なまいきざかり。―靴紐の結び目―
完璧なマネージャー・由希の前に現れたのは、生意気な一年生・成瀬翔。先輩への報われない想いを胸に、部活も家事も一人で抱え込む由希に、成瀬は真っ直ぐに「好きっす」と告げる。「待たないっすからね」——そのまっすぐな言葉が、期待して裏切られることを怖れて生きてきた由希の仮面に、静かな亀裂を走らせる。冷たい態度で突き放しても、隣を走る自転車の音は消えない。靴紐の結び目のように、一度結んだ心は、そう簡単にはほどけない。不器用な二人の、すれ違いから始まるヒューマンドラマ。
なまいきざかり。―靴紐の結び目― - 反則の言葉 ―― 待てないエースと、初めて書いた本音
体育館の空気が、肌に張り付くように湿っていた。
十一月に入って最初の土曜日。県立総合体育館の第二コートでは、隆北高校と三寿々高校の練習試合が第三クォーター残り二分を迎えていた。観客席はまばらで、保護者らしき人影がぽつぽつと並んでいる。床を蹴るシューズの音、ボールが弾む音、審判の笛。それらが高い天井に反響して、ざわざわとした熱を帯びている。
町田由希はコートサイドのベンチに背筋を伸ばして座り、膝の上でスコアブックを開いていた。右手に握ったペン先が、紙の上を迷いなく走る。隆北の攻撃、三寿々の守備、交代のタイミング、ファウルの数。すべてを記録しながら、由希の視線はコートの一点に釘付けになっていた。
成瀬翔が、速攻を仕掛けている。
一年生エースの背番号は七。長い脚でコートを駆け抜け、ディフェンスの間を縫うようにしてパスを受ける。三寿々の選手が二人、前に立ちはだかる。成瀬は迷わなかった。右に切れ込むと見せかけて、左へ。床を蹴る音が一段と強くなる。
(行ける)
由希は、スコアブックから顔を上げた。
成瀬がゴール下に跳び込む。ボールを胸の前に抱え、踏み切る。長身の体がふわりと浮き上がり、リングに手を伸ばす。三寿々のセンターがブロックに跳ぶ。指先が、ボールの端をかすめた。
成瀬は体を捻り、右手一本でボールを押し込む。
ボールがリングに吸い込まれ、ネットを揺らした。
——その直後だった。
着地の瞬間、成瀬の右足が床を捉えた角度が、わずかにずれた。体重がかかった足首が、ぐにゃりと内側に曲がる。
ドン、と鈍い音が体育館に響いた。
成瀬の体が床に崩れ落ちる。ボールが転がっていく。審判の笛が、甲高く鳴った。
「成瀬くん!」
ベンチの端でタイマーを操作していた市井彩花が、悲鳴のような声を上げた。二年生の後輩マネージャーだ。色素の薄い髪を一つに結び、いつもは明るい表情を浮かべている彼女が、今は青ざめた顔で立ち上がっている。
由希は、すでに走り出していた。
スコアブックが膝から落ちる。ペンが床に転がる。そんなものは、もう視界に入っていなかった。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫)
心の中で、同じ言葉を繰り返す。スニーカーの底が床を蹴るたびに、心臓が早鐘のように鳴る。ベンチからコートの中へ。床に倒れた成瀬の元へ。たった数メートルの距離が、やけに長く感じられた。
「成瀬」
由希は成瀬の横に膝をついた。
成瀬は右足首を押さえ、歯を食いしばっていた。額に汗が浮かび、呼吸が浅い。いつもの生意気な笑みは、どこにもなかった。
「……由希さん」
成瀬が、絞り出すように言った。
「動かないで。足、見せて」
由希の声は、驚くほど落ち着いていた。マネージャーとしての自分が、勝手に口を動かしている。心臓はまだ激しく脈打っているのに、指先だけは冷静だった。
成瀬の右足首に、そっと手を添える。腫れはまだ出ていない。でも、熱を持っているのがわかる。靭帯を痛めたかもしれない。由希は頭の中で、応急処置の手順を素早く組み立てた。
「アイシングするわ。市井、氷とタオルを。それからテーピングの用意」
「は、はい!」
市井が駆け出していく。その背中を一瞥して、由希は再び成瀬に向き直った。
成瀬のシューズの紐が、着地の衝撃で緩んでいた。
由希は、その紐に手を伸ばした。
(結び直さないと)
(このままじゃ、足首が固定できない)
指先が、白い靴紐を拾う。汗で湿った紐を、きゅっと引く。右、左、交差させて、蝶結び。
その時、由希の口から、言葉がこぼれ落ちた。
「負けてもいいから——その一本だけは、決めなさい」
由希は、自分が何を言ったのか、一瞬わからなかった。
言葉が、先に唇を離れていた。頭で考えるより先に、心の奥底にしまってあった何かが、勝手に溢れ出した。
成瀬の肩が、ぴくりと震えた。
痛みで歪んでいた成瀬の顔が、ゆっくりと由希に向けられる。汗で張り付いた前髪の下で、成瀬の目が、大きく見開かれていた。
「……由希さん」
成瀬の声が、震えている。
「それ、反則っす」
成瀬が、痛みに顔を歪めながら、笑った。
口の端を吊り上げる、いつもの笑み。でも、目の奥だけが、真剣だった。
「反則って、何がよ」
由希は、靴紐を結び終えて、顔を上げた。
「だって、由希さん、泣いてる」
由希は、自分の頬に手をやった。
指先が、濡れていた。
(え)
(私、泣いてる?)
由希は、まばたきをした。視界が、にじんでいる。目の奥が熱い。喉の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛い。
自分でも、気づいていなかった。
涙が、静かに、こぼれ落ちていた。
「……なんで」
由希は、声を絞り出した。
「なんで、私が泣くのよ。足を痛めたのは、あんたでしょ」
「由希さんが、オレのことで泣いてくれるからっすよ」
成瀬は、まだ笑っていた。痛みで顔は歪んでいるのに、声だけは、やけに優しかった。
「オレ、嬉しいっす。由希さんが、オレのこと、ちゃんと見てくれてるんだなって」
由希は、唇を噛んだ。
(違う)
(私は、ただ、マネージャーとして)
(部員が怪我をしたら、心配するのは当たり前で)
(それだけよ)
心の中で、何度も言い訳を並べる。でも、涙は止まらなかった。
「……とにかく、ベンチに下がるわよ。立てる?」
由希は、涙を手の甲で拭い、成瀬の腕を取った。
「由希さんが肩を貸してくれるなら、立てるっす」
「調子に乗らないで」
由希は、成瀬の腕を自分の肩に回させ、ゆっくりと立ち上がった。成瀬の体重が、由希の小さな体にのしかかる。重い。でも、離さなかった。
二人は、ゆっくりとベンチへ向かった。
コートでは、試合が再開されようとしていた。三寿々の選手たちが、心配そうにこちらを見ている。その中に、長身の選手が一人、じっと由希と成瀬を見つめていた。
袴田静。三寿々高校の二年生エースだ。
男子校育ちで、女子と話すのが苦手な彼は、由希に何か言いたげな顔をしながら、結局、何も言えずにコートへ戻っていった。
由希は、ベンチに成瀬を座らせ、市井が持ってきた氷嚢を受け取った。
「ありがとう。市井、タイマーお願い」
「はい」
市井は、何かを言いたそうに由希の顔を見たが、すぐにタイマーの元へ戻っていった。
由希は、成瀬の右足首に、氷嚢を当てた。
冷たい。指先が、氷の冷たさでしびれる。でも、由希は氷嚢を動かさなかった。成瀬の足首に、しっかりと押し当てる。
「……由希さん」
成瀬が、ぽつりと言った。
「何」
由希は、成瀬の足首から目を離さなかった。
「オレ、待てないっす」
成瀬の声は、静かだった。
「由希さんが思ってるより、オレの方が、ずっと意地悪なんすよ」
由希の指先が、氷嚢の上で止まった。
「……何が言いたいの」
「由希さんは、部活が終わるまで待ってほしいって、そういうスタンスでしょ。でも、オレは、待てない。由希さんが他の男と話してるのを見るだけで、イライラする。由希さんが木戸先輩の電話に出るだけで、頭がおかしくなりそうになる。由希さんが、オレの知らないところで、誰かに笑ってるって思うだけで、胸がぐちゃぐちゃになる」
成瀬は、前を向いたまま、淡々と言った。
「オレ、由希さんのこと、好きっす。好きで、好きで、どうしようもない。でも、オレの好きは、きれいなだけじゃない。由希さんを、誰にも渡したくない。由希さんの全部が、オレだけのものになればいいって、本気で思ってる。……これ、引くっすか?」
由希は、何も言えなかった。
氷嚢を持つ手が、小さく震えている。
(引く?)
(引くわけ、ない)
(私だって、同じだから)
由希は、唇を開いた。
「……じゃあ」
声が、かすれた。
「じゃあ、どうしてほしいのよ」
由希は、初めて、成瀬に問い返した。
成瀬が、由希を見た。
汗で濡れた前髪の下から、真っ直ぐな瞳が、由希を射抜く。
「由希さんが、オレのこと、ちゃんと見てくれるまで、オレは何度でも言うっす。好きっす。由希さんが好きっす」
成瀬は、真顔だった。
痛がっているのに、足首を押さえているのに、声は、まったく揺れていなかった。
由希は、成瀬の足首に当てた氷嚢を、ゆっくりと動かした。
冷たい水が、指の間から滴り落ちる。
(私、どうしたいの)
(成瀬に、どうしてほしいの)
答えは、まだ、出なかった。
でも、由希の指先は、さっきまでより、ずっと静かだった。
試合は、結局、隆北が四点差で負けた。
成瀬が抜けた穴は大きく、三寿々の袴田が終盤に連続得点を決めた。由希は、スコアブックを閉じながら、最後のプレーを思い返していた。
(あの場面、成瀬がいたら)
(違った)
(でも、いないものを考えても、仕方ない)
由希は、ベンチの片付けを始めた。市井が、タオルを畳みながら近づいてくる。
「由希先輩、大丈夫ですか?」
市井の声は、まだ少し硬かった。
「私のことは、大丈夫よ。それより、あんた、タイマーの操作、完璧だったわね。助かったわ」
由希は、市井の目を見て言った。
市井の顔が、ほんの少し、ほころんだ。
「……ありがとうございます」
市井は、そう言って、またタオルを畳み始めた。
由希は、市井の横顔を、ちらりと見た。
(この子は、成瀬が好き)
(成瀬に、キスをした)
(でも、今は、マネージャーの仕事を、ちゃんとやろうとしてる)
由希の胸の奥が、ちくりと痛んだ。
(私、市井に、何か言うべき?)
(言えるわけない)
(私自身が、自分の気持ちに、答えを出せてないのに)
由希は、深く息を吐いた。
体育館の外では、夕日が沈みかけていた。
その夜。
由希は、自宅の台所に立っていた。
三つ子の弟たちが、リビングで騒いでいる。双子の妹が、おもちゃの取り合いで泣いている。テレビの音、笑い声、泣き声。戦場のような喧騒が、家の中を満たしていた。
由希は、夕飯の片付けを終え、弟たちを風呂に入れ、妹たちに歯を磨かせ、ようやく全員を寝かしつけた。
時計は、午後十一時を回っていた。
由希は、自室に戻り、机の前に座った。
マネージャーノートを、引き出しから取り出す。
黒革の表紙。由希が二年半、書き続けてきた記録。練習メニュー、部員の体調、試合の反省、次の試合への課題。几帳面な文字が、罫線に沿って、びっしりと並んでいる。
由希は、ノートの最後のページを開いた。
白い紙。
由希は、ペンを取った。
手が、震えている。
(書くの?)
(書いていいの?)
(こんなこと、書いたら、もう、逃げられなくなる)
由希は、ペン先を紙に押し当てた。
一文字目。
『私』
二文字目。
『は』
三文字目。
『、』
由希は、ゆっくりと、文字を紡いでいった。
『私は、成瀬のことが、嫌いじゃない。たぶん、それ以上』
書き終えた由希は、ノートを見つめた。
文字は、震えていなかった。
まっすぐ、きれいな字だった。
由希は、自分の手を見た。
震えていない。
(ああ)
(私、書けたんだ)
(逃げずに、自分の気持ちを、書けたんだ)
由希の胸の奥で、何かが、すとんと落ちた。
音は、しなかった。
でも、確かに、何かが、変わった。
由希は、ノートを閉じた。
黒革の表紙を、指先で、そっとなでる。
(明日、成瀬に、言おう)
(部活が終わるまで、待って、って)
(それで、それから)
由希は、窓の外を見た。
十一月の夜空に、星が、冷たく瞬いていた。
翌日。
由希は、いつもより三十分早く、体育館に着いた。
朝の体育館は、ひんやりとしていて、床の木の匂いが強く感じられる。由希は、窓を開けて空気を入れ替え、ボールの空気圧を確認し、水分補給用のドリンクを準備した。
やがて、部員たちが集まり始める。
成瀬は、右足首にテーピングを巻き、松葉杖をついて現れた。
「由希さん、おはようっす」
成瀬は、痛々しい足を引きずりながらも、いつもの調子で声をかけてきた。
「おはよう。足、痛むでしょ。無理しないで、今日は見学にしなさい」
由希は、ドリンクのボトルを並べながら言った。
「見学は嫌っす。オレ、コートにいたい」
「我儘言わないの。怪我人がコートに立って、何かあったらどうするのよ」
「由希さんが心配してくれるから、それでいいっす」
由希は、ドリンクのボトルを、少し乱暴に置いた。
「……成瀬」
由希は、成瀬の正面に立った。
「部活が終わるまで、待って」
由希の声は、静かだった。
でも、目は、真っ直ぐに成瀬を見ていた。
成瀬は、一瞬、きょとんとした顔をして、それから、にやりと笑った。
「待てないっす」
即答だった。
由希は、成瀬の脛を、軽く蹴った。
「待ちなさい」
「痛っ」
成瀬が、大げさに声を上げた。
「由希さん、怪我人に蹴り入れるとか、鬼っすよ」
「怪我したのは足首でしょ。脛は無事よ」
由希は、そう言って、口元を緩めた。
つられて、成瀬も笑った。
「……由希さん、今、笑ったっすね」
「笑ってないわ」
「笑った。オレ、見た」
「見間違いよ」
由希は、成瀬に背を向けて、ドリンクの準備を再開した。
でも、唇は、まだ、ほんの少しだけ緩んでいた。
放課後。
由希が部室でスコアブックを整理していると、ドアがノックされた。
「由希先輩、いますか?」
市井の声だった。
「いるわよ。どうぞ」
由希が返事をすると、市井が、おそるおそる部室に入ってきた。
市井は、由希の前に立つと、深く頭を下げた。
「先輩、ごめんなさい」
市井の声は、震えていた。
「……何の話?」
由希は、スコアブックを閉じた。
「この前の、倉庫の裏のことです。私、成瀬くんに、キスをしました。由希先輩が見てたって、気づかなくて。……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
市井の肩が、小刻みに震えている。
由希は、市井の頭を見つめた。
(この子、ずっと、このことを謝りたかったのね)
(私が、あの場面を目撃したことを、ずっと気にして)
由希は、ゆっくりと、市井に近づいた。
「顔、上げなさい」
由希の声は、優しかった。
市井が、恐る恐る顔を上げる。
「あなたが謝ることじゃないわ。私が、自分の気持ちから逃げてただけ」
由希は、市井の目を見て言った。
「あなたは、成瀬が好きで、それで、気持ちを伝えた。それは、悪いことじゃない。私が、見て見ぬふりをしてただけよ」
市井の目から、涙がこぼれた。
「でも、私、先輩の気持ちを知ってて、それで、あんなこと……」
「私の気持ちなんて、私自身が、昨日までわかってなかったのよ。あんたが気にする必要なんて、ないわ」
由希は、市井の肩に、そっと手を置いた。
「それに、あんた、マネージャーの仕事、ちゃんと続けるんでしょ? だったら、私の後輩として、堂々としてなさい」
市井は、涙をぬぐいながら、何度も頷いた。
「……はい。マネージャー、続けます。由希先輩に、教わったこと、ちゃんと、全部やります」
市井の声は、まだ震えていたが、その目は、もう迷っていなかった。
由希は、市井の潔さに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(この子は、強い)
(私より、ずっと、強い)
由希は、市井の背中を、軽く叩いた。
「よし。じゃあ、明日の練習メニュー、一緒に確認するわよ」
「はい!」
市井は、涙で濡れた顔のまま、笑った。
その笑顔は、いつもの明るい市井の笑顔だった。
同じ頃。
三寿々高校の体育館では、部活が終わったばかりだった。
袴田静は、体育館の外で、スマホを耳に当てていた。
画面には、成瀬翔の名前が表示されている。
「……もしもし」
袴田の声は、低く、静かだった。
『もしもし、袴田。元気?』
電話越しの成瀬の声は、相変わらず軽い。
「元気だ。……お前、足、大丈夫なのか」
『あー、捻挫っす。大したことないっすよ。県大会までには治る』
「そうか。……で、何の用だ」
袴田は、単刀直入に聞いた。
『別に。ただ、袴田の声が聞きたくなっただけっす』
「気持ち悪いな」
『ひどいっすね。幼馴染に気持ち悪いとか』
袴田は、体育館の壁に背を預けた。
十一月の夜風が、汗の引いた体に冷たい。
『……袴田、お前、由希さんのこと、まだ好きなんすか?』
成瀬の声が、急に真剣になった。
袴田は、黙った。
『図星っすね。まあ、わかってたっすけど』
「……整理できてない」
袴田は、ぽつりと言った。
「まだ、整理できてないんだ。俺は、由希さんに、ありがとうございますしか言えなかった。それで、何も伝えられてない」
袴田は、自分の手を見た。
バスケットボールを握るためにある、大きな手。
でも、この手は、由希に何も渡せなかった。
『……袴田、お前は、真面目すぎるんすよ』
成瀬の声が、少しだけ柔らかくなった。
『でも、オレは、由希さんを譲らない。県大会で、待ってるっす』
「……ああ」
袴田は、空を見上げた。
星が、冷たく光っている。
「俺も、待ってる」
袴田は、そう言って、電話を切った。
スマホを握りしめた手に、力が入る。
(由希さんの笑顔)
(あの時、俺に笑ってくれた)
(俺は、それに、何も返せなかった)
袴田は、拳を握った。
(次は、違う)
(県大会で、成瀬に勝って、それで)
袴田は、拳を開き、もう一度、握り直した。
夜風が、汗の冷えた体を、さらに冷やしていく。
でも、袴田の胸の奥には、小さな炎が、確かに灯っていた。
由希は、帰り道を歩いていた。
十一月の夜は、もう冬の匂いがする。吐く息が、白く、街灯の光に浮かぶ。
スマホが、ポケットの中で震えた。
由希は、立ち止まって、画面を確認した。
市井からのLINEだった。
『先輩、今日はありがとうございました。私、マネージャー、頑張ります』
由希は、短い返信を打った。
『当たり前でしょ。明日も早いわよ。遅刻しないで』
送信。
由希は、スマホをポケットに戻し、歩き出した。
木戸先輩からの連絡は、あの日から、途絶えたままだった。
(もう、いいの)
(木戸先輩は、私の中で、終わった)
由希は、空を見上げた。
星が、瞬いている。
(成瀬のことは、まだ、わからない)
(市井のことも、袴田のことも、まだ、何も解決してない)
(でも)
由希は、マネージャーノートの最後のページに書いた文字を、思い出した。
『私は、成瀬のことが、嫌いじゃない。たぶん、それ以上』
(あれが、私の、最初の一歩)
由希は、家の明かりが見える方へ、ゆっくりと歩き続けた。
県大会予選は、もう、すぐそこまで来ている。
由希の心には、成瀬への想いと、市井と袴田という未解決の感情が、静かに、しかし確かに、残っていた。
それでも、由希の足は、前に向かっていた。Noveliaとは?
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