血界戦線 残響のヘルサレムズ・ロット
義眼が疼くたび、遠くの妹の視界がひとつずつ消えていく——。
三ヶ月前の決戦で、レオナルド・ウォッチの左目は限界を超えた。神々の義眼が暴走し、離れて暮らす妹ミシェーラの両眼を焼いたのだ。兄のために目を差し出した妹は、兄の義眼によって、二度目の光を奪われた。「お兄ちゃん、大丈夫だよ」——電話越しの明るい声が、余計に胸を裂く。
そんな折、廃教会で血界の眷属の残党が儀式を行っているとの通報が入る。出動を命じられたザップ、チェイン、ツェッドを見送ったレオだったが、義眼が北西の空へ向かって激しく脈動し始める。待機命令を破り、霧の街を駆け出すレオ。追ってきたザップとともに辿り着いた祭壇で、彼が見たものは——全身に異界の術式を刻まれ、虚ろな赤い瞳で「助けて」と呟く、幼い少女リリィの姿だった。
儀式の手順は、ライブラ内部しか知り得ない機密。浮かび上がる裏切りの影。仲間を信じたい。でも、信じることが怖い。霧に沈むヘルサレムズ・ロットで、少年の決意と組織の亀裂が、静かに交差する。
これは、視力を奪われた者たちの物語。失った光の数だけ、守りたいものがある。
血界戦線 残響のヘルサレムズ・ロット - 封じられた記憶 ―― 地下室のノートと霞む視界
ヘルサレムズ・ロットの朝は、いつも霧の色から始まる。
ライブラ本部、五階の医務室。窓の外を流れる霧は、今朝は特に濃かった。白いというより、灰色の膜が街を覆っている。時折、遠くからクラクションのような音が聞こえる。異形の鳴き声か、それとも人間の喧騒か。この街では、その区別すら曖昧だ。
レオナルド・ウォッチは、ベッドの傍らの丸椅子に腰掛けていた。一晩中、ほとんど眠っていない。黒髪のくせっ毛は乱れ、糸目の下には薄い隈が浮かんでいる。それでも、彼の視線はベッドの上の少女から離れなかった。
リリィ。銀色がかった白い長髪が、白いシーツの上に流れている。その先端だけが、血に浸したように赤い。閉じた瞼の奥には、血色の瞳が隠れている。血界の眷属と人間の混血、血界人。彼女の身体には、今も血界術式の刻印が血管のように浮かび上がっていた。
「……おはよう、リリィ」
レオは小さく声をかけた。返事はない。リリィはまだ深い眠りの中にいる。だが、昨夜から何度か、彼女の指が微かに動くのをレオは見ていた。意識が戻るのも、そう遠くないはずだ。
医務室の扉が、勢いよく開いた。
「おいレオ坊、いつまでそうやって突っ立ってんだ」
銀髪の青年が、煙草の煙をまといながら入ってきた。ツンツンした髪は今日も寝癖で跳ねている。鋭い青い瞳が、レオを一瞥した。182cmの長身が、狭い医務室をさらに狭く感じさせる。口元には当然のように煙草がくわえられていた。
「突っ立ってはいないよ。座ってる」
「座って突っ立ってるような顔してんだよ。鏡見ろ、ひでえツラだぜ」
ザップは乱暴に灰皿を探した。医務室に灰皿はない。彼は舌打ちすると、煙草を指で摘まみ、指先に一瞬だけ血の刃を走らせて火を消した。斗流血法の使い方としては、明らかに間違っている。
「今日、廃教会に行くんだろ。チェインの野郎が、地下封印室に何かあるって言ってたぜ」
レオは頷いた。
「うん。リリィの術式を解析するには、あそこにあるものが必要かもしれない。スティーブンさんが、今日中に行くようにって」
「あの腹黒眼鏡が。てめえは寝てねえのに、よくそんな元気だな」
「大丈夫だよ。僕は平気だから」
ザップは鼻を鳴らした。彼はレオの言葉を信じていない。だが、それ以上は追及しなかった。代わりに、ベッドの上のリリィを顎で指した。
「そいつ、連れてくのか」
「うん。術式が封印室の空気に反応するかもしれない。それに……彼女自身が、知りたいんだと思う。自分の身体に何が刻まれているのかを」
レオの言葉に、ザップはしばらく黙っていた。それから、小さく息を吐いた。
「……分かった。だが、何かあったら、てめえが守れよ。俺は知らねえからな」
それは、ザップなりの「気をつけろ」だった。レオは、この男の不器用な優しさを、もう長い付き合いの中で知っている。
「うん。ありがとう、ザップ」
「あ? 何が『ありがとう』だ。気色悪いこと言うんじゃねえ」
ザップは顔を背けた。その耳が、ほんの少し赤い。
医務室の扉が、もう一度開いた。今度は静かに、ほとんど音もなく。
「あんた、医務室で煙草吸わないでよ。リリィに悪いわ」
黒髪のボブカット。切れ長の黒い瞳。黒いスーツ姿のチェイン・皇が、冷たい視線でザップを射抜いた。165cmの小柄な体は、しかし存在感が異様に強い。人狼局特殊諜報課の構成員。彼女の能力は「存在の希釈」——自分の存在を薄めることで、誰にも気づかれずに移動し、情報を集めることができる。
「あ? もう消したわ。文句あっか」
「消したからいいって問題じゃないのよ。あんたの体臭だけでこの部屋、煙草臭くなってるわ」
「てめえ、人を何だと思ってやがる!」
「クソチンピラ。他に何があるの」
二人の罵り合いは、いつものことだ。レオは苦笑いしながら、リリィの様子を窺った。彼女の指が、また微かに動いた。
「……う、ん」
小さな声。三人の視線が、一斉にベッドへ向かった。
リリィの瞼が、ゆっくりと開く。血色の赤い瞳が、ぼんやりと天井を見つめ、それからレオの顔に焦点を合わせた。
「……レオ、ナルド」
「おはよう、リリィ。体調はどう?」
リリィは、ゆっくりと起き上がろうとした。レオがそっと肩を支える。彼女の身体は、まだひどく冷たかった。血界人の体温は、もともと人間より低い。だが、それにしても冷たい。
「……大丈夫、です。少し、頭が痛いだけで」
彼女はそう言って、小さく微笑んだ。その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
「今日、君の身体の術式を調べるために、廃教会の地下封印室に行くんだ。君も一緒に来てくれる?」
リリィの瞳が、わずかに揺れた。
「……廃教会、ですか」
「怖いなら、無理にとは言わない。でも、君の身体に刻まれた術式を解く手がかりが、そこにあるかもしれないんだ」
リリィは、自分の左手首を見つめた。古い傷跡。何度も刃物で切られたような、無数の細い線。彼女は、その傷跡を、そっとなぞった。
「……私、行きます。自分の身体のこと、知りたいです」
その声には、確かな芯があった。おどおどとした普段の彼女とは違う、強い意志。レオは、その声に、彼女の内側に眠る強さを見た気がした。
「分かった。一緒に行こう」
レオは、リリィの手を握った。彼女の手は、氷のように冷たかった。だが、その冷たさの中に、確かな命の鼓動があった。
「おい、いつまでイチャついてんだ。行くぞ」
ザップの声に、レオは慌てて手を離した。リリィの頬が、ほんの少し赤くなる。
「あんた、空気読みなさいよ。……まあ、あんたに空気を読む能力があるとは思ってないけど」
「うるせえ! さっさと支度しろ!」
医務室の外から、控えめなノックの音がした。
「あの、皆さん、準備はよろしいでしょうか」
扉の向こうから、ツェッド・オブライエンが顔を覗かせた。半魚人。首の横には鰓があり、陸上ではエアギルス——特注の呼吸器——を身につけている。大きな黒い瞳は、魚類らしい丸い形をしていた。158cmの体は、ライブラの中でも小柄な方だ。
「ああ、ツェッド。もう大丈夫だよ」
ツェッドは、ベッドの上のリリィを見て、少し緊張した様子で会釈した。
「おはようございます、リリィさん。体調は大丈夫ですか」
「……はい。お気遣い、ありがとうございます」
リリィは、ツェッドの姿を見ても、特に驚いた様子はなかった。血界人として、異形の存在には慣れているのかもしれない。あるいは、彼女自身が自分を「異形」の側だと思っているからか。
「おい半魚人、てめえも来るのか。足手まといになるなよ」
「すみません、ザップさん。僕、頑張りますから」
ツェッドは、しゅんと肩を落とした。だが、その目は真剣だった。
「あんたが一番足手まといでしょうが。煙草の吸い殻で道標でも作るつもり?」
「てめえ、いい加減にしろよ!」
レオは、いつもの騒がしさに、少しだけ安堵していた。仲間たちの声が、自分を現実に引き戻してくれる。
リリィを車椅子に乗せ、四人はライブラ本部を出た。
外の霧は、想像以上に濃かった。五メートル先もぼやける。街路樹の輪郭が、灰色の膜の向こうに溶けている。空気は冷たく、湿っていた。肺の奥まで霧が染み込んでくるような感覚。ヘルサレムズ・ロットの朝は、いつもこうだ。
「廃教会までは、車で三十分ほどです。道中、血界の眷属が現れる可能性もあります」
チェインは、黒いスーツの内側から地図を取り出した。彼女の指先が、地図上の一点を示す。
「第七裂け目から近いわ。あの周辺は、最近また異形の出現率が上がってる。気を抜かないで」
第七裂け目。ヘルサレムズ・ロット北西部に存在する大規模なゲート。幅約三十メートル、高さ約十メートルの裂け目から、常時霧が噴出し、異形が溢れ出している。ライブラが常時監視しているが、完全に制御できているわけではない。
「上等だ。出てきたらぶっ殺してやる」
ザップは、指に嵌めた指輪を弄りながら言った。血を刃に変えるための指輪。斗流血法・カグツチの使い手としての、彼の武器だ。
「僕、戦闘はあまり得意じゃないので、皆さんのサポートに回ります」
「大丈夫だよ、ツェッド。君は君のできることをすればいい」
レオは、ツェッドの肩を軽く叩いた。ツェッドは、ほっとしたように微笑んだ。
車は、霧の中を進んだ。街の景色が、灰色のベールの向こうに流れていく。崩れかけたビル、異界の植物が絡みついた電柱、壁に描かれた見知らぬ文字。ヘルサレムズ・ロットの街並みは、十年前の大崩落から変わらず、異界と人界が混ざり合ったままだった。
リリィは、車窓から外を眺めていた。その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「リリィ、寒くない?」
「……大丈夫、です。この街の霧は、私の故郷の霧と、少し似ています」
「故郷?」
「……霧底。スラム街です。私、あそこで生まれました」
霧底。ヘルサレムズ・ロット南東部の低地に広がる貧困地区。人口約十五万人。血界人の多くが住む場所。霧が特に濃く、異形の出現率が高い。リリィの出身地でもある。
「そうだったんだ」
レオは、それ以上何も言わなかった。彼女の過去を、無理に聞き出すつもりはなかった。だが、リリィの方は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「父は、いつも研究に夢中で。家には、ほとんど帰ってきませんでした。それでも、たまに帰ってくると、私に本を読んでくれたんです。血界の眷属の歴史や、術式の仕組みについての本を」
「君のお父さんは、アリギュラさんは、ライブラの構成員だったんだよね」
「はい。……でも、私は、父が何をしていたのか、詳しくは知りません。父は、私に何も教えてくれませんでした。ただ、『お前は特別な子だ』と、それだけを」
リリィの声は、かすかに震えていた。
「特別、なんて。そんなの、嬉しくなかった。私は、ただ、普通の子として、父と一緒に生きたかっただけなのに」
レオは、リリィの手を、そっと握った。彼女の手は、まだ冷たかった。だが、その冷たさが、彼女の孤独の深さを物語っているようで、レオは胸が締め付けられた。
「……大丈夫だよ。僕が、君のそばにいる」
リリィは、レオの手を、ぎゅっと握り返した。
「……ありがとう、ございます。レオナルド」
その涙は、悲しみだけではなく、安堵の色も混じっていた。
車が、郊外の廃教会に近づくにつれ、霧はさらに濃くなっていった。
廃教会「聖アグネス礼拝堂」。中心部から北西に約十二キロ。大崩落以前に建てられ、崩落時に半壊した。尖塔は折れ、壁には大きな亀裂が走っている。かつては美しいステンドグラスがあったであろう窓は、今は砕け散り、空洞が口を開けていた。
「着いたわ。ここが聖アグネス礼拝堂よ」
車を降りると、ひやりとした空気が肌を刺した。霧のせいだけではない。この場所には、何か別の冷たさがあった。血界の眷属の残滓が、まだ空気に染みついているのかもしれない。
「……ここ、嫌な感じがします」
ツェッドが、エアギルス越しに、小さく震えた。
「ビビってんじゃねえぞ、半魚人。てめえもライブラの構成員なら、シャキッとしろ」
ザップが、ツェッドの頭を小突いた。乱暴だが、どこか励ましの色がある。
「すみません、ザップさん」
リリィは、廃教会を見上げた。その瞳が、わずかに赤く光る。
「……身体が、熱い」
「え?」
レオが振り向くと、リリィの身体に刻まれた血界術式の刻印が、うっすらと赤く浮かび上がっていた。血管のように、彼女の白い肌の上を走る光。
「……術式が、反応してる。この場所の空気に」
リリィが苦しそうに胸を押さえた。レオは、とっさに彼女の手を握った。
「大丈夫だよ、リリィ。僕がいるから」
レオの左目——神々の義眼——が、かすかに黄金色に輝いた。すると、リリィの身体の術式の光が、まるで波が引くように、ゆっくりと鎮まっていった。
「……レオナルド、あなたの目が」
「大丈夫。君の術式は、僕の義眼と共鳴してる。だから、僕がそばにいれば、暴走は抑えられるはずだ」
レオは、自分でも確信があるわけではなかった。だが、これまでの経験から、自分の義眼がリリィの術式を安定させる力があることは、ほぼ間違いないと思っていた。
「……行くわよ。地下封印室は、教会の祭壇の裏に隠し階段があるはず」
チェインが先導し、四人は廃教会の中へ入った。
内部は、外よりもさらに暗く、霧が立ち込めていた。崩れた瓦礫が散乱し、足元はおぼつかない。壁には、異界のルーン文字がびっしりと刻まれている。血界の眷属が儀式に使った痕跡だ。
「天井が……今にも崩れそうです」
ツェッドが、おそるおそる天井を見上げた。確かに、天井の梁は大きく歪み、今にも崩れ落ちそうだった。
「んなこと言ってる暇があったら、さっさと歩け。崩れたら崩れたで、てめえの血で支えろ」
「僕の血で天井は支えられませんよ、ザップさん」
「うるせえ、黙って歩け!」
祭壇の裏。崩れた石壁の隙間に、地下へ続く階段があった。石段は苔むし、湿った空気が下から這い上がってくる。
「ここよ。地下封印室への入り口」
チェインは、懐中電灯を取り出し、階段の下を照らした。光は、深い闇に吸い込まれていく。
「私が先に降りて、安全を確認するわ。あんたたちは、リリィを守りながら、ゆっくり降りてきて」
チェインは、そう言うと、階段を下りていった。彼女の姿が、闇に溶けるように消えていく。存在の希釈。彼女の能力は、こういう場所でこそ真価を発揮する。
「リリィ、歩ける? 階段は急だから、気をつけて」
「……はい。大丈夫です」
レオは、リリィの手を引きながら、慎重に階段を下りた。ザップとツェッドが後ろから続く。
地下封印室は、想像以上に広かった。天井は高く、石造りの壁が四方を囲んでいる。壁には、無数のルーン文字が刻まれ、かすかに青白い光を放っていた。空気は冷たく、カビと土の匂いが混ざっている。
「ここが……封印室」
「大崩落以前からある場所よ。血界の眷属を封じるための施設だったらしいわ」
チェインは、部屋の中央に立っていた。彼女の懐中電灯が、壁のルーン文字を照らす。
「……私の身体が、また熱い」
リリィが、苦しそうにうめいた。彼女の身体の術式が、再び赤く光り始める。封印室の空気が、彼女の術式を刺激しているのだ。
「大丈夫。僕が手を握ってるから」
レオは、リリィの手を強く握った。義眼が熱を持つ。リリィの術式の光が、またゆっくりと鎮まっていく。
「……レオナルド、あなたの義眼が、私の術式を抑えてくれているのね」
「そうみたいだ。不思議だけど、君の術式と僕の義眼は、何か深いところで繋がってるんだと思う」
「……あなたの義眼は、私の父が研究していたものと、関係があるのかもしれません」
リリィの言葉に、レオは息を呑んだ。
「アリギュラさんが、神々の義眼を?」
「……分かりません。でも、父は、私に『お前の目は特別だ』と言っていました。私の目は、血界人の特徴である縦に裂けた瞳孔を持っています。父は、その目に何かを見出していたのかもしれません」
「……ここに、何か手がかりがあるかもしれないわ」
チェインは、壁際に近づき、ルーン文字を調べ始めた。それから、部屋の隅にある石の棚に手を伸ばした。
「……何かある」
彼女の指が、棚の奥の隠し扉を探り当てた。小さな石の引き出し。中には、古びたノートが一冊、入っていた。
「これ……アリギュラの研究ノートよ」
チェインは、ノートを慎重に取り出した。革装丁のノートは、湿気で傷んでいたが、中身はまだ読める状態だった。
「本当に? 見せて」
レオは、チェインからノートを受け取った。ページをめくる。そこには、細かい字で、血界術式の解析図や、数式のようなものがびっしりと書き込まれていた。
「……これは、リリィの身体に刻まれた術式と同じものだ」
レオは、ノートの一ページに描かれた術式図を見て、確信した。リリィの身体に浮かび上がる刻印と、ほぼ同じ形をしている。
「……父の字です」
リリィが、ノートを覗き込み、小さく呟いた。
「間違いありません。これは、父が書いたものです」
「リリィ、君のお父さんは、この術式を研究していたんだね。君の身体に刻まれた術式を」
「……はい。でも、なぜ、こんなことを」
リリィの声は、震えていた。彼女の知らない父の姿が、そこにあった。
レオは、ノートのページをさらにめくった。そして、あるページで手を止めた。
「……これ」
そこには、こう書かれていた。
『リリィの身体に刻んだ術式は、残響を封じ込め、浄化するための封印術式である。しかし、血界の眷属の残党が、この術式を逆転させ、リリィを器に変えようとしている。もし、術式が逆転すれば、リリィの身体は、メビウス伯爵の残滓を呼び寄せる器となる。』
「……私が、器に」
リリィの顔から、血の気が引いた。
「リリィ、大丈夫。僕は、そんなことさせない」
レオは、リリィの肩を抱いた。彼女の身体は、小刻みに震えていた。
ノートには、さらに続きがあった。
『リリィは、私の娘ではない。彼女は、メビウス伯爵の残滓と血縁的繋がりを持つ可能性がある。私が彼女を引き取ったのは、その血を監視し、封印するためだった。』
「……そんな」
レオは、ノートを握る手に力が入った。
リリィは、ノートの文字を、じっと見つめていた。その瞳に、涙が溢れる。
「……私、父の本当の娘じゃ、なかったの」
「リリィ……」
「……父は、私を監視するために、私を引き取ったの。私が、メビウス伯爵の血を引く、怪物だから」
リリィの涙が、石の床に落ちた。
「……私、誰かの器として生まれてきたの。私の存在は、最初から、誰かのためのものだったの」
レオは、リリィを強く抱きしめた。
「違う。君は、君自身のために生きていいんだ。誰の器でもない。君は、リリィだ。ただの、リリィなんだ」
リリィは、レオの胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。子供のように、声を上げて。
ザップとツェッドは、黙って二人を見守っていた。チェインも、懐中電灯を下ろし、静かに目を閉じていた。
「……大丈夫だよ。僕が、君を守る。もう誰も失わない。君を、絶対に失わない」
レオの声は、震えていた。だが、その言葉には、強い決意が込められていた。
リリィの術式の光が、完全に消えた。レオの義眼が、彼女の術式を鎮めたのだ。
「……レオナルド、ありがとう。ごめんなさい。私、泣いてばかりで」
「泣きたい時は、泣けばいい。僕も、よく泣くから」
レオは、リリィの頭を、そっと撫でた。
「……おい、いつまで泣いてんだ。さっさとノートを持って帰るぞ」
ザップの声は、少しだけ優しかった。
「うん。そうだね。……リリィ、立てる?」
「……はい。大丈夫です」
リリィは、涙を拭い、立ち上がった。その足は、まだ少し震えていたが、彼女の瞳には、確かな光があった。
「ノートは私が預かるわ。本部で詳しく解析しましょう」
チェインは、ノートを丁寧に布で包み、自分のバッグにしまった。
「……あの、皆さん。そろそろ戻らないと、天井が本当に崩れそうです」
ツェッドが、不安げに天井を見上げた。確かに、時折、パラパラと石片が落ちてきている。
「分かってるよ。さっさと戻るぞ」
五人——いや、四人と一人の少女——は、地下封印室を後にした。
ライブラ本部に戻ると、夕方になっていた。霧は、朝よりもさらに濃くなっている。
レオとリリィは、医務室で、アリギュラのノートを広げた。
「ここに、術式の解読方法が書いてある。でも、かなり複雑だ。全部を理解するには、時間がかかる」
「……私も、お手伝いします。私の身体のことですから」
リリィは、ノートの文字を、真剣な表情で追った。彼女の父が残した研究。それは、彼女自身の運命を左右するものだった。
「リリィ、君は、自分のことを、どう思ってる?」
レオは、ノートから顔を上げ、リリィを見つめた。
「……私は、ずっと、自分が何者なのか分からなかった。血界人として生まれ、父に監視されて、そして、今度は、器にされかけて。……私は、何のために生まれてきたんでしょう」
「それは、これから見つければいい。君は、君の人生を生きるんだ。誰のためでもなく、君自身のために」
「……でも、私の身体には、メビウス伯爵の血が流れている。私は、人を傷つける怪物になるかもしれない」
「怪物になんか、ならないよ。君は、君だ。血がどうとか、そんなことで、君の価値は決まらない」
レオは、リリィの手を握った。
「僕も、自分の義眼のせいで、妹の視力を奪った。僕は、自分のことを、ずっと責めてきた。でも、それでも、僕は生きてる。君と出会って、君を守りたいと思った。それだけで、僕の人生には、意味があるんだ」
リリィは、レオの目を、じっと見つめた。
「……レオナルド、あなたは、強い人ですね」
「強くないよ。僕は、弱い。だから、君の手を握ってる。君の温もりが、僕の支えになるから」
リリィの瞳に、また涙が浮かんだ。だが、それは、悲しみの涙ではなかった。
「……私も、あなたの手を握っていたい。あなたの温もりが、私を強くしてくれるから」
二人は、しばらく、手を握り合っていた。
その時、リリィの身体の術式が、突然、激しく光り出した。
「……あ、ああっ!」
リリィが、頭を押さえて、苦しみ出した。
「リリィ!?」
「……記憶が、記憶が溢れてくる。父の顔、血の匂い、儀式の……ああっ!」
リリィは、ベッドの上で、激しく身をよじった。術式の刻印が、彼女の全身を赤く染め上げる。
「大丈夫だ、リリィ! 僕がいる! 僕の目を見て!」
レオは、リリィの顔を両手で包み、自分の義眼を、彼女の目に近づけた。黄金色の光が、リリィの赤い瞳と交わる。
「落ち着いて。僕の声を聞いて。大丈夫だよ、君は一人じゃない」
レオの義眼が、リリィの術式の光を、ゆっくりと吸い込んでいく。彼女の身体の刻印が、波が引くように、静まっていく。
「……レオ、ナルド」
リリィの呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。
「……大丈夫だよ。僕が、ずっとそばにいるから」
レオは、リリィを抱きしめた。彼女の身体は、まだ熱を持っていたが、その震えは、少しずつ収まっていった。
「……ごめんなさい。私、また、迷惑をかけて」
「迷惑なんかじゃない。君が苦しむ時は、僕が必ず助ける。それが、僕の役目だから」
リリィは、レオの胸に、そっと顔を埋めた。
「……レオナルド。私、あなたに出会えて、本当に良かった」
「……僕もだよ、リリィ」
夜が更けていく。
レオは、リリィが眠りにつくまで、彼女の手を握っていた。彼女の寝顔は、子供のように無邪気で、しかし、どこか悲しげだった。
医務室を出たレオは、自室に戻った。
八階の居住区。彼の部屋は、六畳ほどの狭い部屋だった。ベッドと机と、小さな本棚。壁には、妹ミシェーラから送られてきた手紙が、ピンで留められている。
レオは、洗面台の前に立った。
鏡の中の自分を見る。
黒髪のくせっ毛ショートヘア。糸目で、常に眠たそうな表情。左耳の小さなピアス。痩せ型で、線の細い体。
そして、左目。
神々の義眼。
レオは、自分の視界に、強い違和感を覚えた。
鏡の中の自分の顔が、霞んで見える。いや、霞んでいるだけではない。視界の半分が、白く濁っている。
「……なんだ、これ」
レオは、目を擦った。もう一度、鏡を見る。
やはり、右半分が、白い靄に覆われている。以前は、視界の端が霞む程度だった。だが、今は、明らかに進行していた。視野の半分が、見えない。
「……義眼の代償」
レオは、洗面台に手をついた。指先が、冷たい陶器に触れる。
義眼の代償。それは、ミシェーラの視力だけではなかった。レオ自身の視力も、確実に蝕まれていた。
「……誰にも、言えない」
レオは、鏡の中の自分に、そう言い聞かせた。
もし、仲間に知られたら、戦いから外される。リリィを守ると誓ったのに。妹の犠牲を、無駄にしたくないのに。
「……大丈夫だ。まだ、見える。左目は、まだ、見える」
レオは、左目を押さえた。義眼が、かすかに熱を持つ。
その時、部屋の外から、怒鳴り声が聞こえてきた。
「てめえら、ふざけんなよ! ツェッドが裏切るわけねえだろ!」
ザップの声だ。レオは、急いで部屋を出た。
談話室。ザップが、数人の構成員を睨みつけていた。ツェッドは、ザップの後ろで、小さくなっている。
「あんた、落ち着きなさい。誰もツェッドが裏切ったなんて言ってないわ」
チェインが、冷静に言った。
「あ? じゃあ、なんであいつら、ツェッドを指差してヒソヒソしてやがんだ!」
「内部調査の結果を報告しただけよ。儀式の情報は、外部には漏れていない。つまり、漏洩者は内部にいる可能性が高い。それだけの話」
「だからって、新人のツェッドを疑うのは筋が違うだろ! てめえら、弟弟子を疑うなら、俺が相手だ!」
ザップは、指輪に血を走らせた。斗流血法の刃が、彼の指先で、赤く光る。
「あんた、本部で血法を使う気? 馬鹿じゃないの」
「うるせえ! てめえこそ、その減らず口を閉じろ!」
「ザップさん、やめてください。僕は、大丈夫ですから」
ツェッドが、ザップの腕を掴んだ。
「僕が疑われるのは、仕方ないことです。新人ですし、まだ、皆さんに信頼してもらえるだけの実績もありませんから」
「てめえ、何言ってんだ。てめえが裏切るわけねえだろ。俺が知ってる」
ザップの言葉に、ツェッドの目が潤んだ。
「……ザップさん」
「……そこまでにしておけ、ザップ」
スーツを着込んだ色男、スティーブン・A・スターフェイズが、談話室に入ってきた。目元の傷が、蛍光灯の光を反射する。彼は、ライブラの副官的存在であり、クラウスの右腕。情報の選別と任務の差配は、彼の仕事だ。
「内部調査の結果は、チェインから聞いた。確かに、情報が外部に漏れていない以上、漏洩者は内部にいる可能性が高い。だが、それは、誰かを特定するものではない」
スティーブンの声は、静かだった。だが、その目は、部屋の中の全員を、一人ずつ観察していた。
「疑心暗鬼は、組織を崩壊させる。我々は、冷静に、事実だけを見つめなければならない」
「……ちっ」
ザップは、舌打ちして、血の刃を消した。
「今日は、ここまでだ。皆、休め。明日も、やるべきことは山積みだ」
スティーブンは、そう言って、談話室を出ていった。
レオは、その後ろ姿を、複雑な思いで見送った。
(スティーブンさんは、何かを知っている。でも、それを隠している)
レオの直感が、そう告げていた。
その夜、さらに、事件が起きた。
チェインが、悲鳴に近い声を上げたのは、深夜のことだった。
「……ノートが、ノートの一部が、切り取られてる!」
彼女の手には、アリギュラの研究ノートがあった。そのうちの数ページが、刃物で綺麗に切り取られていた。
「誰が、こんなことを」
「……分からないわ。私が預かってから、ずっと目の届く場所にあったはずなのに」
チェインの顔は、青ざめていた。
「……内部の人間だ。間違いない」
スティーブンが、静かに言った。
「……そんな。僕たちの中に、本当に裏切り者がいるんですか」
ツェッドの声は、震えていた。
「……ぶっ殺す。裏切り者は、俺が必ず見つけ出して、ぶっ殺す」
ザップの怒りは、もはや爆発寸前だった。
レオは、切り取られたノートの断面を見つめた。
(誰が、何のために。このページに、何が書かれていたんだ)
レオの義眼が、かすかに熱を持つ。
視界の半分が、まだ白く濁っている。
だが、レオは、それでも、前を見た。
「……大丈夫だよ。僕が何とかする」
レオの声は、誰に言うでもなく、しかし、確かに、その場の全員に届いた。
ヘルサレムズ・ロットの夜は、深い霧に包まれていた。
その霧の奥で、何かが、静かに動き始めていた。
レオの視界の半分は、白く濁ったままだった。Noveliaとは?
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