青春ブタ野郎はみんなでゲームをする
バイト先のファミレスで見つけた古びたボードゲーム、その名も「青春すごろく ムスビダイス」。盤面にはなぜか見覚えのある峰ヶ原高校と七里ヶ浜の海、そして数字ではなく奇妙な記号が刻まれたサイコロ。拾ってきた箱を見た妹かえでが、一瞬だけ見せたあの表情は——。
「何も起きない」はずの日常は、静かに、しかし確実に崩れ始める。ひとりでに転がるサイコロ、夢に蘇るあの日の痛み、そして「人と繋がる」という記号の意味。これはただの暇つぶしのゲームなのか、それとも——。
週末、麻衣さん、双葉、のどかを呼んでみんなで遊ぶ。その約束が、今は少しだけ恐ろしい。でも、かえでの笑顔を守るために、俺は前に進むしかない。思春期症候群を巡る、にぎやかで、ほんの少し不思議な青春すごろくが、いま幕を開ける。
青春ブタ野郎はみんなでゲームをする - 理央の分析と、動かないコマ
土曜の朝。
梓川咲太は、峰ヶ原高校の校舎裏にある、薄暗い渡り廊下を歩いていた。
「あー、めんどくせー」
口から出たのは、いつもの口癖。
寝癖のついた黒髪をかきながら、深い茶色の瞳は半分閉じたまま。制服の紺ブレザーも、なんだか着られているというより、引っかかっているという感じだ。
昨日の夜のことを、思い出す。
麻衣が、何も言わずに帰っていったこと。
かえでの、悲しそうな顔。
テーブルの上に転がった、あのサイコロ。
『すれ違い』の記号。
「……ちっ」
咲太は、小さく舌打ちをした。
空気は読める。
読めるからこそ、分かっていた。
麻衣が、あのゲームに何かを感じ取っていたこと。
そして、その何かが、俺と、かえでとの間に、小さな、でも確かな溝を作ろうとしていること。
「だからって、どうすりゃいいんだよ」
誰に言うでもなく、呟く。
答えなんて、出るはずがない。
咲太は、古びた校舎の階段を上がった。
目指すは、物理実験室。
この学校で、咲太が唯一、気兼ねなく話せる相手のいる場所。
科学部、唯一の部員。
白衣を着た、毒舌家。
双葉理央。
「おーい、双葉。いるかー」
咲太は、物理実験室の引き戸をガラガラと開けた。
瞬間、鼻をつくのは、薬品と、古い木と、ホコリが混ざったような、独特の匂い。
理央は、窓際の机に座っていた。
やや癖のある長い髪を、無造作に下ろしている。
知的な黒い瞳は、メガネの奥で、手元のノートに向けられていた。
白衣のポケットからは、ペンと、小さな実験器具が覗いている。
彼女は、咲太の声に顔を上げた。
「……うるさいわね。ドアくらい静かに開けなさいよ」
「お前の部屋かよ、ここは」
咲太は、理央の向かいの椅子に、どさっと座った。
「実質、私の部屋みたいなものよ。あんた以外、誰も来ないし」
理央は、ノートに視線を戻した。
「そりゃ、お前が実験でボヤ騒いだからだろ。噂になってるぞ、『物理実験室のマッドサイエンティスト』って」
「失礼ね。あれは、マッドサイエンティストじゃなくて、ただの不注意よ。……それで、今日は何の用? また、どうでもいい話?」
理央の声は、相変わらず淡々としている。
でも、咲太には分かる。
彼女は、話を聞く気でいる。
毒舌は、彼女なりのコミュニケーションなのだ。
咲太は、持っていた紙袋を、机の上に置いた。
「これ、見てくれ」
紙袋から出てきたのは、あの古びたボードゲーム。
『青春すごろく ムスビダイス』。
「……これ、例の?」
理央が、初めてメガネの奥の瞳を、ゲームに向けた。
「ああ。バイト先で拾った、呪いのゲームだ」
「呪い、ね。そういう非科学的なこと、私の前で言わないでくれる?」
理央は、箱を手に取り、まじまじと観察した。
色褪せたクリーム色の地に、レトロなタッチのイラスト。
「……製造元の記載がないわね。バーコードも。本当に、素性が分からないの?」
「店長も知らないってさ。二週間くらい前から、待合のソファに挟まってたらしい」
「ふうん」
理央は、箱の蓋を開けた。
中から、厚紙の盤面と、布袋に入ったサイコロを取り出す。
「ルールブックは?」
「ない。最初からないんだよ。だから、みんなで適当にやってる」
「適当、ね。……このサイコロ、数字じゃないのね」
理央は、布袋からサイコロを出し、手のひらに乗せた。
六面すべてに、異なる記号。
人の形、手を繋ぐ形、波のような形、目玉のような形、星のような形、二つの矢印が逆方向を向いている形。
「記号の意味は、推測するしかないわ。……でも、問題は、サイコロだけじゃない」
理央は、盤面を机の上に広げた。
咲太は、理央の顔を見た。
彼女は、メガネのフレームを、人差し指で、くいっと押し上げた。
考え事をする時の、彼女の癖だ。
「これ、峰ヶ原高校の校舎よ。それも、今の姿で描かれてる」
「……やっぱり、そうだよな」
「ええ。校舎の形、窓の配置、渡り廊下の位置。どれも、現在の峰ヶ原高校と一致してる。……でも、盤面のデザインは、明らかに古い。昭和後期から、平成初期のものよ」
「ってことは、矛盾してるってことか」
「そう。この盤面が、仮に昭和後期に作られたのだとしたら、今の校舎の姿を知っているはずがない。逆に、最近作られたのだとしたら、この古びたデザインは不自然よ」
理央は、盤面の上に指を滑らせた。
「まるで、時代が、ねじれているみたい」
その言葉に、咲太の胸の奥が、ざわりと騒いだ。
「……なあ、双葉。これ、ただのゲームじゃない気がするんだよ」
「どういう意味?」
咲太は、昨日の夜のことを、かいつまんで話した。
麻衣のコマが、『注目を集めすぎて、一歩も動けない』マスに止まり続けたこと。
かえでのコマが、ゲームのルールに引っかかって、動かなくなったこと。
そして、サイコロが、ひとりでに転がり出したこと。
「……サイコロが、ひとりでに?」
理央の声が、初めて、ほんの少しだけ、揺れた。
「信じないだろ、普通は」
「……普通は、信じないわね。でも、あんたの話には、これまで何度も、普通じゃないことが起きてる。私が知ってるだけで、三回は」
理央は、腕を組んだ。
「麻衣先輩の、思春期症候群。かえでちゃんの、思春期症候群。そして、あんた自身の、胸の傷」
咲太は、左胸を、無意識に、服の上から触った。
「だから、このゲームが、思春期症候群と関係してる可能性は、否定できない」
「さすが、話が早い」
「バカにしてる?」
「褒めてるんだよ。……で、どう思う? このゲーム、何なんだと思う?」
理央は、しばらく、盤面を見つめていた。
窓の外から、朝の光が差し込んで、盤面の上で、ゆっくりと動いていく。
「……仮説よ」
理央は、静かに口を開いた。
「このゲームは、参加者の心理状態を、盤面に反映している可能性がある」
「心理状態、ね」
「そう。麻衣先輩のコマが、『注目を集めすぎて動けない』マスに止まったのは、麻衣先輩自身が、芸能人としての過去に、縛られているから。かえでちゃんのコマが、スマホのルールで動かないのは、かえでちゃん自身が、スマホに恐怖を感じているから」
理央は、咲太の目を、まっすぐに見た。
「このゲームは、私たちの、心の中を映す鏡なのよ」
咲太は、ごくりと、唾を飲み込んだ。
「……鏡、ね。そりゃ、おっかねえな」
「そう。だから、私も、試してみたいの」
理央は、そう言って、布袋からサイコロを取り出した。
「お前が? 自分から?」
「ええ。私のコマが、どんなマスに止まるのか。データを取りたいの」
理央は、サイコロを、机の上に、ころん、と転がした。
サイコロは、カタカタと音を立てて、回転する。
そして、止まった。
上を向いたのは、人の形の記号。
「……人の形。これは、『人と関わる』って意味かしら」
理央は、盤面の上で、自分のコマを進めた。
コマは、いくつかのマスを通り過ぎ、あるマスで止まった。
『一人でいる方が楽』
そのマスには、そう書かれていた。
「……おい」
咲太は、思わず声を上げた。
理央は、じっと、そのマスを見つめている。
「……ふうん。そういうこと」
理央の声は、いつも通り、淡々としていた。
でも、咲太には分かる。
彼女は、内心、動揺している。
「確率、どうなんだよ。たまたまだろ」
「……サイコロの目は六つ。マスの数は、ざっと六十。一回振って、このマスに止まる確率は、単純計算で、約百六十分の一。……それを、あんたは、たまたま、と言うの?」
理央は、もう一度、サイコロを振った。
カタカタ。
止まった目は、また、人の形。
コマを進める。
止まったマスは、またしても、『一人でいる方が楽』。
「……マジかよ」
咲太は、思わず、身を乗り出した。
理央は、三度、サイコロを振った。
結果は、同じ。
『一人でいる方が楽』。
「……どうやら、このゲームは、私のことを、よく分かってるみたいね」
理央は、メガネのフレームを、くいっと押し上げた。
その手が、ほんの少しだけ、震えている。
「……双葉」
「何?」
「お前、それ、本心か?」
咲太は、『一人でいる方が楽』のマスを、指さした。
理央は、一瞬、黙った。
「……さあ。自分でも、よく分からないわ。でも、確かに、一人でいるのは、嫌いじゃない。煩わしくないし、傷つくこともない」
「……でも、俺に、ゲームの分析を頼んだ」
「それは、あんたが、私の話を、バカにしないからよ。……それに、私は、あんたのことを、友人だとは思ってる。……たぶん」
理央は、窓の外に、視線を向けた。
「……このゲーム、次も、私を呼んで。データを取りたいの」
「お前が、自分から? 珍しいな」
「……私のコマが、どう動くのか。もっと、知りたいのよ」
理央の声は、静かだった。
でも、その瞳の奥には、確かに、知的好奇心が、燃えていた。
「……分かったよ。今日の午後、俺んちでやる。来るだろ?」
「ええ。……麻衣先輩は?」
「……呼んでみる」
咲太は、ポケットから、何かを取り出そうとして、手を止めた。
スマホ。
俺は、スマホを持っていない。
かえでが、スマホを怖がるから、海に投げ捨てて以来、ずっと。
「……連絡、どうすっかな」
「あんた、相変わらずね。……私から、連絡しておくわ。麻衣先輩には、私のスマホで」
「お前、麻衣さんの連絡先知ってんの?」
「前に、あんたのことで、色々あってね。……まあ、いいわ。とにかく、午後、あんたの家で」
理央は、そう言って、ノートに、何やら書き込んだ。
咲太は、理央の横顔を見ながら、思った。
(こいつも、色々、抱えてるんだよな)
『一人でいる方が楽』。
その言葉は、理央の、心の奥底にある、寂しさの裏返しなのかもしれない。
「……なあ、双葉」
「何?」
「一人でいるのが楽でも、たまには、みんなで、ゲームでもやるのも、悪くないだろ」
理央は、咲太の顔を、じっと見た。
「……そうね。データを取るには、複数の被験者が必要だもの」
「……お前、本当に、そういうとこだよ」
咲太は、苦笑いした。
でも、理央の口元が、ほんの少しだけ、緩んだように見えた。
午後。
咲太のマンションのリビング。
「お兄ちゃん、お茶入りましたよ! あ、理央さん、こんにちは! 今日は、ゲームをやるんですよね!」
かえでは、パンダ柄のパジャマの上に、カーディガンを羽織って、嬉しそうに言った。
「……こんにちは、かえでちゃん。……ええ、今日は、ゲームの、実験に」
理央は、かえでに、少しだけ、ぎこちなく微笑んだ。
「実験って、なんですか?」
「……このゲームが、私たちの心理状態を、どう反映するのかを、調べるのよ」
「へえー! なんだか、すごく楽しそうです!」
かえでは、無邪気に、目を輝かせた。
「……まあ、かえでにとっては、実験も、遊びのうちか」
咲太は、テーブルの上に、ゲームを広げた。
そこへ、チャイムの音。
「あ、麻衣さんだ!」
かえでが、ぱたぱたと、玄関に向かう。
「かえでちゃん、こんにちは。……お邪魔するわね」
玄関から聞こえる、麻衣の声。
咲太は、一瞬、昨日の夜のことを思い出して、胸が、ちくりと痛んだ。
麻衣が、リビングに入ってくる。
黒髪ロングヘアを、ふわりと揺らして。
ウサギの形をした髪留めが、光を弾く。
「……あら、双葉さんも、来てたのね」
麻衣は、理央を見て、にこりと微笑んだ。
「……ええ。今日は、ゲームの分析を」
「あら、頼もしいわ。……咲太、あんた、ちゃんと、お茶の準備くらいしなさいよ」
麻衣は、咲太を見て、いつものように、少しだけ、意地悪な笑みを浮かべた。
「……へいへい。今、かえでが入れてくれたとこ」
咲太は、麻衣の顔を見て、ほっとした。
昨日のことは、なかったことには、なっていない。
でも、麻衣は、いつものように、ここにいる。
それだけで、咲太の心は、少しだけ軽くなった。
四人で、ローテーブルを囲む。
「じゃあ、始めるわよ。……ルールは、適当でいいのよね?」
「適当だ。ルールブックがないんだから、仕方ない」
「……そうね。みんなで、楽しくやりましょう」
麻衣は、そう言って、自分のコマを、盤面の上に置いた。
黒いドレスの女性のコマ。
理央は、白衣を着た、科学者らしきコマを選んだ。
咲太は、寝癖のついた、少年のコマ。
そして、かえでは、パンダのコマを選んだ。
「かえで、このパンダのコマがいいです! かわいい!」
「……かえでちゃん、パンダ好きだものね」
麻衣は、かえでの頭を、そっと撫でた。
「はい! パンダは、かえでの、お友達ですから!」
かえでは、嬉しそうに、パンダのコマを、頬ずりした。
「……お前、コマに頬ずりするなよ」
「だって、かわいいんですもん!」
「……じゃあ、私から振るわね」
理央は、サイコロを振った。
カタカタ。
出た目は、波のような記号。
理央のコマは、いくつかのマスを進み、『七里ヶ浜』のマスで止まった。
「……七里ヶ浜。夕日の名所、ね。……私には、縁遠い場所だわ」
「……俺と麻衣さんは、よく行くけどな」
「……え? お兄ちゃんと、麻衣さん、デートしてるんですか?」
かえでが、大きな瞳を、さらに大きく見開いた。
「……まあ、な。一応、付き合ってるし」
「お兄ちゃん、すごい! 麻衣さんみたいな、きれいな人と、デートしてるなんて!」
「……かえでちゃん、ありがとう。……でも、デートっていうか、ただ、海を眺めてるだけよ」
麻衣は、少し照れたように、髪をかき上げた。
「……お前、かえでに、変なこと言うなよ」
「変なことじゃないでしょ。……事実だもの」
麻衣は、咲太を、ちらりと見て、微笑んだ。
その笑顔に、咲太の心臓が、どきりと跳ねた。
(……やっぱり、麻衣さんは、かわいい)
「……次、私が振るわ」
理央が、サイコロを振った。
今度は、星の記号。
理央のコマは、『屋上』のマスで止まった。
「……屋上。峰ヶ原高校の、立ち入り禁止の場所ね」
「……俺は、よく、麻衣さんと、屋上でサボってたけどな」
「……あんた、屋上に、入ってたの?」
「……まあ、鍵くらい、どうにでもなるだろ」
「……犯罪よ、それ」
「……咲太、あんた、本当に、悪い子ね」
「……麻衣さんも、一緒にいただろ」
「……私は、咲太に、無理やり連れて行かれたのよ」
「……お兄ちゃん、麻衣さんを、無理やり屋上に連れて行ったんですか? ……お兄ちゃん、それは、ちょっと、悪いですよ」
かえでが、真面目な顔で、咲太を、じっと見た。
「……いや、麻衣さん、ノリノリだったから」
「……ノリノリじゃないわよ。……まあ、嫌ではなかったけど」
麻衣は、小さく、付け加えた。
「……なんだ、結局、楽しかったんじゃねえか」
「……うるさいわね」
麻衣は、咲太の脇腹を、軽く、つついた。
「……いてっ」
「お兄ちゃんと、麻衣さん、とっても仲良しさんですね! かえで、安心しました!」
かえでは、嬉しそうに、笑った。
その笑顔を、麻衣は、静かに見つめた。
「……そうね。……仲良しよ。……たぶん」
麻衣の声が、最後だけ、ほんの少し、小さくなった。
「……じゃあ、次は、かえでちゃんの番ね」
理央が、サイコロを、かえでに差し出した。
「はい! かえで、振ります!」
かえでは、サイコロを、両手で包み込むようにして、振った。
カタカタ。
出た目は、目玉のような記号。
「……目玉の記号。これは、何を意味するのかしら」
「……さあな。とにかく、進めてみろよ」
かえでは、パンダのコマを、盤面の上で、進めた。
いくつかのマスを通り過ぎ、あるマスの手前で、ぴたりと止まった。
「……あれ?」
かえでのコマは、マスの上で、止まっていた。
いや、止まっていた、のではない。
マスの手前で、止まってしまったのだ。
まるで、見えない壁に、ぶつかったかのように。
「……どうしたの、かえでちゃん?」
「……あの、なんか、コマが、動かないんです」
かえでは、パンダのコマを、もう一度、進めようとした。
でも、コマは、びくともしない。
「……おい、どういうことだ?」
咲太は、かえでの手元を、覗き込んだ。
かえでのコマは、あるマスの、ちょうど手前で、止まっていた。
そのマスには、こう書かれていた。
『スマホを持っていない者は、このマスを通過できない』
「……スマホ、ね」
理央が、そのマスを、じっと見つめた。
「……かえで、スマホ、持ってないですから」
かえでは、小さく、呟いた。
「……そう。このゲームのルールでは、スマホを持っていない者は、このマスを通過できない。……つまり、かえでちゃんは、ここから先に、進めないってことね」
理央の声は、淡々としていた。
でも、その言葉は、リビングの空気を、一瞬で、重くした。
「……あ、でも、大丈夫です! かえで、見てるだけで、とっても楽しいですから! みなさんのコマが、どうやって進むのか、見てるの、好きですし!」
かえでは、無理に、明るい声を出した。
そして、にこっと、笑った。
いつもの、かえでの笑顔。
でも、咲太には、分かった。
その笑顔は、無理をしている。
かえでは、本当は、ゲームに参加したい。
みんなと一緒に、コマを進めたい。
でも、自分には、スマホがないから、できない。
その悔しさを、悲しさを、必死に、笑顔で隠している。
「……かえで」
咲太は、かえでの頭に、手を置いた。
「……大丈夫ですよ、お兄ちゃん。かえで、本当に、見てるだけで、楽しいですから」
かえでは、咲太の手に、自分の手を重ねた。
その手は、少しだけ、冷たかった。
「……でも、だな」
咲太が、何か言おうとした時。
「……かえでちゃん」
麻衣が、静かに、口を開いた。
「……かえでちゃんは、本当に、いい子ね」
麻衣は、かえでの顔を、じっと見つめた。
その瞳は、優しかった。
でも、どこか、寂しそうでもあった。
「……そうだろ。うちのかえでは、世界一、いい子なんだよ」
咲太は、かえでの頭を、ぐりぐりと撫でながら、笑顔で言った。
「……うん。……でもね、咲太」
麻衣は、咲太の顔を、まっすぐに見た。
「……あんたが、かえでちゃんばっかり見てるから、私のコマ、すねてるんじゃない?」
麻衣は、冗談めかして、そう言った。
でも、その声には、ほんの少しだけ、棘があった。
「……え?」
咲太は、麻衣の顔を、見返した。
麻衣は、微笑んでいた。
でも、その笑顔の奥に、何か、別の感情が、隠れているような気がした。
「……冗談よ。……ほら、ゲームを続けましょう」
麻衣は、そう言って、自分のコマを、盤面の上で、進めた。
でも、リビングの空気は、さっきまでとは、明らかに違っていた。
どこか、ぎくしゃくしている。
「……あの、麻衣さん。かえで、大丈夫ですから。……お兄ちゃんを、取ったりしませんから」
かえでが、不安そうに、麻衣の顔を、見上げた。
「……かえでちゃん?」
「……かえで、お兄ちゃんの妹ですから。……麻衣さんが、お兄ちゃんの、一番大切な人で、いいんです。……だから、あんまり、悲しそうな顔、しないでください」
かえでは、麻衣の手を、ぎゅっと握った。
「……かえでちゃん、私は、別に、悲しくなんか……」
麻衣は、言葉に詰まった。
かえでの、まっすぐな瞳に、射抜かれて。
「……かえで、お前、何言って……」
咲太も、言葉に詰まった。
かえでは、何も分かっていないようでいて、実は、全部、分かっている。
麻衣の、複雑な気持ちも。
咲太の、どうしようもない不器用さも。
「……かえでちゃん、ありがとう。……でも、本当に、大丈夫よ。……私は、ただ、ちょっと、意地悪を言いたくなっただけだから」
麻衣は、かえでの手を、握り返した。
そして、今度は、本当に、優しい笑顔を、かえでに向けた。
「……さあ、ゲームを続けましょう。……次は、咲太の番よ」
「……おう」
咲太は、サイコロを手に取った。
でも、心の中は、ぐちゃぐちゃだった。
麻衣の言葉の裏にある感情。
かえでの、健気な優しさ。
理央の、冷静な観察。
そして、このゲームが、俺たちの心を、暴いていく。
「……振るぞ」
咲太は、サイコロを振った。
カタカタ。
出た目は、手を繋ぐ形の記号。
『人と繋がる』。
咲太のコマは、盤面の上を、ゆっくりと進んだ。
そして、あるマスで、止まった。
『家族の食卓』。
「……家族の、食卓?」
咲太は、そのマスを、じっと見つめた。
「……素敵なマスね」
「……お兄ちゃん、『家族の食卓』ですよ! なんだか、とっても、温かいマスです!」
かえでは、嬉しそうに、拍手した。
「……家族の食卓、ね。……あんたに、似合わないマスだわ」
理央が、毒舌を吐いた。
「……うるせえよ。……でも、まあ、悪い気はしないな」
咲太は、小さく、笑った。
ゲームは、その後も、続いた。
でも、かえでのコマは、あのマスの手前で、ずっと、止まったままだった。
夕方になり、麻衣と理央が、帰っていった。
「……じゃあね、咲太。……かえでちゃん、またね」
「……はい! 麻衣さん、理央さん、また来てくださいね! かえで、とっても楽しかったです!」
かえでは、玄関で、二人に、大きく手を振った。
「……ええ。データが取れたら、また来るわ」
「……お前、本当に、データ取りかよ」
「……当たり前でしょ。……それと、かえでちゃん」
理央は、かえでの前に、しゃがみ込んだ。
「……かえでちゃんは、スマホを持っていないから、ゲームを進められなかった。……でも、それは、かえでちゃんが、悪いわけじゃない。……このゲームのルールが、かえでちゃんに、合ってないだけよ」
「……理央さん……」
「……だから、あんまり、気に病まないで。……次は、もっと、かえでちゃんも、楽しめる方法を、私が考えるから」
理央は、そう言って、かえでの頭を、そっと撫でた。
「……理央さん、ありがとうございます……!」
かえでは、目を潤ませて、理央に、抱きついた。
「……ちょ、ちょっと、かえでちゃん……」
理央は、慌てて、かえでの体を、引き離そうとした。
でも、かえでは、ぎゅっと、理央にしがみついた。
「……双葉、お前、かえでに懐かれたな」
「……笑い事じゃないわよ。……離して、かえでちゃん」
理央は、顔を赤くして、もがいた。
「……ふふ、双葉さん、かえでちゃんに、好かれてるじゃない」
麻衣も、楽しそうに、笑った。
「……麻衣先輩、笑わないでください」
「……ごめんなさい。……でも、なんだか、妹が、もう一人増えたみたいで、嬉しいわ」
麻衣は、そう言って、理央とかえでを、優しい目で見つめた。
その光景を、咲太は、静かに見つめていた。
(……悪くない)
胸の奥が、じわりと、温かくなる。
ゲームは、確かに、俺たちの心を、暴く。
でも、それだけじゃない。
こうして、みんなの、新たな一面も、見せてくれる。
「……なあ、麻衣さん」
咲太は、玄関を出る、麻衣の背中に、声をかけた。
「……何?」
麻衣が、振り返る。
「……今日は、ありがとう。……来てくれて」
咲太は、それだけ言うのが、精一杯だった。
昨日の夜のことは、まだ、聞けない。
でも、麻衣が、今日、ここに来てくれたこと。
それが、咲太には、何よりも嬉しかった。
「……ばかね。……当たり前でしょ」
麻衣は、そう言って、小さく笑った。
「……じゃあね、咲太。……また、明日」
「……明日?」
「……うん。……また、ゲーム、やるんでしょ? ……のどかも、呼びましょう」
麻衣は、それだけ言って、今度こそ、背を向けて、歩き出した。
夕暮れの道を、麻衣の姿が、遠ざかっていく。
「……のどか、ね」
咲太は、麻衣の後ろ姿を見送りながら、呟いた。
豊浜のどか。
麻衣の、異母妹。
アイドルグループ、Sweet Bulletのメンバー。
彼女が加われば、このゲームは、さらに、賑やかになる。
そして、きっと、さらに、複雑にもなる。
「……ま、なるようになるだろ」
咲太は、小さく、ため息をついた。
夜。
かえでが、自分の部屋で、眠りについた後。
咲太は、リビングのローテーブルの前に、一人で座っていた。
テーブルの上には、あのゲームの盤面が、広げられたままになっている。
咲太は、かえでのコマを、手に取った。
パンダのコマ。
あのマスの手前で、止まったままの、かえでのコマ。
「……大丈夫、か」
咲太は、かえでの言葉を、思い出していた。
『大丈夫です! かえで、見てるだけで、とっても楽しいですから!』
あの笑顔。
あの声。
全部、本心じゃない。
かえでは、無理をして、笑っていた。
咲太には、分かっていた。
分かっていたのに、何もできなかった。
「……どう、声をかければ、よかったんだよ」
咲太は、盤面の上に、かえでのコマを、そっと置いた。
かえでは、スマホを、持っていない。
それは、かえでが、スマホに、恐怖を感じているからだ。
SNSで、いじめられた過去。
その記憶が、かえでを、苦しめている。
「……かえでが、悪いわけじゃ、ないのに」
咲太は、ぎゅっと、拳を握った。
あのゲームは、かえでの、心の傷を、えぐり出した。
スマホを持っていない、という、事実。
それは、かえでにとって、決して、触れてほしくない、過去の象徴だ。
「……くそ」
咲太は、小さく、悪態をついた。
その時。
テーブルの上に置いてあった、かえでのスマホが、小さく、震えた。
かえでは、スマホを、持っていない。
だから、これは、かえでのスマホではない。
咲太は、一瞬、何のことか、分からなかった。
だが、すぐに、思い出した。
これは、かえでが、以前、家族との連絡用に、と、唯一、持っている、古いスマホだ。
かえでは、このスマホの音にも、敏感に反応する。
だから、普段は、電源を切って、引き出しの奥に、しまってある。
「……なんで、ここに」
咲太は、そのスマホを、手に取った。
画面を見る。
麻衣から、メッセージが、届いていた。
『今日はごめんね。私、ちょっと意地悪だったかも』
「……麻衣さん」
咲太は、そのメッセージを、じっと見つめた。
麻衣は、やっぱり、気にしていたのだ。
自分の、あの言葉を。
「……俺は、スマホを持ってないから、返信も、できない」
咲太は、スマホを握りしめた。
もどかしい。
麻衣の、素直な気持ちに、応えたいのに。
言葉を、届けたいのに。
俺には、その手段がない。
「……明日、ちゃんと、話そう」
咲太は、スマホを、テーブルの上に置いた。
そして、もう一度、盤面を見つめた。
『家族の食卓』。
俺のコマが、止まったマス。
「……家族、か」
咲太は、呟いた。
かえでと、麻衣と、理央と。
そして、のどか。
俺たちは、血は繋がっていないかもしれない。
でも、こうして、同じ時間を過ごして、同じゲームを囲んで。
笑ったり、悩んだり、すれ違ったりしながら。
少しずつ、家族みたいになっていくのかもしれない。
「……まあ、そう簡単には、いかないか」
咲太は、小さく、笑った。
窓の外では、湘南の夜風が、カーテンを、静かに揺らしていた。
遠くで、波の音が聞こえる。
ざざ、ざざ、と、繰り返す、波の音。
その音が、やけに、胸に響いた。
咲太は、立ち上がり、窓を開けた。
潮の香りが、部屋の中に、流れ込んでくる。
「……明日は、ちゃんと、話すからな」
咲太は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
海の向こうに、月が、静かに、浮かんでいた。
その月明かりが、テーブルの上の、あのゲームの盤面を、ぼんやりと照らしていた。
『青春すごろく ムスビダイス』。
その盤面の上で、あのサイコロが、『すれ違い』の記号を、上に向けたまま、静かに、横たわっていた。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。