青春ブタ野郎はみんなでゲームをする
バイト先のファミレスで見つけた古びたボードゲーム、その名も「青春すごろく ムスビダイス」。盤面にはなぜか見覚えのある峰ヶ原高校と七里ヶ浜の海、そして数字ではなく奇妙な記号が刻まれたサイコロ。拾ってきた箱を見た妹かえでが、一瞬だけ見せたあの表情は——。
「何も起きない」はずの日常は、静かに、しかし確実に崩れ始める。ひとりでに転がるサイコロ、夢に蘇るあの日の痛み、そして「人と繋がる」という記号の意味。これはただの暇つぶしのゲームなのか、それとも——。
週末、麻衣さん、双葉、のどかを呼んでみんなで遊ぶ。その約束が、今は少しだけ恐ろしい。でも、かえでの笑顔を守るために、俺は前に進むしかない。思春期症候群を巡る、にぎやかで、ほんの少し不思議な青春すごろくが、いま幕を開ける。
青春ブタ野郎はみんなでゲームをする - 注目されるコマと、すれ違う視線
金曜日の夜。
梓川咲太のマンションのリビングには、いつもと違う甘い匂いが漂っていた。
テーブルの上に置かれた白い箱。リボンのかかった、店の名前入りのケーキボックス。その隣には、あの古びたボードゲーム『青春すごろく ムスビダイス』が、蓋を閉じたまま静かに横たわっている。
「はい、これ。差し入れよ」
桜島麻衣は、黒髪ロングヘアをふわりと揺らして、ケーキの箱を咲太の方へ押しやった。ウサギの形をした髪留めが、リビングの灯りにちかりと光る。澄んだ黒い瞳は、いつものように少しだけ意地悪な色を帯びていた。
「おお、サンキュー。……って、今日来るなんて聞いてなかっただろ」
咲太は寝癖のついた黒髪をかきながら、キッチンから取り出した皿をテーブルに置く。深い茶色の瞳は、いつものように半分閉じたまま。峰ヶ原高校の制服でも、バイトのポロシャツでもない。今日は薄いグレーの部屋着だった。
「あら、彼女が来るのに理由が要るの? それとも、何かやましいことでもあったかしら」
麻衣は右手で髪をかき上げる。その仕草には、芸能人特有の、人を惹きつける空気があった。背筋は無意識に伸びていて、そこだけ空気が違って見える。
「やましいことなら、山ほどあるけどな。……例えば、昨日の晩飯、カップ麺だったとか」
「栄養、考えなさいよ。かえでだって一緒に食べてるんでしょ」
「へいへい。今度から気をつける」
咲太はそう言いながら、ケーキの箱を開けた。中には、真っ白なクリームの上に苺が並んだショートケーキが二つ。それと、チョコレートのケーキが一つ。
「かえでには、これ。苺、好きでしょ」
麻衣が指さしたのは、一番苺が大きくて、一番きれいにデコレーションされたケーキだった。
「……麻衣さん、かえでの好みまで把握してるのか」
「あの子、前に果物の話をした時に、苺が一番好きだって言ってたわ。ちゃんと聞いてるのよ、私は」
麻衣の声は、少しだけ得意げだった。
「さすが国民的女優。観察眼が違うな」
「褒めても何も出ないわよ」
二人の間に、柔らかい空気が流れる。
窓の外から、遠く、潮の香りが混じった夜風がカーテンを揺らした。ベランダの向こうには、湘南の海がかすかに見える。昼間は青く輝く海も、今は黒く静まり返っているだけだった。
「それで、あれが噂のゲーム?」
麻衣が、テーブルの上のボードゲームに視線を向けた。
「ああ。この前、バイト先で拾ったやつ」
咲太は箱を持ち上げ、麻衣の前に置いた。
「『青春すごろく ムスビダイス』……古いのね。どこのメーカー?」
「それが、どこにも書いてないんだよ。ルールブックもなし。おまけにサイコロが数字じゃなくて、変な記号が刻まれてる」
咲太は箱を開け、中から布袋を取り出した。袋の口を緩め、サイコロをテーブルの上に転がす。
ころり。
六面すべてに、異なる記号が刻まれたサイコロ。数字の代わりに、人の形、手を繋ぐ形、波のような形、目玉のような形、星のような形、そして、二つの矢印が逆方向を向いている形。
「……本当に、数字じゃないのね」
麻衣はサイコロを手に取り、じっと見つめた。
「しかも、この盤面。見てくれよ」
咲太は箱から盤面を取り出し、テーブルの上に広げた。厚紙でできた、色褪せた盤面。そこには、湘南の海と、見覚えのある校舎が描かれている。
「峰ヶ原高校……それに、七里ヶ浜の海も」
麻衣の指が、盤面の上をゆっくりと滑る。
校舎のマス。屋上のマス。校庭のマス。その先に、夕焼けに染まった海のマス。
「……懐かしいわね」
麻衣の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
その表情を、咲太は見逃さなかった。
麻衣は、元子役の国民的女優だ。幼い頃からテレビに出続け、学校では周囲から特別扱いされ、誰も本当の彼女を見ようとしなかった。咲太が出会うまで、彼女は学校でずっと一人だった。
この盤面に描かれた校舎は、麻衣にとって、楽しい思い出だけの場所ではない。
咲太は、そのことに気づいていた。
でも、あえて何も言わなかった。
麻衣が自分から話すまで、待つ。それが咲太のやり方だった。
「お兄ちゃん! 麻衣さん! ケーキ食べましょう!」
リビングのドアが開き、パンダ柄のパジャマを着た梓川かえでが飛び込んできた。肩にかかる明るめの髪が、ふわふわと跳ねている。大きな黒い瞳は、ケーキの箱を見つけて、ぱっと輝いた。
「わあ、苺のケーキ! かえで、これ食べたいです!」
「ええ、かえでちゃんの分よ。どうぞ」
麻衣は、かえでに苺のショートケーキを差し出した。
「ありがとうございます、麻衣さん! いただきます!」
かえでは、嬉しそうにフォークを手に取った。
その無邪気な笑顔を見て、麻衣の表情が、ほんの一瞬だけ曇ったように見えた。
咲太は、その変化に気づいていた。
でも、やっぱり、何も言わなかった。
三人でケーキを食べ終わると、かえでが元気よく提案した。
「お兄ちゃん、麻衣さん、このゲーム、今からやりましょう! かえで、すごく楽しみにしてたんです!」
「お前、このゲームのルール知らないだろ」
「大丈夫です! ルールは、やりながら考えればいいんですよ! ね、麻衣さん!」
かえでは、麻衣の顔を覗き込んだ。
「そうね。説明書がないなら、三人で適当に進めましょうか」
麻衣は、かえでの頭をそっと撫でた。
「やった! じゃあ、コマを選びます! かえでは、このパンダのコマがいいです!」
かえでが指さしたのは、白と黒のパンダの形をした小さなコマだった。
「パンダ好きだな、ほんと」
「パンダは正義です!」
「はいはい。じゃあ、俺はこれでいいや」
咲太は、適当に、青い服を着た少年のコマを手に取った。
「私は……これかしら」
麻衣が選んだのは、黒いドレスを着た女性のコマだった。
「なんか、麻衣さんっぽいな」
「どういう意味?」
「別に。なんとなく」
「ふうん。まあ、いいわ。じゃあ、サイコロを振る順番は……年齢順でいいかしら」
「年齢順? じゃあ麻衣さんが最初か」
「ええ。私からね」
麻衣は、あの記号が刻まれたサイコロを手に取った。
「……振るわよ」
麻衣がサイコロを振る。
からん、と軽い音を立てて、サイコロがテーブルの上を転がる。
止まった面は、目玉のような記号だった。
「この記号、何かしら」
「さあ。ルールブックないしな。とりあえず、出た目だけ進んでみるか」
「でも、数字じゃないから、いくつ進めばいいのか分からないわね」
「じゃあ、適当に三マスくらい進んどくか」
「適当すぎない?」
「このゲーム自体が適当なんだから、しょうがないだろ」
「もう、仕方ないわね」
麻衣は、黒いドレスのコマを、三マス進めた。
そのマスには、小さな文字が書かれていた。
「『注目を集めすぎて、一歩も動けない』……え?」
麻衣のコマが止まったマス。そこには、人だかりの絵と、その真ん中で立ち尽くす女性の絵が描かれていた。
「なんだ、このマス。進めないのか?」
「……どうやら、そうみたいね。次のターン、一回休みってことかしら」
麻衣は、苦笑いした。
「……これ、私の人生みたいね」
麻衣の声が、静かに響いた。
その言葉には、咲太が想像するよりずっと深い重みが込められているように感じられた。
国民的女優として、常に注目を浴び続けてきた麻衣。
テレビに出れば、顔が売れ、名前が知れ渡り、街を歩けば振り返られる。
でも、その注目のせいで、学校では孤立し、友達もできず、本当の自分を見てもらえなかった。
注目を集めすぎて、一歩も動けない。
それは、まさに、麻衣のこれまでの人生そのものだった。
咲太は、何と返せばいいのか分からず、黙り込んだ。
「……麻衣さんは、すごく大変だったんですね」
かえでが、麻衣の顔を心配そうに見つめた。
その無邪気な優しさに、麻衣は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた。
「大丈夫よ。慣れてるから」
麻衣は、笑顔を作って答えた。
でも、その笑顔が、ほんの少しだけ、かえでの作り笑いと似ているように見えた。
「じゃあ、次はかえでの番です! かえでも振りますよ!」
かえでは、サイコロを両手で包み込み、えいっと振った。
サイコロが転がり、止まる。
出た記号は、手を繋ぐ形。
「手を繋ぐ記号! これ、なんだかいいことありそうな気がします!」
かえでは、パンダのコマを、ぴょんぴょんと五マス進めた。
「『家族の食卓』……わあ、これ、あったかそうなマスです!」
かえでのコマが止まったマスには、食卓を囲む家族の絵が描かれていた。
「かえでちゃん、いいマスに止まったわね」
「はい! かえで、家族の食卓、大好きです! お兄ちゃんとご飯食べるの、毎日楽しいんですよ!」
かえでは、咲太の方を見て、にこっと笑った。
「そうか。じゃあ、今度はお前の好きなハンバーグでも作ってやるよ」
咲太は、かえでの頭をくしゃくしゃと撫でた。
その手つきは、とても優しかった。
その笑顔も、とても柔らかかった。
麻衣は、その光景を、静かに見つめていた。
咲太がかえでに向ける視線。
咲太がかえでに見せる笑顔。
咲太がかえでに注ぐ愛情。
それは、麻衣が知っているどの表情よりも、温かくて、優しくて、真剣だった。
麻衣は、自分でも説明できない複雑な気持ちになった。
胸の奥が、きゅっと締め付けられるような感覚。
これは、嫉妬なのだろうか。
それとも、別の何かなのだろうか。
麻衣には、分からなかった。
「……咲太」
「ん? どうした、麻衣さん」
「……なんでもないわ。次、あなたの番よ」
麻衣は、視線を盤面に戻した。
その手は、膝の上で、ぎゅっと握られていた。
「ああ。じゃあ、振るか」
咲太はサイコロを振った。
出た記号は、波のような形。
「波か。じゃあ、四マス進むか」
咲太は、青い服の少年のコマを、四マス進めた。
「『空気を読まない』……おい、なんだこのマス。俺への当てつけか」
咲太のコマが止まったマスには、周囲の空気を読まずに、一人だけ逆方向を向いている少年の絵が描かれていた。
「あら、ぴったりじゃない」
「お兄ちゃん、空気読まないの、得意ですもんね!」
「得意って言い方やめろ。わざと読んでないだけだ」
「余計タチが悪いわね」
麻衣が、くすっと笑った。
その笑顔を見て、咲太は少しだけ安心した。
さっきまでの、張り詰めた空気が、少しだけ和らいだ気がした。
「じゃあ、また麻衣さんの番ですよ! でも、麻衣さんのコマ、一回休みでしたよね?」
「ええ。だから、今回は咲太の番ね」
「え、また俺? なんか、このゲーム、麻衣さんばっかり休んでないか」
「仕方ないでしょ。私のコマは、注目されすぎて動けないんだから」
麻衣の声は、軽い調子だった。
でも、その言葉の裏には、やっぱり、あの重みが隠れている気がした。
咲太は、サイコロを振った。
今度の記号は、星のような形。
「星? また意味わかんねえな。……とりあえず、六マス進むか」
咲太は、コマを六マス進めた。
「『すれ違い』……なんだよ、これ。また微妙なマスだな」
咲太のコマが止まったマスには、二人の人物が、背を向け合って歩いていく絵が描かれていた。
「すれ違い……なんだか、悲しいマスですね」
かえでが、盤面を覗き込んだ。
「……そうね」
麻衣の声が、少しだけ低くなった。
その時だった。
盤面の表面が、うっすらと光り始めた。
「……え?」
咲太は、目を疑った。
盤面の中央、校舎のマスと海のマスの間に、文字が浮かび上がっている。
『管理人より告げる』
その文字は、まるで誰かが内側から照らしているかのように、淡く、青白く光っていた。
「な、なにこれ……お兄ちゃん、これ、どうなってるの?」
かえでが、咲太の腕にしがみついた。
「……分からん。でも、大丈夫だ。かえでは、俺の後ろにいろ」
咲太は、かえでを背中に隠すようにして、盤面を凝視した。
『管理人より告げる』
文字は、それだけだった。
他には、何も書かれていない。
ただ、その文字が、じわりじわりと浮かび上がり、そして、ふっと消えた。
「……消えた」
麻衣が、小さく呟いた。
その直後。
ころり。
テーブルの上に置いてあったサイコロが、ひとりでに転がった。
誰も触れていない。
風も、振動も、何もない。
それなのに、サイコロは、まるで意志を持っているかのように、ゆっくりと回転した。
そして、ぴたりと止まった。
「……すれ違い」
かえでの声が震えていた。
サイコロの上を向いた面。
そこに刻まれていたのは、二つの矢印が逆方向を向いている形。
あの『すれ違い』の記号だった。
「……私、今日は帰るね」
麻衣が、静かに立ち上がった。
「麻衣さん……?」
咲太は、麻衣の顔を見上げた。
麻衣の表情は、いつもの、咲太をからかう時の顔ではなかった。
少しだけ、寂しそうな顔。
少しだけ、悲しそうな顔。
何かを我慢しているような、そんな顔だった。
「ケーキ、ごちそうさま。かえでちゃん、またね」
麻衣は、かえでに笑顔を向けた。
でも、その笑顔は、明らかに無理をしていた。
「麻衣さん……あの、かえで、何か、失礼なことしましたか……?」
かえでは、不安そうに麻衣の顔を見つめた。
「ううん、かえでちゃんは何も悪くないのよ。……ただ、ちょっと、今日は帰るわ」
麻衣は、かえでの頭を、もう一度、そっと撫でた。
そして、玄関に向かって歩き出した。
「麻衣さん」
咲太は、麻衣の背中に声をかけた。
麻衣が、足を止める。
でも、振り返らなかった。
「……送ってくよ。夜だし」
咲太は、そう言うのが精一杯だった。
理由を聞けばよかった。
どうして帰るのか、何が嫌だったのか、何を感じたのか。
聞きたかった。
でも、聞けなかった。
麻衣の背中が、あまりにも遠く感じたから。
「大丈夫。一人で帰れるわ。……じゃあね、咲太」
麻衣は、それだけ言って、玄関のドアを開けた。
パタン、と、静かにドアが閉まる。
リビングに、沈黙が落ちた。
「……お兄ちゃん、お姉ちゃんと、喧嘩しましたか?」
かえでが、咲太の服の裾を、ぎゅっと握った。
「……してないよ」
咲太は、かえでの頭を撫でた。
でも、その声は、自分でも分かるくらい、力がなかった。
「……でも、麻衣さん、悲しそうな顔してました」
かえでの声は、今にも泣き出しそうだった。
「……大丈夫だ。かえでは、気にしなくていい」
咲太は、笑顔を作った。
でも、その笑顔は、かえでの作り笑いと同じものだと、自分で分かっていた。
かえでは、何も言わずに、パジャマの袖をぎゅっと握りしめた。
その小さな手が、少しだけ震えていた。
咲太は、テーブルの上を見つめた。
そこには、さっきまで三人で遊んでいたボードゲーム。
そして、麻衣が選んだ、黒いドレスの女性のコマ。
そのコマは、『注目を集めすぎて、一歩も動けない』マスの上で、止まったままだった。
まるで、麻衣の心を、そのまま映し出しているかのように。
咲太は、そのコマを、じっと見つめた。
窓の外では、湘南の夜風が、カーテンを静かに揺らしていた。
遠くで、波の音が聞こえる。
ざざ、ざざ、と、繰り返す波の音。
その音が、やけに胸に響いた。
「……麻衣さん」
咲太は、誰にも聞こえない声で、呟いた。
テーブルの上では、あのサイコロが、『すれ違い』の記号を上に向けたまま、静かに横たわっていた。Noveliaとは?
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