血界戦線 残響のヘルサレムズ・ロット
義眼が疼くたび、遠くの妹の視界がひとつずつ消えていく——。
三ヶ月前の決戦で、レオナルド・ウォッチの左目は限界を超えた。神々の義眼が暴走し、離れて暮らす妹ミシェーラの両眼を焼いたのだ。兄のために目を差し出した妹は、兄の義眼によって、二度目の光を奪われた。「お兄ちゃん、大丈夫だよ」——電話越しの明るい声が、余計に胸を裂く。
そんな折、廃教会で血界の眷属の残党が儀式を行っているとの通報が入る。出動を命じられたザップ、チェイン、ツェッドを見送ったレオだったが、義眼が北西の空へ向かって激しく脈動し始める。待機命令を破り、霧の街を駆け出すレオ。追ってきたザップとともに辿り着いた祭壇で、彼が見たものは——全身に異界の術式を刻まれ、虚ろな赤い瞳で「助けて」と呟く、幼い少女リリィの姿だった。
儀式の手順は、ライブラ内部しか知り得ない機密。浮かび上がる裏切りの影。仲間を信じたい。でも、信じることが怖い。霧に沈むヘルサレムズ・ロットで、少年の決意と組織の亀裂が、静かに交差する。
これは、視力を奪われた者たちの物語。失った光の数だけ、守りたいものがある。
血界戦線 残響のヘルサレムズ・ロット - 霧の代償 ―― 義眼が指す廃教会
給湯室の蛍光灯が、かすかに明滅した。
レオナルド・ウォッチは封筒の口を閉じる前に、もう一度だけ中身を確かめた。金貨が二十三枚。今月の給金のほとんどだった。指先で封をする作業を、彼はゆっくりと行う。紙の端を折り、糊の匂いを吸い込み、宛名を書く。『ミシェーラ・ウォッチ』。妹の名前を書くたびに、胸の奥の古い傷が、まるで生き物のように脈打つのを感じた。
三ヶ月前のあの戦いを、レオは鮮明に覚えている。
メビウス伯爵。創製されし13長老の一人。クラウスが人生を懸けて追い続けてきた宿敵。その最終決戦の最中、レオの左目は限界を超えて神々の義眼を解放した。伯爵の術式の核を見抜き、クラウスに勝利をもたらした。だが、その代償はあまりにも重かった。義眼が暴走し、レオの視神経を通じて、遠く離れた妹の両目を焼いたのだ。
ミシェーラは何も言わなかった。
「お兄ちゃん、大丈夫だよ」
電話越しの声は、むしろ明るかった。それが余計に、レオの心を引き裂いた。彼女は自分の視力を犠牲にして、兄に義眼を与えた。そして今度は、兄の義眼が彼女の視力を奪った。理不尽な連鎖。彼女は二度、兄のために目を失ったのだ。
レオは封筒を握りしめた。紙がくしゃりと音を立てる。
給湯室の小さな窓から、ヘルサレムズ・ロットの街並みが見えた。霧の向こうに、無数のビルの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。大崩落から十年。かつてニューヨークと呼ばれたこの街は、今や異界と人界が縫い合わされた、地球上で最も危険な場所になっていた。人口約80万。街を覆う霧は一年中晴れることがなく、異形の存在が日常に紛れ込んでいる。
レオが所属する秘密結社ライブラは、この街の均衡を守る組織だ。構成員は約200名。異界の脅威に対抗するため、超常の力を持つ者たちが集まっている。クラウス・V・ラインヘルツが創設し、表向きは「特殊警備会社」として登記されているが、実態は異形討伐とゲート監視を担う戦闘集団だった。
レオは自分の左目にそっと触れた。
神々の義眼。異界の神性存在の眼球を移植することで得られる、超常の視覚。真実を見通す力。だが、その力には必ず代償が伴う。適合率はわずか15%。不適合者は精神崩壊を起こす。適合者であっても、「視力の漸進的喪失」か「大切な者の視力を奪う」という呪いから逃れられない。
レオは後者を選んだ。いや、選ばされた。
「……ごめん、ミシェーラ」
声に出して呟いた。誰もいない給湯室に、その言葉は霧のように溶けていった。
彼は封筒をコートの内ポケットにしまい、給湯室を出た。廊下は薄暗く、壁の配管がかすかに震えている。ライブラ本部は旧市庁舎ビルを改装した建物で、地上12階、地下3階。レオの自室は8階の居住区にあった。給金の大半を妹への仕送りに充てているため、彼の生活は常に困窮している。夕食はたいてい、本部の食堂で一番安いスープとパンだけ。それでも、ミシェーラに送る金だけは削れなかった。
自分の部屋に戻る途中、談話室の前を通りかかった。中から声が聞こえる。
「おい、てめえ、また俺のタバコ勝手に使っただろ」
聞き覚えのある声。ザップ・レンフロだ。
レオがドアを開けると、銀髪の青年がソファに寝転がっていた。182cmの長身を無理やり横たえ、ツンツンした髪は今日も寝癖で跳ねている。鋭い青い瞳が、レオを一瞥した。口元には当然のようにタバコがくわえられていた。
「よう、レオ。仕送りか?」
「うん。今月はちょっと多めに送れるんだ」
レオは笑って答えた。ザップは24歳。斗流血法・カグツチの使い手で、ライブラの中でも屈指の戦闘力を持つ男だ。レオを人違いでライブラに連れてきた張本人だが、それ以来なぜか面倒を見てくれている。口は悪いし、金と女にだらしないし、人間のクズと評されることもしばしばだが、レオにとっては腐れ縁の友人だった。
「ふん、相変わらず貧乏くせえ生活してんな。たまには自分のメシ代くらい残せよ」
「ミシェーラの治療費がかかるから。それに、俺は別に……」
「別にじゃねえよ。お前、この前も食堂でスープだけで済ませてただろ。倒れたら世話ねえのはこっちなんだぞ」
ザップは乱暴に灰皿へタバコを押し付けた。レオは苦笑いする。この男の優しさは、いつも怒声の形をしている。
談話室の奥から、別の声がした。
「うるさいわね。廊下まで聞こえてるわよ」
黒髪のボブカットを揺らしながら、チェイン・皇が姿を現した。切れ長の黒い瞳が、ザップを冷たく見下ろす。165cmの小柄な体を黒いスーツで包み、その手には書類の束があった。彼女はライブラの情報収集と内部調査を担うエキスパートであり、同時に人狼局特殊諜報課の構成員でもある。正体は「不可視の人狼」。存在を希釈することで、誰にも気づかれずに動くことができる。
「あんたの声は汚染物質よ。空気が濁るわ」
「んだと、この女……!てめえこそ、その腐った性格なんとかしろよ!」
「あら、事実を言っただけよ。それとも、自分の声が公害だって自覚なかったの?可哀想に」
二人の間に火花が散る。レオはいつものことだと思いながらも、今日はなんとなく、そのやりとりを微笑ましく感じていた。
「レオくん、その封筒、ミシェーラちゃんへの仕送り?」
チェインがレオに顔を向ける。声のトーンが、ザップに向けるものとは明らかに違った。彼女はレオやツェッドには、どことなく優しい。ザップにだけ容赦がないのは、まあ、相性の問題だろう。
「うん。今月は多めに送れるんだ。よかった」
「そう。……あんた、またスープだけで済ませたんでしょ。食堂のおばさんが心配してたわよ」
チェインの切れ長の瞳が、わずかに細められた。彼女はレオの生活状況を、本人以上に気にかけている節がある。口は悪いが、困っている人を放っておけない性分なのだ。
「あはは……バレてたか」
「当たり前でしょ。あんたの食生活、見てれば分かるわ。少しは自分のことも考えなさいよ」
「でも、ミシェーラの方が……」
「ミシェーラちゃんのためにも、あんたが倒れたら意味ないでしょ」
チェインの言葉に、レオは返す言葉がなかった。正論だった。
その時、談話室のドアが静かに開き、ひんやりとした空気が流れ込んできた。
「あの……先輩方、お疲れ様です」
ツェッド・オブライエンが、おずおずと入ってきた。13歳の半魚人。つるりとした頭部に大きな黒い瞳、無駄なく筋肉のついた細身の体。肺ではなく鰓呼吸のため、特注品のエアギルスを身に着けている。斗流血法・シナトベの正統後継者であり、ザップの弟弟子であり、レオの後輩だった。
「おう、ツェッド。どうした、そんなカリカリした顔して」
「カリカリしてません。……あの、今夜の当直の件で確認が」
ツェッドは真面目な顔で書類を差し出した。ザップが適当に受け取る。
「あー、これか。別に誰でもいいだろ、当直なんて」
「そういうわけにはいきません。先輩、いつもサボるじゃないですか」
「うるせえな、細かいことは気にすんな」
ツェッドは困ったように眉を下げた。彼は真面目で素直な性格で、先輩たちを尊重している。ザップからは多種多様な蔑称で辛く当たられているが、めげずに付いていく根性がある。レオはそんな後輩の姿に、自分がザップに連れてこられた頃のことを重ねていた。
談話室の空気が、ふと変わった。
壁に設置された通信機が、けたたましい音を立てて鳴り響いた。
「本部、緊急通報!」
スピーカーから、通信担当の声が飛び出す。レオたちの表情が一瞬で引き締まった。
「郊外の廃教会、聖アグネス礼拝堂で、血界の眷属の残党が儀式を行っている模様。詳細は不明。至急、出動要請を」
ザップがソファから跳ね起きた。
「来やがったか」
チェインはすでに書類を机に置き、通信機に手を伸ばしている。
「こちらチェイン。先行偵察に入るわ。詳細を送って」
ツェッドは緊張した面持ちで、自分のエアギルスを確認した。
「僕も……出動します」
その声は、わずかに震えていた。
レオも立ち上がる。だが、その瞬間、左目に鋭い痛みが走った。
「……っ」
視界の端が、じわりと滲む。義眼が疼いている。ここ数日、時折こうした痛みが起きるようになっていた。レオは無意識に目を擦る。指先に、わずかな熱を感じた。
「レオ、大丈夫か?」
ザップが振り返った。レオは慌てて笑顔を作る。
「大丈夫。ちょっと目がかすんだだけ」
「無理すんなよ。お前、最近そういうの多いだろ」
ザップの青い瞳が、レオをまっすぐ見つめていた。この男は、普段は粗暴なくせに、こういう時だけ妙に鋭い。レオは誤魔化すように首を振った。
「本当に大丈夫だって。それより、早く行かないと」
四人は本部の作戦室へ向かった。
作戦室には、すでにクラウス・V・ラインヘルツの巨体があった。
赤髪の巨漢。鋭い三白眼と眼鏡、口を閉じても目立つ下顎の犬歯。28歳にしてライブラを率いる男は、白のワイシャツとネクタイ、ウエストコートという出で立ちで、壁一面のモニターを見つめていた。その背中は、まるで壁のようだ。
「諸君、状況を説明する」
クラウスの声は、重く、静かだった。
「聖アグネス礼拝堂は、中心部から北西に約12キロ。大崩落以前に建てられた教会で、現在は半壊状態にある。地下には大崩落以前の封印室が存在する。今回の通報は、近隣の巡回中の構成員からもたらされた。血界の眷属の残党が、そこで何らかの儀式を行っている可能性が高い」
クラウスがモニターを操作すると、廃教会の外観写真が表示された。霧に包まれた石造建築。尖塔は折れ、壁には大きな亀裂が走っている。
「出動部隊を編成する。ザップ、チェイン、ツェッド。以上三名で現場へ急行せよ。スティーブンには別件で動いてもらう。K・Kは現在、第七裂け目の監視任務中だ」
クラウスの目が、レオに向けられた。
「レオナルド君、君は本部で待機だ」
レオは一瞬、言葉を失った。
「え……でも、血界の眷属が相手なら、俺の義眼が」
「君の義眼は確かに切り札だ。だが、今回は状況が不明瞭すぎる。非戦闘員の君を、無闇に危険へ晒すわけにはいかない」
クラウスの声は、穏やかだが、有無を言わさぬものがあった。
「へっ、足手まといは引っ込んでな。今回は俺たちだけで十分だぜ」
ザップがニヤリと笑う。だが、その目は笑っていなかった。レオを危険から遠ざけようとする、彼なりの配慮だった。
「あんたは本部で通信を聞いてなさい。何かあれば連絡するわ」
チェインはそう言うと、その場で存在を希釈し始めた。彼女の輪郭が薄れ、やがて完全に消える。不可視の人狼。彼女は誰にも見えないまま、作戦室を出ていった。
「レオ先輩……僕、行ってきます」
ツェッドはエアギルスを装着し直し、小さく頭を下げた。その手は、わずかに震えていた。
「気をつけてな、ツェッド」
「はい!」
三人が作戦室を出ていく。レオはその後ろ姿を見送りながら、左目を押さえた。
痛みが、さっきよりも強くなっている。
そして、それは明らかに、ある方向を指していた。
北西。廃教会の方角。
義眼が、勝手に熱を帯びていく。まるで、あの場所に何かがあると告げるように。
「……何だ、これ」
レオの視界に、かすかな光の筋が走った。義眼が捉えた何かが、廃教会の方角から伸びている。それは赤く、脈動し、レオを呼んでいた。
「レオナルド君、どうした?」
クラウスが振り返る。レオは慌てて姿勢を正した。
「いえ……なんでもありません」
だが、心臓は激しく脈打っていた。
(行かなきゃ)
根拠はなかった。だが、義眼がこれほど強く反応するのは、何か重大なことが起きている証拠だった。レオはクラウスに背を向けると、廊下へ飛び出した。
「レオナルド君!待ちなさい!」
クラウスの声が追いかけてきたが、レオの足は止まらなかった。
本部の裏口から外へ出る。霧が、肌にまとわりつく。
ヘルサレムズ・ロットの夜は、いつも霧に包まれている。街灯の光が、ぼんやりと滲んで見えた。遠くで、異形のものの鳴き声が聞こえる。空気は冷たく、鉄と潮の匂いが混ざっていた。
レオは走り出した。
北西へ。廃教会へ。
「おい、てめえ!待機命令を無視すんじゃねえ!」
後ろから、怒鳴り声がした。ザップだった。彼は本部の入り口から、レオを追いかけてきていた。
「ザップ、でも、義眼が——」
「うるせえ!お前を連れてったら、クラウスの旦那に何て言われると思ってんだ!」
ザップはレオの腕を掴んだ。だが、その手に力は入っていない。
「……行くのか、本当に」
「うん。義眼が、あっちに何かあるって言ってるんだ。無視できない」
ザップはしばらくレオの顔を見つめていた。それから、深いため息をついた。
「ったく……お前ってやつは、いつもそうだよな。分かった、来い。ただし、死ぬなよ」
「ありがとう、ザップ」
「礼なんか言うな、気持ち悪い」
二人は霧の中を走った。
街の中心部から離れるにつれ、霧は濃くなっていく。建物の数は減り、道は荒れていた。大崩落の爪痕が、あちこちに残っている。崩れたビル、ひび割れた道路、放置された車両。
「おい、チェイン。聞こえてるか?」
ザップが無線機に向かって呼びかけた。
「聞こえてるわ。……レオくん、あんた、やっぱり来たのね」
チェインの声が、無線機から聞こえた。呆れているようで、どこか心配そうでもある。
「うん。義眼が反応してるんだ。無視できなかった」
「……分かったわ。でも、絶対に無茶はしないで。あんたが死んだら、ミシェーラちゃんが悲しむ」
チェインの言葉に、レオの胸がちくりと痛んだ。
「分かってる。ありがとう」
「礼はいいわ。それより、気をつけて。前方500メートルに、複数の気配がある」
レオは義眼に集中した。視界が黄金色に輝き、霧の向こうの気配が浮かび上がる。
「ザップ、前方に五体。霧狼だ」
「上等だ。俺がやる」
ザップが前に出る。その指先から、血液が滲み出し、刃の形を成していく。斗流血法・カグツチ。炎属性の血液を武器に変える、ザップの真骨頂。
霧の中から、巨大な影が飛び出してきた。体長2メートルを超える、狼型の異形。霧狼。その瞳は赤く、口からは酸性の唾液が滴っていた。
「遅えんだよ!」
ザップの血刃が、霧狼の首を一閃した。斬られた狼は、断末魔の叫びもなく霧に溶けていく。だが、残りの四体が同時に飛びかかってきた。
「レオ!位置は!」
「左から二体、正面から一体、右後方から一体!」
義眼が、霧狼の動きを完全に捉えていた。彼らの筋肉の動き、視線、重心の移動。すべてが見える。
「了解!」
ザップはレオの指示に従い、血刃を振るった。左の二体を同時に斬り裂き、正面の一体を蹴り飛ばす。右後方の一体がレオに迫る。
「レオ先輩!」
後方から、ツェッドの声がした。彼は遅れながらも追いついてきていた。
「シナトベ!」
ツェッドの血液が、真空の刃となって霧狼を切り裂いた。血しぶきが霧に溶ける。
「遅えぞ、半魚人!」
「すみません!でも、間に合いました!」
「まあな。上出来だ」
ザップの口元が、わずかに緩んだ。ツェッドは照れたように頭をかく。
「急ぐわよ。儀式が始まってるかもしれない」
チェインの声が、無線機から鋭く響いた。
三人は再び走り出した。
聖アグネス礼拝堂は、霧の奥にそびえていた。
半壊した尖塔が、まるで折れた指のように空を指している。壁の亀裂からは、赤い光が漏れていた。空気が、異様に重い。血と、腐敗と、甘い香りが混ざり合った匂いが漂っている。
「……中にいるわ。数は五、六体。全員、血界の眷属の下級個体よ」
チェインが希釈状態のまま、レオの耳元で囁いた。レオは心臓が跳ねるのを感じた。彼女が近くにいると分かっていても、声が突然聞こえると驚いてしまう。
「ごめん、驚かせた?」
「だ、大丈夫」
「……入るわよ。ザップ、ツェッド、準備は?」
「いつでも」
「はい」
四人は礼拝堂の正面から突入した。
重い木製の扉を、ザップが蹴り破る。
中は、異様な光景だった。
祭壇の周囲に、無数の蝋燭が並べられている。その炎はすべて赤く、ゆらゆらと揺れていた。壁には血で描かれた術式の紋様がびっしりと刻まれ、天井からは無数の血蝿が吊り下がっている。
そして、祭壇の上に、一人の少女が横たわっていた。
銀色がかった白い長髪。先端が微かに赤く染まっている。血色の赤い瞳は、虚ろに天井を見つめていた。瞳孔は縦に裂け、血界の眷属の特徴を備えている。まだ幼さの残る顔立ち。身長は152センチほどだろうか。
彼女の身体には、異界の術式がびっしりと刻まれていた。
腕、脚、腹、首。露出した肌という肌に、赤黒い紋様が走っている。それは生きているかのように、脈動していた。
「リリィ……」
チェインの声が、震えた。
「知ってるのか?」
「ええ。アリギュラの娘よ。元ライブラ構成員の」
アリギュラ。その名を聞いて、レオの胸がざわついた。ライブラの元構成員で、数年前に離反した男。血界術式の研究者で、血界人との混血である娘がいたという。
「彼女、生きてるの?」
「分からない。でも、術式がまだ動いてる。儀式は続行中よ」
レオは祭壇に近づいた。
その瞬間、左目が、焼けるように熱くなった。
「……っ!?」
義眼が、リリィの身体に刻まれた術式に反応している。彼女の全身の紋様が、レオの義眼の光に呼応するように、赤く発光し始めた。
「な、何が起きてる!?」
ザップが叫ぶ。
リリィの身体が、ビクンと跳ねた。
「あ……ああ……」
彼女の唇から、かすかな声が漏れた。
「リリィ!しっかりして!」
レオは彼女の手を握った。冷たい。氷のように冷たい手だった。
リリィの赤い瞳が、ゆっくりとレオの顔に向けられる。
「……レオ……ナルド……」
レオの心臓が、大きく跳ねた。
「なんで……俺の名前を……」
リリィの目から、涙がこぼれた。
「助けて……レオナルド……」
その言葉を最後に、リリィの意識は闇に落ちた。
術式の光が、急速に弱まっていく。儀式が中断されたのだ。
「おい、残党どもは!?」
ザップが周囲を見回した。血界の眷属の下級個体たちは、レオの義眼が光を放った瞬間、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた。
「ちっ、逃げやがったか!」
「追うわ。あなたたちはリリィを!」
チェインは希釈状態のまま、残党の後を追った。
レオはリリィの手を握ったまま、動けなかった。
彼女の身体に刻まれた術式は、まだ微かに脈動している。それは、レオの義眼と共鳴していた。
「……俺に、何かを伝えようとしてるのか」
レオはリリィの顔を見つめた。昏睡状態に陥った彼女の表情は、驚くほど穏やかだった。
しばらくして、クラウスが到着した。
彼は祭壇のリリィを見て、表情を曇らせた。
「これは……血界の眷属の器を作る儀式だ」
クラウスの声は、重く、苦々しいものだった。
「器?」
「ああ。彼女の身体に刻まれた術式は、血界の眷属の上位存在を宿すためのものだ。おそらくは、メビウス伯爵の残滓を呼び寄せ、再構成させるための器として利用されていた」
メビウス伯爵。三ヶ月前にクラウスが倒した、創製されし13長老の一人。その残滓が、まだ霧の深部に残っているという。
「でも、なんでリリィが……。それに、この儀式の詳細を知ってるのは、ライブラの内部の人間だけのはず……」
レオの言葉に、その場の空気が凍りついた。
「……そうだ。この儀式の手順は、我々が厳重に管理していた情報だ。外部に漏れるはずがない」
クラウスの三白眼が、鋭く光った。
「内部に、情報漏洩者がいる可能性がある」
重い沈黙が、礼拝堂を包んだ。
リリィはライブラ本部へ搬送された。
医務室のベッドに横たわる彼女の手を、レオは握っていた。
「絶対に、守るから」
声に出して誓った。
「……内部調査を始めるわ」
後ろから、チェインの声がした。彼女は医務室の入り口に立っていた。
「チェイン……」
「情報が漏れてるなら、必ず足跡がある。私が追うわ。絶対に、見つけ出す」
チェインの切れ長の瞳に、冷たい決意が宿っていた。
「裏切り者がいるなら、俺がぶっ殺す」
ザップが、壁に背を預けながら言った。その声は低く、静かだった。普段の怒声とは違う、本気の殺意が込められている。
「……僕、仲間が裏切るなんて、考えたこともなかった」
ツェッドが、小さな声で呟いた。彼の大きな黒い瞳は、不安に揺れていた。
「ツェッド、まだ裏切り者がいるって決まったわけじゃない。ただ、可能性があるってだけで」
「でも……もし本当にいたら、僕は……誰を信じればいいんですか」
ツェッドの問いに、レオは答えられなかった。
信じたい。仲間を信じたい。でも、信じることが怖い。
その夜、スティーブン・A・スターフェイズが医務室を訪れた。
目元に傷のある、スーツを着込んだ色男。ライブラの副官的存在で、クラウスの右腕。32歳。その頭脳は切れ者で、情報の選別と任務の差配は彼の仕事だった。
「状況は把握した。リリィの容態は?」
スティーブンの声は、冷静そのものだった。
「昏睡状態が続いてる。意識が戻るかは、まだ……」
「そうか。……レオナルド君、君の義眼が彼女の術式に反応したそうだな」
「はい。義眼が勝手に、彼女の方を指して……それで、術式が光って」
スティーブンは顎に手を当て、何かを考え込んだ。
「彼女の術式は、君の義眼と共鳴するように設計されていた可能性がある。つまり、リリィは君と何らかの関係がある、ということだ」
「俺と……?」
「心当たりは?」
レオは首を振った。
「……ないです。彼女のことも、アリギュラさんのことも、詳しくは知らなくて」
「そうか」
スティーブンは短く答えた。その目は、何か別のものを見ているようだった。彼はレオに背を向けると、医務室を出ていこうとした。
「スティーブンさん」
レオは呼び止めた。
「……スティーブンさんは、裏切り者がいると思いますか?」
スティーブンの足が止まった。
「さあな。だが、情報が漏れている以上、誰かを疑わざるを得ない。私も、君も、クラウスも、例外ではない」
その声は、どこか遠くから聞こえるようだった。
「……私は、この組織を守るために、何だってする」
スティーブンはそう言い残して、去っていった。
レオは、その背中を見送りながら、言い知れぬ不安を感じていた。
スティーブンの表情の裏に、何かが隠されている。
それは確信だった。
その夜遅く、レオは自室の洗面台の前に立っていた。
鏡の中の自分を見る。
黒髪のくせっ毛ショートヘア。糸目で、常に眠たそうな表情。左耳の小さなピアス。痩せ型で線の細い体。白いシャツに黒のスラックス。
そして、左目。
神々の義眼。
レオは、自分の視界に違和感を覚えた。
鏡の中の自分の顔が、わずかに霞んで見える。
目を擦った。
もう一度、鏡を見る。
やはり、輪郭がぼやけていた。
「……なんだ、これ」
レオは洗面台に手をついた。
視界の端が、白く滲んでいる。それは、義眼が疼く時とは別の感覚だった。
(まさか……)
義眼の代償。
それは、ミシェーラの視力だけではなかった。
レオ自身の視力も、確実に蝕まれていた。
「……誰にも、言えない」
レオは鏡の中の自分に、そう言い聞かせた。
もし仲間に知られたら、戦いから外される。
リリィを守ると誓ったのに。
妹の犠牲を、無駄にしたくないのに。
「大丈夫だ。まだ、見える」
レオは電気を消した。
暗闇の中、彼の左目だけが、かすかに黄金色に光っていた。
その光は、まるで、遠くの何かと共鳴するように、ゆっくりと脈打っていた。
ヘルサレムズ・ロットの夜は、深い霧に包まれていた。
街のどこかで、異形のものが鳴いている。
レオナルド・ウォッチの戦いは、まだ始まったばかりだった。Noveliaとは?
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