なまいきざかり。―靴紐の結び目―
完璧なマネージャー・由希の前に現れたのは、生意気な一年生・成瀬翔。先輩への報われない想いを胸に、部活も家事も一人で抱え込む由希に、成瀬は真っ直ぐに「好きっす」と告げる。「待たないっすからね」——そのまっすぐな言葉が、期待して裏切られることを怖れて生きてきた由希の仮面に、静かな亀裂を走らせる。冷たい態度で突き放しても、隣を走る自転車の音は消えない。靴紐の結び目のように、一度結んだ心は、そう簡単にはほどけない。不器用な二人の、すれ違いから始まるヒューマンドラマ。
なまいきざかり。―靴紐の結び目― - 不器用なエースと、嫉妬のコート
十月下旬、県立総合体育館の空気は、張り詰めた冬の匂いを孕んでいた。天井の高いアリーナに、バスケットシューズが床を擦る甲高い音が断続的に響く。ウォーミングアップのボールの弾む音、選手たちの短い掛け声。それらが反響して、一つの大きなうねりとなって町田由希の耳に届いていた。
由希はコートサイドのベンチに座り、膝の上に広げたスコアブックに視線を落としていた。指先でボールペンのノック部分を、カチ、カチ、と鳴らす。今日の相手は三寿々高校。県内でも屈指の強豪校で、全国大会出場経験もある私立の男子校だ。練習試合とはいえ、気の抜けない相手である。
「由希さん、タイマー、こっちで大丈夫っすか」
声がして顔を上げると、いつの間にか隣に成瀬翔が立っていた。長身の体を少し屈めて、由希の手元を覗き込んでいる。ジャージの上からでもわかる、しなやかで強い肩の線。汗で湿った前髪を無造作にかき上げる仕草は、どこか獣じみていた。
「大丈夫よ。あんたは自分の準備をしなさい」
由希は短く答えて、再びスコアブックに目を落とす。成瀬はまだ動かない。由希の横顔を、じっと見つめているのが気配でわかった。
「何か用?」
「いや、別に」
成瀬はそう言うと、ようやく由希から離れてコートへ走っていった。由希は、ほんの少しだけ息を吐いた。
(あの目は、何か企んでる時の目だ)
成瀬が由希を見る時の、あの飢えたような光。それを意識しないように、由希はスコアブックの数字を指でなぞった。今日の練習試合は、新チームになって初めての対外試合でもある。三年生が引退し、成瀬たち一年生が主力になりつつある隆北にとって、三寿々は格好の試金石だった。
体育館の反対側、三寿々のベンチでは、顧問の殿村誠一が選手たちに指示を出していた。厳格そうな男で、選手一人ひとりの目を見ながら、短い言葉で畳みかけるように話している。その横で、ひときわ背の高い選手が、黙ってシューズの紐を結び直していた。
袴田静。三寿々高校二年生。ポジションはポイントガード。長身で手足が長く、ユニフォームの下の筋肉はしなやかで無駄がない。整った顔立ちは、黙っていれば彫刻のように静かな印象を与える。だが、その指先は、シューズの紐を結ぶのに何度も失敗していた。
「袴田、大丈夫か?」
殿村が声をかけると、袴田は顔を上げて、こくりと頷いた。だが、その表情は硬い。
「……大丈夫、です」
声も、少し上ずっていた。
試合が始まった。
第一クォーターから、隆北は成瀬を中心に攻撃を組み立てた。成瀬のシュートは正確で、スピードも三寿々のディフェンスを上回っている。だが、三寿々も袴田のパス回しから着実に得点を重ねた。袴田のプレーは、無駄がなく、静かで、それでいて冷酷なほど正確だった。
「ナイスパス!」
三寿々の選手が叫ぶ。袴田は無言で走り、次のプレーに移る。その顔に、感情の色はほとんど見えない。
由希はスコアブックに数字を書き込みながら、袴田の動きを目で追っていた。
(あの選手、すごく上手い。パスの出しどころが、全部、こっちの嫌な場所を突いてくる)
マネージャーとしての目で、由希は袴田のプレーを分析した。パスコースの選び方、ディフェンスの位置の取り方、すべてが理にかなっている。成瀬とは違うタイプの、静かな支配者。そんな印象だった。
第二クォーターが終わり、ハーフタイムに入った。
由希はベンチで、選手たちに配る水分の準備をしていた。ペットボトルを並べ、タオルを畳み、人数分の紙コップを用意する。その手元は、迷いなく、無駄がなかった。
「あ、あの……」
聞き慣れない声がして、由希は手を止めた。顔を上げると、袴田静が立っていた。三寿々のユニフォームを着たまま、由希の前に立っている。その手には、空になった紙コップが握られていた。
「水分、ありがとう、ございます」
袴田は、そう言って、由希に紙コップを差し出した。いや、正確には、差し出そうとして、その手が空中で止まっていた。
「……あ、いえ、その、紙コップ、どこに捨てれば」
由希は、袴田の手元を見た。紙コップは、袴田の指の中で、ぐしゃりと潰れかけている。
「ああ、そこのゴミ袋でいいわ」
由希が指差すと、袴田は、はっとしたようにその方向を見て、それから、ぎこちなく頭を下げた。
「すみません、ありがとう、ございます」
袴田は、そう言って、ゴミ袋の方へ歩いていった。その背中は、どこか緊張で強張っていた。
(ずいぶんと、不器用な人)
由希は、袴田の後ろ姿を見ながら、そう思った。長身で、プレーはあれほど正確なのに、こういう場面では、まるで迷子の子供みたいに頼りない。そのアンバランスさが、不思議と、由希の心を和ませた。
「あなたって、ほんとに不器用ね」
由希は、つい、小さく笑って、そう呟いた。声は小さく、袴田には聞こえていなかったかもしれない。だが、由希の口元には、確かに笑みが浮かんでいた。
その瞬間だった。
コートの中央で、ボールを抱えた成瀬が、由希の方をじっと見ていることに、由希は気づいた。成瀬の目は、さっきまでの試合中の鋭い目とは違っていた。もっと暗く、もっと熱い、何かを煮詰めたような目だった。
成瀬は、由希と目が合うと、ゆっくりと、口の端を歪めた。笑っているようで、笑っていない。あれは、成瀬が、何かを我慢している時の顔だった。
由希は、すぐに目を逸らした。
(なんで、あんたがそんな顔をするのよ)
胸の奥が、ざわついた。由希は、スコアブックを開いて、意味もなく数字を指でなぞった。
後半が始まると、成瀬のプレーは、明らかに変わっていた。
それまではチームメイトを活かすパスも交えていた成瀬が、後半に入ってからは、袴田がマークにつくたびに、強引に一対一を仕掛けるようになった。ドリブルで袴田の正面から突っ込み、肩をぶつけ、肘を張る。それは、もはやバスケットボールのプレーというより、喧嘩に近かった。
ピーッ!
審判の笛が鳴った。成瀬のオフェンスファウルだった。
「おい、何やってんだよ、成瀬!」
チームメイトの声にも、成瀬は答えない。無言で、袴田を睨みつけている。袴田は、床に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。その表情は、苦痛に歪んでいる。
「あんた、何考えてるの」
タイムアウトの間、由希は、ベンチで成瀬を呼び止めた。
「別に、普通にやってるだけっすけど」
成瀬は、タオルで顔の汗を拭きながら、そっけなく答えた。
「普通のプレーに見えるわけないでしょ。わざとぶつかってるのが、誰が見てもわかるわ。チームプレーを乱さないで」
由希の声は、低く、静かだった。だが、その中に、はっきりとした怒りが込められていた。
成瀬は、タオルを首にかけたまま、由希の目をじっと見た。
「由希さんが、他の男に笑うから、悪いんすよ」
成瀬の声は、拗ねているようでいて、その実、芯の部分は氷のように冷たかった。
「……は?」
由希は、一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「由希さん、あの袴田って奴に、笑ってたっすよね。あんな柔らかい顔、オレ、初めて見たっす」
成瀬は、由希から目を逸らさない。その瞳の奥で、暗い炎が揺れている。
「あんた、何言ってるの。ただの社交辞令でしょ。それに、あの人が不器用だから、ちょっと笑っただけよ」
「それがダメなんすよ」
成瀬は、一歩、由希に近づいた。
「由希さんが、他の男に、ああいう顔をするのが、オレは、すげえ嫌なんすよ。見てるだけで、頭に血が上るっていうか、胸がむかむかするっていうか。由希さんは、オレにだけ、そういう顔してればいいんす」
由希は、成瀬の言葉に、言葉を失った。
(この子は、今、何を言っているの)
(他の男に笑うな? 私にだけ、顔を向けていろ?)
(そんなの、まるで、恋人にでも言うような……)
「……あんた、頭、大丈夫?」
由希は、やっとの思いで、それだけを言った。
「大丈夫っすよ。オレ、由希さんのことになると、結構、本気でおかしくなるんで」
成瀬は、そう言って、少しだけ笑った。だが、その目は、全く笑っていなかった。
試合は、結局、隆北がわずかにリードを保ったまま、終了間際を迎えていた。
成瀬の荒れたプレーは、チームに波紋を広げたが、それでも、彼の得点力は、隆北の大きな武器だった。袴田も、後半は成瀬のマークに苦しみながらも、要所で正確なパスを出し、三寿々の攻撃を支えていた。
そして、試合終了のブザーが鳴った。
隆北の勝利だった。
選手たちが、互いに健闘を称え合う。由希は、スコアブックを閉じ、ベンチから立ち上がった。試合後の挨拶を交わす両チームの選手たちを、ぼんやりと眺めていた。
(終わった)
由希は、小さく息を吐いた。疲れていた。試合の疲れではない。成瀬との、あの不毛なやり取りのせいだ。
その時、由希のスマホが、ジャージのポケットの中で震えた。
由希は、スマホを取り出し、画面を見た。
木戸先輩。
その名前が、画面に表示されている。由希の指先が、ぴくりと止まった。
(なんで、今)
由希は、一瞬、迷った。だが、着信音は、由希の迷いを無視して、静かに、しかし確実に、鳴り続けていた。
由希は、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
声が、震えないように、由希は、腹に力を込めた。
「由希? 久しぶり。今、大丈夫か?」
木戸先輩の声は、電話越しでもわかるほど、優しく、穏やかだった。一年半、由希が密かに想いを寄せてきた、あの声。
「はい、大丈夫です。試合が終わったところで」
「そうか、お疲れ様。それで、由希、急で悪いんだけど、話したいことがあるんだ」
木戸先輩の声が、真剣なものに変わる。
「橋野と、別れたんだ。それで、由希に、どうしても話したいことがあって」
由希の背中が、わずかに震えた。
(橋野リナと、別れた)
(木戸先輩が、私に、話したいこと)
由希の頭の中で、一年半前の光景が、鮮やかに蘇った。県立総合体育館の裏口で、木戸先輩と橋野リナが、楽しそうに並んで歩いていた、あの日のこと。あの日、由希は、自分の恋が終わったことを、静かに受け入れたはずだった。
「……わかりました。都合のいい日を、教えてください」
由希は、震える声を、必死に抑えて、そう答えた。
電話を切った後、由希は、スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
「由希さん」
すぐ後ろから、声がした。
振り返ると、成瀬が立っていた。いつの間に、そこにいたのか。成瀬の目は、由希のスマホと、由希の顔を、交互に見ていた。
「誰っすか。今の」
成瀬の声は、低く、平坦だった。
「……別に、あんたには関係ないでしょ」
由希は、スマホをポケットにしまいながら、冷たく答えた。
「木戸先輩っすよね」
成瀬は、由希の言葉を無視して、言った。
「あの、元キャプテンの。由希さんが、好きだった人」
由希は、何も言えなかった。
「行くな」
成瀬が、唐突に、そう言った。
「……は?」
「木戸先輩に、会いに行くな。オレは、行ってほしくない」
成瀬の声は、静かだった。だが、その静けさの中に、有無を言わせない、強い力が込められていた。
「私が誰に会おうと、あなたには関係ないわ」
由希は、成瀬をまっすぐに見据えて、言った。
「関係なくないっす」
成瀬は、一歩、由希に近づいた。
「オレ、由希さんのこと、絶対に手放さないっすから」
成瀬の目が、由希を捕らえて、離さない。その瞳の奥で、暗く、熱い、執着の炎が、激しく燃えていた。
「木戸先輩が、由希さんに何を言うのか、オレにはわからない。でも、由希さんが、あの人のところに行くってだけで、オレは、今、すげえ嫌な気持ちになってる。由希さんが、他の男のところに行くのが、我慢できないんす」
成瀬の言葉は、由希の胸に、重く、鋭く、突き刺さった。
(この子は、本気で、私を……)
由希は、成瀬の執着の強さに、初めて、本当の意味で、戸惑った。
「……あんた、ほんとに、何様のつもりよ」
由希は、やっとの思いで、それだけを言った。
「由希さんに、本気で惚れてる、ただの後輩っすよ」
成瀬は、そう言って、少しだけ、悲しそうに笑った。
由希は、成瀬のその笑顔に、胸の奥が、きゅっと締め付けられるのを感じた。
(違う。そうじゃない)
(私は、木戸先輩に、会わなきゃいけない)
(一年半の、けりをつけるために)
由希は、成瀬から目を逸らした。
「……帰るわ。あんたも、早く帰りなさい」
由希は、そう言って、成瀬に背を向けた。
「由希さん」
成瀬の声が、背中に追いかけてくる。
「オレ、待たないっすよ。何度でも言うっす。由希さんが、木戸先輩のところに行くなら、オレも、絶対に諦めない。由希さんが、誰を選ぼうと、オレは、由希さんのこと、ずっと、追いかけるっすから」
由希は、振り返らなかった。振り返ったら、何かが、決定的に変わってしまう気がした。
由希は、早足で、体育館を後にした。
家に帰り着くと、由希は、弟妹たちの騒ぎ声を聞きながら、自室に閉じこもった。
部屋の明かりをつけずに、ベッドに腰を下ろす。窓の外では、十月の夜風が、カーテンを静かに揺らしていた。
由希は、マネージャーノートを開いた。
黒革の表紙を指でなぞり、最後のページを開く。
「木戸先輩に会う。けりをつける」
そう書こうとした。
だが、ペン先が、震えて、うまく書けない。
由希は、ペンを握り直した。
「木戸先輩に会う」
そこまで書いて、由希の手が、止まった。
(会って、どうするの)
(橋野と別れた、って。それで、私に、何を話すの)
(もしかして、私に、気持ちがある、って……)
由希の心臓が、早鐘を打つ。
(そんなわけ、ない)
(木戸先輩は、橋野リナが好きだった。私のことなんて、ただの後輩としか、思ってない)
(期待して、裏切られるくらいなら……)
由希の脳裏に、成瀬の顔が浮かんだ。
『オレ、由希さんのこと、絶対に手放さないっすから』
あの、真っ直ぐで、熱い、執着の言葉。
(成瀬)
由希は、ペンを置いた。
ノートのページには、震えた文字で、「木戸先輩に会う」とだけ、書かれていた。
その文字は、いつもの由希の几帳面な文字とは、まるで違っていた。乱れて、歪んで、今にも崩れ落ちそうだった。
由希は、ノートを閉じた。
(私、どうしたいの)
(木戸先輩に、会いたい?)
(それとも、成瀬の……)
由希は、考えるのをやめた。
窓の外で、風が、木々を揺らす音が聞こえる。その音は、まるで、由希の心の奥で、何かが軋む音のように、静かに、しかし確かに、響いていた。
由希は、目を閉じた。
瞼の裏に、木戸先輩の優しい笑顔と、成瀬の、あの飢えたような光を宿した目が、交互に浮かんでは消えていった。
どちらに心が動いているのか、由希には、もう、わからなかった。Noveliaとは?
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