にゃんこが男前になって帰ってきた件
月島さくら、21歳の大学生は、5年間黒猫のクロと一緒に暮らしてきた。ある朝、彼女が目を覚ますと、黒髪で金色の瞳を持つ、背の高い信じられないほどのイケメンが自分のベッドで眠っている。首の後ろには三日月形のほくろがあり――まさしくクロと同じだった。
「おはよう、さくら。僕だよ、クロだ。」
さくらは逃げ出す。クロは冷蔵庫を冷静に開けて猫用おやつのチューブを食べ始める。間違いない、彼だ。
クロの最初の宣言はこうだった。「5年間の恨みを返しに来たんだ。」そのリストは驚くほど長く詳細で、爪切りの奇襲、無理やりの入浴、絶対に許可していないお腹の撫で方、ドライヤー、そして何より許せない動物病院の出来事まで。さくらは何も覚えていないが、クロはすべてを鮮明に覚えている。
しかし彼の「復讐」は少し変わっていた。寝坊すると大声で起こし、夕食が遅いと冷蔵庫の前で黙って立ち尽くす。さくらが友達と電話しているときは、半目で不快なほど近くからじっと見つめてくる。
そんな中、幼馴染の高坂れん(22)が、ずっとさくらに恋していて、クロの話を聞きつけて毎日のように彼女のアパートに現れ、「猫は猫だ!」と叫ぶが、クロ
にゃんこが男前になって帰ってきた件 - ベッドの上のイケメンと、5年分の恨みの話
「きゃあああああああ!!」
叫び声が、築28年の木造アパートに響いた。
コーポ・ミナヅキ201号室。
朝の7時。5月の光が薄いカーテンをすり抜けて、部屋をぼんやり照らしている。
さくらはベッドから転がり落ちて、壁際まで後ずさった。
息が荒い。心臓がうるさい。
ベッドの端に、男がいた。
黒い髪は肩にかかるくらいの長さで、日の光に当たると細い赤いメッシュがほんのり見える。体は細いのにしっかりしていて、178センチくらいはありそうだ。顔は……正直言って、すごく整っている。寝ているのに、なんかムカつくくらいに。
その男は、さくらの悲鳴を聞いてゆっくり目を開けた。
金色だった。
瞳が、鮮やかな金色だった。
「え……な、なに……?」
声が震えた。当然だ。
昨夜、ここには自分一人しかいなかった。愛猫のクロがソファで丸まって寝ていたことは覚えている。でも人間は自分だけのはずだった。
男はゆっくり起き上がり、あくびをした。
それからさくらを一度だけ見た。
そして、何も言わずに冷蔵庫を開けた。
「ちょ……! 待って!!」
男は待たなかった。
冷蔵庫の奥に手を伸ばして、棚の隅に置いてあったものを取り出した。
チュールだった。
猫用おやつの、あのチュール。
場所を知っている。迷わず選んだ。
さくらは壁を背にしたまま、固まった。
(……え?)
男はパウチを手でちぎり、中身をそのまま舐めた。猫みたいな食べ方で。
満足そうに。
さくらの頭の中で、何かがカチッとはまった。
(……クロ?)
足がふらつきながら、さくらは男に近づいた。
男は振り返らない。
さくらはそっと、男の首の後ろをのぞき込んだ。
あった。
三日月の形のほくろが、首の後ろのちょうど真ん中に。
5年間、何百回と見てきた白い模様と、まったく同じ形で、まったく同じ位置に。
「……クロ……なの?」
男はゆっくり振り返った。
金色の目がまっすぐさくらを見た。
「そうだ」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
さくらの両足から力が抜けた。
へたり込んで、膝を抱えて、しばらく何も言えなかった。
クロだ。
5年間、一緒に暮らしてきた猫だ。
高校1年の春、ミナセ線ツキミ駅からの通学路でぼろぼろの子猫を拾って、そのまま家に連れて帰って、鳴海さんに土下座して許可をもらって、一緒に暮らしてきた黒猫だ。
そのクロが今、黒髪金眼のイケメンとしてさくらの前に立っている。
「……意味わかんない」
ぽろっと涙が出た。
恐怖なのか、安心なのか、混乱なのか、自分でもよくわからない。
クロはさくらをじっと見て、それからそっぽを向いた。
「泣くな。まだ泣く段階じゃない」
「どういうこと!?」
クロはダイニングテーブルに向かった。
椅子を引いて座り、どこから出したのか、A5サイズのノートをテーブルに広げた。
「用件がある」
「用件って何……?」
「5年分の恨みを返しにきた」
さくらは立ち上がった。
「は?」
「ノートに書いてある。順番に聞け」
クロはノートを開いた。
3ページにわたって、びっちり何かが書いてある。
「1番。爪切り。月2回。押さえつけて切った。痛くなかったが不快だった」
「え?」
「2番。お風呂。年3回強制入浴。水が嫌いだと示したのに無視された」
「いやだって、猫はお風呂必要じゃん!!」
クロはペンを取り出して、ノートの端に何かを書き加えた。
「6ページ目に追加した」
「え!? 増えてる!?」
「黙って聞け。5番。ドライヤー。風呂上がりに毎回。音が嫌いだと逃げたのに追いかけてきた」
「でも乾かさないと風邪ひくでしょ……」
クロがまたペンを持った。
「わかった! 黙ります!!」
「11番。おしり事件。動物病院で体温計を挿入された。ゆるさない」
クロの声が少しだけ低くなった。
「これは別枠だ。特記事項として赤で書いてある」
さくらはノートをのぞき込んだ。
本当に赤で、しかも二重丸まで付いて書いてあった。
(……めちゃくちゃ根に持ってる)
「でもそれって、体温測るために必要で……」
「7ページ目に追加した」
「ごめんなさい!!!!」
クロはノートをパタンと閉じた。
「以上が今日の分だ。全部で23項目ある」
「23!?」
「明日以降も順番に読み上げる。覚悟しておけ」
さくらはテーブルに突っ伏した。
(なんで……なんでこうなったの……)
時計を見たら7時40分だった。
「あ、バイト!」
カフェ・ハルカゼのシフトは8時半からだ。
ツキミ駅から徒歩3分だけど、着替えて準備してたら絶対遅刻する。
「行ってくる。……絶対に外出るなよ」
「外に出て何が悪い」
「色々悪い! 戸籍も身分証もないじゃん!!」
クロはちょっと黙った。
「……そうか。そういうルールがあるのか」
「そういうルールがあるの! 頼むから待ってて!!」
さくらはバタバタと着替えて、白いシャツと黒のスラックスをはいて、ショートボブを手ぐしでざっと整えた。左耳に小さなピアスを刺すのを忘れて、廊下に出てから引き返した。
クロはもうソファに移動して、窓の外をじっと見ていた。
猫みたいな座り方だった。
さくらはそれを横目で見ながら、玄関のドアを閉めた。
*
カフェ・ハルカゼについたのは8時52分だった。
「野々村さん、すみません……!」
「きた〜! さくらちゃん20分遅刻ー!」
野々村あおいはカウンターの中でにこにこしていた。
白銀色のロングヘアが、動くたびにさらっと揺れる。目は透き通るような蒼色で、158センチの小柄な体なのに、なぜかすごく存在感がある。
ミナセ大学の大学院生で、さくらより2歳上だ。バイトを始めた初日から「かわいい!」と抱きつかれて、それ以来ずっと面倒を見てくれている。
さくらはエプロンを手に取った。
手が少し震えた。
「ちゃんとやります……」
「いや、謝罪はいいんだけど」
あおいはさくらの顔をじっと見た。
「顔、赤いよ? 風邪?」
「違います」
「じゃあ……男?」
「違います! 猫です!!」
声が出すぎた。
カフェの中が静かになった。
開店直後の数人のお客さんが、全員こちらを向いた。
さくらは顔に手を当てた。
(やばい)
「猫……ね」
あおいはにこにこしたまま、特に何も言わなかった。
でも目が「絶対なんかある」と言っていた。
カフェ・ハルカゼはこじんまりした店だ。テーブルが6卓、カウンターが6席。席数24の、ツキミ駅から徒歩3分の場所にある。自家焙煎のコーヒーと厚焼きたまごサンドが名物で、常連客はみんないい人たちだ。
さくらはここで週3日働いている。時給1050円。
午前中のシフトはそんなに混まない。さくらはコーヒーを3人分作って、トーストを焼いて、レジを打った。
普通にやれた。と思った。
「ねえ、猫って何が起きたの」
あおいがコーヒーカップを渡しながら小声で聞いてきた。
「……なんでもないです」
「さくらちゃんが泣きそうな顔で出勤してきたのに、なんでもないはないでしょ」
さくらは返事をしなかった。
(なんて言えばいいんだ。猫が人間になって5年分の恨みリストを読み上げてきました、なんて言ったら普通に通報される)
「……後で話します」
「うん、聞くよ」
あおいはそれ以上聞かなかった。
さくらはほっとして、次の注文を取りに行った。
テーブルの番号を間違えて、正しいテーブルに持っていったらすでに別のものが来ていた。
「すみません……!」
お客さんは笑って許してくれた。
あおいがカウンターの向こうでくすっとした。
「さくらちゃん、今日ぼーっとしすぎ」
「わかってます……」
シフトの後半、さくらはずっとクロのことを考えていた。
今ごろ何してるんだろう。
また冷蔵庫開けてチュール食べてるかな。
外に出てないかな。
ウツセ川沿いの桜並木がバイトの帰り道に見える季節は終わっていた。5月のツキミ市は緑が多くて、駅前のホシゾラ通りには夕方になると涼しい風が通る。
さくらはアーケードの下を歩きながら、ぼんやりと思った。
(クロ、ちゃんとご飯食べたかな)
*
アパートに帰ったのは夕方の5時すぎだった。
「ただいま……クロ?」
返事がない。
部屋の中を見回しても、クロの姿がない。
ソファにもいない。ベッドの上にもいない。
さくらの心臓がドクンとした。
(外に出た? まさか……)
窓に近づいたら、ベランダが見えた。
クロは手すりの上に腰かけていた。
細い鉄の手すりに、ちょこんと座って、夕日を見ていた。
猫のころ、毎日やっていた格好と全く同じだった。
さくらは窓を開けた。
「危ないよ、落ちるよ!」
「落ちない」
「落ちるって! 人間のバランス感覚なんだから!」
「猫のころと変わらない」
降りる気がなさそうだった。
さくらは窓枠に手をついて、ため息をついた。
夕日が、ツキミ市の街並みをオレンジに染めていた。北の方にカグラ丘陵のシルエットが見えて、ウツセ川の水面がきらきら光っている。
いい景色だった。
さくらは少し黙って、クロと並んで夕日を見た。
変な時間だった。人間のクロと夕日を眺めるのが、こんなに自然に感じるなんて。
「……今日、何か食べた?」
「チュール。3本」
「ご飯食べなよ!!」
「チュールで足りた」
「人間はチュールだけじゃ足りないの!」
クロはさくらを横目で見た。
金色の目が夕日の赤を映していた。
そのまま、また前を向いた。
少し間があった。
風が吹いて、クロの黒い髪が揺れた。
「……さくら」
声が、さっきとちょっと違った。
「ぼくが人間になれたのは、たぶん……時間が少ないからだと思う」
さくらは固まった。
「……え?」
クロは答えなかった。
夕日を見たまま。動かないまま。
「クロ、それってどういう……」
「……今日は以上だ」
話が終わった、みたいな言い方だった。
さくらはクロの横顔を見た。
金色の目が、どこか遠いところを見ていた。
(時間が少ない)
その言葉が頭の中でぐるぐるした。
意味がわからない。でも聞き返せなかった。
さくらはベランダの窓枠をぎゅっと握った。
大丈夫だよ、って言おうとした。
でも出てこなかった。
夕日がどんどん沈んでいく。
ツキミ市が、オレンジから赤に変わっていく。
クロはまだ手すりの上に座っていた。
猫みたいに、静かに、夕日を見ていた。
さくらはその隣で、言葉の代わりに窓枠を握り続けた。Noveliaとは?
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