にゃんこが男前になって帰ってきた件
月島さくら、21歳の大学生は、5年間黒猫のクロと一緒に暮らしてきた。ある朝、彼女が目を覚ますと、黒髪で金色の瞳を持つ、背の高い信じられないほどのイケメンが自分のベッドで眠っている。首の後ろには三日月形のほくろがあり――まさしくクロと同じだった。
「おはよう、さくら。僕だよ、クロだ。」
さくらは逃げ出す。クロは冷蔵庫を冷静に開けて猫用おやつのチューブを食べ始める。間違いない、彼だ。
クロの最初の宣言はこうだった。「5年間の恨みを返しに来たんだ。」そのリストは驚くほど長く詳細で、爪切りの奇襲、無理やりの入浴、絶対に許可していないお腹の撫で方、ドライヤー、そして何より許せない動物病院の出来事まで。さくらは何も覚えていないが、クロはすべてを鮮明に覚えている。
しかし彼の「復讐」は少し変わっていた。寝坊すると大声で起こし、夕食が遅いと冷蔵庫の前で黙って立ち尽くす。さくらが友達と電話しているときは、半目で不快なほど近くからじっと見つめてくる。
そんな中、幼馴染の高坂れん(22)が、ずっとさくらに恋していて、クロの話を聞きつけて毎日のように彼女のアパートに現れ、「猫は猫だ!」と叫ぶが、クロ
にゃんこが男前になって帰ってきた件 - ぼくはさくらの猫だ——コウサカ堂前の仁義なき戦い
クロの膝枕から3日が経っても、さくらの胸の奥でドキドキの正体はまだわからないままだった。
(まあ、いいか……)
そう思おうとしても、鏡を見るたびに耳が赤くなる。ちょっと自分がうっとうしい。
水曜日の夕方、ミナセ大学での講義が終わったさくらはホシゾラ通りのアーケードをのんびり歩いていた。空はまだ明るい。5月の夕風がアーケードの端から吹き込んで、前髪をくすぐる。
ツキミ市は今日も静かだ。果物屋のおじさんが店先を掃いていて、向こうの雑貨屋からはラジオの音がする。コウサカ堂の前まで来たら、甘い香りがふわっと漂ってきた。
さくらが思わず足を止めた。
店先に、和菓子が並んでいた。小さな三角形のもなか。月みたいなかわいい形。値札には「三日月もなか・1個180円」とある。
そのもなかを慣れた手つきで並べている人がいた。
「……れん?」
顔を上げたのは、深い赤紫色の髪をした青年だった。琥珀色の目がさくらを見て、一瞬だけぱちっとまばたきした。それから耳のあたりがじわっと赤くなった。
高坂れん。22歳。ミナセ大学法学部3年。さくらの幼なじみ。コウサカ堂の跡取り息子。
「……さくら。久しぶり」
「ほんとに、1週間ぶりだよね! 元気だった?」
「うん。まあね」
れんは少し照れくさそうにもなかの並びを直した。手先が器用だ。ひとつひとつ、丁寧に。
さくらはなんとなく嬉しくなって、もなかを一個手に取った。甘い。見てるだけで甘い。
「三日月もなかって、名前かわいいよね。クロの首のほくろと同じ形だな——」
言いかけたところで、後ろから手首をつかまれた。
「帰るよ」
さくらが振り返った。黒髪に赤いメッシュ、金色の目。178センチの青年が、腕組みもせずにただ淡々とそこに立っていた。
(いつからいたの!?)
れんの表情が固まった。さくらの手首を持っている男を見て、眉がひそまる。琥珀色の目が細くなった。
「……誰だ、お前」
クロはれんを見た。金色の目がまっすぐれんを捉えた。
「ぼくはさくらの猫だ」
間があった。
れんが「は?」という顔をした。
「猫?」
「猫だ」
「猫ってなんだよ。猫が人間の手を引っ張るか! さくら、こいつ誰?」
「え、えと……」
さくらが何か言う前に、クロがれんの前から一歩も動かなかった。さくらの半歩前に立って。金色の目がれんをまっすぐ見ている。
「さくらが5年間飼っていた猫だ。だからさくらの猫だ」
「意味わかんないだろ!! そういう話じゃなくて、お前はさくらとどういう関係なんだって聞いてるんだ!」
「さくらの猫だと言った」
「だから猫じゃないだろ人間だろ!!」
「人間の形をしているが猫だ」
「どういう理屈だ!!」
コウサカ堂の前で、22歳と19歳が正面から睨み合っていた。
れんは一歩も引かない。クロも一歩も動かない。三日月もなかが整然と並んだ店先で、静かな空気が張り詰めていた。
さくらは二人の間に挟まれて、もなかを持ったまま固まっていた。
(ど、どうすればいいの……)
そのとき、コウサカ堂の奥から明るい声がした。
「あら、さくらちゃん! いらっしゃい!」
れんの母・高坂美鈴が暖簾をくぐって出てきた。54歳、にこにこした顔、割烹着。この商店街で一番人当たりがいいと言われている人だ。
美鈴はさくらを見て、それからクロを見て、それかられんを見た。
そして笑顔のまま言った。
「あらあら。さくらちゃん、モテるわねぇ」
さくらの体から力が抜けた。
「……美鈴さん、違うんです」
「いいのよ! 青春青春! れん、ちゃんとさくらちゃんにもなか渡しなさい!」
「……お、お母さん!」
れんが珍しく慌てた顔をした。クロはその一部始終を金色の目で観察していた。それからもなかをちらりと見た。
「これがさくらの猫の首の形か」
「え?」
「三日月もなか。ぼくの首のほくろと同じ形だ」
事実だった。さくらも同じことを思いかけていた。
「あら、そう! じゃあ縁起がいいわね! 一個サービスするわ!」
クロはもなかを受け取って、その場でぱりっと食べた。
間があった。
「……甘い」
不満そうでも満足そうでもない、ただの感想だった。
れんが額に手を当てた。
「……もう、やめてくれよ」
*
あの日かられんはさくらのアパートに来るようになった。毎日来た。
「さくらの様子を見にきた」
それが名目だった。でもドアを開けるたびにクロが先に立っている。腕組みして。金色の目でれんを見下ろして。
「何の用だ」
「さくらに用がある。お前には聞いてない」
「さくらはさくらの部屋にいる。ぼくもさくらの部屋にいる。つまりぼくを通らないとさくらに会えない」
「それはお前が勝手にドア開けてるからだろ!!」
「ここはさくらの家だ。ぼくはさくらの猫だ。何の問題もない」
「問題しかないだろ!!」
玄関でどたどたと声が上がるたびに、さくらはダイニングのソファから腰を上げた。二人が玄関で言い合っている間に部屋の端まで移動して、壁に背中をつけてしゃがみ込んだ。
(……あたし、どこにいればいいんだろう)
二人はさくらが移動したことに気づいて、揃ってさくらを見た。
「さくら、大丈夫?」
「何してる。こっちに来い」
二人同時に言うので、さくらは返事に困った。
「……まあ、いいか」
とりあえずそう言って、立ち上がった。
*
バイトの日は木曜日だった。
カフェ・ハルカゼ。ツキミ駅北口から徒歩3分。席数24のこじんまりしたカフェで、自家焙煎コーヒーの香りがいつも漂っている。さくらはここで週3日、白いエプロンをつけて働いている。
その日のシフトはさくらとあおいの二人だった。
野々村あおいは23歳、大学院生。白銀色のロングヘアをゆるくまとめて、今日は薄いグレーのシャツを着ている。目元の小さなほくろが特徴的だ。さくらのバイト先の先輩で、後輩への溺愛がちょっと重い。でも基本的には頭が良くて、観察眼が鋭い。
「さくらちゃん、今日も来てくれた。かわいいは正義」
「毎回言わなくていいですよ先輩……」
「言うよ。習慣だもん」
ランチの波が引いて、3時すぎの静かな時間帯。さくらがカウンターを拭いていると、カフェの入り口のドアが開いた。
入ってきたのはれんだった。
深い赤紫の髪、きちんとした格好。カフェに来るには少し真面目すぎる服装で、少し緊張した顔をしている。
「……さくら、いるか?」
「れん? なんで来るの、ここ」
「様子を見に、と言おうとしたけど……」
れんが言い終わる前に、カウンターの横からあおいが顔を出した。にこにこしている。
「あ。さくらちゃんの幼なじみくんだよね」
れんが少し固まった。
「……そうですが」
「あの黒髪の子と、どっちが先?」
直球だった。さくらはカウンタークロスを持ったまま固まった。れんの頬がわずかに赤くなって、すぐに引き締まった。
「……幼なじみです。小学校からずっと」
「なるほどね。じゃあ年季が違うね」
にこっと笑う。ライバル認定している顔だった。れんもそれに気づいていた。
あおいはさくらの隣に移動して、さくらのエプロンの紐をさっと直した。特に理由はなさそうだけど、やることが早い。
「うちのさくらちゃんのこと、よろしくね」
「……うちの、とはどういう意味ですか」
「先輩です。先輩」
さくらはカウンターの向こうで2番テーブルのお客さんが手を上げているのを見つけた。助かった。
「ちょっと待って二人とも、注文入ったから——」
「さくらさん、2番テーブル待ってるよ」
奥からカウンターの店主・瀬田源一郎が一言だけ言った。56歳、元サラリーマン、口数少ない。でも必要な時だけちゃんと助け舟を出してくれる人だ。
さくらはオーダー帳を持って逃げるように2番テーブルへ向かった。
後ろでれんがあおいに何か言っていた。
「……あの黒髪、どこの誰か知ってますか」
「知ってるよ。でもそれはさくらちゃんから聞いてね」
にこにこしたままだった。
*
バイトが終わったのは7時すぎだった。
アパートに戻ったさくらは制服からTシャツに着替えて、ソファに倒れ込んだ。天井を見た。疲れた。
クロはテーブルの前に座って、チュールを一本開けていた。3本目だった。
「クロ、夕ご飯はご飯食べてよ」
「チュールが先だ」
「順番の問題じゃなくて……」
ため息をついて、さくらは起き上がった。れんとあおい先輩が同じ空間にいる場面を思い返した。二人とも鋭い。挟まれたさくらはちっとも気が利かなかった。
そんなことを考えていたら、外がきれいな夕焼けになっているのが窓から見えた。オレンジ色の光がカーテンの隙間から入ってくる。
「クロ、ちょっと散歩しない?」
クロが顔を上げた。
「今から?」
「ウツセ川、きれいな時間だと思って」
間があった。クロはチュールのパウチをテーブルに置いて、立ち上がった。
「行く」
即答だった。
*
アパートからウツセ川の河川敷まで歩いて5分。夕方の光が水面をオレンジに染めていた。桜並木はとっくに葉桜になっていて、5月の青い葉が夕風に揺れている。川沿いの遊歩道に人は少なかった。
さくらはクロの隣を歩いた。
少しだけ黙って歩いた後、さくらが口を開いた。
「れんのこと、もう少し普通に答えられない?」
「普通に答えている」
「ぼくはさくらの猫だって……それ聞いたれん、毎回困ってるじゃん」
「困る方がおかしい。事実を言っている」
「事実だとしても……」
言葉に詰まった。クロはさくらを横目で見た。金色の目。夕日を映している。
「あいつが来るたびにさくらが板挟みになる。それが気に入らない」
さくらは少し驚いた。
「……れんのことが気に入らないじゃなくて、あたしが困るのが嫌なの?」
「そうだ」
即答だった。さくらの胸のどこかがじわっとした。
「……ほんとに、猫みたいなこと言うよね」
苦笑いで言った。クロは答えなかった。でも少し、口の端が動いた気がした。
川べりのベンチが見えてきた。さくらが「あそこで少し休もうか」と言おうとした、その時。
夕日の光の中で、クロの右手の輪郭がぼやけた。
ほんの一瞬だった。
指が——透けて見えた。
夕日の橙色が、そのまま指の向こうに透き通るように。川面の光が、クロの手を通り抜けるように。
「……え」
声が出た。さくらは目をこすった。
次の瞬間には、クロの手は普通の手だった。日焼けしていない、少し細い、普通の右手。
クロは川面を見ていた。何も気づいていない様子だった。
「何か言ったか」
「……なんでもない」
笑顔を作った。うまく作れたかわからない。
(気のせい……だよね)
そう思おうとした。でも胸の奥がじわじわとうるさかった。
最初の夜、ベランダの手すりの上でクロが言った言葉が蘇った。
——時間が少ないから、だと思う。
今まで聞き流していた。聞き返せなかった。でも今この瞬間、その言葉が初めて形を持った気がした。
夕日がどんどん沈んでいく。川面のオレンジが、少しずつ暗い赤に変わっていく。
さくらはクロの隣に立って、川を見た。
クロの右手を、そっと見た。
もう普通に見えた。ちゃんと、そこにある。
でも——
(あたし、聞かないといけないのかもしれない)
胸騒ぎが止まらなかった。夕風が頬を撫でていっても、全然、止まらなかった。Noveliaとは?
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