ネオポルテ・リグレット ―渋谷ハルは二度死ぬ―
ネオポルテ・リグレット ―渋谷ハルは二度死ぬ―
渋谷ハルはネオポルテのリーダーであり、仲間を守り続ける男だった。しかし、その優しさは少しずつ彼自身の命を削っていた。ある日、絶え間ない配信スケジュールと精神的な疲労に押しつぶされ、彼は倒れてしまった。目を覚ますと、そこは見知らぬ真っ白な空間。そこに、自称『運命の管理者』である少女クロエが現れた。彼女は言った。「あなたは三ヶ月後に死ぬはずだった。でも、やり直すチャンスをあげたい」ハルは笑い飛ばした。「なんだその冗談は?」しかしクロエは真剣な顔で続けた。「あなたの死はネオポルテの崩壊を招く。そして、大切な仲間たちが次々と後を追うことになる」ハルは言葉を失った。「もし、時間を戻せたら……」と呟く。クロエは頷いた。「ただし条件がある。あなたは一度死んだ者として扱われる。生前に受けた傷や疲労が、何度もあなたを襲う。そして、あなたの死はなかったことにはならない」「構わない」ハルは即答した。クロエは微笑んだ。「ならば、あなたを一ヶ月前に送る。そこで、あなたの死の原因を断ち切らなければならない」そして、ハルは一ヶ月前の過去へと投げ戻された。そこには、ま
ネオポルテ・リグレット ―渋谷ハルは二度死ぬ― - 血の轍 ―這い上がる男と、動き出す絆―
血の味がした。
鉄の味。錆びた味。舌の上に張り付いて、吐き出しても消えない。
渋谷ハルは、五階の代表室の床に倒れていた。
顔の右半分が、じくじくと熱い。殴られた場所が、腫れ上がっている。
鼻血は止まっていた。代わりに、口の中の傷口が開いて、血が唾液と混ざり顎を伝う。
床に、黒い染みが広がっている。
自分の血だ。
(どれくらい、こうしてた)
分からない。時間の感覚が、ぐちゃぐちゃだ。
レイが出て行ってから、ずっとこのままだった。
指一本、動かせなかった。
スタンガンの衝撃が、まだ骨の奥に残っている。
それ以上に、タイムリープの代償が、全身を締めつけていた。
肋骨が折れている。たぶん、二本か三本。呼吸のたびに、折れた骨が肺の内側を刺す。
左の首筋が、焼けるように痛む。古傷だ。三年前、機材搬入の時に、鉄骨の角で切った傷。あの時の痛みが、そのままの鮮度で蘇っている。
(これが、代償か)
クロエの声が、頭の中で、こだました。
『あなたの死は、なかったことにはなりません』
『生前に受けた傷や疲労が、何度もあなたを襲う』
あの真っ白な空間で、十七歳の少女が、銀色の髪を揺らしながら、静かに告げた言葉。
今、その言葉が、肉体に刻まれている。
痛い。
(でも、終われない)
ハルは、床に突っ伏したまま、右手を動かした。
指先が、床を這う。
血の海を、掻くように。
(みんなを、守るんだ)
自分で、自分に、言い聞かせる。
(俺は、もう死んだ人間だ)
(だから、怖くない)
ハルは、歯を食いしばった。
折れた歯が、口の中で、がりっと音を立てる。
痛みで、意識が飛びそうになる。
飛ばない。
飛んでたまるか。
ハルは、両手を床についた。
腕に、力が入らない。
それでも、体を持ち上げる。
肩が、震える。
腕が、折れそうだ。
(立て。立て。立て)
ハルは、机の脚に、爪を立てた。
木製のデスクの脚。表面を、爪が削る。
ぎりぎりと、音がする。
自分の体重を、指先だけで支える。
爪が、剥がれかける。
構わない。
ハルは、デスクの縁に手をかけ、一気に体を持ち上げた。
——立てた。
膝が笑う。
足首が、折れそうに曲がる。
それでも、立った。
壁に手を突く。
冷たい壁。
その冷たさが、意識を繋ぎ止める。
「……はあっ……はあっ……」
呼吸が、浅い。
吸うたびに、肋骨が、骨が、肉を切る。
(大丈夫だ)
(俺が、何とかする)
口癖が、頭の中に浮かぶ。
誰に言うでもなく、自分に。
ハルは、一歩、踏み出した。
右足が、ずるりと滑る。
自分の血で、床が滑る。
転ぶ。
膝を打つ。
痛み。
それでも、また、立ち上がる。
壁に、手形が残る。
血の手形。
赤い、赤い、這いずりの跡。
それが、代表室から、廊下へと、続いていく。
——
四階。タレントラウンジ。
夜の静けさが、部屋を満たしていた。
ソファには、数人のタレントが、うつむき加減に座っている。
誰も、口を開かない。
空気が、重い。
「……代表も、レイさんも、いないって、どういうことだ」
編集長の鈴木健太が、絞り出すように言った。
三十二歳。痩せ型で、眼鏡の奥の目が、疲れ切っている。
「分からない。連絡が、つかなくて」
マネージャーの山田花子が、スマホを握りしめたまま、首を振った。
三十五歳。いつもはテキパキと動く彼女が、今日は、明らかに動揺している。
「ハルさん、さっきまで、代表室にいたはずなんだけど……」
機材管理の田中義明が、白髪交じりの頭を、がしがしと掻いた。
四十五歳。作業着のまま、ラウンジの入り口に立っている。
「レイさんが、ハルさんと話があるって、五階に行ったんです。それから、二人とも、戻らなくて」
田中は、首に巻いたタオルを、ぎゅっと握った。
「まさか、喧嘩でもしたのか?」
鈴木の声が、わずかに、震えた。
「あの二人が、喧嘩なんて、するわけないだろ」
山田が、強い口調で、否定した。
でも、その声には、確信がなかった。
最近のハルの様子は、おかしかった。
誰の目にも、明らかだった。
「……ハルさん、最近、ずっと、一人で何かを抱えてた」
田中が、ぽつりと、呟いた。
「レイさんが怪しいって、言い出したり、急に、古い記録を調べたり」
「あれは、代表が、疲れてただけだ」
鈴木が、田中を見た。
「レイさんが、あんなに尽くしてくれてるのに、疑うなんて、おかしいよ」
「……でも」
田中が、何かを言いかけた。
その時だった。
バンッ!
ラウンジのドアが、勢いよく開いた。
全員が、一斉に、入り口を見る。
橘ひなたが、立っていた。
肩までの黒髪が、乱れている。
右側の三つ編みが、ほどけかけていた。
黄色いリボンが、今にも落ちそうだ。
白いワンピースの裾が、汚れている。
走ってきたのだ。
全力で。
「ハルくんは……ハルくんは、どこ!?」
ひなたの声が、震えていた。
涙が、目に溜まっている。
「ひなたちゃん、落ち着いて。どうしたの?」
山田が、ひなたに駆け寄った。
「電話が、ハルくんから、電話が来て……声が、すごく変で……『みんなを守って』って……」
ひなたは、山田の腕に、すがりついた。
「あれ、絶対、普通じゃなかった。ハルくん、何かあったの。どこにいるの!」
ひなたの涙が、山田の服に、染みを作る。
「電話? ハルさんから?」
鈴木が、眉をひそめた。
「……さっき、ハルさんは、レイさんと一緒に、五階にいたはずだ」
田中の声が、低くなった。
「五階……代表室」
ひなたは、顔を上げた。
涙で、視界が、ぼやけている。
「行く。私、五階に行く」
ひなたが、ドアの方へ、走り出そうとした。
「待って、ひなたちゃん」
山田が、ひなたの腕を、掴んだ。
「勝手に動いちゃダメ。まずは、状況を確認しないと」
「状況って、何を確認するの!? ハルくんが、助けを求めてるんだよ!」
ひなたが、山田の手を、振り払った。
「聞いたの? ハルくんの声。『みんなを守って』って。あれは、遺言みたいだった。遺言みたいな声だったんだよ!」
ひなたの叫びが、ラウンジに、響き渡った。
沈黙。
誰も、何も、言えなかった。
「……ひなたちゃん、気持ちは分かるけど、代表は、疲れてるだけかもしれない」
鈴木が、慎重に、言葉を選んだ。
「レイさんに、任せておけば、大丈夫だよ。今までだって、そうだっただろ」
「レイさんに、任せておけば?」
ひなたの声が、すっと、冷たくなった。
「レイさんが、ハルくんを、助けてくれるの? 本当に?」
ひなたは、鈴木を、真っ直ぐに見た。
「ハルくんは、ずっと、一人で何かを抱えてた。私たち、それに、気づこうともしなかった。『疲れてるだけ』『レイさんに任せておけば』って、全部、ハルくんに押しつけてた」
ひなたの声が、震える。
「私たち、もっと、彼を信じるべきじゃないの? ハルくんは、私たちのために、ずっと、一人で戦ってたんだよ」
ひなたの言葉が、重く、沈んでいく。
「……信じるって、何を?」
鈴木が、ため息をついた。
「代表は、レイさんを疑ってる。それって、おかしいだろ。レイさんは、ネオポルテの共同設立者で、一番の功労者なんだぞ」
「そうよ。レイさんが、ハルさんを陥れるなんて、ありえない」
山田も、鈴木に、同調した。
「……みんな、レイさんを、信じてるのね」
ひなたは、唇を噛んだ。
涙が、また、溢れる。
「でも、私は、ハルくんを信じる」
ひなたは、一歩、前に出た。
「ハルくんは、私を、ここに連れてきてくれた人だから」
ひなたの声が、強くなった。
「二年前、私、配信を始めたばかりで、全然、自信がなかった。オーディションに落ちて、もう辞めようと思ってた。そんな時、ハルくんが、私の配信を見つけて、声をかけてくれた」
ひなたは、涙を、手の甲で拭った。
「『お前の配信、面白いよ。自信持て』って。『俺が責任持つから、もう一度、オーディション受けろ』って。ハルくんが、私の才能を、信じてくれたから、今の私がいる」
ひなたの言葉が、ラウンジの空気を、少しずつ、変えていく。
「ハルくんは、私だけじゃない。みんなに、そうしてきたはずだよ。機材が買えなくて、配信を諦めかけた新人に、自分の私物のPCを、ただで譲ったこと。初配信で、心が折れて泣いてた子に、深夜三時まで、編集を教えたこと」
ひなたは、タレントたちの顔を、一人ずつ、見つめた。
「レイさんの影で、黙って、事務所の赤字を、自分の貯金で埋めてたこと。誰にも言わずに。感謝されることもなく」
ラウンジの隅で、うつむいていた新人タレントが、顔を上げた。
「……あの、PC、俺です」
声が、震えていた。
「入ったばかりの頃、機材が買えなくて。ハルさんが、『これ使えよ』って、自分のPCを。あのPCで、初めての配信をしたんです」
タレントAの目が、潤んでいた。
「……私も、編集、教えてもらいました」
別のタレントが、小さく、手を挙げた。
「初配信で、コメントが全然来なくて、もう辞めたいって泣いてたら、ハルさんが、夜中まで、カットの仕方とか、テンポとか、全部教えてくれて」
タレントBの声が、鼻声になった。
「……そういえば、ハルさん、いつも、俺たちの配信、全部チェックしてたよな」
別のタレントが、呟いた。
「俺の配信、視聴者三人の時も、ハルさん、一番にコメントしてくれてた」
「そういえば……」
「ハルさん、いつも……」
「俺も……」
ラウンジの空気が、変わった。
重かった空気が、少しずつ、動き出す。
「……ハルさんは、いつも、俺たちを一番に考えてくれてた」
タレントAが、立ち上がった。
「なのに、俺たちは、ハルさんがおかしいって、噂を信じて、誰も、話を聞こうとしなかった」
タレントAの拳が、震えていた。
「……俺、ハルさんに、謝りたい」
「私も」
「俺も」
次々と、タレントたちが、立ち上がる。
「……待って、みんな」
鈴木が、戸惑いの声を上げた。
「でも、レイさんは……」
「レイさんの話は、後でいい」
田中が、鈴木の言葉を、遮った。
田中の顔が、真っ青だった。
「俺……思い出したことがある」
田中は、タオルを、ぎゅっと握りしめた。
「レイさんが、深夜に、スタジオの鍵を借りてた。何度も。『機材チェックのためだよ』って。でも、あの時間帯に、機材チェックなんて、普通はしない」
田中の声が、震えている。
「それに、データが消えた日も、機材が壊れた日も、全部、レイさんが、スタジオにいた日だった」
田中の言葉が、ラウンジに、重く、落ちた。
「……何を、言ってるんだ、田中さん」
鈴木の顔が、青ざめた。
「レイさんが、データを消したって言うのか? 機材を壊したって?」
「分からない。でも、ハルさんは、それに気づいてた。だから、一人で、調べてたんだ」
田中は、ハルのことを、思い出していた。
先週、スタジオで、ハルが言った言葉。
『レイが、スタジオのICカードを借りたって言ってたよな』
あの時のハルの目。
悲しそうで、でも、覚悟を決めた目。
「ハルさんを、探そう」
田中が、言った。
「今すぐ、ハルさんを探すんだ」
「……ああ、そうだな」
鈴木が、小さく、頷いた。
「私も、探す」
山田も、頷いた。
「私も! 私も、探す!」
ひなたが、涙を拭いながら、叫んだ。
「ハルくんを、見つけるんだ!」
ひなたの声に、全員が、頷いた。
——
五階。廊下。
ハルは、壁に、もたれかかっていた。
息が、続かない。
足が、動かない。
血の跡が、代表室のドアから、ここまで、ずっと続いている。
ハルは、左手で、壁を掴んだ。
爪が、壁紙を、削る。
(エレベーターまで、あと、少し)
視界が、ぼやける。
意識が、薄れる。
(ダメだ。ここで、倒れたら)
(みんなに、何も、伝えられない)
ハルは、歯を食いしばった。
折れた歯が、また、がりっと鳴る。
痛みが、意識を、引き戻す。
(痛いのは、生きてる証拠だ)
(俺は、まだ、生きてる)
ハルは、一歩、足を引きずった。
右足が、言うことを聞かない。
足首が、腫れ上がっている。
レイに、蹴られた場所だ。
(それでも、進む)
ハルは、エレベーターのボタンに、手を伸ばした。
指先が、ボタンに、触れる。
押す。
力が、入らない。
もう一度。
押す。
ピッ。
音がした。
エレベーターが、動き出す音。
(来い。来い。来い)
ハルは、エレベーターのドアに、もたれかかった。
血が、ドアに、べったりと付く。
ドアが、開く。
ハルは、カゴの中に、倒れ込んだ。
床が、冷たい。
(二階。配信スタジオ)
ハルは、震える手で、二階のボタンを、押した。
ドアが、閉まる。
エレベーターが、下りていく。
——
カゴの中で、意識が、飛びかけた。
(クロエ)
頭の中に、銀色の髪の少女が、浮かぶ。
金色と銀色の、オッドアイ。
背中の、小さな白い羽根。
両手を、胸の前で組んで、微笑んでいる。
『運命は変えられます。ただし、代償なしには』
クロエの声が、頭の中で、響く。
『あなたは、一度死んだ人間として扱われる。生前に受けた傷や疲労が、何度も、あなたを襲う』
(知ってるよ)
(そんなの、知ってる)
(でも、俺は、みんなを守るって、決めたんだ)
『あなたの死は、なかったことにはなりません』
(分かってる)
(だから、せめて、死ぬ前に)
(みんなに、真実を、伝えなきゃ)
ハルは、目を開けた。
エレベーターの天井の、白い光。
眩しい。
でも、その光が、意識を、繋ぎ止める。
(負けるな)
(負けるな、渋谷ハル)
(お前は、まだ、終わってない)
チン。
二階に、到着した。
ドアが、開く。
ハルは、カゴから、這い出した。
——
三階。廊下。
鈴木健太は、編集室から、出てきたところだった。
(五階から、探そう)
鈴木は、エレベーターの方へ、歩き出した。
その時だった。
エレベーターの前の床に、赤い跡が、見えた。
(何だ、これ)
鈴木は、足を止めた。
血だ。
床に、血が、点々と、落ちている。
エレベーターから、廊下の奥へと、続いている。
(まさか)
鈴木の心臓が、早鐘を打つ。
血の跡を、追う。
廊下の奥。
非常階段の前。
床に、人が、倒れていた。
「……代表?」
鈴木は、駆け寄った。
渋谷ハルが、血まみれで、倒れていた。
顔が、腫れ上がっている。
服が、血で、真っ赤に染まっている。
「代表! どうしたんですか! 誰にやられた!?」
鈴木は、ハルの肩を、揺さぶった。
ハルの目が、うっすらと、開いた。
「……鈴木、か」
ハルの声が、掠れていた。
「誰にやられたんですか! 警察を呼びます!」
鈴木が、スマホを、取り出そうとした。
「やめろ」
ハルが、鈴木の手を、握った。
血のついた手が、鈴木の手首に、絡みつく。
「警察は、呼ぶな。それより、スタジオへ、連れて行ってくれ」
「スタジオ? 何を言ってるんですか! 病院ですよ!」
鈴木が、叫んだ。
「頼む。二階の、三号機まで」
ハルの目が、鈴木を、真っ直ぐに見た。
琥珀色の瞳が、血と涙で、濁っている。
でも、その奥に、強い光が、残っていた。
「俺は、やらなきゃいけないことがあるんだ」
鈴木は、息を呑んだ。
「……誰に、やられたんですか。レイさんですか」
鈴木の声が、震えた。
ハルは、答えなかった。
ただ、静かに、目を閉じた。
「レイは……悪くない」
ハルの声が、消え入りそうだった。
「俺が、気づけなかっただけだ」
鈴木は、唇を噛んだ。
(代表は、今、この瞬間も、レイさんを、庇ってる)
(なんでだ。なんで、そこまで)
鈴木の目が、熱くなった。
「……分かりました。スタジオへ、行きましょう」
鈴木は、ハルの腕を、自分の肩に回した。
「立てますか」
「ああ」
ハルは、鈴木の肩に、体重を預けた。
鈴木は、ハルを支えながら、歩き出した。
二人の足元に、血が、ぽたぽたと、落ちていく。
——
二階。配信スタジオ三号機。
鈴木は、ICカードで、ドアのロックを解除した。
ドアを開ける。
中は、真っ暗だった。
ハルは、鈴木の肩から、離れた。
ふらふらと、スタジオの中へ、入っていく。
「代表、無理です。やっぱり、病院へ」
鈴木が、ハルを、追いかけようとした。
「いい。ここで、いい」
ハルは、高性能PCの前で、膝をついた。
床に、血が、広がる。
ハルは、血のついた手で、PCの電源ボタンを、押した。
ピッ。
起動音。
画面が、青白い光を、放つ。
ハルの血まみれの顔が、モニターに、映し出された。
「鈴木」
「はい」
「ライブ配信を、立ち上げる。俺のアカウントで」
「今からですか!? その状態で!?」
鈴木が、声を、ひっくり返した。
「今しか、ないんだ」
ハルは、マウスを、握った。
手が、震えて、カーソルが、ぶれる。
それでも、ハルは、配信ソフトを、起動させた。
カメラが、起動する。
真っ暗なスタジオに、ハルの姿が、映し出される。
血で染まった顔。
腫れ上がった右頬。
切れた唇。
それでも、ハルは、笑おうとした。
口角を、上げようとして、痛みで、顔が歪む。
「……笑えねえな」
ハルは、自嘲気味に、呟いた。
「代表、本当に、やるんですか」
鈴木の声が、震えていた。
「ああ。みんなに、聞いてほしいんだ」
ハルは、配信開始ボタンを、押した。
——
ライブ配信が、始まった。
『渋谷ハル』のチャンネルに、通知が、流れる。
最初は、数人。
すぐに、数十人。
数百人。
コメント欄が、動き出す。
『ハルさん!?』
『どうしたの!?』
『顔、血だらけじゃない!?』
『え、何これ、ドッキリ?』
『やばい、救急車!』
コメントが、画面を、埋め尽くしていく。
ハルは、カメラを、真っ直ぐに見た。
血の混じった唾を、飲み込む。
喉が、焼けるように、痛い。
「……みんな、聞いてくれ」
ハルの声が、スタジオに、響いた。
マイクが、その声を、拾う。
渋谷の街へ。
日本中へ。
世界中へ。
「俺は、渋谷ハル。ネオポルテの、代表だ」
ハルは、息を、吸った。
肋骨が、悲鳴を上げる。
「今日、俺は、御剣レイに、殺されかけた」
コメント欄が、一瞬、止まった。
そして、爆発した。
『え?』
『レイさん?』
『何言ってるの?』
『嘘でしょ?』
『どういうこと?』
「レイは、ネオポルテを、乗っ取ろうとしている。二年前に、仲間を消した。先週も、仲間を消した。機材のデータも、レイが消した。全部、レイだ」
ハルの声が、震える。
「でも、俺は、誰にも、信じてもらえなかった。『おかしくなった』って、噂を流されて、孤立した。レイの計画通りに」
ハルは、カメラに、顔を近づけた。
血が、レンズに、飛び散る。
「俺は、もう、死ぬかもしれない。でも、それでも、言わなきゃいけない」
ハルは、深く、息を吸った。
「ネオポルテの仲間たちへ。俺の声が、聞こえてるか。お前たちは、俺の、誇りだ。お前たちがいたから、俺は、ここまで来れた。ありがとう。そして、ごめん。守れなくて、ごめん」
ハルの目から、涙が、溢れた。
血と混ざって、赤い涙が、頬を伝う。
「レイのことを、恨まないでくれ。あいつは、あいつなりに、苦しかったんだと思う。俺が、あいつの苦しみに、気づけなかった。だから、これは、俺の責任だ」
ハルは、カメラを見つめた。
「でも、お前たちは、これからも、前に進んでくれ。ネオポルテを、守ってくれ。お前たちの配信を、楽しみにしている人が、大勢いる。その人たちのためにも、お前たちは、笑顔で、配信を続けてくれ」
ハルの声が、涙で、詰まる。
「……頼む。みんな、お前たちは、俺の、宝物だ」
ハルは、カメラに向かって、笑った。
血まみれの、ボロボロの顔で。
それでも、精一杯の、笑顔で。
「大丈夫だ。俺が、何とかする。任せとけって」
ハルの口癖が、スタジオに、響いた。
——
四階。ラウンジ。
ひなたのスマホが、震えた。
「……ハルくん?」
ひなたは、スマホの画面を、見た。
『渋谷ハルがライブ配信中』
通知が、表示されている。
「ハルくん、配信してる!」
ひなたは、叫んだ。
タップする。
画面に、ハルの姿が、映し出された。
血まみれの、ハルの姿が。
「ハルくん……!」
ひなたの涙が、スマホの画面に、落ちる。
「ハルさんだ! 配信してる!」
「どこ!? どこから配信してるの!?」
「背景、暗い……スタジオじゃない?」
「二階だ! 二階のスタジオだ!」
田中が、叫んだ。
「みんな、二階へ! 急げ!」
ひなたが、ラウンジを、飛び出した。
タレントたちが、後に続く。
階段を、駆け下りる。
足音が、ビルに、響き渡る。
——
ネオポルテ本社ビル。外。
御剣レイは、ビルの前で、立ち止まっていた。
スマホが、震えた。
画面を見る。
『渋谷ハルがライブ配信中』
通知が、表示されている。
レイは、その通知を、じっと見つめた。
灰色の瞳が、冷たく、光る。
「……往生際が悪いな、ハル」
レイは、振り返った。
五階の窓を、見上げる。
暗い窓。
誰もいない。
「だが、もう、遅い。お前の言葉を、誰が信じる?」
レイは、スマホを、ポケットに、しまった。
「お前は、もう、終わってるんだよ」
レイは、夜の渋谷の街へ、歩き出した。
スクランブル交差点の、雑踏の中へ。
その後ろ姿を、ネオンの光が、無機質に、照らしていた。
——
二階。配信スタジオ三号機。
ハルは、配信を、続けていた。
「……みんな、ありがとう。コメント、全部、読んでる。お前たちの言葉が、嬉しい。本当に、嬉しい」
ハルの目が、細くなる。
「俺は、大丈夫だ。心配するな。お前たちは、いつも通り、配信を、続けてくれ。それが、俺の、一番の願いだ」
ハルの声が、少しずつ、小さくなっていく。
「……ああ、そうだ。一つだけ、言わせてくれ」
ハルは、カメラを、見つめた。
「ひなた。聞こえてるか。お前の配信は、本当に、面白い。自信を持て。お前は、俺の、自慢の後輩だ」
ハルは、笑った。
今度は、ちゃんと、笑えた。
「……みんな、大好きだ」
その瞬間だった。
バンッ!
スタジオのドアが、勢いよく、開いた。
「ハルくん!!」
ひなたが、飛び込んできた。
「ハルさん!」
「代表!」
「ハルさん!」
仲間たちが、次々と、スタジオに、なだれ込む。
ハルは、カメラを、見たまま、動けなかった。
ひなたが、ハルに、駆け寄る。
「ハルくん! 血がいっぱい! 救急車! 誰か、救急車を!」
ひなたが、叫んだ。
「……ひなた」
ハルが、ひなたの名前を、呼んだ。
「ハルくん! 私、聞いたよ! 配信、聞いてた! ハルくんの声、ちゃんと聞こえてた!」
ひなたが、ハルの手を、握った。
血のついた、冷たい手を。
「だから、もう、一人じゃないよ! 私たち、みんな、ハルくんの味方だよ!」
ひなたの涙が、ハルの顔に、落ちる。
「……ああ」
ハルは、小さく、頷いた。
「ありがとう、ひなた」
ハルの目が、閉じていく。
「ハルくん!? ハルくん! 目を開けて! お願い!」
ひなたの叫び声が、スタジオに、響いた。
ハルの意識が、暗闇に、沈んでいく。
(みんなが、来てくれた)
(俺は、一人じゃなかった)
(クロエ、これが、俺の、答えだ)
ハルの右手首のリストバンドが、血に染まって、重く、光っていた。
——
配信は、まだ、続いていた。
画面には、血まみれのハルと、泣き叫ぶひなたと、駆け寄る仲間たちの姿が、映し出されていた。
コメント欄は、祈りと、怒りと、涙で、埋め尽くされていた。
『ハルさん、死なないで!』
『誰か助けて!』
『レイ、許さない!』
『ネオポルテのみんな、ハルさんを守って!』
渋谷の街は、眠らなかった。
一人の男の、最後の抵抗が、仲間たちの心を、そして、画面の向こうの無数の人々の心を、確かに、動かしていた。
窓の外では、渋谷のネオンが、血のように赤く、夜の街を、照らし続けていた。Noveliaとは?
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