悪役令嬢の下剋上。
私は乙女ゲーム『ロザリアン・クロニクル』の世界に、悪役令嬢ミア・ロザリアンとして転生してしまった。ゲームでは断罪されて処刑される、クソみたいな役どころだ。でも、私はこの世界のルールも、攻略対象たちの弱点も、全部知っている。頭を使えば、バッドエンドは回避できる。
最初は静かに生きるつもりだった。でも、待って、平民のままじゃ何もできない。だから前世の知識と策謀を駆使して、王立学園で首席を奪い、貴族たちを蹂躙し、辺境伯にまでのし上がった。人々は震え上がった。彼らは私を『ロザリアンの魔女』と呼んだ。最高の気分だった。
そんなある日、執事のシアンが現れた。「お嬢様、私はあなたに仕えるために生まれてきました」と、女神を崇拝するような献身の眼差しで私を見つめてきた。こいつはイカれている。どんなに冷たく接しても、どんなに残酷な命令を下しても、喜んで従う。ある夜、私が眠るベッドの傍らに立っているのを見て、本気で殺そうかと考えた。でも便利だから、置いておく。
そしてレン王子。ゲームでは爽やかな攻略対象だったのに、こいつも壊れている。「あなたを見た瞬間から、私の目には他の誰も映らない」と、皆の前で告白
悪役令嬢の下剋上。 - 悪役令嬢と執事 ~月下の誓い~
「……また、あの女の名前か」
ヴェルンハイム城最上階の執務室。重厚な黒檀の机に広げられた一枚の報告書を、レミリア・ロザリアンはじっと見下ろしていた。燭台の灯りが、腰まで届く艶やかな黒髪を青みがかった光沢で照らし出す。右目は血のように深い赤、左目は夜闇を溶かした紫。その異色の双眸が、羊皮紙に記された文字をなぞるように動く。
影の庭──彼女が独自に築き上げた諜報組織からの定期報告。そこには、彼女が最も懸念していた情報が、あろうことか、最も穏やかならざる形で記されていた。
『王都アルヴェンティア、王立学院にて、第一王子レン・アルヴェンティア殿下、セレスティア聖王国より派遣されし平民出身の聖女候補ミア・セレスティアと、先日の学院主催の夜会にて親しく言葉を交わされる。傍目には、旧知の間柄のごとき親密さなり』
報告書を握る指に、自然と力がこもる。深紅のドレスが、彼女の感情を映すかのように、燭台の炎に深く沈んで見えた。
「来たか」
短く呟いた声は、冷たく静かな執務室の空気に溶けていく。
前世の記憶にある乙女ゲーム『ロザリアン・クロニクル』。そのシナリオでは、悪役令嬢レミリア・ロザリアンは、18歳の誕生日に王子レンによって断罪され、処刑される運命だった。ヒロインであるミア・セレスティアを虐げた罪を問われ、王都の大聖堂前で晒し者にされ、そして──。
だが、今の彼女は20歳。原作の処刑イベントは、とうに過ぎ去っている。
「……まあ、そうよね。あのゲーム、私がプレイした限りじゃ、レン王子がミアに声をかけるのは入学式の直後。でも、現実はゲームと違う。時期がずれることだってある」
彼女は深く息を吐き、背もたれに体を預けた。天井を見上げる。複雑な装飾が施された梁の向こうに、この世界の不条理が渦巻いているように思えた。
この世界──アステリア大陸。かつて古代アステリア魔導王国が支配し、その崩壊後、灰冠戦争を経て五王国が覇を競う大地。彼女が治めるロザリアン辺境伯領は、その北東に位置する。元は小規模な男爵領だった。彼女が、8歳から始めた領地経営と数々の功績で、伯爵相当の辺境伯にまで押し上げた土地だ。
だが、どれだけ領地を広げようと、どれだけ民に慕われようと、あの断罪イベントの恐怖は、彼女の心の奥底にずっと根を張っている。
「原作では、私はただの悪役だった。ミアをいじめて、レン王子に嫌われて、最後は民衆の前で断罪される。……あんな結末、絶対に迎えないわ」
彼女は報告書を机の上に置くと、胸元の銀の蝶のネックレスに指を触れた。祖母の形見。彼女の唯一の守り。冷たい銀の感触が、わずかに心を落ち着かせてくれる。
「大丈夫。私はもう、ゲームの駒じゃない。自分の意思で、ここまで来たんだもの」
そう自分に言い聞かせた瞬間、執務室の重厚な扉が、控えめにノックされた。
コンコン、と。
規則正しい、品のある音。この城で、この時間に、このノックをする人物は一人しかいない。
「入って」
彼女が短く答えると、扉が静かに開かれた。
現れたのは、深い紫紺の髪を片側に流した、長身の青年だった。身長は182センチ。月光の下では黒に近く見えるその髪と、深い翡翠のような緑の瞳が、彼の端正な顔立ちを一層際立たせている。黒の執事服を完璧に着こなし、その所作には一切の無駄がない。
シアン・クロフォード。レミリアの専属執事であり、影の庭の副長でもある、彼女の最も忠実な腹心。
「夜分に失礼いたします、お嬢様。夕食をお持ちしました。本日は、温かいキノコのスープと、ハーブティーでございます」
彼は銀のトレイを軽々と片手で支えながら、流れるような動作でレミリアの傍らに歩み寄った。その声は低く落ち着いていて、聞く者の心を凪がせるような不思議な響きがある。
レミリアは彼の顔をじっと見つめた。
「……相変わらず、タイミングが良すぎるのよ。私がちょうどお腹を空かせた頃に、いつも現れるんだから」
彼女の口元が、ほんのわずかに緩む。シアンは、その変化を決して見逃さない。
「お嬢様のご様子は、常に私の心の内にございます。空腹の気配も、お疲れの色も、私には手に取るように分かりますので」
彼は恭しくトレイを机の端に置くと、スープの蓋を開けた。湯気がふわりと立ち上り、キノコの芳醇な香りが執務室の冷たい空気を温めていく。
レミリアは、その香りに誘われるように、スプーンを手に取った。
「……美味しい。あなたの作るスープは、どうしていつもこんなに優しい味がするのかしら」
「それは、お嬢様がお好きな味を、私が誰よりも深く理解しているからでございます」
さらりと返す彼の言葉に、レミリアは小さく笑った。
「はいはい。あなたに口で勝てる気がしないわ」
二人の間に、静かな時間が流れる。燭台の炎が揺れるたび、壁に映る影が優しく踊った。
しばらくスープを口に運んでいたレミリアは、ふと、シアンの顔を正面から見つめた。
「ねえ、シアン。王立学院への進学準備は、どこまで進んでる?」
その瞬間、シアンの指先が、ほんの一瞬だけ、トレイの端を強く握りしめた。
レミリアは、それを見逃さなかった。彼の翡翠の瞳に、一瞬だけ、何か暗いものが過ぎったような気がした。
だが、その変化は、次の瞬間にはもう消えている。
「はい。学院への入学に必要な書類は全て整えてございます。王都アルヴェンティアの屋敷も、すでに使用人たちが先乗りして準備を進めております。お嬢様がいつご出発なさっても、滞りなく学院生活を始められるかと」
完璧な答え。完璧な執事。
なのに、なぜ。
レミリアは、彼の一瞬の翳りの理由を、問い詰めることはしなかった。
彼の異常なまでの忠誠心。その深さは、レミリア自身、まだ完全には理解できていない。ただ、彼が自分を決して裏切らないことだけは、この12年間の主従関係の中で、骨の髄まで染み込むほどに分かっていた。
「……そう。ありがとう、シアン。あなたがいれば、王都での生活もきっと大丈夫ね」
彼女がそう言うと、シアンの表情が、目に見えて柔らかくなった。
「……お嬢様にそう仰っていただけることこそ、私の至上の喜びでございます」
彼は深々と頭を下げた。その仕草があまりに恭しく、そしてどこか嬉しそうで、レミリアは思わず小さく吹き出してしまった。
「もう、大げさなんだから」
こういうところだ。
この男は、レミリアの何気ない一言で、まるで少年のように喜ぶ。ありがとう、と言われただけで、一日中機嫌が良くなる。その純粋すぎるまでの忠誠心は、時にレミリアを戸惑わせる。
でも、今は、その存在が心強い。
彼女はハーブティーを一口含み、温かい液体が喉を通り過ぎるのを感じた。カモミールの優しい香りが、緊張で強張っていた心をゆっくりと解きほぐしていく。
「シアン、下がっていいわ。あとは一人で片付けるから」
「かしこまりました。何かございましたら、いつでもお呼びください。私はすぐ近くにおりますので」
彼はトレイを手に、静かに執務室を後にした。扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
一人になったレミリアは、深く息を吐いた。
王立学院。王都アルヴェンティア。あの場所は、ゲームの舞台であり、彼女の運命の分岐点だ。
彼女は窓辺に歩み寄り、重いカーテンを開けた。眼下には、ロザリアン辺境伯領の首府ヴェルンハイムの街並みが広がっている。石造りの家々の屋根が月明かりに照らされ、無数の窓から漏れる灯りが、まるで地上に落ちた星のように瞬いていた。
人口3万2千人のこの街を、彼女は8歳から治めてきた。
「……懐かしいな」
彼女は呟き、胸元の銀の蝶のネックレスを外すと、月明かりにかざした。
銀の蝶が、青白い光を反射して、まるで生きているかのように輝く。
前世の記憶。
彼女は、かつて日本で、ごく普通の女子大生だった。名前は、もうあまり思い出したくない。ただ、あの頃の自分は、現実の人間関係に疲れ、恋愛にも勉強にも身が入らない、どこにでもいるような学生だった。
唯一の心の支えが、乙女ゲームだった。
中でも『ロザリアン・クロニクル』は、何度も何度も繰り返しプレイした。魅力的な攻略対象者たち、甘く切ないシナリオ、そして──何より、悪役令嬢レミリア・ロザリアンの存在が、彼女の心を捉えて離さなかった。
高慢で、残酷で、それでいて、どこか寂しげな悪役令嬢。彼女は、レミリアというキャラクターに、自分自身の影を見ていたのかもしれない。
だから、目を覚ましたとき、自分がその悪役令嬢レミリアになっていると気づいた瞬間、彼女は本気で、これは夢だと思った。
7歳の少女の体。豪華なベッド。見知らぬ天蓋。そして、自分を「お嬢様」と呼ぶ使用人たち。
前世の記憶が、生々しいほどに残っていた。
「……あの時は、本当にパニックだったわ」
彼女は苦笑する。
転生したばかりの頃は、鏡を見るたびに悲鳴を上げそうになった。右目が赤で、左目が紫のオッドアイ。腰まで届く黒髪。前世の自分とは似ても似つかない、人形のような美少女。
そして、すぐに理解した。
これは、ゲームの世界だ。自分は、断罪され処刑される運命の悪役令嬢に転生してしまったのだ、と。
絶望した。
ゲームのシナリオ通りなら、あと11年で自分は死ぬ。18歳の誕生日に、大聖堂前で、民衆の罵声を浴びながら、断罪の剣で首を落とされる。
「……冗談じゃないわ」
彼女は、ネックレスを握りしめた。
あの日、7歳の少女の心に宿ったのは、恐怖と、そして、強烈なまでの反発心だった。
絶対に、あんな結末は迎えない。
私は、生き延びる。
ゲームの筋書きを、自分の手で書き換えてみせる。
その決意が、彼女のすべての始まりだった。
8歳の時、彼女はヴェルンハイム地下遺跡で、黒の魔眼に目覚めた。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
遺跡の奥深く、誰も足を踏み入れたことのない封印の間。好奇心に駆られた幼い彼女は、迷い込んだ古代の迷宮で、ある魔導具に触れた。
瞬間、世界が反転したような感覚。
右目の奥が、焼けるように熱い。左目が、氷のように冷たい。
視界のすべてが、闇に染まった。
そして、彼女は見た。
この世界に満ちる魔力の流れを。人々の体内に宿る魔力の光を。そして、自分自身の内に眠る、底知れぬ闇の力を。
黒の魔眼。
闇属性魔法の威力を3倍に高め、相手の魔力を見ることができる、極めて稀な才能。
だが、その力は、使うたびに精神を蝕む。
彼女は、この力を誰にも知られてはならないと直感した。
ゲームのレミリアは、高い魔力を持ちながらも、黒の魔眼など持っていなかった。これは、転生によるイレギュラーだ。
もし、この力が王家や教会に知られれば、確実に危険視される。
だから、彼女は隠した。
才能を隠し、頭脳と人心掌握術だけで、この世界を生き抜くことを決意した。
「……平民上がりの魔女、か」
彼女は自嘲気味に呟く。
貴族社会では、彼女のことをそう呼ぶ者たちが今もいる。
元々、ロザリアン家は小男爵領を治める下級貴族に過ぎなかった。それが、彼女の辣腕によって、北東最大の辺境伯領にまで成長した。
当然、面白くない者たちは多い。
「でも、そんなの知ったことじゃないわ。私は、私のやり方で、ここまで来たんだもの」
彼女はネックレスを胸元に戻すと、月明かりに照らされた庭園へと目を向けた。
薔薇の生け垣が、銀色の光を浴びて、まるで別世界の植物のように美しく浮かび上がっている。
夜風が、カーテンを静かに揺らした。
……そういえば、最近、庭園に出ていない。
彼女は、ふと、そう思った。
執務に追われる日々の中で、夜風に当たる時間すら、いつの間にか失っていた。
「……少し、散歩しようかしら」
彼女は薄手のショールを肩にかけると、静かに執務室を出た。
石造りの廊下は、夜の冷気をたっぷりと含んで、ひんやりとしている。彼女の足音だけが、規則正しく響いた。
城の中庭に出ると、満天の星が視界いっぱいに広がった。
王都アルヴェンティアの華やかな夜景も好きだが、このヴェルンハイムの澄み切った星空は、彼女の心をいつも穏やかにしてくれる。
「……綺麗」
彼女は、ほう、と息を吐いた。
白い息が、月明かりに照らされて、ふわりと消えていく。
庭園の中央にある古い噴水の縁に腰掛け、彼女はしばらくの間、ただ夜空を眺めていた。
前世の記憶が、また蘇る。
ゲームのレミリアは、孤独だった。
婚約者のレン王子には疎まれ、周囲の貴族たちからは恐れられ、心を許せる友人もいなかった。
今の自分はどうだろう。
領民たちは慕ってくれる。家臣たちも信頼してくれている。そして、シアンという、誰よりも忠実な腹心もいる。
……でも。
心の奥底では、まだ、孤独だった。
前世の記憶を持つ者としての孤独。この世界の誰にも、本当の自分を明かせない孤独。
ゲームの知識という、誰にも言えない秘密を抱え続ける孤独。
その孤独が、時折、彼女の心をひどく締め付ける。
「……私、強くなんてないのよ」
彼女は、誰にともなく呟いた。
その瞬間、庭園の茂みが、ガサリと揺れた。
レミリアの体が、反射的に硬直する。
彼女は素早く立ち上がり、茂みの方向を鋭く睨んだ。右目の奥が、微かに熱を帯びる。黒の魔眼を発動させようとした、その時。
「お嬢様」
茂みの影から現れたのは、やはり、彼だった。
深い紫紺の髪が、月明かりに照らされて、黒く艶めいている。翡翠の瞳が、レミリアをまっすぐに捉えていた。
レミリアは、緊張を解き、深く息を吐いた。
「……驚かせないでよ、シアン。心臓が止まるかと思ったわ」
「申し訳ございません。ですが、お嬢様がお一人で夜の庭園に出られるとあれば、私が、ただ見守るだけなどできません」
彼は、レミリアの傍らに歩み寄り、その場に片膝をついた。
執事が主に仕えるには、あまりに芝居がかった仕草だった。
「……あなた、もしかして、ずっと私の後をつけてたの?」
レミリアの問いに、シアンは顔を上げずに答えた。
「はい。私は常に、お嬢様のお側にございます。影から、お嬢様をお守りするのが、私の使命でございますから」
その言葉に、レミリアは言葉を失った。
常に。
それは、文字通りの意味なのだろう。
彼は、レミリアが執務をしている間も、食事をしている間も、眠っている間も、おそらく、ずっと、彼女の気配を感じ取れる場所にいる。
それが、彼の異常なまでの忠誠心の形。
「……あなたは、私に、そこまでするの?」
「当然でございます。私の命は、お嬢様のためにあります。お嬢様が望むなら、私は喜んで、この命を捧げましょう」
彼の声は、静かで、穏やかで、それでいて、狂おしいほどの熱を帯びていた。
レミリアは、彼の翡翠の瞳を見下ろした。
月明かりの下で、その瞳は、まるで深い森の奥に光る湖のように、美しく、そして、底知れない。
怖い、と思う気持ちも、確かにある。
彼の忠誠心は、主従の枠を超えている。それは、もはや、信仰に近い。
でも。
レミリアは、彼のその感情を、拒絶する気にはなれなかった。
この世界で、たった一人、彼女のすべてを受け入れてくれる存在。
それが、シアンだった。
「……シアン」
彼女は、彼の名を呼んだ。
シアンは、顔を上げた。
二人の視線が、月明かりの下で交わる。
「私は、あなたを信じている。あなたは、私の最も信頼する、たった一人の腹心よ。……私の帰る場所は、あなたがいる、この城なんだから」
彼女の言葉に、シアンの翡翠の瞳が、大きく見開かれた。
次の瞬間、彼の瞳の奥で、何かが、はじけたように輝いた。
それは、歓喜。
この上ない、純粋な歓喜だった。
「……お嬢様……!」
彼の声が、震えていた。
レミリアは、そんな彼の姿を見て、胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。
ああ、この人は、本当に、私のことを。
彼女は、そっと手を差し伸べた。
シアンは、恐る恐る、その手を取った。
彼の指先は、氷のように冷たかった。
「……冷たい手。あなた、どれだけ長い間、外にいたのよ」
「お嬢様をお守りするためなら、この程度、何でもございません」
彼は、レミリアの手を、壊れ物のように大切に握り返した。
その手は、まだ震えていた。
感激に、震えているのだ。
レミリアは、彼の手を握り返しながら、心の中で静かに誓った。
この人の忠誠に、私は、結果で応えよう。
生き延びて、この領地を、もっと豊かにして、そして、絶対に、断罪エンドなんか迎えない。
それが、彼への、最高の恩返しだ。
「……そろそろ戻りましょう。風邪をひくわ」
「かしこまりました。お嬢様」
二人は、月明かりに照らされた庭園を、ゆっくりと歩いて戻った。
その後ろ姿を、満天の星が、静かに見守っていた。
──その夜。
レミリアは、城の塔の上から、遠く王都アルヴェンティアの方角を見つめていた。
夜風が、彼女の黒髪を激しく揺らす。
塔の上から見える景色は、昼間とは全く違う顔を見せていた。
北のノースヘイム凍土から吹き下ろす風が、彼女の頬を容赦なく叩く。
そこに、一羽の黒い鳥が舞い降りた。
影の庭の伝令用に訓練された、魔導生物の一種だ。
レミリアは、鳥の脚に括り付けられた小さな筒から、折り畳まれた紙片を取り出した。
月明かりの下で、それを広げる。
『レン王子、王立学院の首席を取った貴族を、自身の側近に迎えたいと、側近たちに発言。また、ミア・セレスティアは、学院の貴族子弟たちの間で、聖女としての人気を集めつつある』
レミリアは、その報告を読み終えると、ゆっくりと目を閉じた。
冷たい風が、彼女の心を、さらに冷たく研ぎ澄ませていく。
「……首席、ね」
彼女は呟いた。
王立学院アルヴェンティア。大陸最高峰の教育機関。首席を取れば、貴族社会での発言権が得られ、国王に謁見する権利も与えられる。
そして、王子の婚約者としての立場を盤石にするためには、これ以上ない実績。
「ミア・セレスティアが聖女として人気を集めているなら、なおさらよ。私が首席を取って、レン王子の隣に立つのが、一番確実な道」
彼女は、紙片を握りしめた。
ゲームのシナリオでは、レミリアは学院に入学するものの、ミアに首席を奪われ、それが断罪への第一歩となる。
だが、今の彼女は違う。
前世の記憶で、学院の試験内容も、教師たちの癖も、攻略対象者たちの性格も、すべて知っている。
負ける要素など、どこにもない。
「それに……原作には存在しない、黒幕の存在も、暴かなければならない」
影の庭の調査で、最近、不穏な動きがいくつか報告されている。
それは、ゲームのシナリオには存在しない、未知の脅威。
彼女は、その正体を、まだ掴めていない。
だが、王都に行けば、何か手がかりが掴めるかもしれない。
「……王立学院。ミア・セレスティア。レン・アルヴェンティア。そして、黒幕。すべての謎は、王都にある」
彼女は、王都の方角を、じっと見つめた。
遠く、水平線の向こうに、かすかに明るい場所がある。
王都アルヴェンティアの灯りだ。
あの光の中に、彼女の運命を決める戦いが待っている。
「……行くわよ。私は、絶対に、負けない」
彼女は、静かに、しかし力強く、そう宣言した。
月明かりが、彼女のオッドアイを照らし出す。
右目は血のように深い赤、左目は夜闇を溶かした紫。
その異色の双眸が、闇の中で、爛々と輝いていた。
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