青春ブタ野郎はみんなでゲームをする
バイト先のファミレスで見つけた古びたボードゲーム、その名も「青春すごろく ムスビダイス」。盤面にはなぜか見覚えのある峰ヶ原高校と七里ヶ浜の海、そして数字ではなく奇妙な記号が刻まれたサイコロ。拾ってきた箱を見た妹かえでが、一瞬だけ見せたあの表情は——。
「何も起きない」はずの日常は、静かに、しかし確実に崩れ始める。ひとりでに転がるサイコロ、夢に蘇るあの日の痛み、そして「人と繋がる」という記号の意味。これはただの暇つぶしのゲームなのか、それとも——。
週末、麻衣さん、双葉、のどかを呼んでみんなで遊ぶ。その約束が、今は少しだけ恐ろしい。でも、かえでの笑顔を守るために、俺は前に進むしかない。思春期症候群を巡る、にぎやかで、ほんの少し不思議な青春すごろくが、いま幕を開ける。
青春ブタ野郎はみんなでゲームをする - 拾ったゲームと、動き出すサイコロ
「あー、めんどくせー」
梓川咲太は、店の看板の灯りを背に受けながら、深いため息をついた。時刻は夜の十一時を少し回ったところ。神奈川県藤沢市の国道沿いに建つファミレス、ベイサイド・グリル。今日も今日とて、閉店間際の客足が途絶えた店内で、彼はホールの掃除とレジ締めの手伝いを終えたところだった。
バイトの制服である黒いポロシャツの襟をくつろげ、首筋に張り付いた熱を逃がす。夏が近いとはいえ、夜の空気はまだ少しひんやりしていて、汗ばんだ肌には気持ちよかった。
峰ヶ原高校の2年生になって、もうすぐ二ヶ月。学校とバイトと家事の繰り返しは、退屈といえば退屈だが、別に嫌いじゃない。むしろ、何も起きない一日のほうが、咲太にとってはありがたかった。
――何せ、俺の周りでは、時々「何か」が起きるから。
そんなことをぼんやり考えながら、彼は最後の戸締まりを確認するため、入口近くの待合スペースへ向かった。薄暗い蛍光灯の下、古びたソファが三つ並んでいる。昼間は学生客や家族連れで賑わうその場所も、今は誰もいない。
「……ん?」
咲太は足を止めた。
一番奥のソファ、背もたれと座面の隙間から、何か四角い物の角が覗いている。最初は、誰かが忘れていった本か雑誌かと思った。だが、手を伸ばして引き抜いてみると、それは思っていたよりずっしりと重く、硬い感触だった。
「ボードゲーム、か?」
現れたのは、厚紙でできた古めかしい箱だった。色褪せたクリーム色の地に、レトロなタッチのイラストが描かれている。タイトルらしき文字が、独特の書体でこう記されていた。
――青春すごろく ムスビダイス。
「青春すごろく、ねえ……」
咲太は箱を裏返したり、側面を眺めたりした。製造元の記載も、バーコードも見当たらない。いつの時代のものかも分からない、妙に素性の知れない代物だった。
彼は箱を脇に抱え、店内を見回した。この時間、残っているのは咲太と、事務所で帳簿をつけている店長の佐野さんだけだ。
「佐野さん、これ、落とし物ですけど」
咲太が事務所のドアをノックして声をかけると、四十代の店長は顔を上げ、咲太の抱える箱を一瞥した。
「あー、それ、もう二週間くらい前からあのソファに挟まってたやつだろ。客からも届け出ないし、交番に持っていくにも、その、なんだ、古すぎてな」
佐野さんは首をひねる。
「お前が見つけたんなら、好きにしていいぞ。どうせ処分するつもりだった」
「いいんですか」
「ああ。ただし、中身が虫だらけでも知らんぞ」
咲太は軽く頭を下げると、箱をリュックにしまった。
好きにしていい、と言われたものの、別にボードゲームに興味があるわけじゃない。ただ、あの箱に描かれたイラストが、どうにも頭に引っかかっていた。
箱の蓋には、湘南の海と、どこかの学校の校舎らしき建物が描かれている。
その校舎が、妙に見覚えのある形をしていた。
――峰ヶ原高校。
通い慣れた自分の学校。そして、その向こうに広がるのは、七里ヶ浜の海。
偶然、似ているだけかもしれない。だが、あの盤面の雰囲気は、明らかにこの土地を模しているように見えた。
「……まあ、かえでが喜ぶかもな」
咲太は小さく呟いて、店を後にした。
自転車を漕いで、藤沢の街を北へ向かう。駅前の喧騒を抜け、住宅街に入ると、ぐっと静かになる。街灯の少ない道を、タイヤの回る音だけが規則正しく響いていた。
咲太が妹の梓川かえでと二人で暮らすマンションは、築十五年、二階建てのこぢんまりとした建物だ。家賃七万八千円。二LDKで、リビングの窓からは、晴れた日にかすかに海が見える。
自転車を駐輪場に停め、二階の自室へ向かう。ドアを開けると、玄関の明かりがついていた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
ぱたぱたとスリッパの音をさせて、かえでが駆け寄ってくる。
肩にかかるくらいの明るめの髪。左右に跳ねたくせっ毛が、走るたびにふわふわと揺れる。大きな黒い瞳は、いつも通りにぱっと輝いていて、その下には、パンダの顔が大きくプリントされたパジャマ。
梓川かえで。十五歳、中学三年生。咲太の妹で、今は学校に行かずに、この部屋で過ごしている。
彼女の明るさは、この家の空気をいつもやわらかくしてくれる。咲太は靴を脱ぎながら、いつものように思った。
――今日も、笑ってる。
それだけで、バイトの疲れが少し軽くなる。
「ただいま。まだ起きてたのか」
「お兄ちゃんの帰りが遅いから、待ってました! 今日はね、冷蔵庫にプリンがあるんですよ。かえでが買っておきました」
「へえ、ありがとな。……ああ、そうだ。お土産、っていうか、拾い物だけど」
咲太はリュックから、あのボードゲームの箱を取り出した。
かえでは、きょとんとした顔で箱を見つめる。
「なんですか、これ?」
「ボードゲーム。バイト先で拾った。店長に貰っていいって言われたから、持って帰ってきた」
「ボードゲーム……! すごく懐かしい感じの箱ですね」
かえでは両手で箱を受け取ると、興味深そうに表のイラストを眺めた。
「わあ、海の絵がきれいです。あ、これ、学校の校舎かな? なんだか、お兄ちゃんの学校に似てますね」
「だろ? 俺もそう思った。七里ヶ浜の海も描かれてるし、たぶん、この辺りの景色だ」
かえでは箱を裏返し、側面を確認する。その指先が、箱の隅に印刷された小さな模様の上で、ぴたりと止まった。
黒い四角形が、いくつも並んだ、市松模様のような記号。
かえでの表情が、一瞬、強張った。
ほんのコンマ数秒。見逃してしまいそうな、ごくわずかな変化だった。
だが、咲太は見ていた。
かえでの笑顔の下に、何か暗いものが一瞬だけ顔を出したのを。
「かえで?」
声をかけると、かえでは慌てて首を振った。
「あ、ごめんなさい。ちょっと、模様が気になっただけです。かえで、こういうの、ちょっと苦手で……」
彼女は箱を咲太に返すと、にこりと笑った。
その笑顔は、さっきまでの無邪気なものとは、どこか違っていた。
無理をしている時の、笑顔。
咲太は、それを知っている。
かえでが、自分を守るために覚えた、もう一つの表情。
「……そっか。まあ、無理に見なくていいよ。中身、まだ確認してないしな。何が入ってるか分かったもんじゃない」
咲太は、箱をリビングのテーブルに置いた。
問い詰めたりはしない。
かえでには、触れられたくないことがいくつもある。それは咲太にも同じで、家族だからといって、何もかもを共有できるわけじゃない。
大切なのは、無理に聞き出すことじゃない。
――いつでも、こっちに戻ってこられる場所を用意しておくこと。
咲太は、そう思っている。
「なあ、かえで。週末、みんなでこれやらないか?」
咲太は、わざと明るい声で言った。
「みんな、って?」
「麻衣さんとか、双葉とか。あと、のどかも来られるなら。どうせ暇だろ、みんな」
かえでは、少し考えてから、こくりと頷いた。
「はい。かえで、楽しみです」
その声は、さっきよりは自然に聞こえた。
だが、咲太の胸の奥には、小さなしこりが残っていた。
あの模様は、なんだ。
かえでが、あんな顔をするなんて。
咲太は、テーブルの上の箱を、もう一度だけ見つめた。
――青春すごろく ムスビダイス。
古びた箱は、蛍光灯の下で、黙りこくっている。
夜。
かえでが自分の部屋に戻り、咲太は一人、リビングのソファに座っていた。
テレビはつけていない。冷蔵庫の低い唸りだけが、静かな部屋に響いている。
咲太は、テーブルの上の箱を開けた。
中に入っていたのは、二つ折りにされた盤面と、小さな布袋。それから、いくつかのプラスチック製のコマ。
「ルールブック、ないな」
箱の中をひっくり返しても、説明書らしきものは出てこない。
盤面を広げてみる。
厚手の紙に描かれた、色鮮やかなイラスト。スタート地点から、ぐるぐると渦を巻くように続くマス目。その一つ一つに、小さな文字が書かれている。
「七里ヶ浜」「校舎裏」「屋上」「家族の食卓」「文化祭」「告白」「すれ違い」……。
どれも、青春を象徴するような言葉ばかりだ。
そして、盤面の中央には、夕焼けに染まった海と、その向こうに浮かぶ江の島のシルエット。
「やっぱり、この辺りの景色だな」
咲太は、盤面の端に描かれた校舎のイラストを指でなぞった。
峰ヶ原高校の、あの古びた校舎。
間違いない。
なぜ、こんなものが。
次に、布袋を開けてみる。
中から出てきたのは、サイコロだった。
「……なんだ、これ」
咲太は、手のひらに乗せたサイコロを、まじまじと見つめた。
一辺が二センチほどの、乳白色のサイコロ。
だが、その面に刻まれているのは、数字ではなかった。
丸、三角、四角。波のような曲線。二つの点が並んだ記号。小さな家のような形。それから、人が手を繋いでいるような、奇妙なマーク。
六面すべてに、異なる記号が彫られている。
「数字じゃないサイコロ、ってか。どうやって進むんだよ、これ」
咲太は、サイコロを指で転がした。
記号は、どれも見たことのないものばかりだ。
いや、待て。
この、人が手を繋いでいるような記号。
どこかで、見たことがある。
――箱の隅にあった、市松模様。
あの中に、似たような形が混ざっていた気がする。
咲太は、箱の側面をもう一度確認した。
黒い四角形の羅列。その中に、確かに、あの「人が手を繋いでいる」形が、いくつか紛れ込んでいる。
「……なんだよ、これ」
胸の奥が、ざわつく。
めんどくせー。
咲太は心の中で、いつもの言葉を呟いた。
これは、ただの古いボードゲームだ。
ルールブックがないから、たまたまサイコロが変なだけで。
盤面が峰ヶ原高校に似ているのも、きっと、この辺りで作られたゲームだからで。
何も、おかしなことなんて、ない。
そう、自分に言い聞かせた。
だが、胸のざわつきは、一向に収まらなかった。
咲太は、サイコロを布袋に戻し、盤面を畳んだ。
そして、箱の蓋を閉める。
そのまま、リビングの明かりを消して、自分の部屋へ向かった。
――大丈夫だ。
――何も、起きない。
そう、思おうとした。
深い、深い闇の中。
咲太は、自分が中学生だった頃の夢を見ていた。
あの日。
教室の空気。
机の冷たい感触。
そして、突然、胸に走った、焼けるような激痛。
制服の白いシャツが、みるみるうちに赤く染まっていく。
止まらない。
血が、止まらない。
周りの生徒たちの、悲鳴。
誰かが、救急車を呼べ、と叫んでいる。
痛い。
苦しい。
死ぬ。
俺は、死ぬのか。
――助けて。
――誰か。
「……っ!」
咲太は、跳ね起きた。
心臓が、ばくばくと激しく脈打っている。
額には、じっとりと汗が滲んでいた。
パジャマの胸元を握りしめる。
左胸。
あの傷跡の上に、手のひらを当てる。
そこには、確かな鼓動があった。
「……夢か」
咲太は、大きく息を吐いた。
もう、何年も前の話だ。
あの事件の真相は、今も、咲太の中にだけある。
病院送り事件。
あの日、咲太の胸に、なぜか深い傷ができた。
理由は、分からない。
ただ、あの頃の咲太の心は、確かに、血を流していた。
そして、その心の傷が、体に現れた。
――思春期症候群。
多感で不安定な思春期だけに起こると噂される、不思議な現象。
咲太は、それを、身をもって知っている。
妹のかえでが、スマホや電話を怖がるようになったのも。
恋人の桜島麻衣が、周囲から見えなくなったのも。
友人の双葉理央が、自分を二人に増やしてしまったのも。
みんな、心の奥底にある、言葉にできない苦しみが、現実を歪ませた結果だった。
「……もう、勘弁してくれよ」
咲太は、暗い天井を見上げて呟いた。
また、何かが起きるのか。
いや、起きてたまるか。
咲太は、ゆっくりと体を起こした。
喉が渇いた。
水でも飲もうと、部屋を出る。
リビングへ続く廊下は、しんと静まり返っていた。
冷蔵庫の明かりでコップに水を注ぎ、一気に飲み干す。
冷たい水が、喉を通り過ぎていく。
ふと、視線をテーブルにやった。
あの箱が、そこにある。
――はずだった。
「……え?」
咲太は、目を疑った。
箱の蓋が、開いている。
そして、箱の隣。
テーブルの上に、あのサイコロが、転がっていた。
いや、違う。
転がっていた、じゃない。
今、まさに。
咲太の目の前で。
サイコロは、ひとりでに、ころり、と転がった。
何の力も加えられていない。
風も、振動も、何もない。
それなのに、サイコロは、まるで意思を持っているかのように、テーブルの上をゆっくりと回転した。
そして。
ぴたり、と止まった。
咲太は、息を呑んだ。
足が、動かない。
指先が、冷たい。
サイコロの、上を向いた面。
そこに刻まれていたのは。
――人が手を繋いでいるような、あの記号。
「人と、繋がる……」
咲太は、無意識に、そう呟いていた。
なぜ、その意味が分かったのか。
自分でも、分からない。
だが、あの記号が、そういう意味を持っていることを、咲太の本能が理解していた。
胸の奥が、ざわざわと騒ぐ。
背筋を、冷たい汗が伝う。
偶然だ。
そう、思い込もうとした。
きっと、箱を開けた時に、サイコロがこぼれ落ちていたんだ。
それが、たまたま、今、テーブルの上で転がったように見えただけだ。
そうに、違いない。
だが。
咲太の胸の予感は、消えなかった。
これは、始まりだ。
何かが、始まる。
咲太は、テーブルの上のゲームを、じっと見つめた。
暗いリビング。
窓の外から、遠く、潮の香りを運ぶ夜風が、カーテンをわずかに揺らした。
サイコロは、動かない。
ただ、その記号を、天井に向けていた。
人と繋がる。
その言葉が、咲太の頭の中で、何度も、何度も、繰り返される。
「……ちっ」
咲太は、小さく舌打ちをして、サイコロを掴み上げた。
手のひらに、ひんやりとした感触が伝わる。
――何が起きるかは、分からない。
――でも、俺はもう、逃げない。
咲太は、サイコロを布袋に戻し、箱の蓋を閉めた。
そして、その箱を、リビングのテーブルの上に、置き直した。
まるで、そうすることが、当然であるかのように。
窓の外では、星が、静かに瞬いていた。
藤沢の街は、眠りについている。
だが、咲太の心だけは、ちっとも眠れそうになかった。
週末。
みんなで、このゲームをやる。
その約束が、今は、少しだけ、恐ろしいものに思えた。
それでも。
咲太は、目を閉じた。
――かえでの笑顔を、守るために。
――麻衣さんの、照れた顔を見るために。
――理央の、毒舌を聞くために。
――のどかの、自信満々な声を浴びるために。
俺は、前に進むしかない。
たとえ、このゲームが、何かを始めようとしていても。
咲太は、静かに、明日へと意識を沈めていった。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。