なまいきざかり。―靴紐の結び目―
完璧なマネージャー・由希の前に現れたのは、生意気な一年生・成瀬翔。先輩への報われない想いを胸に、部活も家事も一人で抱え込む由希に、成瀬は真っ直ぐに「好きっす」と告げる。「待たないっすからね」——そのまっすぐな言葉が、期待して裏切られることを怖れて生きてきた由希の仮面に、静かな亀裂を走らせる。冷たい態度で突き放しても、隣を走る自転車の音は消えない。靴紐の結び目のように、一度結んだ心は、そう簡単にはほどけない。不器用な二人の、すれ違いから始まるヒューマンドラマ。
なまいきざかり。―靴紐の結び目― - 鳴らないホイッスル
九月の朝、隆北高校の体育館は底冷えがした。木造の床から冷気が足の裏を這い上がってくる。町田由希は体育館の入り口に立ち、まだ誰もいないフロアをじっと見つめていた。肩に届かない黒のショートヘアの毛先が、開け放した扉から流れ込む風にわずかに揺れる。前髪は眉の上でぱっつんと揃っていて、深い茶色の瞳は半眼気味に、ステージの上に置かれた古いパイプ椅子の列を数えていた。
昨日、三年生の引退試合が終わった。県立総合体育館の観客席八百席は、隆北高校の応援団で埋まっていた。木戸先輩が最後のフリースローを決めた瞬間の歓声は、まだ耳の奥に張り付いている。由希はその音を、今日も引きずってここに来た。
黒革表紙のマネージャーノートを脇に抱え直す。左の手首には、先輩マネージャーから譲り受けた古いリストバンドが巻かれている。布は擦り切れて白っぽくなり、ゴムも緩んでいたが、由希はそれを外せなかった。
体育館の隅に置かれたタイマーを確認し、スコアブックの記録を開く。昨日の試合の数字が、由希の几帳面な文字でびっしりと並んでいる。木戸先輩の得点、アシスト、スティール、ターンオーバー。最後の公式戦の記録を、由希は誰よりも正確に残していた。
ノートを開き、今日の練習メニューを書き込む。部員十八名。三年生が抜けて十五名になった。新チームのスタート。由希はペンを走らせながら、頭の中で部員一人ひとりの体調をなぞっていく。膝に違和感があるという声、昨日の試合で足を攣った一年、連日の寝不足で目の下に隈を作っている控えのガード。
ノートの端に「水分多め」と書き足した。その文字の最後の一画が、ほんの少しだけ震える。誰も見ていない。由希はペン先を止め、ゆっくりと息を吐いた。
木戸先輩に、告白できなかった。
部内恋愛は卒業まで秘密という不文律。それ以上に、由希の中には「期待して裏切られるくらいなら、最初から諦める」という臆病さが根を張っていた。先輩が橋野リナと付き合っているのを知った時、由希は笑って「お似合いですね」と言った。心のどこかで、そう言えば楽になれると思っていた。
実際は、ちっとも楽にならなかった。
由希はノートを閉じ、体育館のステージ裏へ向かう。プレハブの部室でユニフォームの在庫を確認し、洗濯機を回す。洗剤の匂いが狭い部屋に広がる。壁に貼られた歴代のマネージャーノートのコピーが、湿気で波打っている。由希はその一枚を指先で押さえ、剥がれかけた角をセロハンテープで留めた。
「おはようございます」
部員たちがぞろぞろと体育館に入ってくる。一年生の声が大きく、二年生は眠そうに欠伸を噛み殺している。由希は出入り口の横に立ち、一人ひとりの顔色を素早く確認した。
「おはよう。今日は午後から湿度が上がるから、水分はいつもより多めに取って。あと、体育館の床が冷えてるから、アップは入念に」
部員たちが「はーい」「了解っす」と返事をする。由希はスコアブックを手に、タイマーの設置を始めた。
顧問の五十嵐修が遅れてやって来る。四十八歳、元社会人バスケ選手。ジャージのポケットに手を突っ込み、特に指示も出さずに壁際のパイプ椅子に座った。
「五十嵐先生、今日の練習メニュー、これでいいですか」
由希がノートを差し出すと、五十嵐はちらりと目をやって頷いた。
「ああ、任せる」
任せる、が口癖の顧問だった。由希は何も言わず、ノートを引っ込める。任されるのは慣れていた。むしろ、その方がやりやすい。
練習が始まる。由希はコートサイドに立ち、ドリブル練習のタイムを計り、パス練習の相手が足りなければ自ら入った。細身だが肩と背中に薄く筋肉のついた体で、正確なチェストパスを返す。部員たちは由希のパスを「マネージャーのくせに上手い」と笑うが、由希は表情を変えなかった。
スコアブックに記録を書き込みながら、視線は自然とフロアの端へ向かう。
成瀬翔が、一人だけ別の次元で動いていた。
明るい茶色の短髪。前髪を軽く上げた無造作な髪型は、寝癖がついても様になる。百七十八センチの長身。琥珀色の大きな瞳が、ボールを追うたびに爛々と光る。一年生とは思えない体の使い方で、ディフェンスを抜き去り、リングにボールを沈める。
先輩にも敬語を使わない生意気な奴。だが、バスケへの真摯さと勝負勘は本物だった。チームメイトも、成瀬の実力だけは認めている。
由希はスコアブックに成瀬のシュート成功率を書き込みながら、ふと目が合った。成瀬が、コートの向こうから由希をじっと見ていた。
練習が終わり、部員たちが片付けを始める。由希はボールの空気圧を確認し、汗で濡れたモップを洗い、明日の練習に使うビブスを畳んでいた。
「由希さん」
背後から声がした。振り返ると、成瀬が立っている。ジャージの上だけを脱ぎ、Tシャツ姿だった。首にタオルを掛け、汗で濡れた前髪を無造作にかき上げる。
「何」
由希は手を止めずに答えた。
「オレ、由希さんが好きっす」
成瀬は真顔だった。いつもの生意気な笑みも、だるそうな態度もない。琥珀色の瞳が、由希をまっすぐに射抜く。
由希はビブスを畳む手を止めた。一瞬の沈黙。体育館の時計の秒針だけが、かちりかちりと音を立てている。
「……部活に集中したいから、そういうのはやめて」
由希は冷たい声で言い放ち、再びビブスを畳み始めた。指先がわずかに震えているのを、自分で感じる。
「別に、やめないっすけど」
成瀬はあっけらかんと言った。
「オレ、由希さんに好きになってもらうまで、何回でも言うんで」
「……勝手に言ってれば」
由希は舌打ちをして、ビブスを棚に押し込んだ。心臓が、胸の奥で激しく脈打っている。なんで、たかが後輩の一言で、こんなに動揺しなきゃいけないの。
成瀬の目に宿っていた光。欲しいものを絶対に手放さない、あの光。由希は知っている。自分にはないものだ。由希はいつも、最初から諦めることで自分を守ってきた。期待しないことで、傷つかないようにしてきた。
成瀬の目は、そんな由希の生き方を、真っ向から否定するように輝いていた。
「由希さん、先輩のこと、まだ好きなんすか」
成瀬の声が、体育館に冷たく響いた。由希は振り返らなかった。
「……関係ないでしょ」
「関係あるっすよ。オレ、由希さんが好きだから」
由希は何も言わず、マネージャーノートを抱えて部室へ向かった。成瀬の視線が背中に突き刺さる。振り返りたくなるのを、必死に堪えた。
家に帰ると、玄関からすでに戦場だった。
「お姉ちゃん、お兄ちゃんがゲーム貸してくれない!」
「違う、先に使ってたのは俺!」
「ぎゃー! こら、髪引っ張るな!」
三つ子の弟と双子の妹が、廊下で取っ組み合いをしている。由希は買い物袋を床に置き、深いため息を吐いた。両親は共働きで、帰りはいつも遅い。夕食を作り、弟妹の喧嘩を仲裁し、宿題を見てやるのは、全部由希の仕事だった。
「はい、そこまで。ゲームは交代制。喧嘩するなら、二人とも今日は没収」
由希が低い声で言うと、弟妹はぴたりと静かになった。由希のこの声は、家庭内で絶大な効果を持つ。
台所に立ち、買ってきた野菜を冷蔵庫にしまう。肉を切り、玉ねぎをみじん切りにする。包丁の音だけが、静かな台所に響く。誰にも褒められない。誰にも「ありがとう」と言われない。それでも、由希は毎日こうして夕食を作る。
(当たり前のことを、当たり前にやるだけ)
由希はそう思うことにしていた。
玉ねぎを炒める音。醤油の香り。弟妹がテレビの前で笑っている声。由希は鍋をかき混ぜながら、ふと、成瀬の言葉を思い出した。
『オレ、由希さんが好きっす』
あの真っ直ぐな目。あの、迷いのない声。
由希は手を止めた。菜箸を持ったまま、鍋の中の湯気を見つめる。
(なんで、あんなに真っ直ぐなの)
由希には、わからなかった。好きだと言われて、素直に嬉しいと思えない自分。期待して、裏切られるのが怖い自分。成瀬の言葉は、由希の完璧な仮面の下にある、承認を求める渇望を、容赦なく刺激した。
由希は菜箸を握り直し、鍋をかき混ぜた。動揺を、必死にかき消すように。
翌日の夜、練習を終えた由希は、一人で帰り道を歩いていた。十月に近づいているとはいえ、夜風はまだ生ぬるい。街灯の下を、部活のジャージの上だけ羽織った姿で歩く。マネージャーノートと着替えの入ったバッグを肩に掛け、スマホで明日の天気を確認しながら歩いていた。
「由希さん」
突然、横から声がした。由希が顔を上げると、自転車に乗った成瀬が、並走するようにゆっくりと漕いでいた。
「……何してるの」
「迎えに来たんすよ。由希さんの帰り道、調べたんで」
成瀬はにやりと笑った。その笑い方が、妙に腹が立つ。
「気持ち悪い。帰って」
由希は歩く速度を上げた。成瀬も自転車の速度を上げる。
「由希さん、一人で抱えすぎっすよ」
成瀬の声が、夜の道に響く。
「何の話」
「何でも。部活も、家も、全部。由希さん、いつも完璧にやってるけど、誰にも頼らないじゃないっすか」
由希は足を止めた。成瀬も自転車を止める。街灯の光が、二人の間に影を落とす。
「……あんたに、何がわかるの」
由希の声は、自分でも驚くほど低かった。
「わかんないっすよ。由希さんのこと、全部はわかんない。でも、見てるだけでわかることもある」
成瀬は自転車から降りた。由希の前に立ち、その身長差が、夜の闇の中で際立つ。
「由希さん、先輩のことまだ引きずってるんすか」
成瀬が、またその質問をした。由希は答えなかった。答えられなかった。
「オレ、待たないっすからね」
成瀬の声が、低く、夜の空気を震わせる。
「由希さんが誰を好きでも、オレは由希さんのこと、ちゃんと見てるんで」
成瀬はそう言って、由希の肩からバッグを奪い取った。
「ちょっと、何してるの」
「荷物、持ってくっす。家まで送るんで」
「余計なことしないで」
由希は舌打ちをした。でも、バッグを取り返す気力もなかった。成瀬はバッグを自転車のカゴに載せ、押しながら歩き始める。
「由希さん、夕飯はもう作ったんすか」
「……あんたに関係ないでしょ」
「関係なくても聞きたいんすよ。オレ、由希さんと話したいんで」
由希は何も言わず、ただ前を向いて歩いた。成瀬が隣にいる。自転車のチェーンの音が、規則正しく夜道に響く。
家の近くまで来た時、由希は足を止めた。
「ここでいい。荷物返して」
成瀬は素直にバッグを差し出した。由希が受け取ると、成瀬の指が一瞬、由希の手に触れた。温かい指先。由希は思わず手を引っ込めそうになるのを堪えた。
「じゃあ、また明日っす」
成瀬は自転車にまたがり、夜の道を走り去っていく。由希はその背中を、街灯の下でじっと見送った。
胸の奥が、軋む。
木戸先輩の引退試合の日。試合が終わって、由希は体育館の裏口で、木戸先輩と橋野リナが並んで歩く姿を見た。橋野リナが木戸の腕に手を絡め、笑っていた。木戸も笑っていた。あの時、由希は何も感じなかったふりをした。でも、本当は、胸の奥が潰れるほど痛かった。
期待しなければ、傷つかない。
由希はそうやって、ずっと自分を守ってきた。
でも、成瀬は言った。
『オレ、待たないっすからね』
待たない。それは、由希の「期待しない」とは正反対の生き方だった。欲しいものは、待たずに取りに行く。傷つくことを恐れずに、まっすぐに。
由希は家の前に立ち、空を見上げた。雲の切れ間から、月が薄く光っている。
(ずるい)
由希は心の中で呟いた。
(あんな風に、真っ直ぐに来られたら、困る)
由希の完璧な仮面に、初めて、目に見えない亀裂が入った。その亀裂は、まだ誰にも見えない。由希自身でさえ、それが何を意味するのか、うまく言葉にできなかった。
ただ、家のドアを開ける前に、由希はもう一度だけ、成瀬が走り去った夜道の方を振り返った。
夜風が、由希の前髪を揺らす。左の手首の古いリストバンドが、月の光を受けて、白く浮かび上がっていた。Noveliaとは?
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