ネオポルテ・リグレット ―渋谷ハルは二度死ぬ―
ネオポルテ・リグレット ―渋谷ハルは二度死ぬ―
渋谷ハルはネオポルテのリーダーであり、仲間を守り続ける男だった。しかし、その優しさは少しずつ彼自身の命を削っていた。ある日、絶え間ない配信スケジュールと精神的な疲労に押しつぶされ、彼は倒れてしまった。目を覚ますと、そこは見知らぬ真っ白な空間。そこに、自称『運命の管理者』である少女クロエが現れた。彼女は言った。「あなたは三ヶ月後に死ぬはずだった。でも、やり直すチャンスをあげたい」ハルは笑い飛ばした。「なんだその冗談は?」しかしクロエは真剣な顔で続けた。「あなたの死はネオポルテの崩壊を招く。そして、大切な仲間たちが次々と後を追うことになる」ハルは言葉を失った。「もし、時間を戻せたら……」と呟く。クロエは頷いた。「ただし条件がある。あなたは一度死んだ者として扱われる。生前に受けた傷や疲労が、何度もあなたを襲う。そして、あなたの死はなかったことにはならない」「構わない」ハルは即答した。クロエは微笑んだ。「ならば、あなたを一ヶ月前に送る。そこで、あなたの死の原因を断ち切らなければならない」そして、ハルは一ヶ月前の過去へと投げ戻された。そこには、ま
ネオポルテ・リグレット ―渋谷ハルは二度死ぬ― - 消えていく仲間 ―設立の夜と消せない違和感―
夜が明ける。渋谷の街が、また動き出す。
ハルは、ネオポルテ本社ビルの二階、配信スタジオの前に立っていた。明るい茶色の髪は、今朝も寝癖が跳ねている。琥珀色の瞳の下のクマは、この二週間でさらに濃くなった。
(タイムリープから、二週間か)
あの真っ白な空間で、クロエと名乗る少女に会ってから。三ヶ月後に死ぬと告げられてから。そして、一ヶ月前のこの世界に戻ってきてから。
ハルは、右手首の古いリストバンドを、左手の指でなぞった。布地は擦り切れ、色は褪せている。三年前、ネオポルテを立ち上げた初期メンバー五人でお揃いで買ったものだ。
(みんなを、守らなきゃ)
その言葉が、胸の奥で重く響く。
ハルは、ICカードをかざした。ピッ、という電子音。ロックが外れる。
スタジオの中は、ひんやりとしていた。防音壁に囲まれた十五平方メートルほどの部屋。高性能PC、マイク、カメラ、照明。一スタジオあたり約三百万円相当の機材が並ぶ。
ハルは、パソコンの電源を入れた。
画面が起動する。彼は、サーバーに保存されているアーカイブデータの一覧を開いた。
(先月分の欠損。毎週火曜の深夜、三時間分)
二週間前、タイムリープ直後に見つけた違和感。データ消失は、システムエラーではなかった。誰かが、意図的に消している。
ハルは、欠損パターンを独自に解析していた。消えているのは、毎週火曜の深夜、午前零時から三時までの三時間分。ぴったり同じ曜日、同じ時間帯。
(規則的すぎる。これは、習慣だ)
誰かが、毎週火曜の深夜に、このスタジオに来ている。
ハルの胸の奥で、嫌な予感が、小さく脈打った。
「……ハルさん」
声がして、振り返る。
スタジオの入り口に、機材管理責任者の田中義明が立っていた。四十五歳。元音響技師で、白髪交じりの短髪に、無精ひげ。作業着姿で、首にはタオルを巻いている。
「おはようございます。また、データの確認ですか」
田中は、穏やかな声で言った。
「ああ。ちょっと、気になることがあってさ」
ハルは、画面から目を離さずに答えた。
田中が、隣に来て、画面を覗き込む。
「……また、火曜の深夜ですね」
田中の声が、わずかに低くなった。
ハルは、顔を上げた。
「田中さん。この時間帯、誰かがスタジオに来てるって心当たり、ないか」
田中は、一瞬、口ごもった。
「……実は」
田中は、首に巻いたタオルで、額の汗を拭った。
「レイさんが、週に一度、深夜勤務の鍵を借りていたことがあるんです」
ハルの指が、止まった。
「レイが?」
「ええ。先月のことです。『機材チェックのためだよ』とおっしゃって。深夜に一人で、スタジオに入られていたようです」
(レイが、深夜に、一人で)
ハルの頭の中で、何かが、ゆっくりと回り始める。
「……何か、変わった様子はなかったか」
「いえ、特に。ただ、いつもより静かでしたね。挨拶はされるんですが、何というか、空気が張り詰めてるというか」
田中は、言葉を選ぶように言った。
「……そうか。ありがとう、田中さん」
「いえ。何かお役に立てたなら」
田中は、軽く会釈をして、スタジオを出て行った。
ハルは、一人、パソコンの前に残った。
画面に映る、欠損したデータの一覧。
毎週火曜の深夜。三時間。
(レイが、機材チェックのために鍵を借りていた)
(機材チェックのためだよ)
ハルは、自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返した。
「……機材チェックのためだよ」
声に出して、呟く。
でも、心臓の鼓動が、止まらない。
ドクン。ドクン。ドクン。
胸の奥で、何かが、早鐘のように鳴っている。
(レイは、俺の一番の仲間だ。疑うなんて、おかしい)
ハルは、首を振った。
パソコンを閉じる。立ち上がる。
(今は、やるべきことがある)
ハルは、スタジオを後にした。
——
四階。タレントラウンジ。
ハルが、ラウンジの前を通りかかった時だった。
「ハルくん」
小さな声が、ハルを呼び止めた。
振り返る。
高瀬ミナが、ラウンジの隅に立っていた。二十六歳。ネオポルテの初期メンバーの一人で、設立時からの五人組の紅一点だ。肩までの黒髪を、後ろで一つに束ねている。白いブラウスに、グレーのカーディガン。小柄で、どちらかと言えば地味な印象の女性だった。
「ミナ。どうしたんだ、こんなところで」
ハルは、笑顔を作った。
ミナは、周囲を気にするように、視線を走らせた。
「……少し、話したいことがあるの。二人きりで」
ミナの声は、いつもより低く、真剣だった。
ハルは、ラウンジの奥の、人目の少ないソファへ、ミナを促した。
二人で、向かい合って座る。
ミナは、膝の上で、両手をぎゅっと握りしめていた。指先が、わずかに白くなっている。
「どうしたんだ、改まって」
ハルは、できるだけ優しい声で言った。
ミナは、一度、深く息を吸った。
「……最近、レイさんの様子、おかしい気がするの」
ハルの笑顔が、一瞬、固まった。
「レイが?」
「うん。先週の会議の時。ハルくんが発言してる間、レイさん、ずっと手元のノートに何か書いてた。私、たまたま隣の席で。ちらっと見えたんだけど」
ミナは、声を潜めた。
「ハルくんの、発言内容を、記録してるみたいだった」
ハルは、黙った。
(レイが、俺の発言を記録?)
「考えすぎだよ」
ハルは、笑って見せた。
「レイは、俺たちを一番支えてくれてるじゃないか。会議のメモなんて、マネージャーなら普通だろ」
「……そう、かな」
ミナは、うつむいた。
「ミナ。レイは、設立からずっと、俺たちのことを支えてくれてるんだ。お前だって、知ってるだろ」
ハルは、ミナの目を見て言った。
ミナは、顔を上げた。その瞳は、真剣だった。
「私も、そう信じたい。レイさんは、いい人だって。私も、そう思ってた」
ミナの声が、震えた。
「でもね、ハルくん。……二年前の、アイツの失踪と、なんか重ならない?」
ハルは、凍りついた。
(二年前の、アイツの失踪)
頭の中で、記憶が、一気に蘇る。
二年前。ネオポルテが、ようやく軌道に乗り始めた頃。初期メンバーの一人が、突然、姿を消した。
連絡が取れなくなって、一週間。その後、辞表が、郵送で届いた。
理由は、書かれていなかった。
以来、そのメンバーとは、一度も連絡が取れていない。
(あの時も、前触れがあった)
(小さな違和感が、積み重なって、それから、突然)
ハルは、唾を飲み込んだ。喉が、張り付くように渇いている。
「……ミナ」
ハルは、声を絞り出した。
「あの時のことは、また別だ。レイは、あの時、一番心配してくれてたじゃないか」
「……うん。そうだね。レイさん、あの時、すごく動いてくれてた」
ミナは、小さく頷いた。
「ごめん、ハルくん。変なこと言って。私、最近、ちょっと神経質になってて」
ミナは、力なく笑った。
「気にするな。でも、何かあったら、一人で抱え込むなよ。俺が、何とかするから」
ハルは、ミナの肩を、ポンと叩いた。
ミナは、ハルの手に、そっと自分の手を重ねた。
「……ハルくんは、優しすぎるよ。それで、いつも、自分を削ってる」
ミナの声は、かすれていた。
ハルは、何も言えなかった。
ミナは、立ち上がった。
「ありがとう。話して、少し楽になった。じゃあ、私、仕事に戻るね」
ミナは、ラウンジを出て行った。
ハルは、ソファに座ったまま、しばらく動けなかった。
(ミナの言う通りだ)
(俺は、レイを信じたい。信じなきゃいけない)
(でも、二年前のことが、頭から離れない)
ハルは、右手首のリストバンドを、きつく握りしめた。
——
五階。代表室。
ハルは、デスクの前に立っていた。
部屋の隅に、古いロッカーがある。ハルは、そのロッカーを開けた。
中から、一冊のファイルを取り出す。
三年前の、設立資料だ。
ハルは、デスクにファイルを置き、ページをめくった。
最初のページ。初期メンバー五人の写真。
ハル。レイ。ミナ。それから、あと二人。
みんな、若かった。笑っていた。
(この写真を撮った日、みんなで、夢を語った)
ハルは、写真を、指でなぞった。
次のページ。中古機材の領収書。
ハルが、全財産をはたいて買った、最初の配信機材。型落ちのPC、中古のマイク、傷だらけのカメラ。
(あの頃は、何もかもが、手探りだった)
さらに、ページをめくる。
資本金出資比率の書類。
ハルの指が、止まった。
そこには、こう記されていた。
御剣レイ 45%
「……四十五、パーセント」
ハルは、声に出して、呟いた。
(レイが、一番多く、出してくれてたのか)
ハルは、知らなかった。
設立当時、資金繰りに必死で、出資比率の詳細なんて、気にしている余裕がなかった。
(それなのに、表舞台に立つのは、いつも俺だった)
ハルの胸に、罪悪感が、じわりと広がる。
(レイは、俺のことを、どう思っていたんだろう)
ハルは、ファイルを閉じた。
目を閉じる。
三年前の、あの夜のことが、瞼の裏に浮かんだ。
——
三年前。渋谷の、レンタルオフィスの一室。
六畳ほどの狭い部屋に、五人で肩を寄せ合っていた。
机の上には、コンビニで買った安い酒と、スナック菓子。
壁には、手書きの「ネオポルテ設立記念」と書かれた紙が、ガムテープで貼られていた。
「俺たち、これから、でっかいことやろうぜ」
ハルは、紙コップを掲げた。
「次世代のVTuber文化を、俺たちが作るんだ」
「おお!」
みんなが、紙コップを掲げた。
「ハルくん、熱いね!」
ミナが、笑った。
「でも、本当にやれるのかな。私たち、何も持ってないよ」
「持ってるだろ。夢と、やる気と、仲間が」
ハルは、笑った。
「……君は、本当に、そういう男だよ」
レイが、静かに言った。
「ハル。君が先頭に立ってくれ。僕は、後ろから支える。それでいいかい」
「もちろんだ。レイがいてくれるなら、百人力だ」
ハルは、レイの肩を抱いた。
「みんなで、トップを目指そう」
「「「トップを目指そう!」」」
五人の声が、狭い部屋に響いた。
あの夜の、熱。
あの夜の、絆。
あの夜の、約束。
——
ハルは、目を開けた。
(あの夜のことを、レイが忘れるはずがない)
(レイは、俺の仲間だ。信じるんだ)
ハルは、拳を握りしめた。
(信じ続ける。俺が、あいつを信じなきゃ、誰が信じるんだ)
ハルは、ファイルを、ロッカーに戻した。
——
夜。
道玄坂の、居酒屋「たぬき」。
渋谷の繁華街の中でも、少し路地に入った場所にある、小さな店だ。赤い提灯が、店先で揺れている。
ハルは、カウンターの隅の席で、レイを待っていた。
店の中は、サラリーマンや若者で賑わっていた。焼き鳥の煙と、ビールの匂いが、空気に混ざる。
「ハル、お待たせ」
レイが、店に入ってきた。
黒髪の七三分けを、ビシッと整髪料で固めている。冷たい灰色の瞳。左耳に小さなピアス。黒いスーツを、隙なく着こなしていた。
「いや、俺も今来たとこだ。座れよ」
ハルは、隣の席を、ポンと叩いた。
レイは、ハルの隣に座った。
「突然どうしたんだ。君から飲みに誘うなんて、珍しいね」
レイは、右手で眼鏡を押し上げる癖で、眼鏡の位置を直した。
「たまには、いいだろ。お前と、ゆっくり飲みたかったんだ」
ハルは、笑った。
店員が来て、二人は、ビールを注文した。
ジョッキが、カウンターに置かれる。
ハルは、ジョッキを手に取った。
「……レイ」
ハルは、ビールの泡を見つめながら言った。
「お前がいてくれて、よかった。俺、一人じゃ、何もできなかった」
ハルの声は、少し震えていた。
レイは、ハルの方を向いた。
「……急に、どうしたんだい」
レイの声は、穏やかだった。
「いや、今日、設立の時の資料を見てさ。お前が、一番多く出資してくれてたんだなって、今さら知って。それで、色々思い出したんだ」
ハルは、ビールを一口飲んだ。
「あの頃、俺は、ただ必死で。周りが見えてなかった。お前に、どれだけ支えられてたか、ちゃんと分かってなかった」
「……ハル」
「でも、今なら分かる。お前がいたから、俺は、ここまで来れた。ネオポルテは、お前がいたから、ここまで大きくなったんだ」
ハルは、レイの目を見た。
「ありがとう、レイ。本当に、ありがとう」
レイは、しばらく、ハルの目を見つめていた。
それから、ふっと、微笑んだ。
「……俺こそ、君がいてくれてよかったよ」
レイは、ジョッキを持ち上げた。
「君が先頭に立ってくれたから、僕は、ここまで来れた。君のカリスマ性がなければ、ネオポルテは、とっくに潰れてた」
「カリスマ性なんて、大げさだよ」
ハルは、照れたように笑った。
「大げさじゃないさ。君は、人を惹きつける力がある。僕には、ないものだ」
レイの灰色の瞳が、一瞬、何かを映した。
「……乾杯しよう。ネオポルテの、これからに」
レイは、ジョッキを掲げた。
「ああ。ネオポルテの、これからに」
ハルも、ジョッキを掲げた。
カチン。
グラスが、小さく鳴った。
二人は、ビールを飲んだ。
「そういえば、設立の日のこと、覚えてるかい」
レイが、笑いながら言った。
「あのレンタルオフィス、本当に狭かったね。五人で入ると、身動きも取れなかった」
「あったあった。壁に、ガムテープで紙貼ってさ。『設立記念』って。今思えば、笑えるよな」
ハルは、声を上げて笑った。
「でも、あの紙、僕、まだ持ってるんだよ」
「え、マジで?」
「ああ。記念にね。あの日の熱を、忘れたくないから」
レイは、穏やかに笑った。
「……レイ。お前は、本当に、すごいよ。俺には、できないことばかりしてくれる」
ハルは、心から言った。
「買いかぶりだよ。僕は、君の隣で、少し手伝ってるだけさ」
「謙遜するなよ。お前がいたから、俺は、安心して前を向けたんだ」
ハルは、レイの肩を叩いた。
レイは、微笑んだ。
でも、その笑顔の奥で、何かが、冷たく光ったような気がした。
(……気のせいだ)
ハルは、ビールを飲み干した。
「おかわり、頼もうぜ」
「ああ、そうだね」
二人は、夜が更けるまで、設立当初の思い出話を続けた。
ハルは、レイの笑顔を見ながら、心の底から、ほっとしていた。
(よかった。レイは、変わってない)
(俺の、知ってるレイのままだ)
ハルの胸の中で、二週間前から燻っていた疑念が、ゆっくりと溶けていく。
(信じてよかった)
ハルは、心の中で、何度も繰り返した。
——
会計を済ませ、二人は店を出た。
道玄坂の雑踏は、夜のピークを迎えていた。若者たちの笑い声、酔っ払いの怒鳴り声、遠くのクラクション。ネオンの光が、すべてを、赤や青に染めている。
「今日は、本当に楽しかった。ありがとう、ハル」
レイが、ハルに向かって言った。
「俺もだ。また、行こうな」
ハルは、笑顔で応えた。
その時だった。
人混みが、一瞬、二人の間を分断した。
ハルは、レイの姿を見失いかけて、視線を走らせる。
そして、見つけた。
数メートル先。ネオンの光の下。
レイの横顔。
その口元に、浮かんでいたのは——
嘲笑。
冷たい、氷のような、嘲りの笑み。
ハルの胸が、凍りついた。
(今、レイは、笑ったのか?)
(あんな風に、嘲るように?)
ハルは、人混みをかき分けて、レイに追いついた。
「……レイ」
声をかける。
レイが、振り返った。
その顔は、いつもの温厚な笑顔に戻っていた。
「どうした、ハル? そんな顔して」
レイは、首をかしげた。
「いや……今、笑ったか?」
「笑った? そりゃ、笑うこともあるよ。楽しかったからね」
レイは、穏やかに笑った。
「……そうだよな。俺の見間違いだよな」
ハルは、自分に言い聞かせるように、呟いた。
「疲れてるんだよ、君は。今日は、早く帰って休みな」
レイは、ハルの肩を、ポンと叩いた。
「ああ……そうする。お前も、気をつけて帰れよ」
「うん。おやすみ、ハル」
「おやすみ」
二人は、雑踏の中で、別れた。
ハルは、レイの背中を、しばらく見つめていた。
黒いスーツの背中が、人混みに溶けていく。
(見間違いだ)
(あれは、ネオンの光のせいだ)
ハルは、心の中で、何度も繰り返した。
でも、胸の奥底に、冷たい棘が、また、刺さっていた。
——
翌朝。
ハルは、ネオポルテ本社ビルに出社した。
一階のエントランスを抜け、四階へ向かう。
タレントラウンジの前を通りかかった時、ハルは、足を止めた。
ミナのデスクが、空だった。
いつもなら、朝一番に、パソコンに向かっているはずの彼女の姿がない。
デスクの上は、きれいに片付けられていた。
(……休みか?)
ハルは、近くにいたスタッフに声をかけた。
「なあ、ミナは?」
「あ、代表。それが、今朝、辞表を出したらしくて。連絡先も、変えちゃったみたいで……」
スタッフは、困ったような顔で言った。
「……辞表?」
ハルの頭が、真っ白になった。
「はい。今日の朝、マネージャー室に、封筒が置いてあったそうです。それ以来、連絡が取れなくて」
「……そうか。分かった。ありがとう」
ハルは、声を絞り出した。
スタッフが、去っていく。
ハルは、ミナのデスクの前に、立ち尽くした。
(ミナが、辞めた?)
(突然、連絡も絶って?)
二年前の、あの日のことが、フラッシュバックする。
初期メンバーの一人が、突然、姿を消した。
連絡が取れなくなって、一週間。辞表が、郵送で届いた。
理由は、書かれていなかった。
(同じだ)
(二年前と、まったく同じ)
ハルの足が、震えた。
血の気が、引いていく。
(ミナは、昨日、俺に言った)
(レイさんの様子が、おかしいって)
(それで、今日、突然、消えた)
ハルは、ミナのデスクの、引き出しに手をかけた。
開ける。
中は、ほとんど空だった。
でも、奥に、一枚の紙が、折りたたまれて入っていた。
ハルは、その紙を取り出した。
広げる。
それは、機材搬出許可書だった。
ネオポルテの配信機材を、事務所の外に搬出する際に必要な許可書。
そこには、こう記されていた。
承認者:御剣レイ
日付:先週の火曜日、深夜。
ハルの手が、止まった。
(レイの、署名)
(先週の、火曜の、深夜)
(データが消えていた時間帯と、同じ)
ハルは、許可書を握りしめた。
紙が、くしゃりと、音を立てる。
「……レイ」
ハルは、声を絞り出した。
「お前なのか……?」
声が、震えた。
握りしめた許可書が、汗で、湿っていく。
——
五階。代表室。
ハルは、デスクの前に、座っていた。
机の上に、くしゃくしゃになった機材搬出許可書が、置かれている。
ハルは、それを、じっと見つめていた。
(この書類を、どうする)
(レイに見せるか)
(それとも、仲間に相談するか)
ハルの頭の中で、二つの選択が、ぐるぐる回る。
(レイに見せれば、誤解だった場合、信頼を失う)
(仲間に相談すれば、レイへの疑惑が、広がる)
(どちらを選んでも、何かが壊れる)
ハルは、右手首のリストバンドを、左手で握りしめた。
布地が、汗を吸って、冷たい。
「……まだ、決められない」
ハルは、呟いた。
許可書を、机の引き出しに、隠した。
ゆっくりと、引き出しを閉める。
カチリ。
小さな音が、静かな部屋に響いた。
ハルは、窓の外を見た。
渋谷の街が、今日も、動いている。
スクランブル交差点を、大勢の人が渡っていく。
誰も、ハルの孤独を知らない。
誰も、ハルの苦しみを知らない。
ハルは、一人だった。
昨日よりも、もっと、深い孤独の中で。
(俺は、誰を信じればいいんだ)
ハルの胸の中で、その問いが、重く、沈んでいった。Noveliaとは?
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