にゃんこが男前になって帰ってきた件
月島さくら、21歳の大学生は、5年間黒猫のクロと一緒に暮らしてきた。ある朝、彼女が目を覚ますと、黒髪で金色の瞳を持つ、背の高い信じられないほどのイケメンが自分のベッドで眠っている。首の後ろには三日月形のほくろがあり――まさしくクロと同じだった。
「おはよう、さくら。僕だよ、クロだ。」
さくらは逃げ出す。クロは冷蔵庫を冷静に開けて猫用おやつのチューブを食べ始める。間違いない、彼だ。
クロの最初の宣言はこうだった。「5年間の恨みを返しに来たんだ。」そのリストは驚くほど長く詳細で、爪切りの奇襲、無理やりの入浴、絶対に許可していないお腹の撫で方、ドライヤー、そして何より許せない動物病院の出来事まで。さくらは何も覚えていないが、クロはすべてを鮮明に覚えている。
しかし彼の「復讐」は少し変わっていた。寝坊すると大声で起こし、夕食が遅いと冷蔵庫の前で黙って立ち尽くす。さくらが友達と電話しているときは、半目で不快なほど近くからじっと見つめてくる。
そんな中、幼馴染の高坂れん(22)が、ずっとさくらに恋していて、クロの話を聞きつけて毎日のように彼女のアパートに現れ、「猫は猫だ!」と叫ぶが、クロ
にゃんこが男前になって帰ってきた件 - いなくなった朝と、触れられない手
昨日のウツセ川、夕日の中でクロの指が透けて見えた——あれは気のせいだった、と思おうとしてもうまくいかないまま、さくらは朝を迎えた。
5月25日。布団の中でぼんやりと目を開けると、部屋が妙に静かだった。
(クロ……?)
いつもなら、もうそこにいる。テーブルの椅子に座って、じっとさくらを待っている。あの金色の目で。
さくらは身を起こして部屋を見渡した。
誰もいない。
「クロ?」
返事がない。ベランダを見る。誰もいない。玄関を見る。靴が揃ったまま置いてある。財布も、スマホも——そもそもクロはどちらも持っていないが——そのまま。何も動いていない。
さくらは立ち上がって、ユニットバスの扉を開けた。いない。押し入れを開けた。いない。ベランダに出た。いない。
コーポ・ミナヅキの201号室、22平米のどこにも、クロはいなかった。
(昨日まで、ここにいたのに)
胸の奥がざわっとした。夕暮れの河川敷で見たクロの右手——透けて見えた指の輪郭——が頭の中でちらついた。
「時間が少ないから、だと思う」
あの夜、ベランダで言ったクロの声。ずっと聞き流していた言葉が、今この瞬間に初めて、形と重さを持った気がした。
さくらは玄関に向かった。靴を履こうとして、手が止まった。
そのままドアを開けて、裸足で飛び出した。
*
ホシゾラ通りのアーケードに人が増え始める時間帯だった。
パジャマのまま裸足で走るさくらを見て、果物屋のおじさんが声をかけてきた。
「さくらちゃん!? どうしたの、裸足で!」
「大丈夫です、ちょっと探し物で!」
大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃないけど、足が止まらない。
コウサカ堂の前を駆け抜けた。三日月もなかの甘い香り。今日はれんは出ていない。ドラッグストア・ヨツバの前を過ぎた。チュールを自分で買いに来るようになったクロのことを思い出して、喉の奥が痛くなった。
ミナセ大学まで走った。キャンパス内の野良猫たちが15匹くらい暮らしているあの芝生のあたりを探した。図書館の裏を見た。中庭を一周した。
いない。
ウツセ川の河川敷まで戻った。桜並木はもう葉桜で、5月の青い葉が朝の風に揺れている。ベンチを一つ一つ確認しながら遊歩道を歩く。石畳に素足が当たって少し冷たい。
昨日立った場所の前で、足が止まった。
クロの右手が透けて見えた場所。
「さくら?」
後ろから声がした。振り返る。
深い赤紫色の髪。琥珀色の目。コウサカ堂の帰りらしく、紙袋を持っている。高坂れんが、さくらを見て眉をひそめた。
「なんで裸足なんだ」
さくらは一瞬、何から話せばいいか分からなくて黙った。
れんが一歩近づいてきた。
「どうした。何かあったか」
言葉が溢れ出した。
「クロがいないの」
「……は」
「朝起きたらいなくて。靴も全部そのままで、どこ探しても見つからなくて」
れんが少し間を置いた。
「猫だろ。気まぐれに出て行くこともあるんじゃないか」
さくらは首を横に振った。
「靴がある。あの子、靴なしで出ない」
「……そうか」
れんが紙袋を持ち直した。さくらを見る目が少し変わった。
さくらは少しためらって、それから言った。
「ね、れん。クロのこと……時間がないかもしれないって、クロ自分で言ってたの」
れんの表情が固まった。
「どういう意味だ、それ」
「わからない。でも昨日、川沿いでクロの手が……一瞬、透けて見えた気がして」
沈黙。
れんがさくらの顔を見た。冗談を言う顔じゃない、と分かったんだろう。琥珀色の目が細くなって、それから真っすぐになった。
「カグラ丘陵、行くか」
「え」
「野良猫のコロニーがあそこに3つある。人間になってもあいつはたぶん猫の感覚で動く」
れんは先に歩き出した。さくらは一秒だけ止まって、それから後を追った。
*
カグラ丘陵はツキミ駅からバスで20分、そこからさらに徒歩15分だった。標高210メートル。バスを降りた時点でさくらの素足は限界だったが、れんが黙ってコンビニで使い捨てのサンダルを買ってきた。
「履いて」
「ありがとう……」
二人とも、それ以上は喋らなかった。
丘の斜面を登る。夕方が近づいていた。木々の間から差し込む光がオレンジ色に変わり始めている。野良猫の気配が増える。草むらの中に目が光る。
さくらは歩きながら、ずっとクロのことを考えていた。
(怖くても、一人でいたかった——そういうことなのかな)
考えたくなかった。でも考えてしまう。
岩場が見えてきた。大きな石が重なった場所に、何匹かの野良猫が集まっていた。その端——岩の影に、黒い影がうずくまっているのが見えた。
「クロ!!」
走った。斜面を駆け上がって、膝をついた。
クロがゆっくりと顔を上げた。黒髪に細い赤のメッシュ。金色の目。間違いなくクロだった。
そしてさくらは見た。
クロの右手が——手首から先まで、完全に透明になっていた。
夕日の光が、そのまま通り抜ける。岩と草と、丘の向こうの空が、クロの手の輪郭の内側に透けて見えている。腕はある。手首もある。でも手首から先が、空気と同じになっていた。
さくらの指先が震えた。
クロの透明な手を、両手で包もうとした。
指が、空を切った。
そこにあるのに、触れられない。さくらの手がクロの手の形をなぞっても、何も感じない。温度も、重さも、何も。
「……っ」
涙が出た。止められなかった。
クロが金色の目でさくらを見た。その目が、少し揺れた。
「……ごめん」
さくらが顔を上げた。
「朝起きたら手が見えなくなってた。怖くて……一人でいたかった」
その声が、かすかに震えていた。
さくらは固まった。
あの毒舌で、飄々として、「覚えてろ」とノートに書いて、チュールは正義と言い張るクロが。怖い、と言った。震える声で。
胸の奥で何かが弾けた。
「なんで一人で出て行くの」
クロが少し目を細めた。
「なんで黙ってるの。あたしに言えばよかったじゃない!」
「……心配かけたくなかった」
「心配かけたくないなら最初から言ってよ! 朝起きたらいなくて、靴も全部そのままで——どこ探しても——」
声が詰まった。涙がまたこぼれた。
クロが目を逸らした。
「お前に泣いてほしくなかった」
「泣かせたくないなら、いなくならないでよ……!」
クロが何も言わない。
さくらも何も言えない。
怒りも心配も全部本物で、全部ぶつけたくて、でも言葉が噛み合わない。クロの透明な手が、夕日の中でそこにあって、それでもさくらには触れられない。その事実が、全部を余計につらくした。
少し離れた草の上で、れんがずっとその光景を見ていた。
声をかけるタイミングを探していたわけではなかった。ただ、動けなかった。
さくらがクロの透明な手に触れようとして、指が空を切るたびに、さくらの泣き声が大きくなるたびに、れんの胸の中で何かが静かに沈んでいった。
(ああ、そういうことか)
さくらはクロのために泣いている。あの強がりな、どこかズレた猫のために、裸足で街中を走り回って、丘を登って、今こうして泣いている。
れんは10年分の片想いのことを思った。
小学校から。ずっと隣にいた。コウサカ堂の三日月もなかを食べながら笑うさくらの顔を、何百回見たか分からない。
草の上で、れんは静かに拳を握った。
*
日が落ちる頃、クロの右手が少しずつ輪郭を取り戻してきた。
完全には戻りきらない。でも、夕暮れの光の中では指の形が見えるくらいには。
クロが立ち上がった。さくらも立ち上がった。二人の間に言葉はなかった。
れんが近づいてきた。
三人で丘を降り始めた。
途中でれんがぽつりと言った。
「今日のこと、僕は忘れない」
さくらもクロも振り返らなかった。
れんもそれ以上は言わなかった。
*
アパートに戻ると、三人は玄関前で別れた。れんが小さく「また明日」と言って、それだけだった。
さくらとクロだけが部屋に入った。電気をつける。
クロの右手は、ほぼ元に戻っていた。白い電球の下で見れば、普通の手に見える。
でもさくらの手のひらには、昼間に指が空を切った感触がまだ残っていた。
触れようとした。触れられなかった。あの感触。
さくらはクロの隣に座ったまま、動けなかった。クロも何も言わずに窓の外を見ていた。
コーポ・ミナヅキの外から、ウツセ川の水の音がかすかに聞こえる。5月の夜。静かだった。
「……クロ」
「何だ」
「時間が少ないって言ってたじゃん。……それ、ちゃんと教えてほしい」
クロが少し間を置いた。
「……今はまだ、ぼくにも分からないことが多い」
「でも今日みたいなことがまた——」
「また起きるかもしれない。それは正直に言う」
沈黙。
「……ひとりでいるのは、もうやめる」
その声が、さっきの丘の上より少しだけ、落ち着いて聞こえた。
さくらは何も言わなかった。ただ、クロの右手を見た。そこにある、ちゃんと見える手を。
触れようとした。
今度は、指に温度が伝わった。
さくらの手がクロの手の甲に、そっと重なった。クロが少し固まった。
でも、振り払わなかった。
窓の外でウツセ川が流れている。時間が少ないという言葉が、部屋の中にゆっくり沈んでいく。答えはまだない。でも、ひとりじゃないということだけが、今夜ここにあった。
さくらは明日、ホシゾラ通りの古書店「クジラ堂」の前を何度か素通りしていたことを思い出していた。店主の海野庄三さんが、地元の不思議な話に詳しいという噂を。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。