血界戦線 残響のヘルサレムズ・ロット
義眼が疼くたび、遠くの妹の視界がひとつずつ消えていく——。
三ヶ月前の決戦で、レオナルド・ウォッチの左目は限界を超えた。神々の義眼が暴走し、離れて暮らす妹ミシェーラの両眼を焼いたのだ。兄のために目を差し出した妹は、兄の義眼によって、二度目の光を奪われた。「お兄ちゃん、大丈夫だよ」——電話越しの明るい声が、余計に胸を裂く。
そんな折、廃教会で血界の眷属の残党が儀式を行っているとの通報が入る。出動を命じられたザップ、チェイン、ツェッドを見送ったレオだったが、義眼が北西の空へ向かって激しく脈動し始める。待機命令を破り、霧の街を駆け出すレオ。追ってきたザップとともに辿り着いた祭壇で、彼が見たものは——全身に異界の術式を刻まれ、虚ろな赤い瞳で「助けて」と呟く、幼い少女リリィの姿だった。
儀式の手順は、ライブラ内部しか知り得ない機密。浮かび上がる裏切りの影。仲間を信じたい。でも、信じることが怖い。霧に沈むヘルサレムズ・ロットで、少年の決意と組織の亀裂が、静かに交差する。
これは、視力を奪われた者たちの物語。失った光の数だけ、守りたいものがある。
血界戦線 残響のヘルサレムズ・ロット - 神々の義眼 ―― 見えぬ真実を掴む鍵
瓦礫の下は、冷たかった。
いや、冷たいのは石のせいではない。自分の身体の芯から、熱が失われていくような感覚だった。
レオナルド・ウォッチは、崩れ落ちた聖アグネス礼拝堂の地下封印室で、身動きが取れないまま、ただ呼吸を繰り返していた。吸い込む空気は、粉塵と血の匂いで満ちている。左足は瓦礫に挟まれ、感覚がなかった。
だが、それ以上に恐ろしいのは、視界だった。
世界の大半が、白い霞に覆われている。ぼやけている、というレベルではない。視界の右半分は、もう何も見えなかった。左目に宿る神々の義眼だけが、かろうじて「何か」を映している。
それは、赤い光だった。
封印室の奥、崩れかけた壁の向こうで、リリィの身体に刻まれた血界術式が脈打っている。彼女の白い肌の上を、無数の赤い線が血管のように走り、その光が、白い霞の向こうで、まるで心臓のように鼓動していた。
「……リリィ」
声は、喉から搾り出すように漏れた。返事はない。代わりに、低く湿った笑い声が、瓦礫の隙間を縫って聞こえてくる。
「無駄だ、人間。この器は、もう私のものだ」
リリィの口から、彼女ではない声が響いた。老人の、底冷えするような声。メビウス伯爵の残滓が、彼女の身体を内側から侵食している。
レオは、瓦礫の下で指を動かした。石の破片が、指先を切り裂く。血が滲む。だが、その痛みすら、どこか遠くに感じられた。
(見えない。何も見えない)
義眼が、焼けるように熱い。昨夜、封印室で義眼を全開にした代償が、今になって容赦なく押し寄せてくる。視神経を、針で刺されているような痛みが、左目の奥で脈打つ。
鼻の奥が、つんと痛んだ。生温かいものが、唇を伝う。鼻血だ。
だが、レオは目を閉じなかった。
義眼を、開き続けた。
(あの光だけは、見える)
白い霞の向こうで、リリィの術式が放つ赤い光だけが、はっきりと視認できる。義眼が、その光に反応している。術式の構造が、頭の中に直接流れ込んでくるような感覚。
痛い。頭が割れそうだ。
だが、見える。
術式の線が、一本一本、解きほぐされていくように、レオには見えた。赤い線は、リリィの身体を覆う網目だった。その網目の中心、彼女の胸の奥に、複雑な紋様が浮かんでいる。
それは、破壊のための術式ではなかった。
レオは、自分の見ているものが、何なのかを理解した。
「……違う」
声が、震えた。
「これは……封印の術式だ」
リリィの身体に刻まれた血界術式は、メビウス伯爵の残滓を呼び寄せるためのものではなかった。残滓を、リリィの中に封じ込め、浄化するためのものだった。
アリギュラは、娘を器にしたのではない。
娘を、救おうとしていたのだ。
血界の眷属の残党が、この術式を逆転させた。器を作るための術式に、書き換えた。そして、スティーブンもまた、逆転した術式に縋っていた。残滓を制御するために、リリィを犠牲にしようとした。
(スティーブンさんも、知らなかったんだ)
レオの胸の奥で、怒りと悲しみが、同時に沸き上がった。
怒りは、血界の眷属の残党に向けて。リリィの人生を、彼女の父の想いを、踏みにじった者たちに向けて。
悲しみは、スティーブンに向けて。仲間を守るために、自らを悪者にしようとした男に向けて。
そして、リリィに向けて。
生まれた時から、父に「器」としての宿命を背負わされ、それでもなお、レオを信じると言った少女に向けて。
拳を、握りしめた。
瓦礫の下で、指の骨が軋む。血が、石の隙間に染み込んでいく。
「……大丈夫だよ。僕が、何とかする」
口癖が、自然と出た。
だが、その声は、自分でも驚くほど力強かった。
封印室の空気が、震えた。
残滓の笑い声が、大きくなる。
「何とかする? この状況で? 貴様の目は、もう見えていないだろう」
黒い霧が、リリィの身体から溢れ出し、封印室を這い回る。霧は、瓦礫の隙間を縫って、レオの足元まで迫ってきた。
冷たい。
霧が触れた部分から、体温が奪われていく。
「大人しく、その石の下で死んでいるがいい。貴様の義眼は、私の復活の鍵となる。じっくりと、いただいてやる」
残滓の言葉に、レオは、ゆっくりと首を振った。
「……それは、できない」
瓦礫を、押し上げようとした。左足が、石の重みで潰れる。肉が裂け、骨が砕ける音が、自分の身体の中で響いた。
痛い。
だが、止まらない。
「この術式は、本来、君を封じるためのものだ。アリギュラさんは、リリィを守るために、これを刻んだ」
レオは、義眼で術式の構造を追いながら、言葉を続けた。
「そして、この術式を再起動させるには、僕の義眼が、君の核と直接対峙する必要がある」
残滓の笑い声が、ぴたりと止んだ。
「……何?」
「僕の義眼が、鍵になるんだ」
レオは、静かに告げた。
「視力の残り全てを、払うことになる。それでも、君を、リリィの中に封じる」
沈黙が、封印室を包んだ。
残滓の霧が、不気味に蠢く。
「……面白い。その代償を払う覚悟があるというのか。たかが、人間の小僧が」
レオは、答えなかった。
代わりに、瓦礫を掻き分けようと、腕を動かした。
その時だった。
「てめえ、レオ坊!!」
怒鳴り声が、封印室に響き渡った。
瓦礫の山の向こうから、銀色の髪が揺れる。ザップ・レンフロが、血まみれの指で瓦礫を掻き分けながら、こちらに向かって走ってくる。鋭い青い瞳が、怒りに燃えていた。
「一人で背負い込むんじゃねえ!! そんなこと、誰が許すってんだ!!」
ザップの指輪から、血が刃に変わる。斗流血法・カグツチ。血の刃が、レオの足を挟んでいた瓦礫を、一閃で切り裂いた。
石が砕ける。
レオの身体が、瓦礫の下から解放される。
「立てるか、レオ坊!」
ザップが、レオの腕を掴んで引き起こした。
「……ザップ、君」
レオの視界は、白い霞でほとんど見えない。だが、ザップの手の温もりだけは、はっきりと感じることができた。
「私も、手伝うわよ」
声が、すぐ近くで聞こえた。
チェイン・皇が、希釈を解いて実体化した。黒いボブカットが、粉塵で汚れている。切れ長の黒い瞳が、レオの顔をまっすぐに見つめていた。
「あんた一人に、格好つけさせるわけにはいかないわ」
チェインは、そう言って、レオの肩を支えた。
「ぼ、僕も……行きます!」
震える声が、封印室の隅から聞こえた。
ツェッド・オブライエンが、瓦礫の影から立ち上がった。半魚人の少年の足は、恐怖で震えている。首の横の鰓が、激しくひくついていた。エアギルスから送られる空気の音が、乱れている。
だが、彼は、自分の足で立っていた。
「……僕は、まだ、何もできていません。でも、逃げません」
ツェッドの声は、震えていたが、確かな意志が込められていた。
レオは、仲間の声を聞いた。
ザップの怒鳴り声。チェインの冷静な声。ツェッドの震える声。
(一人じゃない)
生まれて初めて、そう実感した。
妹の視力を奪った罪悪感。義眼の代償として、自分自身の視力も失われていく恐怖。それらを、一人で背負い込もうとしていた。
だが、違った。
仲間がいる。
「……ありがとう」
レオは、小さく呟いた。
その時、封印室の天井から、鋭い音が響いた。
狙撃音。
封印室の崩落した天井の隙間から、電撃を纏った弾丸が、無数の血蝿の群れを撃ち抜いていく。
血弾格闘技。
K・Kだ。
「道は開けたわ。さっさと、その化け物をどうにかしなさい」
K・Kの声が、天井の向こうから聞こえた。
血蝿の群れが、電撃に焼かれて落ちていく。封印室の空気が、焦げた匂いで満ちる。
「若旦那、お供いたします」
聞き慣れた、穏やかな声が、封印室の入口から響いた。
全身を包帯で覆った老執事、ギルベルト・フランケ・アルトシュタインが、静かに立っていた。浅黒い肌に、白い口髭。普段と変わらぬ、落ち着いた佇まいだった。
「クラウス様が、もうすぐ到着されます」
ギルベルトの言葉が終わるか終わらないかのうちに、封印室の空気が、重くなった。
崩落した天井の穴から、一人の巨漢が降り立った。
赤い髪。鋭い三白眼。眼鏡の奥で、静かな怒りが燃えている。
クラウス・V・ラインヘルツ。
ライブラの首領が、封印室に立っていた。
「……状況は、把握している」
クラウスは、低く、重い声で言った。
彼の視線が、封印室の隅で立ち尽くしているスティーブンに向けられる。
スティーブン・A・スターフェイズは、スーツを粉塵で汚し、目元の傷を歪めながら、クラウスを見つめ返していた。
クラウスは、スティーブンを一瞥しただけだった。
「後で、何とでもなる」
クラウスの声は、静かだった。
「今は、あれを止めろ」
スティーブンは、何も言わなかった。
ただ、苦渋の表情で、小さく頷いた。
彼の手が、氷の結晶を纏う。エスメラルダ式血凍道。スティーブンの血が、凍気を帯びて、封印室の空気を冷やしていく。
「……時間稼ぎは、私がする」
スティーブンの声は、掠れていた。
「レオ、君が、鍵だ。頼む」
レオは、頷いた。
「……はい」
レオは、リリィの方へ、一歩踏み出した。
足が、もつれる。視界が、白い霞で揺れる。
だが、チェインが肩を支え、ザップが背中を押した。
「行け、レオ坊! 俺たちが、てめえの目になる!」
ザップの叫びが、背中を押す。
レオは、リリィの手を握った。
冷たい指。だが、確かな温もりがあった。
「……レオナルド」
リリィの唇が、かすかに動いた。
残滓に侵食されながらも、彼女の意識は、まだ消えていない。
「大丈夫だよ。僕が、何とかする」
レオは、リリィの手を、ぎゅっと握り返した。
そして、義眼を、全開にした。
激痛が走った。
頭の中を、灼熱の光が駆け抜ける。視界が、真っ白に吹き飛ぶ。鼻血が、止めどなく溢れ出る。
痛い。痛い。痛い。
だが、レオは、義眼を閉じなかった。
(見える。見えるんだ)
白い霞の向こうで、リリィの術式が、赤く脈打っている。その中心、彼女の胸の奥に、黒い霧の塊があった。
残響の核。
メビウス伯爵の残滓が、そこに潜んでいる。
レオは、義眼で、その核を視認しようとした。
視界が、再び白く吹き飛ぶ。
「……っ」
レオの身体が、倒れかけた。
「レオ!」
チェインが、レオの肩を支えた。
「ふざけんな、まだ終わってねえぞ!」
ザップが、叫んだ。
彼の血が、炎を纏って刃に変わる。斗流の血が、滾っている。
「てめえの相手は、こっちだ!」
ザップが、残響の霧に向かって跳んだ。
カグツチの刃が、黒い霧を切り裂く。残響の意識が、ザップに向けられた。
「……僕も!」
ツェッドが、震える手で血を刃に変えた。斗流血法・シナトベ。真空の刃が、空間を削り、レオの視界を覆っていた霧を、一瞬で切り開いた。
「レオさん、今です!」
ツェッドの叫び。
レオの視界が、一瞬、クリアになった。
残響の核が、はっきりと見えた。
黒い霧の中心で、脈打つ、漆黒の心臓。
「……見えた」
レオは、呟いた。
義眼から、黄金色の光が溢れ出した。
光は、残響の霧を切り裂き、核の輪郭を浮かび上がらせる。
「封印術式、再起動」
レオの義眼と、リリィの術式が、共鳴した。
赤い光と、黄金色の光が、絡み合う。
残響の核が、悲鳴を上げた。
「ギャアアアアアアア!!」
黒い霧が、激しく暴れる。封印室の空気が、震え、石壁が砕ける。
だが、もう遅かった。
封印術式が、本来の形で起動した。
リリィの身体に刻まれた赤い紋様が、光を放ちながら、残響の核を、彼女の中に封じ込めていく。
「この、小僧が……! この、小僧がぁぁぁぁ!!」
残滓の断末魔が、封印室に響き渡る。
黒い霧が、リリィの身体の中に、吸い込まれていく。
そして、静寂が訪れた。
封印室から、異形の気配が消えた。
残響は、リリィの中に、封じ込められた。
レオの視界は、もう、何も見えなかった。
白い霞だけが、世界を覆っている。
だが、レオは、感じていた。
リリィの手の温もりを。
術式と義眼が、共鳴する感覚を。
彼女との絆が、確かに繋がったことを。
「……レオナルド」
リリィの声が、聞こえた。
「……ありがとう。あなたは、私の、光です」
リリィの声は、涙で震えていた。
レオは、微笑んだ。
「……君が、生きていてくれて、よかった」
レオの声は、穏やかだった。
だが、その目からは、涙が溢れていた。
彼は、泣きながら、笑っていた。
視力は、もう、戻らない。
神々の義眼の代償は、妹の視力だけではなかった。
レオ自身の視力も、今、完全に失われた。
だが、彼は、後悔していなかった。
リリィを救うことができた。
仲間と一緒に。
それが、何よりも大切なことだった。
封印室の外では、K・Kが、スナイパーライフルを下ろしていた。
「……終わったわね」
彼女の額には、汗が浮かんでいた。
「でも、あの残滓、完全に消えたわけじゃないんでしょ」
K・Kの言葉に、ギルベルトが、静かに頷いた。
「ええ。リリィ様の中に、封じられただけです。いつか、また、目覚めるかもしれません」
「……そう。なら、まだ、気は抜けないわね」
K・Kは、ライフルを背負い直した。
封印室では、クラウスが、スティーブンを見下ろしていた。
「……スティーブン」
クラウスの声は、静かだった。
「君のしたことは、決して許されることではない」
スティーブンは、黙って、クラウスの言葉を聞いていた。
「だが、君がライブラを守ろうとしたことだけは、理解している」
クラウスは、スティーブンの肩に、手を置いた。
「後で、ゆっくりと話を聞かせてくれ」
スティーブンは、小さく頷いた。
「……ああ」
スティーブンの声は、掠れていた。
レオは、リリィの手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
視界は、白い霞に覆われたままだった。
だが、彼の耳には、仲間たちの声が、はっきりと聞こえていた。
ザップの荒い呼吸。チェインの静かな足音。ツェッドの安堵のため息。
(僕は、一人じゃない)
レオは、心の中で、そう呟いた。
失ったものは、大きい。
視力は、もう戻らない。
だが、得たものも、確かにあった。
仲間との絆。
リリィとの繋がり。
そして、自分自身の、覚悟。
レオは、白い霞の向こうに、光を感じた。
それは、目には見えない光だった。
だが、確かに、彼の心を照らしていた。
「……帰ろう」
レオは、リリィの手を握りながら、静かに言った。
「……はい」
リリィの声が、優しく響いた。
廃教会の外に出ると、夜の霧が、彼らを包み込んだ。
ヘルサレムズ・ロットの空は、今日も星が見えない。
だが、レオの心には、一筋の光が灯っていた。
それは、仲間の声。
それは、リリィの温もり。
それは、まだ見ぬ明日への、希望だった。
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