花芽なずなは、嘘がつけない
花芽なずなは、人気Vtuberグループ「Eclipse Palette」の清楚ピュアなアイドル。しかし彼女には誰にも言えない秘密があった。グループメイトである、派手なギャル系Vtuber、カナメ・グレースに、本気でどうしようもなく恋をしているのだ。
コラボ生配信中、なずなはうっかり本音を漏らしてしまう。冗談ではなく、真っ赤な顔で涙を流しながら、何千人もの視聴者の前で「カナメちゃんが好きです!」と告白してしまったのだ。チャット欄は大炎上。しかし、怒りの声ではなく、ファンたちは大興奮。「ガチ百合配信キター!」「清楚アイドル×ギャルは神ってる!」
本当の厄介事はファンではなかった。目ざとい事務所マネージャー、黒鉄エリナが激怒しているのだ。「契約違反だ! タレント同士の恋愛は厳禁だぞ!」と彼女は吠える。なずなは謝罪配信を命じられてしまう。
しかし、なずなの想いは間違いなんかじゃなかった。いじめられっ子だった幼い頃、近所に住む年上の女の子にいつも助けられていた。その女の子こそが、今のカナメ・グレースだったのだ。初めてのコラボ配信で、なずなはすぐに彼女だと気づいた——それは、ずっと探し続けて
花芽なずなは、嘘がつけない - 黒鉄の冷徹通告と、黒曜星の警告
みどり公園でカナメの涙を見てから、二日が経っていた。
なずなは、自宅アパート「コーポ・ハナミズキ」の薄暗い部屋で、スマホを握りしめたまま動けずにいた。画面には、黒鉄エリナからの無機質なメッセージが光っている。
『本日10時、コランダムタワー12階、会議室「スペクトル」に来ること。業務命令よ』
その文字を見た瞬間、胃の底が冷たくなる。
「にゃあ」
白い猫のもちが、心配そうになずなの足にすり寄った。ふわふわの毛が、かすかに震える素足をくすぐる。なずなは力なく笑い、もちの頭を撫でた。
「……うん、大丈夫。行ってくるね」
大丈夫なわけがない。でも、行くしかなかった。
彼女は、よれよれの部屋着を脱ぎ、クローゼットから無地のワンピースを取り出した。まるで、喪服を着るように。
渋谷の雑踏は、なずなの心とは裏腹に、いつも通り騒がしく、明るかった。コランダムタワーの巨大なガラス張りのビルが、夏の強い日差しをギラギラと反射している。
エントランスの自動ドアをくぐると、冷たいエアコンの風が、汗ばんだ肌にまとわりついた。それは、このビルそのものの冷たさのように感じられた。
十二階。プリズムゲート・プロダクション本社。
フロアに足を踏み入れた瞬間、なずなの背筋を冷たいものが走った。
静かすぎる。
スタッフたちは、まるでなずなをそこにいないもののように、誰一人として目を合わせようとしない。キーボードを叩く音だけが、無機質に響いている。その沈黙が、彼女がすでに「腫れ物」であり、「終わった存在」であることを嫌でも物語っていた。
「スペクトル」の重いドアをノックする。
「入りなさい」
中から聞こえた声は、氷のように冷たかった。
なずなは覚悟を決め、ドアを開けた。会議室の中は、窓という窓にブラインドが下ろされ、薄暗い。長方形のテーブルの向こう側に、黒鉄エリナが座っていた。
後ろでシニヨンにまとめた漆黒の髪。一筋の乱れもない。切れ長の黒い瞳は、値踏みするように、なずなをじっと見据えている。顔に表情は一切なかった。まるで精巧に作られた氷の彫刻のように。
「座りなさい」
エリナのデスクの上には、三面の大型モニターが並び、なずなの配信データが無数に映し出されている。視聴者数のグラフ、スパチャの金額、コメント分析のワードクラウド。彼女のVtuberとしての全てが、冷たい数字に変換されていた。エリナの左胸で、小さなブローチが鈍く光る。それは、彼女の冷たさとはあまりに不釣り合いな、古びた花の飾りだった。
なずなは、言われるままに椅子に座った。
エリナはタブレットを操作し、壁一面の巨大スクリーンに、契約書の一文を映し出した。太字で書かれた「契約第14条――タレント間恋愛禁止条項」。
「言い訳の余地はないわね」
エリナの声は、感傷を一切含んでいなかった。
「あなたの配信データ、SNSの分析結果、すべてここにある。これは、ただの『配信ネタ』では処理できないレベルの不祥事よ。これは、あなたという商品のブランドを根本から毀損する行為だ」
「で、でも……あれは」
なずなは震える声で反論しようとした。あれは私の本当の気持ちです、と。
しかし、エリナはそれを遮った。
「黙りなさい」
たった一言で、部屋の温度がさらに下がった気がした。
エリナはスクリーンを切り替える。そこには、何人ものVtuberの顔写真と、その末路を記した記事の見出しが映し出された。
「『人気Vtuber、誹謗中傷で活動休止』『個人情報流出、配信者引退へ』『炎上騒動で事務所倒産』」
彼女は、その一つ一つを、淡々と読み上げていく。まるで、戦死者の名簿を読み上げる記録係のように。
「知ってる? これが、あなたの言う『本当の気持ち』で起こった現実よ。三年前の『セレスティア・ショック』。トップタレントの恋愛感情が、関係者全てを破滅させた。殺害予告、精神崩壊、家族の離散――数字にならない地獄を、私は何人も見てきた」
エリナの声が、初めてかすかに揺れた。それは怒りだったのか、それとも別の感情だったのか。
「この業界で生き残るためには、感情はリスクでしかない。あなたの恋愛感情も、私が取り除くべき単なるノイズと同じよ」
彼女は、なずなの目の前に一枚の書類を滑らせた。
「活動休止三ヶ月。そして本日中に視聴者への謝罪配信を開き、すべて『配信上のネタでした』と訂正しなさい」
「……そんなの」
なずなの視界が、涙で歪む。
それは、Vtuberとしての死を意味していた。それ以上に、自分の心を、カナメへの想いを、「ノイズ」として自ら切除しろという命令だった。
なずなは、椅子を蹴るように立ち上がった。
「そんなの、嘘をつけって言うんですか!? 私の、本当の気持ちなのに!」
彼女の精一杯の叫びは、しかし、エリナの前では空しく響いた。
エリナは、冷たい目でなずなを見上げる。その表情は、最初から変わらない。
「Vtuberは商品よ。私情はリスク。きれいごとを配信して、お金を稼ぐ。それが仕事でしょう。あなたを守るためでもあるの。従いなさい」
そう言い放つと、エリナはツカツカとヒールを鳴らして会議室を出て行った。
バタン、というドアの閉まる音が、なずなの心臓に重く突き刺さった。
彼女は、その場に崩れ落ちた。床のカーペットの上に、涙のしみが、ぽつり、ぽつりと落ちる。
全部、終わった。
お姉さんへの憧れも、Vtuberとしての夢も、カナメへの想いも、すべて「商品価値のないノイズ」として切除され、ごみ箱に捨てられた。
どれだけそうしていたか。
やがて、彼女はよろよろと立ち上がり、死んだような足取りで、事務所を後にした。
彼女の心は、冷たい空虚で満たされていた。
――飼い猫のもちに、縋りつきたかった。
なずなは、逃げるようにして自宅アパート「コーポ・ハナミズキ」に帰り着いた。部屋のドアを開けると、もちが「にゃあ」と一声鳴いて、彼女の足元に駆け寄ってくる。
彼女は、倒れ込むように玄関に座り込み、もちをぎゅっと抱きしめた。ふわふわの毛と、小さな命の温もりだけが、今は唯一の心の支えだった。
「もち……あたし、どうしたらいいんだろう」
嘘の謝罪配信をして、Vtuberとして生き延びるか。
それとも、自分の想いを貫いて、すべてを失うか。
エリナが突きつけた二択が、頭の中でぐるぐると回り続ける。
スマホの時計を見る。
エリナが命じた、謝罪配信の締め切りが、刻一刻と迫っていた。
その時だった。
ピコン、という軽快な電子音が、静寂を破った。
個人SNSのDMだ。
差出人を見て、なずなの心臓が、どくんと跳ねた。
黒曜星アリア。
聞いたことのない名前。しかし、アカウントのフォロワー数は数十万を超えている。個人勢のVtuberのようだ。
震える指で、そのDMを開く。
『こんばんは、花芽なずな。は、あんたがカナメにたぶらかされてる可哀想な子?』
心臓を、冷たい手で直接握られたような気分だった。
続けて、一枚の画像が送られてくる。それは、若い女の子たちのグループ写真だ。中心で輝くように笑うトップタレントの隣で、今よりずっと幼い顔立ちのカナメと、銀髪の少女が、肩を組んで笑っている。
『このグループ、知ってるわよね。ルナティック・サークル。あんたの大事なカナメが、どうやって私たちを壊したか、教えてあげる』
メッセージは、それだけでは終わらなかった。
『今夜、話があるわ。カナメ・グレースの本当の姿を知りたくない?』
そう書かれたメッセージとともに、港区の雑居ビルにある「ブラックプリズム・スタジオ」の住所が送られてきた。
なずなは、息を呑んだ。
前回のエピソード、みどり公園で、カナメは苦しそうに言った。『あんた、私の何を知ってるって言うのよ』と。
(私、カナメさんの過去を、本当に何も知らない)
彼女が、なぜあんなにも自分を追い詰めるのか。なぜ「人を不幸にする」だなんて呟いたのか。その理由を、自分は何一つ知らないのだ。
なずなは、カナメに連絡を取ろうかと迷った。
しかし、指が止まる。
もし、これがカナメの、決して触れてほしくない過去だとしたら。自分から聞くことは、彼女をもっと傷つけてしまうかもしれない。
(でも、知らなきゃいけない)
なずなは決意した。
この警告が、善意なのか、悪意なのかはわからない。それでも、カナメの過去を知るただ一人の人間がいるのなら、そこに行かなければならない。
彼女は、ぐしゃぐしゃのワンピースを着替えもせず、再び玄関を飛び出した。
「ごめんね、もち。ちょっと行ってくる」
港区の指定された住所は、古びた雑居ビルの三階だった。
外観からは想像もつかない。重い鉄の扉を開けると、そこは漆黒の世界が広がっていた。床も壁も天井も、すべて黒。ゴシック調の重厚な家具と、いたるところに飾られた黒い薔薇。香も、ほのかに甘く、どこか退廃的な薔薇の香りが漂っている。
これが、ブラックプリズム・スタジオ。
「いらっしゃい。よく来たわね、可哀想な清楚ちゃん」
奥の配信ブースから、声がした。
黒曜星アリアが、ゆっくりと姿を現す。
腰まで届く長い銀髪は、複雑に編み込まれ、黒い薔薇の髪飾りがいくつも揺れている。右目は吸い込まれそうな深紅、左目は暗い紫色。そのオッドアイが、楽しそうに、しかし冷たく、なずなを品定めするように見つめていた。手には、黒い宝石があしらわれた指抜きグローブをはめている。
彼女は、まるで古くからの友を迎えるかのように、優雅に茶菓を勧めた。だが、その芝居がかった笑みの奥には、煮えたぎるような何かが隠されている。
なずなは、おそるおそる、黒い革張りのソファに腰を下ろした。
アリアは、向かいの椅子に座ると、まるで舞台の上の女優のように、ゆっくりと足を組み、口を開いた。
「単刀直入に言うわ。あんた、カナメのこと何も知らないでしょ」
彼女の声は、よく通る、それでいて氷のように冷たい毒を含んでいた。
「……はい。だから、ここに来ました」
なずなの正直な答えに、アリアは小さく笑った。
「純粋ね。だから、あの子はあなたを選んだのかしら。滑稽だわ」
アリアは、テーブルにタブレットを置き、スクリーンショットや当時のDMのログを次々となずなに見せ始めた。
「三年前。ルナティック・サークルは、私たちにとってすべてだった。中でも、トップタレントのセレスティアは、誰もが憧れる光だった。カナメは、そのセレスティアにとって一番の親友だったの」
アリアの声から、芝居がかった調子が消えた。
「でも、カナメは、セレスティアの個人情報をリークした。住所、家族構成、過去の病歴——すべてを、匿名で掲示板に晒した。それが、『セレスティア・ショック』の始まりよ。セレスティアは心を壊し、グループは解散。夢も、希望も、すべてあの女が壊したの」
なずなは、言葉を失った。
画面に映る、見る影もなく痩せ細り、虚ろな目をしたかつてのトップタレントの姿。彼女を罵倒する無数の心無い言葉。それはエリナが見せた、地獄そのものの記録だった。
「信じられないのはわかるわ。でも、これが現実。あの子は人を不幸にするだけで、誰も幸せにできない。私も——カナメを心から信頼していた私が、こうして身をもって証明してるのよ」
アリアの深紅と紫の瞳が、怒りと、それ以上の深い悲しみに揺れた。
彼女は、傷つけられた被害者だ。
なずなの頭の中は真っ白になった。
カナメが、そんなことをするはずがない。そう叫びたかった。
でも、目の前の証拠と、何よりアリア自身の深い傷は、嘘ではなかった。
しかし——それでも。
なずなは、テーブルの下でぎゅっと両手を握りしめ、顔を上げた。
涙でうるんだ、まっすぐな瞳で、アリアを見つめ返す。
「……アリアさんは、本当にカナメさんのことが、嫌いなんですね」
アリアの目が、一瞬、大きく見開かれた。
「でも」
なずなは続けた。
「それでも、私は、カナメさんを信じます。だって私、知ってるんです。十五年前、小さな公園で、泣いてる私を放っておけなかった、優しいお姉さんを。深夜の配信で、誰にも言えない孤独を、一人で抱えて泣いてた弱い人を。だから——どんな過去があったとしても、今のカナメさんは、私の大好きな人なんです」
それは、根拠のない「信じる」ではなかった。
自分の目で見てきた、彼女の「今」を信じる決意だった。
アリアは、しばらく驚いたように固まっていた。
それから、ふっと、さっきまでの憎しみに満ちた笑みとは違う、何かを諦めたような、かすかな笑みを浮かべた。
「……そう。それが、あなたの答えなのね。滑稽だわ。その純粋な恋心が、あの子には毒にしかならないのに」
アリアは立ち上がり、背を向けた。
「今ならまだ引き返せるわ。あの子を忘れて、普通のVtuberに戻りなさい。これが、私からの最後の警告よ。帰って」
それは、突き放すような言葉だったが、なずなには、どこか泣いているようにも聞こえた。
なずなは、黙って立ち上がり、スタジオを後にした。
外はもう、すっかり夜だった。
帰りの電車の窓には、疲れ切った自分の顔が映っている。
アリアが見せた、残酷な証拠の数々。カナメが、親友を裏切り、すべてを壊したという事実。そして、深く傷つき、憎しみに囚われたアリアの目。
それらが、頭の中で、ぐるぐると渦を巻く。
怖い。
もし、アリアの言うことがすべて本当なら。自分のこの想いが、本当にカナメを、自分自身を、もっと深く傷つけることになるかもしれない。
(カナメさん……)
でも。
それでも、なずなの脳裏には、別の光景が蘇る。みどり公園で、自分をギュッと抱きしめてくれた温かい腕。深夜配信で「誰かにとっての一番になれる資格なんてない」と泣いていた、孤独な声。
あの温もりと、あの孤独は、嘘じゃない。
自宅アパートに戻ると、もちが「にゃあ!」と大きな声で鳴きながら、玄関に駆け寄ってきた。
「……ただいま、もち」
なずなは、もちを抱き上げ、冷たくなった体をその毛皮に埋める。
「私、やっぱりカナメさんのこと、好きだよ。世界で一番、大好き。でも……怖いよ。すごく、怖い」
もちは、何も言わず、ただなずなの手をざらりとした舌で舐めた。
机の上の時計が、無機音を立てて時を刻んでいる。
エリナが命じた、嘘の謝罪配信の締め切りが、もうすぐそこまで迫っていた。
(私、どうすれば——)
なずなは、スマホの画面を見つめた。
嘘をついて、すべてをなかったことにすれば、Vtuberとしての居場所は守られる。カナメに迷惑をかけることもなくなる。アリアの言う「引き返す」とは、きっとそういうことだ。
でも、そのボタンを押すことが、今度こそ本当に、カナメを、そして自分自身を、決定的に裏切る行為になる。
彼女は、配信アプリの「配信開始」ボタンを見つめたまま、長い間、身じろぎ一つできずにいた。
外では、夏の終わりを告げる虫の声が、かすかに響いていた。Noveliaとは?
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