なまいきざかり。―靴紐の結び目―
完璧なマネージャー・由希の前に現れたのは、生意気な一年生・成瀬翔。先輩への報われない想いを胸に、部活も家事も一人で抱え込む由希に、成瀬は真っ直ぐに「好きっす」と告げる。「待たないっすからね」——そのまっすぐな言葉が、期待して裏切られることを怖れて生きてきた由希の仮面に、静かな亀裂を走らせる。冷たい態度で突き放しても、隣を走る自転車の音は消えない。靴紐の結び目のように、一度結んだ心は、そう簡単にはほどけない。不器用な二人の、すれ違いから始まるヒューマンドラマ。
なまいきざかり。―靴紐の結び目― - 待ち伏せと買い物袋 ―― 見られていることの痛み
体育館の時計が午後六時を回った頃、町田由希はマネージャーノートの最後のページを閉じた。木造の床にモップの跡が薄く残っている。消毒液の匂いと、部員たちの汗の匂いが混ざり合って、夕暮れの体育館に静かに沈殿していた。
由希はステージ横のパイプ椅子に腰を下ろし、ノートの端を指先でなぞる。黒革の表紙は二年半の使い込みで角が丸くなり、ところどころ色が剥げていた。開いたページには、今日の練習メニューと部員一人ひとりの体調が、几帳面な文字で並んでいる。
「成瀬、右足首に軽い張り。疲労蓄積注意」
その文字を書いた時、由希は一瞬だけペンを止めた。昨日の夜、自転車で並走してきた成瀬の顔が、頭の隅を過ぎる。『オレ、待たないっすからね』。あの低い声が、まだ耳の奥に残っていた。
由希はペンを置き、小さく息を吐いた。
(別に、私には関係ない)
そう思うことにした。成瀬が何を言おうと、何をしようと、自分はマネージャーとしての仕事を全うするだけだ。部活に集中する。それ以外のことは、考えない。
由希はノートを閉じ、立ち上がった。体育館の窓から差し込む夕日が、床に長い影を落としている。九月の終わりとはいえ、日中はまだ暑さが残っていた。だが夕方になると、風がひんやりと肌を撫でる。季節は確実に、秋へと向かっていた。
「お疲れ様でした」
誰に言うでもなく、由希は小さく呟いて、体育館を後にした。
隆北高校の正門を出て、住宅街の細い道を歩く。両脇には古い一軒家が並び、生け垣の金木犀が甘い香りを漂わせている。由希はその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。金木犀の匂いを嗅ぐと、いつも少しだけ心が落ち着く。
家までの道のりは、徒歩で十五分ほど。由希はスマホを取り出し、明日の天気を確認した。晴れ。気温は二十七度まで上がる予報だった。
(明日も水分多めに準備しないと)
頭の中で、明日の練習メニューを組み立てる。部員の体調、体育館の温度、練習の強度。マネージャーの仕事は、タオルと水を用意するだけじゃない。スコアブックの記録、タイマー管理、練習メニューの補助、対外試合の交渉、部員の健康管理、戦略の先回り。由希はそれらを一人でこなし、後輩マネージャーたちにも教えていた。
誰にも褒められない仕事だった。でも、由希はそれで良かった。必要とされること。頼りにされること。それが、由希の心を支えていた。
家に着くと、玄関の鍵を開ける前に、中から弟妹たちの叫び声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん! お兄ちゃんがゲームのコントローラー投げた!」
「違う! 先に取ったのは俺だ!」
「ぎゃー! 髪引っ張らないで!」
由希は深いため息を吐き、鍵を回した。
「ただいま」
玄関を開けると、三つ子の弟たちが廊下で取っ組み合いをしていた。双子の妹の一人はソファの上で大泣きし、もう一人は床に散らばったブロックを踏んで悲鳴を上げている。テレビは大音量でアニメが流れ、リビングのテーブルの上には食べかけの菓子袋が散乱していた。
戦場だった。
由希は無言で靴を脱ぎ、買い物袋を台所に置いた。エプロンを手早く身につけ、髪を一つに結ぶ。
「はい、そこまで。ゲームは今日は没収。おもちゃ片付けてから手を洗いなさい」
低く、静かな声。だが、その声には絶対的な力があった。三つ子の弟たちはぴたりと動きを止め、双子の妹たちも泣き止んで由希を見上げる。
「お姉ちゃん、お腹すいた」
「今から作るから、ちょっと待って。それまで宿題やってなさい」
由希は冷蔵庫を開け、中身を確認した。野菜が少ない。肉もない。冷凍庫には作り置きのハンバーグが三つ。五人分の夕食には足りない。
(買い物に行かないと)
由希はエプロンを外し、財布を手に取った。
「ちょっと買い物行ってくる。留守番してて。絶対に喧嘩しないこと。いいわね」
「はーい」
「お菓子買ってきて!」
「ダメ。夕飯食べてから」
由希は玄関でスニーカーを履き、外に出た。空はすっかり暗くなり、街灯がぽつぽつと光を落としている。夜風が生ぬるく、湿気を含んでいた。
商店街まで歩いて五分。由希は馴染みのスーパー「ふじや」に入った。夕方のスーパーは主婦や会社帰りの人で混雑している。由希はカゴを手に取り、特売の野菜を選んだ。キャベツ、玉ねぎ、にんじん、ピーマン。それから鶏もも肉のパックと、卵、牛乳、食パン。弟妹たちが好きなヨーグルトも忘れずにカゴに入れる。
レジを済ませ、両手に買い物袋を下げて店を出た。袋はずっしりと重く、指に食い込む。由希は小さく息を吐き、家への道を歩き始めた。
商店街を抜け、住宅街の静かな道に入る。街灯の少ない通りで、由希は一人、足音だけを響かせて歩いた。金木犀の香りが、夜の空気に溶けている。
その時だった。
「由希さん」
背後から声がした。由希は足を止め、振り返る。
自転車に乗った成瀬が、ゆっくりとこちらに向かって漕いでいた。明るい茶色の短髪が、街灯の光を受けて浮かび上がる。琥珀色の大きな瞳が、暗がりの中で由希をまっすぐに捉えていた。
「……何してるの」
由希の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「こんなとこで会うなんて奇遇っすね」
成瀬は白々しい笑みを浮かべて、自転車を止めた。
「偶然じゃないでしょ。あんた、私の帰り道を調べたの」
「調べました。由希さん、毎日この時間にこの道通るんすね」
成瀬は悪びれもせずに言った。由希は舌打ちをして、歩き出した。
「気持ち悪い。帰って」
「帰らないっす。由希さんの買い物袋、持ってくんで」
成瀬は自転車から降り、由希の手から買い物袋を奪い取った。由希が抵抗する間もなく、袋は成瀬の手に移っている。
「ちょっと、返して」
「重いっすね。由希さん、毎日これ持って帰ってるんすか」
成瀬は袋の重さを確かめるように、軽く持ち上げた。その動作が、妙に自然で、由希は反論の言葉を失った。
「……余計なことしないで」
由希は絞り出すように言った。
「余計なことじゃないっす。オレがやりたいからやってるだけなんで」
成瀬は買い物袋を自転車のカゴに載せ、ハンドルを押して歩き始めた。由希は仕方なく、その隣を歩く。自転車のチェーンの音が、静かな夜道に規則正しく響いた。
二人の間に、しばらく沈黙が流れる。由希は前を向いたまま、成瀬の存在を意識しないように努めた。だが、隣から伝わってくる気配が、どうしても気になる。成瀬の身長は百七十八センチ。由希より二十三センチも高い。並んで歩くと、その差が余計に際立った。
「由希さん、夕飯はいつも作ってるんすか」
成瀬が突然、そんなことを聞いてきた。
「……あんたに関係ないでしょ」
「関係なくても聞きたいんすよ。オレ、由希さんと話したいんで」
由希は答えなかった。答えられなかった。成瀬の言葉は、いつもまっすぐで、由希の心の隙間に入り込んでくる。
「由希さん、家に弟と妹がいるんすよね。三つ子と双子って、ほんとっすか」
「……誰から聞いたの」
「部活の先輩っす。由希さん、家でもすごいしっかりしてるって」
由希は唇を噛んだ。自分の家庭のことを、部活の誰かに話した覚えはない。だが、噂はどこからか漏れるものだ。由希の家が戦場のような状態だということも、弟妹の世話を由希がしていることも、いつの間にか部内で知られていた。
「……勝手に人の家のこと、詮索しないで」
由希の声が、低くなる。
「詮索じゃないっす。由希さんが毎日どうやって生きてるのか、オレ、知りたいんすよ」
成瀬の声は、驚くほど真剣だった。
由希は足を止めた。成瀬も止まる。街灯の下で、二人は向かい合った。
「……なんで、そんなこと知りたいの」
由希の声が、わずかに震えた。自分でも気づかないうちに、心の奥の何かが揺れている。
「由希さんが好きだからっす」
成瀬は迷いなく答えた。
「好きな人のこと、何も知らないでいるのって、オレ、嫌なんすよ。由希さんがどんな家に住んでて、どんな家族がいて、毎日何を考えてるのか。全部知りたい。知ってから、ちゃんと好きって言いたいんす」
由希は言葉を失った。成瀬の瞳は、夜の闇の中で、爛々と光っていた。あの、欲しいものを絶対に手放さない光。由希にはないもの。
「……あんた、ほんとに生意気ね」
由希はやっとのことで、それだけを言った。
「よく言われるっす」
成瀬は笑った。その笑顔が、妙に子供っぽくて、由希は思わず目を逸らした。
二人は再び歩き始めた。由希の家までは、あと数分。街灯が途切れ、月明かりだけが道を照らす。由希は前を向いたまま、心の中で何度も繰り返した。
(別に、私には関係ない)
(あんたに何がわかるの)
(私の何を知ってるの)
そう思えば思うほど、胸の奥が軋んだ。
由希の家の前まで来ると、玄関の明かりが漏れていた。そして、家の中からは、さっきと同じように弟妹たちの叫び声が聞こえてくる。
「お姉ちゃん、まだ帰ってこない!」
「お腹すいたー!」
「お兄ちゃんがテレビ壊した!」
「壊してない! 勝手に消えたんだ!」
由希は深いため息を吐いた。隣に成瀬がいる。この戦場のような我が家を、この生意気な後輩に目撃される。由希はそのことが、どうしようもなく恥ずかしかった。
「……ここでいい。荷物返して」
由希は早口で言った。
「由希さん、毎日これっすか」
成瀬が、静かに呟いた。その声には、驚きと、何か別の感情が混ざっていた。
「……あんたには関係ないわ」
由希は突き放すように言った。
「関係なくないっす」
成瀬は由希の前に立ち、買い物袋を地面に置いた。
「オレ、由希さんのこと好きって言ったんすよ。由希さんがどんなふうに生きてるか、知らないで好きって言うほど、オレ、適当じゃないっす」
成瀬の声は、夜の空気を震わせた。
由希は反論できなかった。成瀬の言葉は、由希の心の奥底にある、誰にも見せたくない場所を、容赦なく照らし出した。
家の中から、弟妹たちの喧嘩の声が聞こえる。双子の妹の泣き声。三つ子の弟の怒鳴り声。それが、由希の日常だった。誰にも褒められず、誰にも感謝されず、ただ黙って家事をこなす毎日。
由希は、自分の生活の惨めさを、初めて誰かに見られた。その屈辱に、顔が歪む。
「……見ないで」
由希は絞り出すように言った。
「私の家、見ないで。あんたに見せるものなんて、何もない」
由希の声が、震えていた。ポーカーフェイスが、崩れかける。
成瀬は黙って由希を見つめていた。その瞳は、いつもの生意気な光を失い、真剣な色を宿していた。
「……意外と普通っすね」
成瀬が、ぽつりと言った。
「は?」
「由希さんの家、意外と普通っすね。もっとすごいの想像してたっす」
成瀬は少しだけ笑った。その笑い方が、なぜか由希の心を、ほんの少しだけ軽くした。
「……普通で悪かったわね」
由希は唇を尖らせた。
「由希さん、オレ、家に上がっていいっすか」
成瀬が突然、そんなことを言い出した。
「ダメに決まってるでしょ」
「なんでっすか。弟さんたち、オレと遊びたいかもっすよ」
「遊ばせない。帰りなさい」
由希が言い終わる前に、玄関のドアが開いた。三つ子の弟の一人が、顔を出した。
「お姉ちゃん! お腹すいた! ……あれ、誰この人」
弟が、成瀬をじろじろと見る。成瀬はにこりと笑って、手を振った。
「由希さんの後輩っす。成瀬って言うっす」
「へー、お姉ちゃんの後輩? バスケ部の人?」
「そうっす。エースっす」
成瀬が胸を張る。由希は深いため息を吐いた。
「……あんた、ほんとに図々しいわね」
「よく言われるっす」
結局、成瀬は由希の家に上がり込んだ。由希が追い返す間もなく、弟妹たちが成瀬に群がった。
「お兄ちゃん、バスケできるの!?」
「すごい! 背が高い!」
「お姉ちゃんの彼氏!?」
「違う!」
由希は即座に否定した。だが、弟妹たちは興味津々で、成瀬の周りをくるくると回っている。
「彼氏じゃないっすよ。オレが一方的に好きなだけっす」
成瀬が、こともなげに言った。
「「「えー!?」」」
弟妹たちが一斉に声を上げた。由希は顔が熱くなるのを感じた。
「ちょっと、何言ってるの! 子供の前で!」
「事実なんで」
成瀬はけろりとしている。由希は成瀬の足を蹴った。
「痛いっす」
「自業自得よ」
由希はエプロンを身につけ、台所に立った。成瀬はリビングで、三つ子の弟たちとバスケのミニゲームを始めていた。ボールはないので、丸めた靴下をゴミ箱に投げ入れる遊びだ。
「お兄ちゃん、うまい!」
「当たり前っす。エースなんで」
「エースって何?」
「チームで一番点を取る選手っす。オレ、一年生でエースになったんすよ」
「すごーい!」
弟たちの歓声が、リビングに響く。由希は野菜を切りながら、その声を聞いていた。
(……あいつ、子供の扱いがうまい)
由希は内心で舌打ちした。成瀬は双子の妹たちの相手も始めていた。泣いていた妹を抱き上げ、高い高いをしてあやしている。妹たちはケラケラと笑い声を上げた。
「お姉ちゃん、このお兄ちゃん、すごく面白い!」
「……そう」
由希はそっけなく返した。
夕食の準備が終わり、由希がテーブルに料理を並べる。肉じゃが、サラダ、味噌汁、ご飯。弟妹たちは一斉に席に着き、成瀬もちゃっかりと空いている席に座った。
「あんた、なんで座ってるの」
「夕飯、ごちそうになるっす」
「誰が食べさせてあげるって言ったの」
「由希さんの手料理、食べてみたいっす」
成瀬は真顔で言った。由希は反論する気力もなく、成瀬の前に箸を置いた。
「……食べたら帰りなさいよ」
「了解っす」
夕食の間、成瀬は弟妹たちの質問攻めに遭っていた。
「お兄ちゃん、彼女いるの?」
「いないっす。オレが好きなのは由希さんだけっす」
「お姉ちゃんのどこが好きなの?」
「全部っす。由希さん、すごいんすよ。バスケ部のマネージャーで、部員全員の体調を把握してて、練習メニューも考えてて、誰よりも先に動くんす。オレ、由希さんのそういうとこ、ちゃんと見てるんすよ」
由希は味噌汁を啜りながら、成瀬の言葉を聞いていた。胸の奥が、じわりと温かくなる。
(なんで、あんたがそんなこと言うの)
由希は、誰にも褒められたことがなかった。家でも、学校でも、部活でも。完璧に仕事をこなすのが当たり前で、誰も由希の努力を見ようとしなかった。
なのに、成瀬だけは。
この生意気な後輩だけは、由希の努力を、ちゃんと見ていた。
「……お世辞はいいから、早く食べなさい」
由希は照れ隠しに、そっけなく言った。
夕食が終わり、由希が片付けをしていると、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー」
由希の母親が帰宅した。母親は玄関で、見慣れない男の子の靴があることに気づき、首を傾げた。
「由希、お客さん?」
「後輩よ。勝手についてきたの」
由希は台所から顔を出さずに答えた。
「初めまして。成瀬翔って言います。由希さんの後輩です」
成瀬はリビングから玄関へ出て、ぺこりと頭を下げた。
「あら、まあ。由希の後輩さん? 背が高くて、かっこいいわねえ」
「よく言われるっす」
成瀬は調子に乗って、にやりと笑った。
「お母さん、オレ、由希さんのこと好きなんすよ」
「ちょっと、あんた!」
由希は台所から飛び出し、成瀬の足を蹴った。
「痛いっす!」
「当たり前よ! 何言ってるの!」
由希の顔は真っ赤だった。弟妹たちが、リビングから顔を出して囃し立てる。
「お姉ちゃん、照れてるー!」
「お姉ちゃん、顔赤い!」
「うるさい! あんたたちは宿題しなさい!」
由希は怒鳴った。だが、その声は震えていて、怒っているのか照れているのか、自分でもわからなかった。
「由希さん、照れると蹴るんすね。かわいいっす」
「かわいくない! 帰りなさい!」
由希は成瀬の背中を押して、玄関まで追いやった。
「はいはい、帰るっす。でも、由希さん」
成瀬は玄関で靴を履きながら、振り返った。
「オレ、明日も待ってるっすから」
「待たなくていい!」
「待つっす。由希さんが来るまで、ずっと待ってるっす」
成瀬は笑って、夜の道へと消えていった。
由希は玄関のドアを閉め、その場にしゃがみ込んだ。心臓が、胸の奥で激しく脈打っている。
(なんなの、あいつ)
由希は両手で顔を覆った。頬が熱い。弟妹たちの囃し立てる声が、遠くに聞こえる。
(なんで、あんなに真っ直ぐなの)
由希は、成瀬の言葉を思い出していた。
『オレ、由希さんのそういうとこ、ちゃんと見てるんすよ』
由希の努力を、誰も見ていなかった。なのに、成瀬だけは、見ていた。
由希は、自分の中に生まれた感情に、名前をつけることができなかった。ただ、胸の奥が、痛いほどに温かかった。
翌日の練習後。
体育館の片付けが終わり、部員たちが帰っていく中、由希は一人でスコアブックの整理をしていた。夕日が窓から差し込み、木造の床を橙色に染めている。
「由希さん」
声がして、由希は顔を上げた。成瀬が、体育館の隅に立っていた。ジャージ姿で、首にタオルを掛けている。
「何」
由希は手を止めずに答えた。
「話したいことがあるんす」
成瀬は由希の近くまで歩いてきた。その表情は、いつもの生意気な笑みを消し、真剣そのものだった。
「オレ、由希さんのこと、何も知らないで好きって言ってたっす」
成瀬が、静かに言った。
「今さら何よ」
由希は冷たく返した。
「だから、もっと知りたいっす。由希さんが先輩のこと引きずってるのも、家のことも、全部。オレ、由希さんが思ってるよりずっとしつこいんすよ」
成瀬の声は、体育館の静寂に響いた。
由希は、スコアブックを閉じた。成瀬の目を見る。その瞳は、昨日の夜と同じ光を宿していた。欲しいものを絶対に手放さない、あの光。
「……あんた、ほんとに生意気ね」
由希は、それだけを言った。
「よく言われるっす」
成瀬は少しだけ笑った。
由希は、マネージャーノートを開いた。今日の練習メニューと、部員の体調が記録されている。由希はペンを手に取り、ノートの端に、何かを書こうとした。
成瀬。
その文字を、書きかけて、由希はペンを止めた。
(なにやってるの、私)
由希は、書いた文字を、消しゴムで消した。黒革のノートに、消しゴムの跡が薄く残る。
「……帰りなさい。明日も練習があるでしょ」
由希はノートを閉じ、立ち上がった。
「由希さん」
成瀬が、由希の背中に声をかけた。
「オレ、諦めないっすから」
由希は振り返らなかった。振り返ったら、何かが変わってしまう気がした。
その夜、由希が弟妹たちを寝かしつけ、自分の部屋で明日の準備をしていた時だった。
スマホが震えた。画面を見ると、着信が入っている。
木戸先輩。
由希の心臓が、跳ねた。
由希はスマホを手に取り、深呼吸をしてから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「由希? 久しぶり。元気にしてるか」
木戸先輩の声が、受話器越しに聞こえてくる。優しくて、穏やかで、由希が一年半密かに想いを寄せていた声。
「元気です。先輩こそ、大学はどうですか」
由希は平静を装って答えた。
「ああ、まあ、なんとかやってる。それで、由希、話したいことがあるんだ。今度、会えないか」
木戸先輩の声が、真剣なものに変わる。
由希の心が、再び揺らぎ始める。あの日、体育館の裏口で、木戸先輩と橋野リナが並んで歩く姿を見た時の痛みが、胸の奥で蘇ってくる。
「……わかりました。都合のいい日を、教えてください」
由希は、震える声を抑えて、そう答えた。
電話を切った後、由希はベッドに仰向けに倒れ込んだ。天井を見つめる。スマホを握りしめた手が、汗で湿っている。
(木戸先輩が、私に会いたい)
由希の胸は、喜びと不安と、そして、別の何かで、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。
窓の外で、秋の虫が鳴いている。由希は目を閉じた。瞼の裏に、成瀬の顔が浮かぶ。
『オレ、諦めないっすから』
あのまっすぐな声が、由希の心の奥で、木戸先輩の声と重なって、消えなかった。Noveliaとは?
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