反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~
魔族というだけで人間に狩られ、奴隷に堕とされた少女・グレイ。角を持つその身に刻まれたのは、焼き印と鎖、そして屈辱の記憶だけだった。
グランヴェルド――大陸最大の奴隷貿易都市。そこでは魔族は「動く財産」でしかなく、抵抗すれば踏みにじられ、黙れば喰い物にされる。オークションで売れ残ったグレイに目をつけたのは、闘技場の興行主ヴァルド。与えられたのは錆びついた短剣一本と、猛獣の待つ死の檻だった。
絶望の底で、彼女の暗い紫の瞳に宿るのは諦めではなく、燃えるような殺意。
――奪われたものは、全部奪い返す。
――私を踏みつけた奴らは、いつか必ずこの手で殺す。
生き延びるためではない。喰らい尽くすために、少女は牙を剥く。
鎖に繋がれた「角の奴隷」が、血と砂の闘技場で、人間たちの作った地獄そのものを喰い破っていく――。
これは、奪われた少女が、奪う側へと成り上がる、復讐と解放の物語。
「反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~」をオーディオドラマ(音声)で無料で聴く — キャラごとの声のフルボイス(AI読み上げ/AI声優/オーディオブック)。
反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~ - 水葬の海戦
闘技場の地下は、夜明け前の冷たい空気に満ちていた。石壁に染みついた汗と血と黴の匂いが、昨日と同じように鼻腔を刺す。グレイは薄い藁の上で目を覚まし、首に食い込む黒鉄の首輪の重さを確かめるように、ゆっくりと指を這わせた。冷たい。いつもの冷たさだ。
(気に入らない)
心の中で、短く呟く。
この首輪が、この房が、この闘技場が、何もかもが気に入らない。だが、今はまだ、この首輪を外す力がない。だから、力をつける。奪えるものは全て奪う。強さも、技術も、何もかも。
グレイは体を起こし、支給された黒いサラシとふんどしを身につけると、長い灰色の髪をポニーテール用の紐で無造作にまとめた。房の隅に置かれた木の椀には、昨夜の残りの水がわずかに残っている。それを一気に喉に流し込む。冷たい水が、乾いた喉を焼くように通っていく。
今日は、模擬海戦の顔合わせの日だ。
興行主ヴァルドが投げ込んだあの札。十人一組で一艘の船に乗り、五艘の船で沈め合う。最後まで浮いていた船のチームが勝ち。師弟同組。あの男が仕組んだ、冷たい罠。
(あの男は、私とあの女が組むことで、何か面白い見世物になると思っている)
グレイは、ヴァルドの灰緑の瞳を思い浮かべた。利益を測るような、冷たい目。あの目が、自分とセラフィナを、値踏みするように見ていた。
房の外から、靴音が聞こえてきた。規則正しい、軽やかな足音。
「おはよう、グレイ。今日もいい目をしてるねぇ」
セラフィナが、房の鉄格子の前に立っていた。長く艶のある黒髪。褐色の肌。長く尖った耳。頭には金の月桂冠を戴き、黒地に金糸のコルセットが豊満な胸とくびれた腰を強調している。腰には短い布を巻き、太腿がむき出しだ。背中には、いつものように処刑用の大剣が背負われている。
凶刃の女王。
この闘技場で最も強い剣闘士。そして、グレイの師匠。
「……顔合わせは、いつだ」
グレイは、セラフィナの明るい声を無視して、短く訊いた。
「今からだよ。あたしが迎えに来たんだ。ほら、行くよ」
セラフィナは、房の鍵を開けた。ガチャリ、と鉄格子が開く音が、地下通路に響く。
グレイは、無言で房を出た。セラフィナの隣に並ぶ。背の高いセラフィナの肩は、グレイの頭よりずっと上にある。この女の隣に立つと、自分の体の小ささを、嫌でも思い知らされる。
(気に入らない)
グレイは、セラフィナの背中を睨みつけながら、歩き出した。
訓練場には、すでに八人の剣闘士たちが集まっていた。
土を踏み固めた床。壁に並ぶ燭台の炎が、揺れている。天井から吊るされた鎖が、誰かの動きに合わせて、かすかに軋んだ。
グレイは、集まった剣闘士たちを、一人ずつ、じっくりと観察した。
まず目に入ったのは、人間の男が二人。一人は、顔に深い傷がある、痩せた男。目つきが鋭く、どこか落ち着きがない。もう一人は、筋肉質の大柄な男で、腕に古い火傷の痕がある。
(あの二人は、元盗賊と元冒険者か)
ヴァルドから事前に聞かされた顔ぶれを、グレイは頭の中で照合する。元盗賊の男は、人を殺すことに躊躇がない目をしている。元冒険者の男は、逆に、計算高い目をしている。どちらも、信用できる相手ではない。
次に、二人の奴隷のオーク。豚のような顔をした大男たちで、首輪の下の肉が、汗で光っている。彼らは、グレイの視線に気づくと、小さく身を縮めた。魔族に対する、恐怖と嫌悪の入り混じった反応。
(私の角を見て、怯えている)
グレイは、頭から前方へ伸びる、牡牛のような大きな二本の角を、意識した。この角が、この世界では、差別の印になる。
そして、自由市民の青年。年の頃は二十歳前後。比較的整った顔立ちだが、目に力がない。借金か何かで、この闘技場に流れ着いたのだろう。剣を握る手が、わずかに震えている。
さらに、二人の小柄な姿。
一人は、コボルドの少年だった。犬のような耳と、短い尾。身長はグレイよりも低く、細い体つき。だが、その目だけは、異様に鋭かった。生きるために、何でもしてきた目だ。
もう一人は、人間の少女。年の頃は、グレイと同じくらいか、少し上。青ざめた顔。やつれた頬。着ている服は薄汚れ、所々が破れている。借金のかたに売られたのだと、事前の情報にあった。その目は、完全に死んでいた。希望というものが、一片も残っていない目。
(あの目は、私が知っている)
グレイは、少女の目を見て、思った。
(灰の底の、あの目だ。奪われるだけ奪われて、何も残っていない者の目)
グレイの胸の奥で、小さな痛みが、ちくりと走った。
だが、それは一瞬だった。グレイは、すぐにその感情を、奥底に押し込んだ。
(同情している場合じゃない。これは、戦いだ)
「全員、揃ったね」
セラフィナが、訓練場の中央に立って、言った。その声は、先ほどまでの明るい調子とは違い、張り詰めた空気を帯びていた。
「今日から十日間、お前たちは、あたしとグレイと同じ船に乗る。顔を覚えろ。声を覚えろ。そして、自分の役割を、体に叩き込め」
セラフィナの金色の瞳が、八人の剣闘士たちを、順番に見据えた。その視線を受けた者から、背筋を伸ばす。
「模擬海戦は、四人一組から十人一組で、一艘の船に乗って戦う。船は五艘。他の船と沈め合い、最後まで浮いていた船のチームが勝ちだ。簡単だろ?」
セラフィナは、笑みを浮かべた。だが、その笑みは、目には届いていない。
「でも、簡単なのはルールだけだ。実際の戦いは、もっと残酷だ。船の上で、足を滑らせれば、水に落ちる。水に落ちれば、敵の槍が待っている。沈められた船から、泳いで逃げられると思うな。鎧を着て、武器を持ったまま、水の中を泳げる奴なんて、ほとんどいない」
訓練場に、重い沈黙が落ちた。
「だから、役割分担が大事になる。誰が前に出て、誰が後ろで支えるか。誰が船を守り、誰が敵を沈めるか。それを、十日間で、完璧にしろ」
セラフィナは、そう言うと、グレイの方を向いた。
「グレイ。あんたは、前衛だ。船の一番前に立って、敵の攻撃を食い止めろ。あんたの、その獣みたいな突進力は、前衛に最適だ」
グレイは、セラフィナを睨み返した。
「……私に、指図するな」
低い声で、唸るように言った。
「指図じゃないよ。役割分担だ。チーム戦なんだから、それぞれの役割がある。あんたは、前衛。あたしは、後衛。あたしが、敵船を沈める。あんたは、その間、あたしを守れ」
「お前を、守るだと?」
グレイは、セラフィナの言葉に、苛立ちをあらわにした。
「お前みたいな奴が、誰かに守られる必要があるのかよ」
「あるよ。あたしは、敵船を沈めるのに、全力を注ぐ。その間、あたしの背中は、がら空きになる。だから、あんたが、あたしの背中を守るんだ。それが、チーム戦ってもんだろ」
セラフィナは、真っ直ぐにグレイを見つめた。
グレイは、その金色の瞳を、睨み返した。
(この女は、私に、自分の背中を預けると言っている)
(私を、信用しているのか?)
(それとも、ただの役割分担か)
グレイには、判断がつかなかった。
「……分かった。前衛でいい。だが、お前の指示に従うとは限らない」
「それでいいよ。あんたは、あんたのやり方で、敵を殺せ。あたしは、あたしのやり方で、敵船を沈める。それで、チームが勝てば、それでいい」
セラフィナは、満足そうに笑った。
その後、セラフィナは、残りの七人にも、役割を割り振った。オークの二人は、船の左右を守る壁役。自由市民の青年は、武器の受け渡しと、負傷者の手当て。元盗賊と元冒険者は、船の中央で、臨機応変に動く遊撃。コボルドの少年と少女は、船の後方で、投げ槍と石を投げる援護役。
グレイは、セラフィナの指示を、黙って聞いていた。
(あの女は、一人一人の特徴を、よく見ている)
(オークの体力を壁に使い、小柄な二人を後方に置いた。合理的だ)
グレイは、セラフィナの指示が、的確であることを、否応なく認めていた。
(だが、気に入らない)
グレイは、心の中で、そう呟いた。
(この女の言う通りに動くのは、気に入らない)
(でも、今は、この女の指示に従うのが、最も勝てる方法だ)
(勝つために、必要なことは、全部やる)
グレイは、自分に言い聞かせるように、心の中で、そう繰り返した。
十日間の訓練は、過酷だった。
夜明け前から、訓練場に叩き出され、模擬海戦を想定した動きを、何度も何度も繰り返した。船に見立てた木の台の上で、バランスを取りながら、剣を振る。水を張った浅い堀に落とされては、這い上がる。投げ槍の練習。盾の使い方。そして、セラフィナによる、容赦のない組み手。
グレイは、何度も地面に叩きつけられた。泥と汗にまみれ、膝を擦りむき、唇を切った。
(この女は、手加減というものを知らない)
グレイは、地面に倒れながら、セラフィナを睨みつけた。
「いいね、その目。まだやれるね?」
セラフィナは、息一つ乱さず、笑っていた。
「……当然だ」
グレイは、立ち上がった。膝が笑っている。視界が揺れている。それでも、立ち上がる。
(この女から、全てを奪うと決めたんだ)
(こんなところで、倒れてたまるか)
グレイは、歯を食いしばり、セラフィナに飛びかかった。
訓練の合間、グレイは、他の剣闘士たちの動きを、じっくりと観察した。
コボルドの少年は、体は小さいが、動きが素早い。投げ槍の精度も、なかなかのものだった。少女は、動きは鈍いが、指示されたことは、黙々とこなす。元盗賊と元冒険者は、互いに距離を置き、必要以上に近づこうとしない。オークの二人は、力はあるが、動きが遅い。自由市民の青年は、何をやらせても、ぎこちなかった。
(あの青年は、戦力にならない)
(あの少女も、今のままでは、足手まといだ)
(だが、コボルドの少年は、使える)
グレイは、コボルドの少年の動きを、目で追った。
(あの少年は、生きることに、必死だ。だから、動きに無駄がない)
(私と同じだ)
グレイは、コボルドの少年に、わずかな親近感を覚えた。
そして、十日目。
模擬海戦の朝が来た。
闘技場は、異様な熱気に包まれていた。
収容人数一万二千人の観客席は、朝早くから満員だった。貴族、豪商、平民、貧民。あらゆる階層の人間が、今日の見世物を一目見ようと、詰めかけていた。
「本日は、ゴルドバッハ闘技場、特別大興行! 模擬海戦でございます!」
実況の男の声が、闘技場全体に響き渡る。
「五艘の船が、この闘技場に浮かびます! 最後まで浮いていた船のチームが、勝利! 敗者は、水の中に沈むのみ! さあ、皆様、賭けの準備はよろしいですか!」
観客席から、怒号のような歓声が上がった。
グレイは、闘技場の地下で、その歓声を聞いていた。
(この熱狂は、私たちの血と命で、できている)
グレイは、心の中で、そう思った。
(気に入らない)
(だが、今は、この熱狂の中で、勝つしかない)
「グレイ。行くよ」
セラフィナが、グレイの隣に立った。
「……分かってる」
グレイは、短く答えた。
闘技場の中央で、轟音が響いた。
ゴゴゴゴゴゴ……。
地面が、真っ二つに割れた。
大きな地割れが、闘技場の中央を、東西に走る。深さは、十メートル以上。幅は、二十メートル以上。
そして、その地割れに、大量の水が、流れ込んできた。
どこから引いてきたのか、濁った水が、轟音とともに、地割れを満たしていく。水は、あっという間に、闘技場の中央を、大きな人工の海へと変えた。
「おおおおおお!!」
観客席から、どよめきが上がる。
水面には、五艘の木造の船が浮かんでいた。
それぞれの船には、十人の剣闘士たちが乗り込んでいる。船の縁には、盾が並べられ、槍や剣が、陽光を反射して光っていた。
「これは、なんと、壮観な! 五艘の船が、今まさに、出航しようとしております!」
実況の声が、熱狂を煽る。
グレイは、自分たちの船に乗り込んだ。
木の床が、ぎしりと軋む。水の揺れが、足元に伝わってくる。
(これが、船の上での戦い)
グレイは、足の裏で、船の揺れを感じ取った。
(地面とは違う。常に動いている)
(この揺れに、体を慣らさなければ)
グレイは、何度か、その場で足踏みをして、揺れを確かめた。
「全員、配置につけ」
セラフィナの声が、船に響く。
グレイは、船の先頭に立った。
右手に長剣。左手に木の盾。
(ここが、私の戦場だ)
グレイは、前方に浮かぶ敵船を、睨みつけた。
敵船は、四艘。どの船にも、十人の剣闘士が乗り、殺気立っている。
「試合開始!」
銅鑼の音が、闘技場に響き渡った。
戦いは、序盤から、劣勢だった。
敵船は、四艘が連携して、グレイたちの船に、集中的に攻撃を仕掛けてきた。
「右舷に敵船接近!」
「投げ槍、来るぞ!」
矢と投げ槍が、雨のように降り注ぐ。
グレイは、盾でそれらを弾きながら、船の先頭で踏ん張った。
ドスッ。
盾に、投げ槍が突き刺さる。衝撃で、腕が痺れる。
(数が多い。連携も、こちらより上だ)
グレイは、敵船の動きを、目で追いながら、考えた。
(このままでは、押し切られる)
「セラフィナ! まだか!」
グレイは、振り返らずに、叫んだ。
「焦るんじゃないよ。今、狙いを定めてるんだ」
セラフィナは、船の後方で、処刑用の大剣を、ゆっくりと振りかぶっていた。
(あの女は、何をするつもりだ)
グレイは、セラフィナの気配を、背中で感じた。
その時だった。
セラフィナが、動いた。
「——散れ」
セラフィナの大剣が、水平に振り抜かれた。
ザシュウウウウ!!
空気が裂ける音。
その一振りで、放たれた衝撃波が、水面を走り、敵船の船底を、真っ二つに切り裂いた。
バキバキバキ!!
木が砕ける音。
敵船の一艘が、轟音とともに、水の中に沈んでいく。
「うわあああああ!!」
沈む船から、剣闘士たちが、水の中に投げ出された。
「おおおおおお!!」
観客席が、熱狂に沸いた。
(あれが、凶刃の女王の力)
グレイは、セラフィナの一撃を、背中で感じながら、息を呑んだ。
(一振りで、船を沈めた)
(あの女は、やはり、化け物だ)
グレイの心臓が、ドクンと鳴った。
(だが、私も、いつか、あれを超える)
グレイは、前方に視線を戻した。
残る敵船は、三艘。
しかし、敵も、黙ってはいなかった。
「構うな! 数で押せ! セラフィナを狙え!」
敵船の一艘が、グレイたちの船に、体当たりを仕掛けてきた。
ドゴン!!
船体が激しく揺れる。
グレイは、足を踏ん張った。
(来る)
敵船から、剣闘士たちが、グレイたちの船に、雪崩れ込んできた。
「通すか!」
グレイは、先頭に立って、敵の剣闘士を迎え撃った。
長剣を振る。盾で弾く。体をぶつける。
ガキン! ガキン! ドゴッ!
金属と金属がぶつかる音。肉と肉がぶつかる音。
グレイは、無我夢中で戦った。
(止まるな。止まったら、殺される)
(動け。もっと速く。もっと強く)
グレイの長剣が、敵の剣闘士の腕を斬り飛ばした。
「ぎゃああああ!!」
鮮血が、水の上に飛び散る。
グレイは、返す刀で、別の敵の首を斬りつけた。
(殺す。殺す。殺す)
グレイの頭の中は、その言葉で満たされていた。
しかし、劣勢は、覆らなかった。
敵の数が、多すぎる。
グレイが一人を倒しても、二人が、三人が、代わりに襲いかかってくる。
「くそっ、きりがない!」
自由市民の青年が、悲鳴のような声を上げた。
「うるさい! 手を動かせ!」
元盗賊の男が、青年を怒鳴りつけた。
「無駄だ。この船は、もう持たない」
元冒険者の男が、冷たい声で言った。
その時だった。
グレイの背中に、鋭い痛みが走った。
「——っ!?」
グレイは、振り返った。
そこには、元盗賊の男が、短剣を手に、立っていた。
「悪いな、嬢ちゃん。あんたの首には、賞金がかかってるんだよ」
元盗賊の男が、にやりと笑った。
「なに……?」
グレイは、背中の痛みに、顔を歪めた。
短剣が、深く刺さっている。
「俺たちは、最初から、あんたたちの船を沈めるために、乗り込んでたんだよ。あんたと、セラフィナを、ここで殺せば、俺たちは自由の身だ。そういう取引を、ヴァルドの旦那としたんだ」
元冒険者の男が、槍を構えて、近づいてきた。
「裏切り者……」
グレイは、歯を食いしばった。
(この二人は、最初から、敵だったのか)
(ヴァルドの差し金か)
(あの男は、どこまで、私たちを弄べば気が済むんだ)
グレイの胸の中で、怒りが、激しく燃え上がった。
「お前ら、全員、殺す!」
グレイは、背中の痛みを無視して、元盗賊の男に、斬りかかった。
だが、背中の傷が、動きを鈍らせる。
「おっと、危ねえな。でも、その体じゃ、まともに動けねえだろ」
元盗賊の男は、グレイの攻撃を、ひらりとかわした。
「おとなしく、水の中に沈めてやるよ」
元冒険者の男が、グレイの首輪を、後ろから掴んだ。
「——っ!!」
首輪が、喉に食い込む。
呼吸が、止まる。
「魔族のガキが、調子に乗るからだよ。水の中に沈んで、反省しな」
元冒険者の男が、グレイの首輪を掴んだまま、船の縁に、彼女の頭を押し付けた。
水の中に、顔が沈められる。
ゴボゴボゴボ。
水が、鼻から、口から、入ってくる。
(苦しい)
(息が、できない)
(このままでは、死ぬ)
グレイは、必死にもがいた。
だが、首輪を掴まれ、背中に傷を負った体では、抵抗することもできない。
(嫌だ)
(こんなところで、死にたくない)
(まだ、何も、奪い返していない)
(自由に、なっていない)
グレイの意識が、遠のいていく。
その時だった。
「——やめろ!!」
コボルドの少年が、元冒険者の男の背中に、短剣を突き立てた。
ズブリ。
「ぐああああ!!」
元冒険者の男が、悲鳴を上げて、グレイの首輪から手を離した。
「この、ガキが……!」
元盗賊の男が、コボルドの少年に、襲いかかろうとした。
その時、今度は、少女が動いた。
「——あああああ!!」
少女が、叫びながら、元盗賊の男の大腿に、短剣を突き刺した。
ズブリ。
「がっ……!?」
元盗賊の男が、膝をついた。
「死ね! 死ね! 死ね!」
少女は、涙を流しながら、何度も何度も、短剣を突き立てた。
その目には、狂気と絶望と、そして、ほんの少しの怒りが、混ざっていた。
「……よくやった」
グレイは、水の中から顔を上げた。
大量の水を吐き出し、咳き込みながら、息を整える。
視界が、ぼやけている。
だが、確かに見えた。
コボルドの少年と少女が、二人がかりで、裏切り者たちを倒した。
(あの二人が、私を助けた)
グレイの胸に、初めて、仲間というものの意味が、わずかに染み込んできた。
(……借りは、返す)
グレイは、倒れた元冒険者の男から、槍を奪い取った。
そして、それを、コボルドの少年と少女に、投げ渡した。
「お前ら、それを持て! 死にたくなきゃ、振り回して、牽制しろ!」
グレイは、叫んだ。
「え……?」
「分かった!」
コボルドの少年は、槍を受け取ると、すぐに構えた。
少女も、おそるおそる、槍を握った。
「いいか、お前らは、敵を倒そうとするな。ただ、敵が近づけないように、槍を振り回せ。それでいい。それで、十分だ」
グレイは、そう言うと、自分の長剣を拾い上げた。
背中の傷が、痛む。
だが、もう、倒れている場合じゃない。
「行くぞ。私の後に続け」
グレイは、船の先頭に立ち、敵船に向かって、走り出した。
グレイは、敵の剣闘士を、次々と船から叩き落としていった。
長剣を振る。盾で押す。体当たりを食らわせる。
ドボン! ドボン! ドボン!
敵が、水の中に落ちていく。
「うわあああ!」
「助けてくれ!」
悲鳴が、水面に響く。
グレイは、回り込もうとする敵を、斬り捨てた。
ザシュッ。
鮮血が、水の上に、赤い花を咲かせる。
(殺す。殺す。殺す)
(邪魔する奴は、全員、殺す)
グレイの目は、暗い紫の瞳に、ハイライトはなかった。
ただ、殺意だけが、そこにあった。
コボルドの少年と少女は、グレイの指示通り、槍を振り回して、敵の接近を防いだ。
「こ、来るな!」
「この、この!」
二人の必死の牽制が、敵の動きを、確かに鈍らせていた。
(いいぞ。その調子だ)
グレイは、二人の動きを、視界の隅で捉えながら、前へ前へと進んだ。
(あの二人が、時間を稼いでくれている)
(その間に、私は、敵を倒す)
グレイは、敵船の船長らしき男に、斬りかかった。
「お前が、この船の長か!」
「ひ、ひいっ!」
敵船長は、グレイの殺気に、怯えた。
「死ね」
グレイの長剣が、敵船長の首を、斬り飛ばした。
ゴトン。
首が、船の上に転がる。
「船長がやられた!」
「逃げろ!」
敵船は、一気に統率を失った。
その隙に、セラフィナが、動いた。
「——沈め」
セラフィナの大剣が、再び、振り抜かれた。
ザシュウウウウ!!
衝撃波が、敵船の船底を、粉砕した。
バキバキバキ!!
敵船が、轟音とともに、沈んでいく。
「おおおおおお!!」
観客席が、再び、熱狂に沸いた。
セラフィナは、さらに、もう一艘の敵船も、沈めた。
残る二艘の敵船は、互いに衝突し、相打ちで沈んでいった。
「勝負あり! 最後まで浮いていたのは、セラフィナ率いるチーム! 勝利でございます!」
実況の声が、闘技場に響き渡る。
「うおおおおお!!」
観客席から、割れんばかりの歓声が上がった。
グレイは、船の上で、肩で息をしていた。
背中の傷が、焼けるように痛む。
全身が、水と汗と血で、ぐっしょりと濡れていた。
(勝った)
グレイは、その事実を、ゆっくりと噛みしめた。
(私たちのチームが、勝った)
グレイは、コボルドの少年と少女を見た。
二人は、槍を握ったまま、へたり込んでいた。
少女は、涙を流していた。
コボルドの少年は、笑っていた。
「……よくやった」
グレイは、二人に、短く言った。
それは、グレイにとって、初めての、仲間へのねぎらいの言葉だった。
試合後、水浸しで降伏した剣闘士たちが、岸へ上がっていった。
彼らは、今日、グレイたちと戦い、沈められた相手だ。
だが、明日には、また、同じ闘技場で、肩を並べて戦うことになるかもしれない。
(今日沈めた相手と、明日は仲間になる)
グレイは、その不条理に、複雑な表情を浮かべた。
(この闘技場では、敵も味方も、みんな、ただの見世物だ)
(上の者たちが、私たちを、好きなように組み合わせて、殺し合わせる)
(気に入らない)
グレイは、心の中で、そう呟いた。
(だが、今は、まだ、この不条理の中で、生き延びるしかない)
(いつか、必ず、この全てを、壊してやる)
グレイは、闘技場の空を見上げた。
空は、どこまでも青く、澄み渡っていた。
房に戻ると、セラフィナが、グレイの後を追ってきた。
「グレイ。背中、見せて」
セラフィナは、有無を言わさず、グレイの背中を調べた。
「深くはない。でも、ちゃんと手当てしないと、傷が残るよ」
セラフィナは、持っていた布で、グレイの背中の傷を、丁寧に拭いた。
「……お前が、手当てする必要はない」
グレイは、セラフィナの手を、振り払おうとした。
「あるよ。あんたは、あたしの弟子だもの。師匠が、弟子の傷の手当てをするのは、当然だろ」
セラフィナは、グレイの抵抗を無視して、手当てを続けた。
その手つきは、意外なほど、優しかった。
グレイは、セラフィナの手の温もりを、背中に感じた。
(この女は、時々、わけが分からない)
(私を、殺し合いの相手として、見ているはずなのに)
(なのに、時々、こんな風に、優しく触れる)
グレイは、セラフィナの意図を、測りかねていた。
手当てが終わると、セラフィナは、グレイの首輪に、一瞬だけ、指を触れた。
「……この首輪も、いつか、外れるといいね」
セラフィナは、そう言って、何かを決意したような笑みを浮かべた。
その笑みは、今まで見たどの笑みよりも、深く、そして、どこか悲しげだった。
「……なにを、考えてる」
グレイは、セラフィナの笑みに、不安を覚えた。
「秘密。……でも、あんたなら、きっと、大丈夫」
セラフィナは、グレイの首輪から、指を離した。
「今日は、よく頑張った。ゆっくり休みな」
セラフィナは、そう言うと、房を出て行った。
グレイは、セラフィナの後ろ姿を、じっと見つめた。
(あの笑みは、なんだったんだ)
(あの女は、何かを、隠している)
(何かを、決意している)
グレイには、その笑みの意味を、測りかねていた。
だが、一つだけ、確かなことがあった。
(あの女は、私を、信じている)
(そして、私も、あの女を、信じ始めている)
グレイは、自分の首輪に、そっと指を触れた。
冷たい鉄の感触。
だが、その冷たさの中に、ほんのわずか、セラフィナの指の温もりが、残っているような気がした。
(……気に入らない)
グレイは、心の中で、そう呟いた。
(この温もりも、気に入らない)
(でも、……悪くない)
グレイは、薄い藁の上に、横になった。
背中の傷が、まだ、痛む。
だが、不思議と、嫌な気分ではなかった。
(今日は、勝った)
(そして、初めて、仲間と、背中を預け合って、戦った)
グレイは、目を閉じた。
闘技場の歓声が、まだ、耳の奥で、響いていた。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。