、顔を上げられなかった。
(言ってしまった)
(全部、言ってしまった)
(もう、この場所には、いられない)
(軽蔑される。呆れられる。……捨てられる)
恐怖が、胸の中で、渦を巻いた。
でも、それ以上に、何かが、軽くなっていた。
(ああ、やっと、言えた)
涙が、止まらなかった。
沈黙が、酒場を満たした。
長い、長い、沈黙。
マルグリットの茶が、湯気を立てている。ギルダの燭台の火が、揺れている。ラズリの指が、カウンターの上で、動かない。
誰も、何も、言わなかった。
セラフィナは、目を閉じた。
(やっぱり、そうだ)
(何を言えばいいか、分からないんだ)
(四十歳の女だったなんて、言われても)
(気持ち悪いだけだ)
涙が、膝の上に落ちた。
その時だった。
「来なさい」
低い、静かな声。
セラフィナは、顔を上げた。
イリスが、扉の側から、歩いてくる。藍色の長い髪が、揺れる。紫の瞳が、セラフィナを、まっすぐに見ていた。
彼女は、セラフィナの隣の席に、手を置いた。
「ここに、来なさい」
もう一度、言った。
そして、隣の席を、軽く叩いた。
(え?)
セラフィナは、イリスの顔を見た。
イリスは、いつもの、無表情だった。でも、その紫の瞳の奥に、何か、熱いものが、揺れている気がした。
「……イリス?」
セラフィナは、小さく、呼んだ。
「来なさい」
三度目。
今度は、少しだけ、声が、柔らかくなっていた。
セラフィナは、ゆっくりと、立ち上がった。
足が、震えている。
一歩、踏み出す。
イリスの隣の席に、腰を下ろした。
イリスは、何も言わずに、セラフィナの頭を、自分の肩に、そっと、引き寄せた。
「……え」
セラフィナの視界が、イリスの藍色の髪で、埋まる。
イリスの手が、セラフィナの背中に、置かれた。
温かい。
「よく、話した」
耳元で、イリスの声がした。
低くて、静かで、でも、確かな声。
セラフィナの胸の奥で、何かが、弾けた。
(この人たちは)
(私を、捨てない)
涙が、また、溢れてきた。
今度は、さっきとは、違う涙。
セラフィナは、イリスの肩に、顔を埋めた。
声を、殺して、泣いた。
肩が、震える。
「……っ……ぅ……」
声にならない声が、漏れる。
イリスは、何も言わずに、セラフィナの背中を、静かに、撫でていた。
その手が、温かかった。
マルグリットが、立ち上がった。
静かに、セラフィナの後ろに、歩み寄る。
そして、セラフィナの肩を、そっと、抱き寄せた。
「よく、話してくれたわね」
マルグリットの声が、優しく、セラフィナの耳に届く。
「ずっと、一人で、抱えてたのね」
セラフィナは、何度も、頷いた。
(そうだ。ずっと、一人で)
(誰にも、言えなかった)
(この世界で、一人で)
マルグリットの手が、セラフィナの髪を、優しく、撫でる。
「もう、一人じゃないわ」
その言葉が、胸に、染み込んでいく。
ラズリが、カウンターから、出てきた。
「やっと、聞けたな」
ラズリの声が、明るく、酒場に響く。
セラフィナは、顔を上げた。
ラズリが、いつもの、飄々とした笑みを、浮かべていた。
「いやあ、長かった。俺、あんたの秘密、ずっと気になっててさ。でも、本人が話すまで、聞かないって決めてたんだよな」
ラズリは、セラフィナの前に、しゃがみ込んだ。
青い瞳が、セラフィナの顔を、覗き込む。
「話してくれて、ありがとな」
セラフィナは、涙でぐちゃぐちゃの顔で、ラズリを見た。
「……ありがとう、なんて、言われること、してない」
声が、鼻声で、うまく出ない。
「何言ってんだよ。俺たちは、あんたの仲間だぜ。仲間が、隠してること、打ち明けてくれたんだ。嬉しいに決まってるだろ」
ラズリが、笑った。
その笑顔が、眩しかった。
ギルダが、立ち上がった。
無骨な体が、ゆっくりと、セラフィナの前に、近づいてくる。
セラフィナは、ギルダを見上げた。
ギルダの琥珀の目が、セラフィナを、見下ろしていた。
「……問題ない」
ギルダが、言った。
「お前が、誰でも。何歳でも。……問題ない」
ギルダは、それだけ言って、深く、頭を下げた。
一礼。
無骨で、不器用で、でも、心からの。
セラフィナの胸が、熱くなった。
(この人たちは)
(私の、過去ごと)
(私を、迎え入れてくれる)
セラフィナは、声を上げて、泣いた。
もう、堪えられなかった。
四十歳の女の、涙。
エルフの体に宿った、四十歳の女の、涙。
セラフィナは、子供のように、声を上げて、泣いた。
四人が、セラフィナの周りに、集まっていた。
イリスが、肩を貸し。マルグリットが、背中を撫で。ラズリが、頭を軽く、小突き。ギルダが、ただ、静かに、立っていた。
五つの影が、酒場の片隅で、寄り添っていた。
夜が、更けていく。
酒場「ランプの灯」の二階。
セラフィナは、寝台の上で、横になっていた。
泣きすぎて、目が腫れていた。頭が、痛い。
でも、心は、驚くほど、静かだった。
(話せた)
(全部、話せた)
セラフィナは、天井の木目を見つめた。
(四人は、私を、捨てなかった)
(四十歳の女だったって、言っても)
(前世の名前を、言っても)
(ミナトのことを、話しても)
(四人は、私の隣に、いてくれた)
セラフィナは、目を閉じた。
(あの場所が、私の居場所なんだ)
(この世界で、私が、生きていい場所)
(四人と、一緒に)
涙が、また、一筋、こぼれた。
でも、それは、悲しい涙じゃなかった。
夜明け前。
酒場「ランプの灯」の戸口。
影が、一つ、立っていた。
白いワンピース。黒い髪。大きな黒い瞳。
ミナトだった。
十二歳の少女は、酒場の中を、覗き込んでいた。
二階から、微かに、セラフィナの泣き声が、聞こえた。
そして、四人の、優しい声が。
ミナトは、戸口の影で、じっと、その音を、聞いていた。
黒い瞳から、涙が、溢れていた。
「先輩は……あっち側なんだ」
小さな、かすれた声。
「先輩は、あの人たちのところに、行っちゃったんだ」
ミナトは、酒場の戸口に、手を、置いた。
でも、開けなかった。
開けられなかった。
「私が、守るって、言ったのに」
涙が、白いワンピースに、落ちた。
「私が、先輩を、守るって……」
ミナトは、その場に、しゃがみ込んだ。
両手で、顔を覆って、泣いた。
夜明け前の、下町地区。
誰も、通らない。
ミナトの泣き声だけが、静かな石畳に、溶けていった。
朝が、来た。
酒場「ランプの灯」の二階の窓から、朝日が、差し込む。
セラフィナは、目を覚ました。
体が、重い。
でも、心は、軽かった。
(朝だ)
セラフィナは、寝台から、起き上がった。
窓の外を見る。
下町地区の、朝。
市場の準備をする、荷馬車の音。
パンを焼く、匂い。
いつもの、朝。
でも、何かが、違っていた。
(私の、居場所が、ある)
セラフィナは、窓を、開けた。
朝風が、入ってくる。
髪を、揺らす。
その風に、一枚の紙が、乗って、部屋の中に、滑り込んできた。
セラフィナは、手を、伸ばした。
紙が、指に、触れる。
それは、招待状だった。
宛名は、『瀬田更紗様』。
セラフィナは、その招待状を、しばらく、見つめた。
(私の、前世の名前)
(この世界で、私を、この名前で呼ぶのは)
(あの子だけだ)
セラフィナは、招待状を、胸に、抱きしめた。
(ミナト)
(私は、ここにいる)
(この世界で、四人と、生きていく)
(だから、あの子とも、いつか、ちゃんと、向き合わなきゃいけない)
セラフィナは、顔を上げた。
朝日が、眩しかった。
「……ありがとう」
セラフィナは、小さく、呟いた。
誰に、というわけでもなく。
四人に。
そして、ミナトに。
朝風が、招待状を、セラフィナの手から、そっと、奪っていった。
紙は、ひらひらと、空に舞い上がり、下町地区の朝の光の中に、消えていった。
セラフィナは、それを見送った。
(行こう)
(私の場所へ)
セラフィナは、窓を閉めて、振り返った。
部屋の入り口に、マルグリットが、立っていた。
「おはよう。朝ごはんが、できてるわ」
マルグリットが、柔らかく、微笑んだ。
セラフィナは、頷いた。
「……うん。行くわ」
セラフィナは、マルグリットの後について、階段を下りた。
一階の酒場には、ギルダと、ラズリと、イリスが、いた。
「……朝だ」
ギルダが、セラフィナを見て、言った。
「お、起きたな。今日のシチュー、うまいぜ」
ラズリが、笑った。
「座れ。冷める」
イリスが、短く、言った。
セラフィナは、四人の顔を、順番に見た。
(この人たちと、生きていく)
(過去も、全部、抱えて)
セラフィナは、笑った。
涙で腫れた目で、精一杯の、笑顔で。
「ただいま」
四人が、それぞれに、頷いた。
酒場「ランプの灯」の、いつもの朝が、始まった。Noveliaとは?
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