血界戦線 残響のヘルサレムズ・ロット
義眼が疼くたび、遠くの妹の視界がひとつずつ消えていく——。
三ヶ月前の決戦で、レオナルド・ウォッチの左目は限界を超えた。神々の義眼が暴走し、離れて暮らす妹ミシェーラの両眼を焼いたのだ。兄のために目を差し出した妹は、兄の義眼によって、二度目の光を奪われた。「お兄ちゃん、大丈夫だよ」——電話越しの明るい声が、余計に胸を裂く。
そんな折、廃教会で血界の眷属の残党が儀式を行っているとの通報が入る。出動を命じられたザップ、チェイン、ツェッドを見送ったレオだったが、義眼が北西の空へ向かって激しく脈動し始める。待機命令を破り、霧の街を駆け出すレオ。追ってきたザップとともに辿り着いた祭壇で、彼が見たものは——全身に異界の術式を刻まれ、虚ろな赤い瞳で「助けて」と呟く、幼い少女リリィの姿だった。
儀式の手順は、ライブラ内部しか知り得ない機密。浮かび上がる裏切りの影。仲間を信じたい。でも、信じることが怖い。霧に沈むヘルサレムズ・ロットで、少年の決意と組織の亀裂が、静かに交差する。
これは、視力を奪われた者たちの物語。失った光の数だけ、守りたいものがある。
血界戦線 残響のヘルサレムズ・ロット - 罪の証人 ―― 名を知る少女と、霞む視界
ライブラ本部、医務室。
旧市庁舎ビルを改装したこの建物の、五階の居住区の一角にある医務室は、常に消毒液と古い包帯の匂いが混ざり合っていた。蛍光灯の光が、白い壁を青白く照らしている。窓の外は、今日も深い霧だ。
レオナルド・ウォッチは、パイプ椅子に腰掛けたまま、ベッドの上の少女を見つめていた。
リリィ。銀色がかった白い長髪が、白いシーツの上に広がっている。その先端は、まるで血に浸したかのように、微かに赤く染まっていた。閉じられた瞼の下には、血色の赤い瞳が隠されている。血界の眷属と人間の混血、血界人。その証拠に、彼女の瞳孔は縦に裂けている。
昨夜、郊外の廃教会から救出された時、彼女の全身には異界のルーン文字がびっしりと刻まれていた。血界術式。血液を媒体とする、異形の力の体系。それが彼女の白い肌の上で、血管のように浮かび上がっていた。
今は、その術式は沈静化している。だが、完全に消えたわけではない。彼女の左手首には、古い傷跡があった。何度も刃物で切られたような、無数の細い線。
レオは、自分の左目にそっと触れた。
神々の義眼。異界の神性存在の眼球を移植した、超常の視覚。適合率はわずか十五パーセント。不適合者は精神崩壊を起こす。適合者であっても、代償を支払わなければならない。「視力の漸進的喪失」か、あるいは「大切な者の視力を奪う」か。
レオは、後者を選んだ。いや、選ばされた。
三ヶ月前のメビウス伯爵討伐戦。創製されし13長老の一人との最終決戦で、レオの義眼は限界を超えて解放された。その代償として、遠く離れた妹、ミシェーラの両目が焼かれたのだ。
彼女は、何も言わなかった。
「お兄ちゃん、大丈夫だよ」
電話越しの声は、むしろ明るかった。それが、レオの心を引き裂いた。
(僕は、何のために義眼を手に入れたんだ)
妹の視力を犠牲にして得た力で、今度は別の少女を救おうとしている。その矛盾に、レオは気づいていた。気づいていて、目を逸らしていた。
医務室の壁時計が、コチコチと音を立てる。
夜が明けて、どれくらい経っただろう。窓の外の霧は、朝になっても晴れない。ヘルサレムズ・ロットは、一年中霧に覆われた街だ。大崩落から十年。かつてニューヨークと呼ばれたこの都市は、異界と人界が縫い合わされた、地球上で最も危険な場所になっていた。
人口約八十万。街を覆う霧は一年中晴れることがなく、異形の存在が日常に紛れ込んでいる。ゲートと呼ばれる異界への裂け目からは、今日も血界の眷属が溢れ出している。
レオが所属する秘密結社ライブラは、この街の均衡を守る組織だ。構成員は約二百名。異界の脅威に対抗するため、超常の力を持つ者たちが集まっている。クラウス・V・ラインヘルツが創設し、表向きは「特殊警備会社」として登記されているが、実態は異形討伐とゲート監視を担う戦闘集団だった。
医務室の扉が、静かに開いた。
「……まだ眠ってるの?」
黒髪のボブカットを揺らしながら、チェイン・皇が入ってきた。切れ長の黒い瞳が、レオとベッドの上のリリィを交互に見る。二十一歳。人狼局特殊諜報課の構成員であり、ライブラのメンバーでもある。彼女の能力は「存在の希釈」。自分の存在を薄めることで、誰にも気づかれずに移動し、情報を集めることができる。
「ええ。まだ……意識は戻っていません」
レオは、小さく答えた。
チェインは、ベッドの傍らに立つと、リリィの顔を覗き込んだ。
「この子が、アリギュラの娘ね」
「はい。リリィ、という名前です」
「ふうん。……血界人なのね。瞳孔が縦に裂けてる」
チェインの声は、冷静だった。だが、その目は、リリィの左手首の傷跡に留まっている。
「……この子、自分の手首を切ったことがあるの?」
「え?」
レオは、リリィの左手首を見た。無数の細い傷跡。それは、自傷行為の痕のように見えた。
「……分かりません。でも、彼女は……ずっと、誰かに助けを求めていたのかもしれません」
レオの胸の奥が、じわりと痛んだ。
その時だった。
リリィの指が、微かに動いた。
「……っ」
小さな声が漏れた。レオとチェインは、同時に身を乗り出した。
リリィの瞼が、ゆっくりと開いていく。
血色の赤い瞳が、ぼんやりと天井を見つめた。それから、ゆっくりと、レオの顔に焦点を合わせた。
「……あ」
リリィの唇が、震えた。
「……あ、あ……」
彼女の目に、見る見るうちに涙が盛り上がっていく。
「……助けて」
かすれた声だった。
「助けて……レオナルド」
レオは、息を呑んだ。
初対面のはずだ。
昨夜、廃教会で初めて会った。名前を名乗った覚えもない。それなのに、この少女は、確かに「レオナルド」と呼んだ。
「……どうして、僕の名前を」
レオの声は、震えていた。
リリィは、答えなかった。いや、答えられなかった。彼女の体は、小刻みに震え始めていた。恐怖と混乱で、呼吸が乱れている。
「いや……いや……来ないで……」
リリィは、両手で顔を覆った。
「大丈夫。大丈夫だよ。ここは安全な場所だから」
レオは、リリィの手に触れないように、ベッドの端に座った。
「君は、ライブラ本部の医務室にいる。昨夜、廃教会から助け出されたんだ。もう、誰も君を傷つけない」
リリィの震えは、少しずつ収まっていった。
彼女は、指の隙間から、恐る恐るレオを見た。
「……ライブラ」
「そう。秘密結社ライブラ。この街の均衡を守る組織だよ。僕は、そこの構成員で、レオナルド・ウォッチって言うんだ」
「……レオナルド」
リリィは、その名前を、確かめるように呟いた。
「……私は……あなたのことを、知ってるの」
「え?」
「……知ってる。……知ってるの。……あなたの、目。……その、左目」
リリィの視線が、レオの左目に注がれる。
その瞬間、レオの義眼が、熱を持った。
視界の端が、赤く染まる。
(まただ……)
義眼が、リリィの身体に刻まれた血界術式に反応している。
「……チェインさん、少し、離れていてください」
レオは、チェインに言った。
「……何するつもり?」
「義眼で、彼女の記憶を覗きます。彼女が、なぜ僕の名前を知っているのか。それを見ます」
チェインは、少し躊躇ったが、頷いて後ろに下がった。
レオは、リリィの目をまっすぐに見つめた。
「リリィ。僕の目を、見て」
リリィは、こくりと頷いた。
レオは、義眼に意識を集中させた。
神々の義眼。真実を見通す力。
視界が、ぐにゃりと歪む。
医務室の白い壁が、溶けていく。
代わりに現れたのは、薄暗い石造りの部屋だった。廃教会の地下だろう。冷たい空気が、肌に張り付く。
(これは……リリィの記憶)
祭壇の上に、リリィが横たわっていた。彼女の全身に、血界術式のルーン文字が刻まれている。何人もの血界の眷属が、彼女を取り囲んで、呪文を唱えていた。
リリィの目は、虚ろだった。
だが、その視界の先に、何かが見えた。
(あれは……)
リリィの記憶の中に、別の映像が重なる。
柔らかな日差し。緑の草原。そして、一人の少女が立っていた。
黒髪の、くせっ毛の少女。
その顔は、レオが最もよく知っている顔だった。
「……ミシェーラ?」
レオの声が、震えた。
記憶の中の少女は、ゆっくりと振り返った。
そして、笑った。
「お兄ちゃん」
それは、間違いなく、レオの妹、ミシェーラの笑顔だった。
レオの胸が、締め付けられる。
(なぜ……なぜ、ミシェーラが、リリィの記憶の中に)
動揺した瞬間、義眼の制御が乱れた。
熱い。
左目が、燃えるように熱い。
「……っ!」
レオは、左目を押さえて、うずくまった。
「レオナルド!」
チェインが、駆け寄ってくる。
「……大丈夫……大丈夫です……」
レオは、荒い呼吸を繰り返しながら、何とか答えた。
視界が、白く霞む。
義眼が、制御不能になっている。
(また、ミシェーラの時と同じ……)
あの日、義眼が暴走して、ミシェーラの視力を奪った。同じことが、今、リリィに起きようとしている。
「やめて……お願い……」
レオは、必死に義眼を抑え込んだ。
視界の端で、赤い光が明滅する。
その時、冷たい手が、レオの右手に触れた。
「……大丈夫」
リリィの声だった。
「……大丈夫よ。……あなたは、悪くない」
リリィの手は、驚くほど冷たかった。血界人は、体温が低い。
その冷たさが、レオの義眼の熱を、少しずつ鎮めていった。
「……リリィ」
レオは、顔を上げた。
リリィは、泣いていた。
涙が、彼女の白い頬を伝い、シーツに落ちる。
「……私は……あなたたちの罪の証人」
リリィは、そう囁いた。
「……あなたたちが、何をしたのか。……何を失ったのか。……私は、それを、見てきたの」
レオは、言葉を失った。
リリィの手が、レオの手を、強く握り返した。
「……だから、お願い。……私を、見捨てないで」
その声は、あまりにも小さく、あまりにも切実だった。
医務室の外、廊下では、重い空気が漂っていた。
「裏切り者がいるなら、俺がぶっ殺す」
ザップ・レンフロが、壁に背を預けて、タバコを吹かしていた。銀髪のツンツンした髪は、今日も寝癖で跳ねている。鋭い青い瞳が、廊下の奥を睨んでいた。二十四歳。斗流血法・カグツチの使い手。血液を刃に変えて戦う、ライブラ屈指の戦闘員だ。
「情報が漏れてたってことは、この中に、血界の眷属と繋がってるクソ野郎がいるってことだろ。だったら、そいつを血祭りに上げるまでだ」
「あら、物騒ね。でも、あんたが一番、裏切り者っぽいわよ。金に汚いし、女にだらしないし」
チェインが、医務室から出てきて、冷たく言い放った。
「あぁ!? てめえ、俺が仲間を売るような男に見えんのか!?」
「見えるわよ。この前も、女に貢ぐために、給料前借りしてたじゃない」
「あれは……! くそ、てめえには関係ねえだろ!」
二人の言い争いを、ツェッド・オブライエンが、おろおろと見ていた。
十三歳。半魚人。首の横には鰓があり、陸上ではエアギルスから呼吸している。斗流血法・シナトベの使い手で、ザップの弟弟子だ。
「……あの、二人とも、喧嘩はやめてください」
ツェッドの声は、震えていた。
「……僕たちは、仲間じゃないですか。……仲間同士が、疑い合うなんて……そんなの、嫌です」
ザップは、ツェッドを一瞥した。
「……ツェッド。てめえは、まだガキだな」
「え……」
「仲間だからこそ、裏切られた時の痛みはでけえんだよ。だから、裏切り者は、俺が先に見つけて、ぶっ殺す。……お前は、余計なことを考えるな」
ザップは、そう言うと、タバコを床に押し付けて、歩き出した。
ツェッドは、その後ろ姿を、不安そうに見つめていた。
「……ツェッド君、気にしなくていいわ。あいつは、あれで、あんたを心配してるのよ」
チェインが、静かに言った。
「……でも、ザップさんは、本気で、裏切り者を殺すつもりです」
「ええ。そうでしょうね。だから、私が先に調査するの。あんなチンピラに任せたら、証拠も何もあったもんじゃないわ」
チェインは、髪をかき上げた。
「私は、これから、内部調査を始めるわ。情報がどこから漏れたのか。誰が、血界の眷属の残党と接触したのか。……必ず、見つけ出す」
チェインの姿が、空気に溶けるように薄れていく。存在の希釈。
「……ツェッド君。あなたは、レオナルドのそばにいてあげて。彼、無理してるから」
その声を残して、チェインは完全に姿を消した。
ツェッドは、一人、廊下に取り残された。
「……レオナルド先輩」
ツェッドは、医務室の扉を見つめた。
一方、ライブラ本部の十二階、会議室では、スティーブン・A・スターフェイズが、一人で資料を広げていた。
目元に傷のある、スーツを着込んだ色男。三十二歳。ライブラの副官的存在で、クラウスの右腕。その頭脳は切れ者で、情報の選別と任務の差配は、彼の仕事だった。
「……儀式の実行犯は、血界の眷属の残党で間違いない。だが、彼らが、どうやって、リリィの居場所を特定したのか」
スティーブンは、呟いた。
「リリィは、アリギュラの死後、スラム街の霧底に身を潜めていた。彼女の居場所を知っていたのは、ライブラのごく一部の人間だけだ」
彼は、一枚の写真を手に取った。
「……情報の流路は、三つ考えられる。一つは、霧底での聞き込み。二つは、ライブラの通信記録の傍受。三つは……内部からの漏洩」
スティーブンの指が、机の上を、トントンと叩く。
「……外部犯の可能性が高い。血界の眷属の残党は、独自の情報網を持っている。彼らが、リリィの居場所を突き止めたとしても、不思議ではない」
彼は、そう結論づけた。
だが、机の下で、彼の拳は、強く握り締められていた。
「……違う。そんなはずはない」
スティーブンは、誰にも聞こえない声で、呟いた。
「……私が、情報を流した」
彼の表情は、苦渋に満ちていた。
「……だが、これしか方法がなかった。ライブラを守るためには、メビウスの残滓を、制御下に置くしかない。……リリィを、器にするしかなかった」
スティーブンは、深く、息を吐いた。
「……レオナルド君には、悪いことをした。……だが、これは、必要な犠牲だ」
彼の声は、冷たく、そして、どこか悲しげだった。
医務室に、レオが戻ってきた。
リリィは、ベッドの上で、静かに横たわっていた。
「……リリィ、起きてる?」
レオは、ベッドの傍らに座った。
リリィは、ゆっくりと、目を開けた。
「……レオナルド」
「うん。……ごめんね、さっきは、急に記憶を覗いたりして」
「……いいえ。……あなたは、私を助けようとしてくれたの」
リリィの声は、まだかすれていた。
レオは、リリィの手を、そっと握った。
「……君を守るよ」
リリィの目が、見開かれた。
「……なぜ……私なんかのために」
「君が、誰かの都合で、壊されるのを、もう見たくないから」
レオの言葉は、静かだった。だが、その声には、強い決意が込められていた。
「君は、昨夜、廃教会で、血界の眷属に、生贄にされかけた。……君の身体に刻まれた術式は、君を、何かの器にしようとしている。……でも、僕は、そんなこと、絶対にさせない」
リリィの瞳に、涙が溢れた。
安堵と、不安が、入り混じった涙だった。
「……でも、私は……あなたたちの罪の証人なのよ」
「それでもいい」
レオは、リリィの手を、強く握り返した。
「君が、どんな過去を持っていても、僕は、君を守る。……これは、僕の誓いだ」
リリィは、声を上げて泣き出した。
子供のように、声を上げて。
レオは、そんなリリィの手を、ずっと握っていた。
その夜。
レオは、自室の洗面台の前に立っていた。
鏡の中の自分を見る。
黒髪のくせっ毛ショートヘア。糸目で、常に眠たそうな表情。左耳の小さなピアス。痩せ型で、線の細い体。
そして、左目。
神々の義眼。
レオは、自分の視界に、違和感を覚えた。
鏡の中の自分の顔が、わずかに霞んで見える。
目を擦った。
もう一度、鏡を見る。
やはり、輪郭がぼやけていた。
視界の端が、白く滲んでいる。
それは、義眼が疼く時とは、別の感覚だった。
(……まさか)
義眼の代償。
それは、ミシェーラの視力だけではなかった。
レオ自身の視力も、確実に蝕まれていた。
「……誰にも、言えない」
レオは、鏡の中の自分に、そう言い聞かせた。
もし、仲間に知られたら、戦いから外される。
リリィを守ると誓ったのに。
妹の犠牲を、無駄にしたくないのに。
「……大丈夫だ。……まだ、見える」
レオは、電気を消した。
暗闇の中、彼の左目だけが、かすかに黄金色に光っていた。
その光は、まるで、遠くの何かと共鳴するように、ゆっくりと脈打っていた。
鏡の中の自分の目を、レオは、一人、見つめ続けた。
視界の端の霞みは、もう、消えそうになかった。
それでも、明日も、リリィの元へ行く。
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