青春ブタ野郎はみんなでゲームをする
バイト先のファミレスで見つけた古びたボードゲーム、その名も「青春すごろく ムスビダイス」。盤面にはなぜか見覚えのある峰ヶ原高校と七里ヶ浜の海、そして数字ではなく奇妙な記号が刻まれたサイコロ。拾ってきた箱を見た妹かえでが、一瞬だけ見せたあの表情は——。
「何も起きない」はずの日常は、静かに、しかし確実に崩れ始める。ひとりでに転がるサイコロ、夢に蘇るあの日の痛み、そして「人と繋がる」という記号の意味。これはただの暇つぶしのゲームなのか、それとも——。
週末、麻衣さん、双葉、のどかを呼んでみんなで遊ぶ。その約束が、今は少しだけ恐ろしい。でも、かえでの笑顔を守るために、俺は前に進むしかない。思春期症候群を巡る、にぎやかで、ほんの少し不思議な青春すごろくが、いま幕を開ける。
青春ブタ野郎はみんなでゲームをする - 光る盤面と、広がる傷
「……で、これが例のゲームか」
豊浜のどかは、ローテーブルの上に広げられた古びたボードゲームを、じっと見下ろした。
土曜の夜。
咲太のマンションのリビングには、湘南の夜風がカーテンを揺らしている。
のどかは、アイドルらしい派手な私服姿だった。肩口で揃えた髪は、毛先だけがふわりと内側に巻かれている。薄いピンクのニットに、膝上丈のスカート。首元には、小さな星のチャームが揺れていた。
「私のコマ、どれ? ねえ、どれを選べばいいの?」
のどかは、箱の中から取り出された色とりどりのコマを、指先でつまみ上げた。
「お前、話聞いてたか? ルールブックがないんだよ。適当にやるしかない」
咲太は、寝癖のついた黒髪をかきながら、深い茶色の瞳を半分閉じたまま言った。
「適当でいいの? じゃあ、これ! 私、このキラキラしたやつがいい!」
のどかが選んだのは、金色の塗装が剥げかけた、小さな星の形をしたコマだった。
「それ、一番派手なやつだな。さすがアイドル様は目の付け所が違う」
「でしょ? 私のコマ、派手すぎない? でも、私にはこれくらいがお似合いかなって」
のどかは、星のコマを自分の手のひらに乗せて、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、テレビの中で見せるものと同じ、完璧に作られた笑顔だった。
咲太は、のどかの笑顔を横目で見ながら、何かを言おうとして、やめた。
空気は読める。読めるからこそ、今は触れない方がいいことも分かる。
「のどかさん、それ、すごくかわいいです。かえで、キラキラしてて好きですよ」
かえでは、パンダ柄のパジャマの袖を、もじもじと触りながら言った。
初対面の年上の人間には警戒心が強いかえでだが、のどかには、どこか親しみやすさを感じているようだった。
「かえでちゃん、分かってるじゃない! さすが咲太くんの妹!」
のどかは、かえでの頭を、よしよしと撫でた。
かえでは、くすぐったそうに、でも嬉しそうに、目を細めた。
「……で、いつまで無駄話をしてるの? ゲームを始めるんでしょ」
理央は、白衣のポケットから取り出したメガネを、くいっと押し上げた。
彼女は、テーブルの端に座り、盤面を食い入るように見つめている。
「双葉、お前、今日は一段とやる気だな。何か面白いデータでも取れそうなのかよ」
「あんたが持ち込んだんでしょ。このゲームが、参加者の心理状態を映し出す鏡だって仮説を立てたのは私よ。その検証をしないで帰るわけにはいかないわ」
理央の声は、相変わらず淡々としている。
でも、その瞳は、メガネの奥で、ほんの少しだけ輝いていた。
「麻衣さんも、今日はよろしくお願いします」
かえでが、隣に座る麻衣に、ぺこりと頭を下げた。
「ええ、よろしくね。……今日は、ケーキはないけど」
麻衣は、黒髪ロングヘアを、ふわりと揺らした。
ウサギの形をした髪留めが、リビングの灯りに、ちかりと光る。
「あ……昨日は、せっかく持ってきてくださったのに、かえで、ちゃんとお礼を言えなくて……」
かえでの声が、小さくなる。
昨日の夜、麻衣が何も言わずに帰っていったことを、かえではまだ気にしているのだ。
「気にしなくていいのよ。かえでちゃんは、何も悪くないんだから」
麻衣は、かえでの頭を、そっと撫でた。
でも、その指先は、ほんの少しだけ、震えているように見えた。
咲太は、麻衣の横顔を見た。
麻衣の瞳は、かえでに向けられている。
でも、その視線の奥には、咲太には見せない、何か複雑な感情が渦巻いているように見えた。
「……よし、始めるか」
咲太は、空気を変えるように、わざと明るく言った。
「うん! やろうやろう!」
のどかが、身を乗り出す。
「サイコロは、私が振るわ。……記号の出目と、コマの動きの相関を記録するから」
理央は、布袋から、あの奇妙なサイコロを取り出した。
六面すべてに、異なる記号が刻まれたサイコロ。
数字の代わりに、人の形、手を繋ぐ形、波のような形、目玉のような形、星のような形、そして、二つの矢印が逆方向を向いている形。
「相関って……お前、何を研究してるんだよ」
「青春ブタ野郎の生態観察よ」
理央は、咲太の方をちらりとも見ずに言った。
「ひでえ言われようだな」
咲太は、苦笑いした。
「あはは、理央ちゃん、相変わらず辛辣だねー」
のどかは、ケラケラと笑った。
その笑い声で、部屋の空気が、少しだけ軽くなった。
──そう、この時までは。
理央が、サイコロを振った。
ころり。
サイコロは、盤面の上を転がり、あるマスで止まった。
「……また、『本当の自分を隠す』マスね」
理央が、盤面を指さす。
のどかの星のコマは、『本当の自分を隠す』と書かれたマスの上で、ぴたりと止まっていた。
「え? なにそれ、どういう意味?」
のどかは、首をかしげた。
「文字通りよ。あなたが、本当の自分を隠している、ってことじゃない?」
理央の言葉に、のどかの笑顔が、一瞬だけ固まった。
でも、すぐに、また笑顔に戻る。
「えー、何それ! 私、別に何も隠してないよ? これ、当たってないわよ」
のどかは、手をひらひらと振った。
でも、その笑顔は、さっきまでのものとは、どこか違っていた。
無理をして、笑っている。
咲太には、そう見えた。
「……のどか」
咲太が、何か言おうとした。
「豊浜さん。あなた、このゲームが始まってから、ずっと『本当の自分を隠す』マスにばかり止まってるのよ。確率から考えて、ありえないわ」
理央は、ノートに何かを書き込みながら、淡々と続けた。
「え……そうなの?」
のどかの声が、少しだけ小さくなる。
「ええ。五回振って、五回とも同じマス。単純計算で、その確率は……まあ、低いわね。これは偶然じゃない。このゲームは、あなたの心理状態を反映してる。……あなたも、何か隠してるんでしょ」
理央の言葉は、静かだった。
でも、その一言一言が、のどかの心に、深く突き刺さっていく。
リビングの空気が、張り詰めた。
「……隠してなんかないわよ」
のどかの声が、初めて、強くなった。
「そう。……なら、いいのよ。私の気のせいかもしれないし」
理央は、それ以上、何も言わなかった。
でも、その沈黙が、逆に、のどかの心を追い詰める。
「……のどか、大丈夫か?」
咲太は、のどかの顔を覗き込んだ。
「え? 何が? 大丈夫だよ! ほら、次、誰が振るの? 麻衣さんでしょ?」
のどかは、また、笑顔を作った。
でも、その笑顔は、明らかに無理をしていた。
咲太は、のどかの笑顔の裏に、何かがあることを感じ取った。
でも、どう声をかければいいのか、分からない。
「……じゃあ、私が振るわね」
麻衣が、理央からサイコロを受け取った。
その時だった。
──突然、盤面が、眩しく光り出した。
「なっ……」
咲太は、思わず、目を手で覆った。
盤面から溢れ出した光は、リビング全体を、白く塗りつぶしていく。
「お兄ちゃん!?」
かえでが、咲太の腕に、しがみついた。
「……何が起きてるの?」
理央の声が、わずかに震えている。
光は、すぐに収まった。
でも、盤面は、さっきまでとは、明らかに違っていた。
盤面に置かれた五つのコマが、それぞれ、淡い光を放っている。
「……麻衣さんの、コマが……」
かえでの指が、震えながら、盤面の一点を指さした。
麻衣のコマ──黒いドレスの女性のコマが、一瞬、霞んで、見えなくなった。
いや、見えなくなった、というより、その存在自体が、薄れている。
「……消えて、る……?」
のどかの声が、掠れる。
「……これは、共鳴現象よ。ゲームが、参加者の心を、映し出してる」
理央は、メガネの奥の瞳を、盤面に釘付けにしたまま言った。
「……麻衣さんの、思春期症候群が……」
咲太は、麻衣のコマを、じっと見つめた。
麻衣の思春期症候群──かつて、彼女の存在が、周囲から認識されなくなった現象。
あの時の記憶が、咲太の脳裏に、鮮明に蘇る。
「……かえでの、コマ……」
かえでの声は、今にも泣き出しそうだった。
かえでのコマ──小さなパンダの形をしたコマから、小さな傷のような模様が、浮かび上がっていた。
赤黒い、無数の傷。
その模様は、まるで、かえでの心の傷を、そのまま映し出しているかのようだった。
「……やめろ」
咲太は、盤面を、きつく睨みつけた。
「……これが、このゲームの正体ってわけね。参加者の心の傷を、可視化する。……趣味が悪いわ」
理央の声は、冷静さを保とうとしていた。
でも、その顔には、隠しきれない恐怖が、混じっている。
「……私の、コマは……?」
のどかは、自分の星のコマを、恐る恐る見た。
星のコマは、他のコマと同じように、淡い光を放っている。
でも、傷のような模様は、浮かんでいない。
「……あなたのコマは、無事みたいね。……今のところは」
理央の言葉に、のどかは、ほっとしたように、息を吐いた。
でも、その顔は、まだ、青ざめている。
その時だった。
盤面の中央に、文字が、浮かび上がった。
『管理人より告げる。ゲームを続行せよ』
「……またかよ」
咲太は、深いため息をついた。
「……お兄ちゃん……これ、かえでの、せい……?」
かえでが、咲太の腕を、ぎゅっと握りしめた。
その手は、氷のように冷たかった。
「違う。絶対に違う」
咲太は、即座に、首を横に振った。
「でも……かえでのコマだけ、傷が……かえでが、スマホを持ってないから……ゲームが、怒ってるのかなって……」
かえでの声は、震えていた。
「違う! かえでは、何も悪くない。スマホを持ってないことが、悪いわけがあるかよ」
咲太は、かえでの肩を、強く抱きしめた。
かえでの体が、小さく、震えている。
「……かえでちゃん。咲太の言う通りよ。あなたは、何も悪くない。……悪いのは、こんなゲームを作った、誰かよ」
麻衣が、かえでの背中を、優しくさすった。
でも、麻衣の視線は、咲太に向けられていた。
「……咲太」
麻衣が、静かに、咲太の名前を呼んだ。
「……なんだよ、麻衣さん」
咲太は、かえでを抱きしめたまま、麻衣の顔を見た。
「かえでちゃんを守るのは、いいわ。……でも、あんた、一人で抱え込みすぎよ」
麻衣の声は、静かだった。
でも、その瞳は、咲太を、真っ直ぐに見つめていた。
「……何、急に」
咲太は、麻衣の言葉の意味を、理解できなかった。
「このゲームのこと。かえでちゃんのこと。……あんた、全部、一人で解決しようとしてるでしょ。……私にも、理央にも、のどかにも、何も言わないで」
麻衣の言葉は、咲太の心の、深いところに、突き刺さった。
「……別に、一人で抱え込んでるつもりはないけどな」
咲太は、わざと、軽く言った。
「……そう。なら、いいの。……でも、無理はしないでね」
麻衣は、それ以上、何も言わなかった。
「大丈夫ですよ、麻衣さん。かえで、大丈夫です。……お兄ちゃんが、守ってくれますから」
かえでは、咲太の胸に顔を埋めたまま、笑顔を作った。
でも、その笑顔は、明らかに、無理をしていた。
「……咲太。あんたのその笑顔」
麻衣が、咲太の顔を、じっと見つめた。
「……笑顔? 俺、笑ってるか?」
咲太は、自分の顔を、手で触った。
笑っている、つもりはなかった。
でも、麻衣には、そう見えたのだ。
「……あんたのその笑顔、かえでちゃんと一緒よ。……無理して、笑ってる」
麻衣の言葉に、咲太は、言葉を失った。
反論したかった。
でも、できなかった。
麻衣の言う通りだったからだ。
俺は、かえでを守るために、強がって、笑顔を作っていた。
それは、かえでが、俺を心配させないために、笑顔を作っているのと、同じだった。
「……ごめんなさい。……意地悪、言ったわね」
麻衣は、静かに、目を伏せた。
その横顔は、悲しそうで、でも、どこか、ほっとしたようにも見えた。
「……いや。……麻衣さんは、正しいよ」
咲太は、小さく、ため息をついた。
「……二人とも、話は終わった? ……終わったなら、これを見て」
理央が、盤面を指さした。
かえでのコマから浮かび上がった傷の模様は、消えていなかった。
それどころか、その模様は、ゆっくりと、盤面全体に、広がり始めていた。
まるで、かえでの心の傷が、部屋の空気を、重く、暗く、染め上げていくかのように。
「……お兄ちゃん……かえで、怖い……」
かえでが、咲太に、しがみついた。
「……大丈夫だ。俺が、ついてる」
咲太は、かえでの頭を、優しく撫でた。
でも、咲太の心の中は、決して、大丈夫ではなかった。
このゲームは、何なんだ。
どこまで、俺たちの心を、えぐれば、気が済むんだ。
咲太は、光る盤面を、睨みつけた。
ゲームは、止まらない。
『管理人より告げる。ゲームを続行せよ』
その文字が、盤面の上で、不気味に、点滅していた。
リビングの空気は、重く、冷たく、張り詰めていた。
五人の心の傷が、盤面の上で、静かに、でも確実に、広がっていく。
窓の外では、湘南の夜風が、カーテンを、激しく揺らしていた。
遠くで、波の音が聞こえる。
ざざ、ざざ、と、繰り返す、波の音。
その音が、やけに、不気味に、胸に響いた。Noveliaとは?
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