花芽なずなは、嘘がつけない
花芽なずなは、人気Vtuberグループ「Eclipse Palette」の清楚ピュアなアイドル。しかし彼女には誰にも言えない秘密があった。グループメイトである、派手なギャル系Vtuber、カナメ・グレースに、本気でどうしようもなく恋をしているのだ。
コラボ生配信中、なずなはうっかり本音を漏らしてしまう。冗談ではなく、真っ赤な顔で涙を流しながら、何千人もの視聴者の前で「カナメちゃんが好きです!」と告白してしまったのだ。チャット欄は大炎上。しかし、怒りの声ではなく、ファンたちは大興奮。「ガチ百合配信キター!」「清楚アイドル×ギャルは神ってる!」
本当の厄介事はファンではなかった。目ざとい事務所マネージャー、黒鉄エリナが激怒しているのだ。「契約違反だ! タレント同士の恋愛は厳禁だぞ!」と彼女は吠える。なずなは謝罪配信を命じられてしまう。
しかし、なずなの想いは間違いなんかじゃなかった。いじめられっ子だった幼い頃、近所に住む年上の女の子にいつも助けられていた。その女の子こそが、今のカナメ・グレースだったのだ。初めてのコラボ配信で、なずなはすぐに彼女だと気づいた——それは、ずっと探し続けて
花芽なずなは、嘘がつけない - 嘘はつけない!どん底謝罪配信で全部ブチ壊す
コーポ・ハナミズキの一室に、虫の声がかすかに響いている。
壁に貼られた防音パネルが、部屋の空気を重く閉じ込めていた。配信用のモニターは黒く沈み、マイクは倒れたままだ。
花芽なずなは、畳の上に座り込んでいた。
手に握ったスマホの画面が、じわりと濡れている。
「……どうして、出てくれないんですか」
声が震えた。
あの日、黒曜星アリアのスタジオから帰ってから、もう何度目の着信かわからない。十回? 二十回? 数えるのをやめたのは、きのうの夜だ。コール音が無機質に繰り返されるたび、胸の奥の何かが少しずつ、少しずつ削られていく。
(カナメさん……)
心の中で名前を呼ぶだけで、喉の奥が熱くなった。
アリアの言葉が、頭の中でぐるぐると渦を巻いている。
『カナメは、親友を裏切ったのよ』
『あなたの純粋な恋心なんて、あの子には毒にしかならない』
『今ならまだ引き返せるわ』
違う。絶対に違う。
(だって、みどり公園で……)
十五年前、泣いている私を放っておけなかった優しいお姉さん。深夜配信で「誰かにとっての一番になれる資格なんてない」と、一人で泣いていた弱い人。私の手を握って、「思ってたより悪くない」と照れたように笑った、あの人。
そのすべてが、演技だなんて——絶対に、あるわけがない。
だから、確かめたかった。
アリアから聞いた「セレスティア・ショック」の話を、カナメ自身の口から聞きたかった。本当は何があったのか、どうして親友を裏切ったと言われるのか。
でも。
スマホの画面に、最後に送ったメッセージが表示されている。
『カナメさん、話がしたいです。アリアさんから、セレスティア・ショックのことを聞きました。本当に、あなたが親友を裏切ったんですか?』
既読はつかない。
着信の履歴だけが、虚しく積み重なっていく。
「……信じてるのに」
声が、涙でぐしゃぐしゃに濡れた。
なずなは膝を抱えた。冷たい畳の感触が、素足にしみる。
「にゃあ」
白い猫のもちが、心配そうにすり寄ってきた。ふわふわの毛が、なずなの震える手に触れる。
「もち……私、もうどうすればいいかわかんないよ」
なずなは、もちを抱きしめた。
小さな体が、腕の中で温かい。猫の心臓の鼓動が、規則正しく伝わってくる。でも、その温もりさえも、今は胸の冷たさを消してはくれなかった。
(カナメさんは、私から逃げてる)
それが、何よりの答えのような気がした。
アリアの言葉を否定したいのに、カナメは何も言ってくれない。私の「信じる」という気持ちは、空回りして、宙に浮いて、どこにも届かない。
(本当に私……カナメさんのこと、何も知らないのかも)
その考えが、鋭いガラスの破片みたいに胸に刺さった。
なずなは、スマホを畳に置いた。
画面が暗転する。
部屋の中に、沈黙が降りた。
壁の時計が、カチ、カチ、と無機音を刻んでいる。
午後九時四十分。
エリナが命じた、嘘の謝罪配信の締め切りまで、あと二十分。
その時——
ブブブブブッ。
畳の上で、スマホが震えた。
なずなの肩が、びくっと跳ねる。
画面を見た。
着信。
黒鉄エリナ。
一瞬、指が凍りついた。
(出たくない)
頭ではわかっているのに、指は勝手に動いていた。タップ。通話開始。
「……遅いわね」
耳に飛び込んできた声は、氷を噛むように冷たかった。
「午後十時までに謝罪配信を開始することは、あなたも了承したはずよ」
「……はい」
なずなは、声を絞り出した。
「もし、この命令に従わなければ——わかっているわね。あなただけの問題じゃない。エクリプス・パレット全メンバーの活動にも影響が出る。あなたのワガママで、他の四人のキャリアを潰すつもり?」
「……っ」
息が、止まった。
他のメンバーの顔が、脳裏に浮かぶ。みんな、私がグループに加入した時、優しく迎えてくれた。コラボ配信で励ましてくれた。誕生日には、サプライズでお祝いもしてくれた。
その、全員を——私のせいで。
「選択肢は二つよ。嘘でもいいから謝罪配信を開いて、すべてを『配信ネタ』で片付けるか。それとも、何もかも失うか」
エリナの声は、一切の感情を含んでいなかった。
ただ、事実だけを、冷たい数字のように並べている。
「数字がすべてよ。それが現実。あなたの恋愛感情は、この業界ではただのノイズなの」
「……わかりました」
なずなは、うつむいたまま言った。
声は、自分でも驚くほど小さかった。
「やります。謝罪配信」
「そう。賢明な判断ね。十時ちょうどに、配信を開始しなさい。用意した謝罪文は、共有フォルダに入っているわ」
ブツッ。
通話が切れた。
部屋に、静けさが戻る。
なずなは、スマホを握りしめたまま、動けなかった。
指が、小刻みに震えている。
「……ごめんね、もち」
膝の上の猫が、不思議そうに首をかしげた。
なずなは、ゆっくりと立ち上がった。
配信機材の前に座る。
モニターの電源を入れた。青白い光が、薄暗い部屋に広がる。
エリナから送られた謝罪文を、タブレットに表示させる。
無機質な文字が、整然と並んでいた。
『この度は、私、花芽なずなの不適切な発言により、皆様に多大なるご迷惑とご心配をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます』
『私が配信中に発言した、カナメ・グレースへの恋愛感情は、すべて配信上の演技であり、事実ではありません』
『私の軽率な行動により、カナメ・グレース、ならびにエクリプス・パレットのメンバー、そしてファンの皆様を裏切る結果となったことを、心より反省しております』
一文字、一文字、目で追うたびに——胸の奥が、ぎしぎしと軋む音がした。
(これが、本当の裏切りだ)
カナメを、裏切る。
自分の、本当の気持ちを、裏切る。
でも。
(やらなきゃ)
やらなきゃ、みんなに迷惑がかかる。
なずなは、震える指で配信アプリを立ち上げた。
OBSを起動。アバターの動作確認。マイクの音量チェック。
すべて、機械的に。感情を、殺して。
午後十時。
なずなは、配信開始ボタンを押した。
——その瞬間。
画面の向こう側が、爆発したかのように動き出した。
視聴者数が、跳ね上がる。
五千。一万。二万。三万——数字が、目まぐるしく増えていく。
コメント欄が、滝のように流れ始めた。
『来たぞ』
『嘘つき』
『裏切り者』
『ガチじゃなかったんかい』
『清楚キャラのくせに恋愛してたんかい』
言葉の一つ一つが、鋭いナイフのようだった。
なずなは、震える手で、用意された謝罪文をカンペに表示した。
喉が、からからに渇いている。
「……こ、こんばんは。花芽なずなです」
声が、掠れた。
コメントの流れが、さらに早くなる。
『声ちっさ!』
『泣いてる?』
『演技じゃね?』
なずなは、必死で文字を追った。
「……この度は、私の、ふ、不適切な発言により……」
言葉が、喉に張り付いて出てこない。
視聴者数が、八万を超えた。
過去最高の数字だ。
でも、その一つ一つが、自分を断罪するために集まった観衆のように思えた。
『泣くなら最初からやるな』
『失望した』
『もう登録解除するわ』
なずなは、次の一文を見た。
『カナメ・グレースさんへの私の発言は、すべて配信上の演技でした』
この、一文。
口を開いた。
「カ、カナメ・グレースさんへの、私の……発言は……」
声が出ない。
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
目の前が、涙でにじんで、文字が読めなくなった。
(言えない)
心の底から、叫び声が聞こえた。
(そんなこと、言えるわけがない)
だって、あれは——私の、本当の、気持ちだった。
十五年間、ずっと抱えてきた、初恋だった。
それを、嘘だなんて。演技だったなんて。
言えるわけが、ない。
コメント欄が、ざわつき始める。
『あれ?』
『なんかヤバくね?』
『泣いてる?』
『フリーズした?』
なずなは、動けなかった。
声も、指も、涙も——何もかもが、止まらなかった。
画面の前で、ただ、涙を流し続けた。
一分。二分。三分——。
沈黙が、配信を支配した。
視聴者数は、減らない。むしろ、増えている。
何かが起きるのを、八万人が、固唾をのんで見守っていた。
その時——。
なずなの中で、何かが、プツンと切れた。
顔を上げた。
涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃの顔。
でも、目だけは、まっすぐにカメラを見つめていた。
「ごめんなさい……っ」
声が、震えた。
「やっぱり……う、嘘は……つけません!!」
絶叫だった。
喉が裂けるかと思うほどの、叫び声。
そのまま、なずなは配信画面のケーブルを引き抜いた。
ぶっつり。
モニターが暗転する。
コメントも、視聴者数も、すべてが消えた。
部屋に、静寂が戻る。
なずなは、その場に崩れ落ちた。
「……う、うぅ……ふ、ぅぅ……」
声にならない嗚咽が、防音パネルに吸い込まれていく。
もう、何もかも終わった。
Vtuberも、カナメとの関係も、全部。
——その時。
ブブブブブッ。
畳に落ちたスマホが、再び震えた。
着信。
画面に表示された名前。
黒鉄エリナ。
なずなは、震える指で、タップした。
「……今すぐ、事務所に来なさい」
エリナの声は、怒りを通り越して、静かだった。
それが、かえって怖かった。
夜の渋谷は、ネオンがギラギラと輝いていた。
なずなは、スウェットのまま、コンビニの袋を抱えて、ふらふらと歩いていた。タクシー代がもったいなくて、電車に乗った。
周りの視線が、痛い。
目が赤く腫れているのが、自分でもわかる。
(どうせ、もうVtuberじゃなくなるんだ)
自嘲気味に、口元が歪んだ。
コランダムタワーは、夜でも煌々と明かりがついていた。
まるで、巨大な墓標みたいだ、と、ぼんやりと思う。
十二階。プリズムゲート・プロダクション本社。
フロアは、誰もいなかった。
ただ、会議室「スペクトル」だけに、明かりがついている。
重いドアを開けた。
「……入りなさい」
エリナは、あの日と同じ場所に座っていた。
後ろでシニヨンにまとめた漆黒の髪。一筋の乱れもない。切れ長の黒い瞳は、すべてを見透かすように、なずなをじっと見据えている。
ただ、いつもと違ったのは——彼女の前に、一枚の書類が置かれていたことだ。
「座って」
なずなは、言われるままに、椅子に座った。
足が、震えている。
エリナは、書類をなずなの方に滑らせた。
「花芽なずな。あなたに、プリズムゲート・プロダクションからの最終通告を言い渡すわ」
なずなは、書類を見た。
『無期限活動休止処分通知書』
『エクリプス・パレット除名通告書』
文字が、ぐにゃりと歪んで見える。
「これであなたのVtuber生命は終わったわ。機材とアカウントは、明日の正午までに返却しなさい」
淡々と、死刑宣告のように。
なずなは、書類を見つめたまま、動けなかった。
でも——。
胸の奥底から、何かが込み上げてくる。
(やっぱり、私は)
顔を上げた。
「……エリナさんは」
声が震えた。
「私が嘘をつけないことくらい、本当は、わかってたんじゃないですか……!?」
涙が溢れた。
エリナの表情が、かすかに——ほんのわずかに、揺れた。
彼女は、しばらく沈黙した。
それから、とても小さな声で、言った。
「……わかってた」
なずなは、息を呑んだ。
「わかってたからこそ、あなたを守りたかった。あの子のように——何もかも失う前に」
エリナの手が、左胸のブローチに、そっと触れた。
古びた、小さな花の飾り。
それを見た瞬間——なずなは、理解した。
(この人も、誰かを失ったんだ)
セレスティア・ショックで。大切なタレントを。
だから、こんなにも、必死で。
「……以上よ。部屋を出なさい」
エリナは、いつもの無表情に戻り、立ち上がった。
それ以上、何も言わず、会議室を出て行く。
後ろ姿は、いつもより、少しだけ小さく見えた。
なずなは、一人、会議室に取り残された。
書類を、握りしめる。
紙が、くしゃりと音を立てた。
自宅アパートに戻ったのは、深夜を過ぎていた。
なずなは、電気もつけずに、畳に突っ伏した。
「……もう、Vtuberじゃなくなっちゃった……」
「にゃあ」
闇の中から、もちが近づいてくる。
「カナメさんにも、嫌われた……」
着信拒否された着信履歴が、脳裏に甦る。
「何もかも……終わった……」
声が、涙に溶けて消えた。
なずなは、もちを抱きしめた。
猫の温かい体が、震える腕の中で、じっとしている。
「私……バカだよね。正直でいたかっただけなのに。嘘をつきたくなかっただけなのに……」
なずなは、畳に顔を埋めた。
涙が、畳の目に染み込んでいく。
もう、何もかも、どうでもよかった。
——その時。
ブブブブブッ。
畳の上で、スマホが震えた。
着信。
画面を見た。
黒曜星アリア。
なずなは、ぼんやりと、その名前を見つめた。
指が、勝手に動く。
タップ。
「……配信、見てたわよ」
アリアの声は、楽しそうで、残酷だった。
「最後の最後でブチ切れて、配信ぶった切るなんて——最高に滑稽だったわ。これであなたも、この世界で『正直すぎる』ってことがどういうことか、身をもって知ったでしょ」
なずなは、黙っていた。
涙が、止まらなかった。
「これでわかったでしょ。あなたの正直さは、この世界ではただの凶器なのよ。自分を傷つけて、周りを傷つけて、何もかも壊すだけ」
「……違います」
なずなは、絞り出すように言った。
「……違う。絶対に、違う」
「違わないわ。だって、カナメを信じるって言ったけど——あの子自身が、あなたから逃げたじゃない。着信拒否して、何も答えない。それが、カナメの出した答えよ」
アリアの言葉が、ナイフのように胸に突き刺さる。
「……それは」
「これ以上、カナメに関わらないで。あなたのその『純粋な恋心』は、あの子を追い詰めるだけ。あの子を、もう苦しめないで」
ブツッ。
通話が切れた。
なずなは、スマホを取り落とした。
畳の上で、画面が暗転する。
「……あ、ぁ……うぅ……」
声が、喉の奥で詰まった。
涙が、次から次へと溢れて、畳に染みを作る。
違う。
違うのに。
何が違うのか、もう、自分でもわからなかった。
——その時。
ブブッ。
今度は、短い通知音。
メッセージ。
なずなは、涙で滲む目をこすりながら、スマホを拾い上げた。
画面を見る。
差出人の名前を見た瞬間——心臓が、ドクンと跳ねた。
カナメ・グレース。
震える指で、メッセージを開く。
『今からそっちに行く。話さなきゃいけないことがある』
たった、それだけ。
でも。
「……か、なめ、さん」
なずなは、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、玄関に走った。
ドアを開ける。
外は、深い闇。
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