にゃんこが男前になって帰ってきた件
月島さくら、21歳の大学生は、5年間黒猫のクロと一緒に暮らしてきた。ある朝、彼女が目を覚ますと、黒髪で金色の瞳を持つ、背の高い信じられないほどのイケメンが自分のベッドで眠っている。首の後ろには三日月形のほくろがあり――まさしくクロと同じだった。
「おはよう、さくら。僕だよ、クロだ。」
さくらは逃げ出す。クロは冷蔵庫を冷静に開けて猫用おやつのチューブを食べ始める。間違いない、彼だ。
クロの最初の宣言はこうだった。「5年間の恨みを返しに来たんだ。」そのリストは驚くほど長く詳細で、爪切りの奇襲、無理やりの入浴、絶対に許可していないお腹の撫で方、ドライヤー、そして何より許せない動物病院の出来事まで。さくらは何も覚えていないが、クロはすべてを鮮明に覚えている。
しかし彼の「復讐」は少し変わっていた。寝坊すると大声で起こし、夕食が遅いと冷蔵庫の前で黙って立ち尽くす。さくらが友達と電話しているときは、半目で不快なほど近くからじっと見つめてくる。
そんな中、幼馴染の高坂れん(22)が、ずっとさくらに恋していて、クロの話を聞きつけて毎日のように彼女のアパートに現れ、「猫は猫だ!」と叫ぶが、クロ
にゃんこが男前になって帰ってきた件 - 別れの挨拶と、声を殺した涙
朝の光が、カーテンの隙間からうっすら入ってきた。
さくらはトーストをかじった。
カリ、と音がした。それだけだった。
テーブルの向かいで、クロがチュールのパウチを口に当てている。もそもそと、ゆっくり。金色の目は窓の外を見ていた。こちらを見ていなかった。
昨日、カグラ丘陵から帰ってきた。部屋に入った。クロの手は戻っていた。二人でテーブルを挟んで座った。それから——何かがぶつかって、何かが割れた。言葉が刃みたいになった夜だった。
今は静かだった。静かすぎた。
いつもなら、ここでさくらが言う。「クロ、チュールは朝ごはんじゃないでしょ」と。クロが「チュールは正義だ」と返して、さくらがため息をつく。それがこの部屋の朝だった。
今日は、その声が出なかった。
クロの右手がパウチを持っている。昨日、あの丘の上で透明になっていた手。触れようとして、指が空を切った手。今は普通に見えた。ちゃんとそこにあった。
さくらは目を逸らした。
トーストの端が、少し焦げていた。
(まあ、いいか)
いつもそう思う場面なのに、今日は「まあ」にならなかった。焦げたトーストをそのまま食べた。味がよくわからなかった。
クロはチュールを食べ終わって、空のパウチをテーブルに置いた。それから立ち上がった。窓のそばに行って、外を見た。5月の空は青くて、何も変なことはなかった。
二人とも、何も言わなかった。
*
さくらが一人でアパートを出たのは、午前10時を少し回ったころだった。
クロには「ちょっと出てくる」とだけ言った。クロは窓の外を見たまま、「そうか」とだけ返した。
ホシゾラ通りのアーケードに入ると、果物屋のおじさんが今日も店先に立っていた。コウサカ堂の甘い香りがした。通り過ぎる時、三日月もなかが並んでいるのが見えた。見ないようにした。
アーケードの真ん中あたりに、古書店がある。
看板に「クジラ堂」と書いてある。ガラスのショーウィンドウに、古い本が積まれていた。
さくらは引き戸に手をかけた。
がらがらと引いた。鈴の音はしなかった。本の匂いがした。紙と、ちょっとだけかびた古い匂い。狭い通路に本棚が並んでいて、背表紙の文字が読めないくらい日焼けしているものもあった。
奥に人がいた。
白髪まじりの頭を少し前に傾けて、古い本の背表紙を布でゆっくり拭いている老人だった。
「いらっしゃい」
振り向かずに言った。声はしゃがれていたが、静かだった。
さくらは少し間を置いた。何から聞けばいいか、ここまで歩いている間もずっと考えていたのに、いざ立つと言葉が固まった。
「あの……海野さんですよね。地元の言い伝えとか、不思議な話に詳しいって聞いて」
老人がゆっくり振り向いた。71歳という年齢よりもっと古びた顔をしていたが、目だけは鋭かった。さくらをしばらく見て、それから棚に視線を戻した。
「誰から聞いた」
「いろんな人から、ちょっとずつ」
海野はうなずいた。うなずいたのかどうかよくわからないくらい小さな動きだったが、続けろという意味だと思った。
さくらは深呼吸した。
「カグラ丘陵の言い伝えで……猫が人間になる話、知っていますか」
海野の手が止まった。
布を持ったまま、止まった。
長い沈黙があった。本棚の奥の方で、何かが微かに揺れた気がした。たぶん風だった。
海野はゆっくりと棚に向き直り、腰をかがめて一番下の段を探し始めた。背表紙を一つ一つ指でたどる。古い本、また古い本。しばらくして、黄ばんだ背表紙の薄い冊子を引っ張り出した。
「ほら」
カウンターに置いた。さくらが近づいた。表紙に「ツキミ昔話集 第三輯」と書いてあった。紙がぼろぼろで、触ると崩れそうだった。
海野がページをめくった。ゆっくりと、慣れた手つきで。ある見開きで止まった。
「猫はな、大事な人間のそばで十分に愛されると、最期に一度だけ人の姿を取れる。ツキミの丘の昔話だ。月の満ちる夜に、丘の猫は人の言葉を話す、っていう話とセットになってる」
さくらはページを見た。ひらがなが多くて、絵も入っていた。子供向けの昔話だった。猫が青年の姿になって、女の子と並んでいる絵。
「でも」と海野が続けた。
「それは別れの挨拶なんだよ」
さくらの指先が止まった。
——別れの挨拶。
「……どういう意味ですか」
「命が尽きかけている時に、人になれる。ありがとうを言うために。顔を見るために。それだけのために」
頭の中で何かが崩れていく感覚がした。
クロが人間になったのは——命が尽きかけているから。
別れの挨拶。
最期の。
ページを押さえていた指先が、細かく震え始めた。紙が湿った。気づいたら、活字がにじんでいた。涙が落ちていた。
海野はさくらの手を見た。それ以上何も言わなかった。棚の方に視線を戻して、ゆっくりと布を動かし始めた。
さくらは本のページを見つめたまま、声が出なかった。
*
クジラ堂を出た時、空はまだ青かった。
おかしかった。こんなに晴れているのに。世界は何も変わっていないのに、さくらの中でだけ何かが崩れたまま、元に戻らない。
まっすぐアパートに帰れなかった。
足が勝手にウツセ川の方に向いた。アパートから南に5分歩くと河川敷に出る。葉桜が風に揺れて、川面がきらきらしていた。
ベンチに座った。膝を抱えた。
別れの挨拶。
クロが人間になったのは、さくらに会うためだった。ちゃんとした顔で、言葉で、最後にそばにいるために。
——時間が少ないから、だと思う。
あの夜、ベランダで言ってた。ずっとうまく聞き流していた。でも本当はわかってた。わかりたくなかっただけだ。
「……うそだよ」
誰にともなく言った。川がきらきらしていた。どうしてこんなにきらきらしているんだろう。やめてほしかった。
涙がこぼれた。止められなかった。ベンチの上で膝に顔を埋めた。5年分の記憶がぐるぐると頭の中で回った。高校の通学路で拾った子猫。段ボール箱の中でぶるぶる震えていた。ちっちゃかった。
「あれ」
声がした。
さくらが顔を上げると、白銀のロングヘアが風に揺れていた。透き通るような蒼色の目。野々村あおい先輩が、河川敷の遊歩道に立っていた。バイトの帰りなのか、カフェ「ハルカゼ」のエプロンをバッグの端から覗かせている。
さくらのことを見て——何があったの、とは聞かなかった。
無言でベンチに来て、隣に座った。
さくらのボロボロの顔を見ても、何も言わなかった。川を見ていた。
しばらく二人で川を見た。
風が吹いた。葉桜がざわめいた。川面の光が揺れた。
さくらは一度深呼吸して、それから言った。
「クロが……いなくなるかもしれない」
声がかすれた。初めて声に出した言葉だった。頭の中でずっとぐるぐるしていたけど、声にしたのは初めてだった。
あおいが少し動いた。目を一回閉じた。
それから静かに言った。
「……わかった。わたしにできることがあるなら、何でもする」
それだけだった。
何も聞かなかった。どういうこと、とも、本当に、とも、聞かなかった。ただ「何でもする」と言った。
さくらはあおいの肩に額をつけた。あおいは動かなかった。肩が温かかった。
しばらく、二人でそうしていた。
*
夕方、アパートに帰った。
ドアを開けると、部屋が橙色に染まっていた。西向きのベランダから夕日が入って、床も壁も天井もぜんぶ同じ色になっていた。
布団の上に、クロがいた。
丸くなって眠っていた。
両膝を腹に引き寄せて、体をできるだけ小さくまるめて——それは完全に猫の寝相だった。人間の体なのに、あの黒猫がいつもやっていた格好そのまま。夕日の中で、黒髪が少し光っていた。
さくらは動けなかった。
5年間、毎晩そこにいた。布団の端に丸くなって。どんなに遅くなっても、バイトから帰ってきても、試験で疲れ果てて帰ってきても、あの黒猫はいつもそこにいた。小さな黒い塊が。温かくて、重くて、ちょっとだけにおいがして。
今は青年の姿で、同じ格好で眠っている。
さくらはとっさに口を押さえた。
声が出そうだった。出したら起こしてしまう。クロが起きないように、声を殺した。
涙がぼろぼろこぼれた。止まらなかった。壁に背中をつけて、その場にずるずると座り込んだ。床が冷たかった。
(まだ何も返せてないのに)
5年分の世話をしてもらった。5年分そばにいてもらった。それなのに。
クロがゆっくりと寝返りを打った。黒髪がさらっと崩れた。金色の目は閉じたまま。安心した顔で眠っていた。
さくらは床に座ったまま、声を殺して泣き続けた。
*
同じ時間、ホシゾラ通りのコウサカ堂2階の台所では。
れんが三日月もなかの生地をこねていた。
54年前から変わらないレシピ。手のひらに伝わる感触は、子供の頃から知っている。目をつぶってもできる。
でも今日は、手が止まった。
昨日のカグラ丘陵。夕日の中でさくらが膝をついて、クロの透明な手に触れようとして——指が空を切った。さくらの泣き声が、岩場に響いた。
れんは10年以上、さくらの隣にいた。
さくらが転んで泣いたのも見た。試験で落ち込んだのも見た。ずっと見てきた。
でもあの泣き方は、見たことがなかった。
あの泣き方は——クロのためだった。自分のためじゃない。
れんはもなかの生地を両手で持ったまま、力を込めた。
ぐにゃりと形が崩れた。台の上に押しつぶされた。54年前からのレシピの形が、ぐちゃぐちゃになった。
厨房の明かりだけが白くて、静かだった。
れんは崩れた生地を見た。奥歯を噛んだ。
形を直し始めた。ゆっくりと、丁寧に。手の動きだけは止めなかった。
*
夜が深くなった。
クロが目を覚ました。布団の上で体を起こして、あたりを見た。
部屋の電気はついていた。壁際に、さくらが膝を抱えて座っていた。目が赤かった。
クロはすぐにわかった。
泣いていた。ずっと泣いていた。
何も言わなかった。何があったか、聞かなかった。さくらもどこに行っていたか言わなかった。
二人とも黙ったまま、時間が過ぎた。
さくらが立ち上がって、布団に横になった。クロがいつもの場所——布団の端——に丸くなった。猫の時から変わらない配置だった。距離は変わらなかった。でも昨日から生まれた何かが、その距離を遠く感じさせた。
さくらは天井を見ていた。
海野の声が頭の中でぐるぐるした。別れの挨拶なんだよ。クロの声も混ざった。時間が少ないから、だと思う。
(クロに話したい)
でも話したら、クロを不安にさせる。クロはもう十分怖い思いをしている。昨日、丘の上で「怖くて一人でいたかった」と震える声で言っていた。
話せない。でも黙っていたら、頭の中がおかしくなりそうだった。
布団の端でクロが静かに呼吸している。その音だけが聞こえた。
さくらはずっと天井を見ていた。Noveliaとは?
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