チョコラビ日常帳 〜ゲームの外でもレベルは上がる!?〜
「山田くんも来るよ」——その一行から始まる、六月の週末。オンラインゲーム『アルカディア・クロニクル』のギルド「チョコレートラビット」、通称チョコラビのオフ会に参加するため、女子大生・木之下茜はアオバシティへ向かう。
ゲーム内で猫耳パラディンを操る茜には、人に言えない過去があった。元彼に「重い」と言われて振られたこと。それでもゲームをやめられなかったこと。そんな彼女を拾ってくれたのが、ゆるくてあたたかいチョコラビの仲間たちだった。
待ち合わせの農園に集まったのは、優しげなギルドマスター・瑛太、いちご農家のサブマスター・鴨田、そしてツンデレ女子大生の瑠奈。いちご狩り対決に爆笑トーク、顔を真っ赤にしながらも距離を縮めていく不器用な友情——ゲームの外でも、人間関係のレベルはちゃんと上がっていく。
でも、楽しい時間に突然現れたのは、瑛太の同級生だという鷲田という女性。にこやかな笑顔の裏に、どこか不穏な空気が漂っていて……?
これは、傷ついた心を抱えた少女が、ゲームの仲間たちとの日常を通じて、もう一度人を信じることを学んでいく物語。笑って、食べて、ときに胸がざわつく、チョコラビの日常帳。
チョコラビ日常帳 〜ゲームの外でもレベルは上がる!?〜 - コメダ屋大作戦!~妹のために作ったギルドと、夜の宣戦布告~
商店街のアーケードを抜ける風が、少しだけ湿っていた。
茜はスマホの地図アプリを何度も確認しながら、駅前のロータリーに立っていた。六月最後の土曜日。梅雨の合間の晴れ間で、日差しはもう夏の気配を孕んでいる。
「……山田くん、まだかな」
茜はつぶやいて、時計を見た。約束の時間まであと五分。少し早く着きすぎた。
胸の奥が、そわそわしている。
(今日は、ギルドの大事な話し合いだ)
(新メンバーのこと。鷲田さんのこと)
頭の中で、あの農園での笑顔がよぎる。『山田くんって、ゲーム強いんだって?』——あの時の、獲物を見つけたような目。
(瑛太さんが、話し合いの場を設けてくれた)
(私、ちゃんと意見を言えるかな)
茜はぎゅっと、小さなトートバッグの持ち手を握った。
「……あ」
改札の方から、長身の少年が歩いてくるのが見えた。
黒い髪。長めの前髪が、目にかかっている。切れ長の黒い瞳。無表情で、片手をポケットに突っ込んでいる。
山田くんだ。
茜の心臓が、変な跳ね方をした。
「や、山田くん! おはよう!」
茜は精一杯の明るい声を出した。
「……どうも」
山田はそれだけ言うと、茜の隣に立った。視線はすでに商店街の方へ向いている。
「今日は来てくれてありがとうね。瑛太さん、山田くんにも話があるって」
「別に。先輩に呼ばれただけっす」
「そ、そうなんだ……」
茜は少しだけ肩を落とした。
(相変わらず、そっけないなあ)
でも、不思議と嫌な気持ちはしない。これが山田くんの普通で、その普通の中に、時々びっくりするような優しさが隠れていることを、茜はもう知っている。
二人は並んで、アオバシティ中央商店街へと歩き出した。
アーケードの下は、思ったより涼しかった。天井から下がる色あせた旗が、風に揺れている。八百屋の店先には、真っ赤なトマトと、山盛りのきゅうりが並んでいた。
「わあ、このトマト、すごく美味しそう……」
茜が足を止めると、山田も黙って立ち止まった。
茜がちらりと横を見ると、山田は無表情のまま、店先の野菜を眺めている。
(待っててくれた)
(こういうところ、本当にずるい)
茜は胸の奥がむずむずするのを感じながら、小さく笑った。
「ごめんね、行こっか」
「別に急いでないっす」
「……うん」
茜は嬉しくなって、少しだけ歩くスピードを速めた。
商店街の中央あたりまで来ると、香ばしい匂いが漂ってきた。
醤油と、出汁と、炊きたてのご飯の匂い。
「……おにぎり」
茜の口から、思わず声が漏れた。
目の前に、古い木造の店構えが見える。暖簾には、大きく「コメダ屋」と染め抜かれていた。創業七十年の老舗米穀店。瑛太の実家だ。
「お、来た来た!」
店の奥から、柔らかい茶髪を軽く流した青年が顔を出した。優しい目つきのこげ茶色の瞳。笑うとえくぼが出る、瑛太だ。
「瑛太さん! お邪魔します!」
茜がぺこりと頭を下げると、瑛太は手に持ったマグカップを軽く掲げた。
「よく来たな。コーヒーでも飲むか?」
「あ、ありがとうございます! でも、その前に……」
茜のお腹が、ぐう、と鳴った。
一瞬の沈黙。
瑛太が、吹き出すように笑った。
「ははっ、タイミング最高だな。ちょうど母さんがおにぎり握ってるところだ。上がってけ」
「す、すみません……!」
茜は顔を真っ赤にした。
「……腹減ってるんすね」
山田が、ぼそりとつぶやいた。
「うるさいなあ! 朝ごはん食べたもん!」
「興味ないすね」
「……ですよね」
茜は肩を落としながら、暖簾をくぐった。
店の中は、思ったより広かった。
昔ながらの米櫃が並び、壁には品種の書かれた木札が掛かっている。その奥に、こあがりの座敷が見えた。
「あらあら、瑛太のお友達?」
奥から、明るい声が飛んできた。
エプロン姿の女性が、にこにこ笑いながら近づいてくる。瑛太の母、ミツコだ。五十五歳。明るく話し好きで、瑛太の友人を「うちの子」と呼ぶ。
「いらっしゃい! よく来たわねえ。あんたたち、瑛太のギルドのお友達でしょ? うちの子たち、今日はゆっくりしていってね」
「母さん、うちの子じゃないから」
瑛太が、照れくさそうに頭をかいた。
「あら、瑛太の友達はみんなうちの子よ。さ、おにぎり握ったから、たくさん食べて。若い子は食べるのが仕事なんだから」
ミツコはそう言うと、茜と山田を座敷へと案内した。
座敷のテーブルには、大皿に盛られたおにぎりが、湯気を立てて並んでいた。
「わあ……!」
茜の目が輝く。
「鮭に、梅に、昆布……あ、これ、天むすだ!」
茜は思わず声を上げた。
「うちの米で握ってるから、味は保証するぞ」
瑛太が、茜の向かいに座った。山田も、茜の隣に黙って腰を下ろす。
「いただきます!」
茜は天むすを手に取ると、大きな口でかぶりついた。
「……おいしい!」
海老のぷりぷりした食感と、甘辛いタレ。そして、ふっくら炊き上がったご飯の甘みが、口いっぱいに広がる。
「よかった。母さん、朝から張り切ってたからな」
瑛太が嬉しそうに笑った。
山田も、無言のまま鮭のおにぎりを手に取る。一口食べて、小さく頷いた。
「……うまいっす」
「だろ?」
瑛太が、コーヒーカップを傾けながら笑った。
しばらく、三人は黙々とおにぎりを食べた。
茜は二個目のおにぎりを頬張りながら、ちらりと瑛太を見た。
(瑛太さん、何か、話したいことがあるんだよね)
(新メンバーのこと)
茜は、ゆっくりとおにぎりを飲み込んだ。
「……瑛太さん」
茜が切り出すと、瑛太はコーヒーカップを置いた。
「ああ。そろそろ本題だな」
瑛太の表情が、少しだけ真剣になる。
「新メンバーの話、すぐに返事をしなくていい。ただ、俺が慎重になるのには理由があるんだ」
瑛太は、窓の外に目を向けた。
「このギルドは、瑠奈のために作ったんだ」
茜の手が、止まった。
「瑠奈ちゃんのために……」
「ああ。瑠奈は、人付き合いが苦手でな。学校でも、あんまり友達がいる方じゃない。中学生の頃は、家に帰るとずっとゲームばかりしてた」
瑛太の声は、静かだった。
「俺は、そんな瑠奈が心配でな。でも、どう声をかけていいかわからなかった。だから、とりあえず瑠奈がやってるゲームを、俺も始めてみたんだ」
瑛太は、少しだけ笑った。
「そしたら、びっくりしたよ。ゲームの中の瑠奈は、現実の何倍も生き生きしてた。楽しそうに笑って、仲間と話して。俺が知らない瑠奈が、そこにいた」
茜は、おにぎりを握ったまま、瑛太の話に聞き入っていた。
「だから、瑠奈が安心して過ごせる場所を作りたかった。ゲームの中に、瑠奈が帰ってこられる場所を。それが、このギルドだ」
瑛太は、茜と山田をまっすぐに見た。
「だから、新メンバーを入れるのは、俺にとっては簡単なことじゃないんだ。瑠奈が嫌がるかもしれない。瑠奈の居場所が、壊れるかもしれない。そう思うと、どうしても慎重になる」
茜の胸が、じわりと温かくなった。
(瑛太さん、そんなに瑠奈ちゃんのことを……)
(だから、あんなに優しいんだ)
茜は、目の奥が熱くなるのを感じた。
「……そうすか」
山田が、ぼそりとつぶやいた。
手には、もう三つ目のおにぎりが握られている。
「お前、話聞いてたか?」
「聞いてたっす。先輩がシスコンって話でしょ」
「シスコン言うな!」
瑛太が、声を上げて笑った。
茜も、つられて笑ってしまう。
「あはは、でも、なんかわかる気がする。私も、ゲームに助けられたから」
茜がそう言った瞬間、物陰からガタンと音がした。
「……!」
三人が振り返ると、座敷の障子の影から、ふわふわの黒髪が覗いている。
「瑠奈?」
「お兄ちゃん! 余計なこと言わないでよ!」
瑠奈が、真っ赤な顔で飛び出してきた。
量の多いふわふわの黒髪をツインテールにした、小柄な少女。くりくりとした大きな黒目が、怒りで潤んでいる。
「瑠奈ちゃん、来てたんだ」
茜が驚いて言うと、瑠奈は茜をぎろりと睨んだ。
「私、別にゲームなんかなくても平気だし! あんたたちこそ、勝手に私の心配しないで!」
瑠奈は、怒りで頬を膨らませている。
「瑠奈、盗み聞きしてたのか」
「し、してない! たまたま聞こえただけだもん!」
瑠奈は、瑛太の背中に隠れるようにして、茜を睨みつけた。
「瑠奈ちゃんの気持ち、わかるよ。私も、ゲームに助けられたから」
茜は、ゆっくりと言った。
「……あんたにだけは言われたくない」
瑠奈は、ぷいっと横を向いた。
でも、その頬は、さっきより少しだけ緩んでいる。
茜には、それがわかった。
(瑠奈ちゃん、素直じゃないなあ)
(でも、それが瑠奈ちゃんなんだよね)
茜は、小さく笑った。
その時、瑛太のスマホが鳴った。
「……鴨田さんからだ」
瑛太は画面を見て、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『よお! 瑛太、今大丈夫か?』
スピーカーから、のんびりとした声が流れてくる。
「ああ、今、茜と山田と瑠奈が来てる」
『お、そうか! なあ、加入の件、俺はどっちでもいいけどな。人が増えるのは楽しいぞ』
鴨田の暢気な声が、座敷に響いた。
「鴨田さんはそういうとこだよ……」
瑛太が、頭を抱える。
『なんだ? 俺、なんか変なこと言ったか?』
「いや、いいんだ。また今度、ちゃんと話そう」
『おう。じゃあな。茜ちゃんにもよろしく言っといてくれ』
電話が切れた。
「……鴨田さん、相変わらずだね」
茜が笑うと、瑛太も苦笑いした。
「あの人は、ギルドの空気を明るくしてくれるからありがたいんだけどな。でも、今回はちょっと……」
瑛太は、コーヒーカップを傾けた。
「まあ、今日は結論を急ぐな。みんなの意見を聞いて、もう少し話し合おう。それでいいか?」
「……私は、絶対に反対だからね!」
瑠奈が、瑛太の背中から顔を出して言った。
「わかってるよ」
瑛太が、瑠奈の頭をぽんぽんと撫でる。
瑠奈は、少し恥ずかしそうにしながらも、まんざらでもない顔をした。
茜は、そんな兄妹の姿を見て、胸が温かくなった。
(瑛太さんは、本当に瑠奈ちゃんのことを大切に思ってるんだな)
(私も、このギルドを守りたい)
(みんなの居場所を、守りたい)
茜は、静かにそう思った。
結局、その日の話し合いは、結論が出ないまま解散となった。
「じゃあ、またゲームでな」
「はい! 今日はおにぎり、ごちそうさまでした!」
茜はぺこりとお辞儀をした。
「また来いよ。うちの子たち」
「だから、うちの子じゃないですって!」
茜が笑うと、瑛太もえくぼを見せて笑った。
山田は、無言で店を出る。
茜は、山田の背中を追いかけた。
「山田くん、今日はありがとうね」
「別に。先輩に呼ばれただけっす」
「……うん」
茜は、山田の横顔をちらりと見た。
(山田くんは、どう思ってるのかな)
(鷲田さんのこと)
(新メンバーのこと)
聞きたいことはたくさんあった。
でも、言葉にできなかった。
「……じゃあ、俺はこっちなんで」
駅の改札前で、山田が立ち止まった。
「あ、うん。今日は本当にありがとう」
茜が手を振ると、山田は小さく手を上げて、改札へと消えていった。
茜は、その後ろ姿を、しばらく見つめていた。
その夜。
茜は、パジャマに着替えて、パソコンの前に座っていた。
『アルカディア・クロニクル』にログインする。
猫耳の少女アバター、Akaneが、ギルドハウスに現れた。
「……今日は、なんだか疲れちゃったな」
茜は、小さくつぶやいた。
画面の端に、通知が点滅している。
「……あれ?」
茜は、カーソルを合わせた。
【個別メッセージ:WASHIDA】
茜の指が、止まった。
(鷲田さんから……?)
心臓が、ゆっくりと鼓動を速める。
茜は、震える指で、メッセージを開いた。
【WASHIDA】茜さん、こんばんは。今日、ギルドのみなさんと話し合いをしたんだって? 私の加入のことで、悩ませちゃってごめんね。
【WASHIDA】でも、私、茜さんに言っておきたいことがあるの。
【WASHIDA】茜さんって、山田くんのこと好きでしょ?
茜の呼吸が、止まった。
画面の中の文字が、ゆっくりと、茜の頭の中に染み込んでいく。
【WASHIDA】私も好きなの。山田くんのこと。
【WASHIDA】だから、どっちがふさわしいか勝負しない?
茜は、マウスを握る手が、震えているのがわかった。
(……え?)
(勝負……?)
(なに、これ)
頭が真っ白になる。
心臓が、うるさいほど鳴っている。
(山田くんのこと、好きでしょ?)
(私も好きなの)
(勝負しない?)
茜は、キーボードに手を置いた。
【Akane】好きじゃない
打って、消す。
【Akane】勝負って何
打って、消す。
【Akane】何言ってるんですか
打って、消す。
「……返せない」
茜は、画面の前で、小さくつぶやいた。
指が、動かない。
言葉が、出てこない。
(私、山田くんのこと、好きなの?)
(好きじゃない、はず)
(でも、じゃあ、なんでこんなに動揺してるの)
茜は、自分の気持ちが、自分でもわからなかった。
時計の針は、いつの間にか深夜を指していた。
茜は、結局、何も返信できないまま、パソコンの電源を落とした。
ベッドに横たわる。
天井を見つめる。
鷲田の言葉が、頭の中で、何度も繰り返される。
『私も好きなの。山田くんのこと』
(鷲田さんは、山田くんのことを、好きだって言った)
(はっきりと、言った)
(私は……?)
茜は、枕に顔をうずめた。
(私は、山田くんのこと、どう思ってるんだろう)
(わからない)
(でも、鷲田さんの言葉に、胸が痛い)
(なんで?)
茜は、ごろりと寝返りを打った。
目を閉じても、眠れない。
窓の外で、虫の声が聞こえる。
茜は、一晩中、寝返りばかり打っていた。
翌朝。
茜は、ほとんど眠れないまま、パソコンを開いた。
(返事、しなきゃ)
(でも、なんて返せばいいの)
茜は、重い頭で、ゲームにログインした。
ギルドハウスに、Akaneが現れる。
「……あれ」
茜は、画面を見て、固まった。
ギルドの掲示板に、見慣れない書き込みがある。
【WASHIDA】来週土曜、レイドバトルで茜さんと対決します。勝った方が山田くんに思いを伝える権利を得ます。ギルドの皆さん、見守っててね☆
茜は、自分の目を疑った。
(……え?)
(なにこれ)
(勝手に、決められてる)
ギルドチャットが、静かに動き出す。
【Runa】何勝手なことしてんの!?
【瑠璃姫】これはギルドの問題だ。無視できないな
【Runa】茜! あんた、これ知ってたの!?
【Akane】……知らない。私、何も返事してない
【Runa】はあ!? じゃあ何これ! あの人、勝手に話進めてるの!?
【瑠璃姫】落ち着け、瑠奈。でも、これは確かに、勝手に決められていい話じゃない
茜は、震える指で、キーボードを叩いた。
(断らなきゃ)
(こんな勝負、おかしい)
(山田くんに、失礼だ)
【Akane】私、こんな勝負、するつもりないです
打って、消す。
(でも、断ったら、鷲田さんに何を言われるか)
(山田くんに、興味ないすねって言われた)
(あの言葉が、頭から離れない)
茜の指が、止まった。
【山田】……俺は関係ないすけど
山田の書き込みが、チャットに流れた。
茜の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(関係ない、か)
(そうだよね。山田くんには、関係ない話だ)
(私と鷲田さんの、勝手な争いだもん)
茜は、キーボードから手を離した。
(どうすればいいの)
(私、どうしたいの)
答えは、出ない。
画面の中では、瑠奈が怒り、瑛太がなだめている。
でも、茜には、その文字が、遠くの出来事のように感じられた。
(山田くんに、思いを伝える権利)
(そんなの、いらない)
(でも、鷲田さんに、山田くんを取られるのは、嫌だ)
茜は、自分の心の奥底に、黒い感情があることに気づいて、はっとした。
(……嫌、だ)
(私、山田くんのこと、取られたくない)
茜は、自分の手を、ぎゅっと握りしめた。
窓の外では、朝日が、アオバシティの街を照らし始めていた。Noveliaとは?
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