なまいきざかり。―靴紐の結び目―
完璧なマネージャー・由希の前に現れたのは、生意気な一年生・成瀬翔。先輩への報われない想いを胸に、部活も家事も一人で抱え込む由希に、成瀬は真っ直ぐに「好きっす」と告げる。「待たないっすからね」——そのまっすぐな言葉が、期待して裏切られることを怖れて生きてきた由希の仮面に、静かな亀裂を走らせる。冷たい態度で突き放しても、隣を走る自転車の音は消えない。靴紐の結び目のように、一度結んだ心は、そう簡単にはほどけない。不器用な二人の、すれ違いから始まるヒューマンドラマ。
なまいきざかり。―靴紐の結び目― - 震える文字 ―― キスの現場と、崩れるポーカーフェイス
体育館の床に、夕方の光が細長く伸びていた。
木の板の継ぎ目に沿って、オレンジ色の帯がステージの方まで続いている。町田由希はその光の帯を踏まないように、そっと床を歩いた。
部員たちのシューズが床を擦る音はもう聞こえない。練習が終わって、誰もいなくなった体育館には、冷たい空気と、汗と、床用ワックスの匂いだけが残っていた。
由希はスコアブックを胸に抱え、壁際のベンチに座り込む。膝の上に置いた黒革のノートの表紙を、指先で何度もなぞる。
(今日は、市井が初めて一人でタイマーを回した)
(スコアブックの記号も、もう迷いがない)
(教えたことを、ちゃんと自分のものにしている)
由希はノートを開いた。
今日の練習メニュー、部員の体調、気になったプレー、明日への申し送り。几帳面な文字が、罫線に沿って並んでいる。
その端に、小さく「市井、上達」と書き足した。
由希の唇が、ほんの少しだけ緩む。
市井彩花。隆北高校バスケ部の二年生マネージャー。由希の後輩で、明るくて、よく気がつく。成瀬翔とは中学からの同級生で、部内でも気安く話している姿をよく見かける。
由希がマネージャーノートの引き継ぎを意識し始めたのは、つい最近のことだった。三年生の引退試合が終わって、部の空気が新しくなってから、市井は急に仕事を覚え始めた。
最初は、ボールの空気圧の管理もおぼつかなかった。
今は、部員の水分補給のタイミングも、タイマーの操作も、由希が指示を出す前に動く。
(この子なら、私がいなくなっても大丈夫)
そう思う反面、由希の胸の奥には、消えない違和感があった。
市井が成瀬を見る時の、あの目。
仕事の合間、練習の休憩時間、部室での雑談。市井の視線が、まるで磁石に吸い寄せられるように、成瀬の背中を追いかけている。
(あれは、ただの同級生への視線じゃない)
由希はノートを閉じた。
(別に、私には関係ないわ)
心の中で、そう言い聞かせる。
(市井が誰を見ようと、成瀬が誰と話そうと、私の知ったことじゃない)
由希は立ち上がった。
帰り支度をしなければ。家に帰れば、三つ子の弟たちと双子の妹が、今日も戦場のような騒ぎを待っている。
夕飯の買い出し。洗濯物の取り込み。明日の弁当の下ごしらえ。
やることは、山ほどある。
由希は部室へ向かうために、体育館の裏口へと足を向けた。
その時だった。
体育館の外、倉庫の影から、声が聞こえた。
「……だから、そういうことじゃないっすよ」
成瀬の声だった。
由希の足が、止まる。
(成瀬? こんな時間に、まだ残ってたの)
「だって、私、ずっと言ってるじゃん」
今度は、市井の声。
由希は、息を潜めた。
心臓が、少しだけ速くなる。
(聞いちゃいけない)
(聞くつもりなんて、ない)
(なのに、足が、動かない)
倉庫の壁に背をつけ、由希は、ただ、そこに立っていた。
「市井、お前、本気で言ってるんすか」
「本気だよ。私、成瀬のこと、ずっと——」
声が、途切れた。
由希は、壁から少しだけ顔を出した。
倉庫の裏。夕日が差し込む、狭い空間。
成瀬が、壁に背を預けて立っていた。
そして、その正面に、市井が立っていた。
市井の手が、成瀬のジャージの胸元を、ぎゅっと掴んでいる。
「好きだよ。成瀬のこと、好きなんだよ」
市井の声が、震えていた。
「……知ってるっすよ。前から、そういう目で見てたの、気づいてたっす」
成瀬の声は、落ち着いていた。
「じゃあ、なんで——」
「オレは、市井のこと、そういう風には見られない」
成瀬の言葉は、はっきりしていた。
「オレ、好きな人がいるんすよ。市井も知ってるだろ」
市井が、成瀬の胸元を掴む手に、力を込めた。
「知ってるよ。町田先輩でしょ。……でも、先輩は、成瀬のこと、なんとも思ってないじゃん」
「関係ないっすよ。オレが勝手に好きなだけっす」
「私だって、勝手に好きなだけだよ」
市井の声が、涙で濡れ始める。
「……市井」
「一回だけ。一回だけでいいから。私のこと、見てよ」
市井が、背伸びをした。
成瀬の首に手を回し、顔を近づける。
由希の視界の中で、市井の唇が、成瀬の唇に、触れた。
——。
由希の胸の奥で、何かが、静かに、割れた。
音は、しなかった。
痛みも、なかった。
ただ、そこにあった何かが、ぱきりと、小さく砕けた。
由希は、その場を離れた。
足音を立てないように。息を殺して。
体育館の裏手から、校舎の影へ。
誰もいない、非常階段の下。
由希は、壁に手をついて、深く息を吐いた。
(別に)
(私には、関係ない)
(成瀬が誰とキスをしようと、市井が誰に告白しようと)
(私には、関係、ない)
由希は、何度も、心の中で繰り返した。
夕日が、校舎の向こうに沈んでいく。
空が、紫から藍色に変わっていく。
由希は、その空を、じっと見上げていた。
目が、熱い。
(なんで)
(なんで、私が、こんな)
由希は、目を閉じた。
瞼の裏に、さっきの光景が、焼き付いて離れない。
市井の、真っ直ぐな告白。
成瀬の、困ったような顔。
そして、重なった、二人の影。
(気持ち悪い)
(胸が、気持ち悪い)
由希は、自分の胸を、ぎゅっと押さえた。
(これは、違う)
(これは、ただ、後輩が、部内でそういうことをしているのを見て、マネージャーとして、困ってるだけ)
(そうよ。それだけよ)
由希は、何度も、そう言い聞かせた。
その夜。
由希は、自室の机に向かっていた。
部屋の明かりは、小さなデスクライトだけ。
窓の外から、十月の夜風が、カーテンを揺らしている。
由希は、マネージャーノートを開いた。
黒革の表紙。
代々のマネージャーが、練習内容や部員の体調を記録してきた、このノート。
由希は、今日の日付を書いた。
ペン先が、震える。
「練習メニュー シュート練習 30分」
書いた文字が、歪んでいる。
由希は、その文字を、消しゴムで消した。
もう一度、書く。
「練習メニュー シュート練習 30分」
また、歪む。
(なんで、書けないの)
由希は、ペンを握り直した。
指先に、力が入らない。
手が、震えている。
由希は、ペンを置いた。
ノートのページに、震えた文字が、いくつも並んでいる。
書いては消し、消しては書いた、乱れた数字の跡。
(私、どうしたの)
由希は、自分の手を見つめた。
(こんなの、私じゃない)
(私は、もっと、ちゃんとできる)
(何があっても、ちゃんとできる)
由希は、もう一度ペンを取った。
深呼吸をして、書く。
「明日の練習試合 集合時間 8時30分」
文字が、震える。
「県立総合体育館」
「集合時間」
「8時30分」
何度書いても、文字が、震えていた。
由希は、ノートを閉じた。
(もう、やめよう)
(今日は、もう、寝よう)
由希は、ベッドに横になった。
目を閉じる。
瞼の裏に、また、あの光景が浮かぶ。
市井の、泣きそうな顔。
成瀬の、困った顔。
重なった、唇。
由希は、布団を頭まで被った。
(やめて)
(思い出さないで)
(私には、関係ないんだから)
夜が、深くなっていく。
由希は、眠れないまま、朝を迎えた。
翌日の練習。
体育館には、いつも通りの喧騒が満ちていた。
ボールが床を弾む音、シューズの擦れる音、部員たちの掛け声。
由希は、コートサイドのベンチに座り、タイマーを操作していた。
(大丈夫)
(私は、いつも通りにできる)
由希は、心の中で、自分に言い聞かせた。
「じゃあ、始めるわよ。最初は、パス練習から」
由希が声をかける。
部員たちが、コートに散らばる。
由希は、タイマーに手を伸ばした。
(パス練習は、5分)
(5分にセットして——)
由希の指が、ボタンを押す。
——ピッ。
タイマーの表示が、動き出す。
「え? もう始まってる?」
「タイマー、動いてるよな?」
「え、何? 今の合図?」
部員たちが、困惑したように、由希を見る。
由希は、はっとした。
(違う)
(タイマーを、遅らせるはずだった)
(スタートの合図を、出してから)
(なのに、先に、タイマーを押してしまった)
由希は、慌ててタイマーを止めた。
「……ごめんなさい。もう一度、始めるわ」
由希の声が、少しだけ、上ずっていた。
部員たちが、顔を見合わせる。
「由希さん、大丈夫っすか?」
声をかけてきたのは、成瀬だった。
コートの中央から、由希の方をじっと見ている。
その目は、いつもの、飢えたような光ではなく、心配そうな色をしていた。
「……大丈夫よ。あんたは、自分の練習に集中しなさい」
由希は、成瀬から目を逸らして、タイマーを操作した。
(大丈夫)
(大丈夫だから)
由希は、もう一度、タイマーをセットした。
今度は、ちゃんと、合図を出してから、スタートを押す。
——ピッ。
「はい、スタート!」
部員たちが、一斉に動き出す。
由希は、スコアブックを開いた。
(よかった)
(ちゃんと、できた)
(さっきのは、ただの、ちょっとしたミス)
由希は、ペンを握り直した。
手が、まだ、少し震えている。
練習が終わった。
部員たちが、片付けを始める。
由希は、ベンチに座ったまま、スコアブックの数字を確認していた。
(今日の練習は、これでいい)
(明日は、県大会予選前の最後の練習試合)
(相手は、三寿々)
(袴田くんがいる、あの強豪校)
由希は、明日の試合のことを考えようとした。
でも、頭の中には、別のことが、ぐるぐると回っていた。
(成瀬と、市井)
(あのキス)
(市井の、泣きそうな声)
(成瀬の、困った顔)
「由希先輩」
声がして、由希は顔を上げた。
市井彩花が、立っていた。
練習後の、少し汗ばんだ顔。
でも、その目は、泣きそうに潤んでいた。
「……何かしら」
由希は、できるだけ、いつも通りの声を出した。
市井は、由希の隣に、そっと腰を下ろした。
「……ごめんなさい」
市井の声が、震えていた。
「何が?」
由希は、とぼけた。
「何の話か、わからないわ」
市井は、うつむいたまま、自分の膝の上で指を組んだ。
「……昨日、体育館の裏で、成瀬くんに、キスしたの。先輩、見てたでしょ」
由希の心臓が、跳ねた。
(見られてた)
(私が、あそこにいたこと)
(市井に、気づかれてた)
「……見てないわ」
由希は、即答した。
「私は、あんたたちが何をしてようと、興味ないもの」
「嘘」
市井が、顔を上げた。
その目は、涙でいっぱいだった。
「由希先輩、あの時、倉庫の影にいた。私、見えたもん」
由希は、何も言えなかった。
市井の涙が、頬を伝って、落ちていく。
「由希先輩が、成瀬くんのこと、好きなんだって、私、気づいてたから」
市井の声が、震える。
「だから、私、ずるいことした。先輩の気持ち、知ってて、あんなことして。……ごめんなさい」
市井は、肩を震わせて、泣き始めた。
由希は、市井の涙を見ながら、何も言えなかった。
(違う)
(私は、成瀬のことなんて、好きじゃない)
(好きなわけ、ない)
(だって、成瀬は、生意気で、先輩にも敬語を使わない、ただの後輩で)
(ただの、後輩で——)
由希の胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
(違うわ)
(違う、違う、違う)
由希は、心の中で、何度も否定した。
でも、言葉は、出てこなかった。
市井の涙を見ていると、自分の中にある、同じような痛みが、静かに、顔を出してくる。
(私も、成瀬の気持ちに、応えられない)
(応えられないのに、成瀬に、期待してる)
(成瀬が、私だけを見てくれればいいって、心のどこかで、思ってる)
(……私も、ずるい)
由希は、市井の肩に、そっと手を置いた。
「……泣かないで」
由希の声は、自分でも驚くほど、優しかった。
「私は、あんたを、責められないわ」
市井が、顔を上げる。
「だって、私も、同じだから」
由希は、そう言って、少しだけ、笑った。
「私も、成瀬の気持ちに、応えられない。応えられないのに、成瀬に、何かを期待してる。……ずるいのは、私も同じよ」
市井は、由希の言葉を聞いて、また、泣き出した。
由希は、市井の背中を、黙って、さすった。
(私、何を言ってるの)
(こんなこと、言うつもりじゃ、なかったのに)
由希の目が、熱くなる。
でも、涙は、出なかった。
出せなかった。
その夜。
由希は、自室の机に向かっていた。
マネージャーノートを開く。
黒革の表紙。
由希は、最後のページを開いた。
ペンを取る。
手が、震える。
「市井に、何て言えばよかったのか、わからない」
由希は、震える文字で、そう書いた。
「私は、成瀬のことが」
そこまで書いて、由希の手が、止まった。
(私は、成瀬のことが——)
(好き?)
(嫌い?)
(わからない)
(わからないけど)
由希は、書いた文字を、消しゴムで消した。
消して、破った。
ノートのページを、ビリッと破り、手のひらの中で、丸めた。
(違う)
(こんなこと、書いちゃいけない)
(私は、マネージャーで、成瀬は、部員で)
(それ以上でも、それ以下でもない)
由希は、丸めた紙を、ゴミ箱に捨てた。
(明日は、練習試合)
(県大会予選前の、最後の練習試合)
(マネージャーとして、やるべきことが、たくさんある)
由希は、ノートを閉じた。
ベッドに横になる。
目を閉じる。
(寝なきゃ)
(明日に、響く)
由希は、何度も、そう思った。
でも、眠れなかった。
成瀬の顔が、浮かぶ。
市井の涙が、浮かぶ。
あのキスの、光景が、浮かぶ。
由希は、目を開けた。
天井を見つめる。
(私、どうしたいの)
(成瀬に、どうしてほしいの)
由希は、自分の心に、問いかけた。
答えは、出なかった。
窓の外で、風が、木々を揺らしている。
十月の夜が、静かに、更けていく。
由希は、眠れないまま、朝を待った。
明日は、県大会予選前の、最後の練習試合。
マネージャーとしての責任と、初めて自覚した、成瀬を失いたくないという感情。
その二つの間で、由希の心は、静かに、引き裂かれている。
スマホの画面が、枕元で光った。
午前二時十七分。
差出人は、市井だった。
『先輩。明日、全部話します。成瀬くんのことも、私のことも。だから、先輩も、逃げないでください』
由希は、その一文を、三度読み返した。
親指が、返信欄の上で止まる。
打っては消し、打っては消しを、四回繰り返した。
最後に残ったのは、短い一文だった。
『わかった。試合が終わったら、話しましょう』
送信、の文字を押す指が、まだ少しだけ震えていた。Noveliaとは?
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