悪役令嬢の下剋上。
私は乙女ゲーム『ロザリアン・クロニクル』の世界に、悪役令嬢ミア・ロザリアンとして転生してしまった。ゲームでは断罪されて処刑される、クソみたいな役どころだ。でも、私はこの世界のルールも、攻略対象たちの弱点も、全部知っている。頭を使えば、バッドエンドは回避できる。
最初は静かに生きるつもりだった。でも、待って、平民のままじゃ何もできない。だから前世の知識と策謀を駆使して、王立学園で首席を奪い、貴族たちを蹂躙し、辺境伯にまでのし上がった。人々は震え上がった。彼らは私を『ロザリアンの魔女』と呼んだ。最高の気分だった。
そんなある日、執事のシアンが現れた。「お嬢様、私はあなたに仕えるために生まれてきました」と、女神を崇拝するような献身の眼差しで私を見つめてきた。こいつはイカれている。どんなに冷たく接しても、どんなに残酷な命令を下しても、喜んで従う。ある夜、私が眠るベッドの傍らに立っているのを見て、本気で殺そうかと考えた。でも便利だから、置いておく。
そしてレン王子。ゲームでは爽やかな攻略対象だったのに、こいつも壊れている。「あなたを見た瞬間から、私の目には他の誰も映らない」と、皆の前で告白
悪役令嬢の下剋上。 - 黒の魔眼、断罪の刃を砕く ~ゲームよ、私はここで生きると決めた~
建国祭前日の夕暮れが、再建中のヴェルンハイム城仮御所に深い影を落としていた。
焼け落ちた本城の代わりに設けられた木造の仮御所は、北風が吹くたびに軋む。窓の外では、作業服の男たちが明日の建国祭に備えて最後の資材を運び込んでいた。金槌の音が、乾いた地面に吸い込まれていく。
レミリア・ロザリアンは、簡素な執務机の前に立っていた。
腰まで届く黒髪が、夕暮れの薄明かりを受けて青みがかった光沢を帯びる。右目は血のように深い赤、左目は夜闇を溶かした紫。その異色の双眸が、手元の報告書の上を滑っていた。紙の端が、乾いた空気にわずかに反っている。
胸元では、銀の蝶のネックレスが、身じろぎのたびに鎖を細く鳴らした。
奪われ、そして奪還した祖母の形見。その冷たい感触が、彼女の呼吸の間隔を静かに整えていた。
「主様。影の庭より、最終報告が届いております」
背後から、深く落ち着いた声。振り返ると、深い紫紺の髪を片側に流した執事、シアン・クロフォードが立っていた。深い翡翠色の瞳が、レミリアをまっすぐに見つめている。黒の執事服は煤の匂いも残さず、白手袋に包まれた指先まで完璧に整えられていた。
彼の左眉の上にある小さな古い傷跡が、夕暮れの光の中でうっすらと浮かんで見える。
「読み上げなさい」
「は。まず、オルヴァン・セイグリッドの動向です。明日の建国祭、日没と同時に大聖堂地下の古代魔導遺産——アステリアの心臓を起動する計画であることが確定しました」
レミリアは、窓の外に目をやった。
遠く、北の空が茜色に染まっている。あの空の向こうに、王都アルヴェンティアがある。作業服の男の一人が、腰を伸ばして空を仰ぎ、すぐにまた屈み込んだ。
「それから、ミア・セレスティアについてですが」
シアンの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「学院祭での偽証、ヴェルンハイム放火への関与。オルヴァンとの密通を示す証拠を、すべて押さえております。彼女が自らの足で地下へ踏み込めば、共犯の事実は覆せません」
「ええ。あの娘は、わたくしが動けば必ず尾行してくる。自分の目で確かめずにはいられない質ですもの」
レミリアは、銀の蝶に指先で触れた。
冷たい銀の感触。祖母の指が、かつて同じようにこの蝶に触れていた。
「シアン。王都潜入の準備を整えなさい。夜明け前に出発します」
「かしこまりました。主様の御命令とあらば、この身など惜しみません。すべて、主様の御心のままに」
シアンが、深く頭を下げた。
その声に、これまで何度も聞いてきた狂おしいほどの忠誠が滲んでいる。だが、今夜のレミリアは、その重さに息が詰まることはなかった。
「ありがとう、シアン。あなたがいてくれて、本当によかったわ」
シアンの肩が、微かに震えた。
深い翡翠色の瞳が、信じられないものを見るようにレミリアを見つめる。
「……もったいないお言葉にございます。主様」
彼の声は、かすかに濡れていた。
レミリアは、窓の外の夕焼けに目を細めた。
夕日が、仮御所の板壁に長い影を落としていた。影は、彼女の足元を通り過ぎ、部屋の奥の壁に届いていた。
———
建国祭の夜。
王都アルヴェンティアは、一年で最も華やかな光に包まれていた。
大聖堂前の広場には無数の灯籠が掲げられ、通りには色とりどりの旗が風に揺れる。貴族たちの馬車が石畳を軋ませ、どこからか祝祭の音楽が流れてくる。空気には、甘い菓子と花の香りが混ざっていた。焼き栗の焦げた匂いも、人の波の合間から漂ってくる。
だが、レミリア・ロザリアンの足取りは、その喧騒とは無縁の静けさを帯びていた。
黒いドレスに身を包み、銀の蝶のネックレスを胸元に光らせて、彼女は夜会の会場である王宮の大広間へと足を踏み入れた。
瞬間、二百人分の視線が、彼女に突き刺さった。
「あれが……ロザリアンの魔女……」
「学院を追放されたのに、よく顔を出せたわね」
「今夜こそ、断罪されるのかしら」
聞こえよがしの囁きが、波のように押し寄せる。
レミリアは、表情ひとつ変えなかった。
(この程度の視線、今さらどうということもない)
彼女は、大広間の中央へと歩を進めた。シアンが、半歩後ろを歩く。その翡翠色の瞳は、囁いた者たちを一人ずつ、音もなく射抜いていた。
「レミリア」
低く、熱を帯びた声。
振り返ると、太陽の光を集めたような金色の髪を揺らして、第一王子レン・アルヴェンティアが立っていた。澄み切った空のような青い瞳が、レミリアだけを真っ直ぐに見つめている。左耳の銀のピアスが、灯りを受けて瞬いた。
「来てくれたんだね。君を待っていた」
彼の声は、周囲の喧騒を切り裂くように、レミリアの耳にだけ届く。
「ええ。約束ですもの。それより、配置は?」
「影の庭の生き残りが、大聖堂周辺にすべて配置済みだ。いつでも動ける」
レンが、わずかに身を寄せた。
彼の手が、レミリアの手に触れようとして、寸前で止まる。
「レミリア。君を守るためなら、僕は王子の地位など惜しくない。この国も、この王冠も、君がいなければ何の意味もない」
彼の声は、甘い毒のように、レミリアの心に染み込んでくる。
(この男は、いつもそうだ。全部を捨てると、本気で言う)
レミリアの胸の奥で、何かが小さく痛んだ。
「……もう逃げないわ。わたくしは、あなたの手を借りる。あなたの想いに、今はまだ答えられない。でも、共に戦ってほしいの」
レンの青い瞳が、大きく揺れた。
「ああ。僕のすべてを、君に捧げる」
彼の右手が、レミリアの左手を包み込む。
その手のひらは、熱く、震えていた。
「では、行きましょう。夜会の主役は、わたくしたちではありませんの」
レミリアは、貴族たちの視線を背に、大広間を後にした。背中に、粘つくような視線が一本、突き刺さっている。
シアンが、音もなく後に続く。
(見えているわ。あの娘の視線が、わたくしの背中に張り付いている)
レミリアは、口元をほんの少しだけ歪めた。
(ついてきなさい。そして、自らの足で、破滅への扉を開くのよ)
———
大聖堂の裏手。
夜の闇が、石造りの壁を黒く塗りつぶしていた。
建国祭の喧騒が、遠くでくぐもって聞こえる。ここだけは、まるで別の世界のように静かだった。石壁の冷気が、ドレスの薄い布を通して肌に伝わる。
「主様。やはり、尾行してきております」
シアンが、レミリアの耳元で囁いた。
「ええ。あの娘は、わたくしが動けば必ずついてくる。そして、自分の目で確かめずにはいられない。……あえて、地下への入口を閉ざさずにおきましょう。黒幕との共犯を、自ら暴かせるために」
「かしこまりました。では、私はここで。主様の御無事を、心よりお祈りしております」
「あなたも来るのよ。これは命令ですわ」
シアンが、一瞬だけ目を見開いた。
「……光栄に存じます。主様の御側で、この命を」
三人は、大聖堂の地下へと続く隠し扉をくぐった。
石段を下りるごとに、空気が冷たく、重くなっていく。壁に刻まれた古代魔導文字が、かすかに青白く脈打っていた。石段の角が、ドレスの裾を引っかける。
(これが、アステリアの心臓の力。地下全体が、あの遺産の魔力に浸食されている)
レミリアは、胸元の銀の蝶に触れた。
祖母の研究書の一節が、脳裏に蘇る。
——心臓は血ではなく、想いを喰らう。
地下祭壇に着いた。
そこは、巨大な石造りの空間だった。天井は高く、壁一面に古代魔導文字がびっしりと刻まれている。中央には、人の背丈ほどもある巨大な水晶が、不気味な光を放って浮かんでいた。空気が、微かに焦げた匂いを含んでいた。
アステリアの心臓。
その前に、一人の男が立っていた。
銀色の長髪。灰色の瞳。星詠みの塔の最高位魔導師の証である漆黒のローブ。
オルヴァン・セイグリッド。
「よく来たな。ロザリアンの魔女。いや、転生者レミリア・ロザリアンよ」
彼の声は、地下空間に冷たく響き渡った。
「お前が来ることは、最初から分かっていた。ゲームの筋書き通りにな。悪役令嬢は、断罪され、処刑される。それが、この世界の正しい結末だ」
レミリアは、オルヴァンをまっすぐに見据えた。
「その筋書き、わたくしが書き換えて差し上げますわ」
オルヴァンの灰色の瞳が、微かに細められた。
「面白い。では、始めようか。アステリアの心臓よ、目覚めの時だ」
オルヴァンが、両手を掲げた。
巨大な水晶が、眩い光を放ち始める。地鳴りが響き、壁の古代文字が一斉に輝き出す。
「させるか!」
レンが、剣を抜いて駆け出した。聖騎士としての防御魔法を全身に纏い、オルヴァンへ斬りかかる。
だが。
「甘いな。王子ごときが、この心臓の力を止められるものか」
オルヴァンが、片手を振った。
目に見えない力の壁が、レンの全身を弾き飛ばす。聖騎士の防御魔法が、紙のように砕け散る。
「ぐあっ……!」
レンが、石柱に叩きつけられ、崩れ落ちた。剣が、石床を滑り、火花を散らす。
「主様、お下がりください!」
シアンが、レミリアの前に躍り出た。彼の手には、いつの間にか細身の剣が握られている。
「執事ごときが。死ね」
オルヴァンの指先から、黒い光の刃が放たれた。
それは、回避も防御も許さない、必中の魔法の刃。
ザシュッ。
「がっ……ああっ……!」
光の刃が、シアンの腹部を深く貫いた。
鮮血が、石床に飛び散る。赤い飛沫が、白手袋の甲に点々と散った。
「シアン!!」
レミリアの叫びが、地下空間に響いた。
シアンが、膝をつく。白手袋が、自らの血で赤く染まっていく。石床に、血の滴りが小さな音を立てた。
「主様……どうか……お逃げ……ください……」
「逃がすとでも思ったか。転生者。お前の正体は、すべて知っている」
オルヴァンが、ゆっくりとレミリアに近づいてくる。靴音が、石の床に冷たく反響する。
「お前の祖母、セレスティア・ロザリアン。あの女は、黒の魔眼の秘密を知っていた。だから殺した。魔眼を奪おうとしてな。だが、あの女は死の間際に、魔眼を孫に遺しおった。……それが、お前だ。レミリア・ロザリアン」
レミリアの全身から、血の気が引いていく。
(おばあさまは……この男に……)
怒りが、黒い炎のように胸の奥で燃え上がる。
「お前が……おばあさまを……!」
「そうだ。そして今夜、お前も祖母と同じ運命を辿る。ゲームの筋書き通り、断罪され、処刑されるのだ。さあ、その黒の魔眼を、この心臓に捧げよ」
その時、祭壇の入口から、別の足音が響いた。
「レミリア様……?これは、いったい……?」
桃色がかったピンクの巻き髪を揺らして、ミア・セレスティアが現れた。澄み切った水色の瞳が、祭壇の光景を見開かれる。
「ミア・セレスティア。お前も来たか」
「オルヴァン様、これはどういうことですの?私は、ただレミリア様を尾行して……」
「用済みだ。聖女候補ごときが、この儀式に何の価値もない」
オルヴァンの冷たい声が、ミアを切り捨てた。
「そ、そんな……!私は、あなたの計画に協力したのに!レン王子を手に入れられるって、言ったじゃないのよ!」
ミアの声が、裏返る。可憐な聖女の仮面が、怒りと恐怖で歪んでいく。
「ああ。お前はよく利用させてもらった。学院祭の偽証も、ヴェルンハイムの放火も、すべてお前の功績だ。だが、それも今夜で終わりだ」
オルヴァンが、ミアに背を向けた。
「ふざけないでよ!私は、あんたの駒じゃないのよ!私は、レン王子の妃になるの!この国の、頂点に立つのよ!」
ミアの言葉から、可憐な令嬢口調が消え、下品な平民言葉が飛び出す。
だが、オルヴァンはもう、彼女を見ていなかった。
「さあ、レミリア・ロザリアン。断罪の時だ。黒の魔眼を、この心臓に捧げよ。世界は、ゲームの筋書き通りに再編される」
レミリアは、倒れたシアンを見た。
彼は、血の海の中に膝をつきながら、それでもレミリアを見上げていた。唇が、何かを伝えようと微かに動く。
(シアン。わたくしを、見ていて)
レミリアは、左目に手を当てた。
前髪で隠していた紫の瞳が、露わになる。
「オルヴァン・セイグリッド。あなたは、ひとつだけ、大きな勘違いをしていますわ」
彼女の声は、氷のように冷たく、しかし、どこか静かな熱を帯びていた。
「わたくしの黒の魔眼は、もう、暴走などしません。わたくしが、完全に制御していますの」
レミリアが、左目に魔力を集中させる。
紫の瞳が、深い闇色の光を放ち始める。
「何を……!?その魔眼は、心臓の起動に使うための媒体だ!お前ごときが、制御できるはずが……!」
「おばあさまの研究書に、こう書かれていましたわ。心臓は血ではなく、想いを喰らう、と」
レミリアは、胸元の銀の蝶を握りしめた。
「あなたは、わたくしの怒りを、憎しみを、この心臓に注がせようとした。でも、違いますの。わたくしが注ぐのは、そんなものじゃありませんわ」
彼女のオッドアイが、真っ直ぐにアステリアの心臓を見据える。
「わたくしは、生きたい。おばあさまが守ってくれたこの命で、シアンと、レンと、みんなと、この世界で生きていくのよ」
その瞬間、レミリアの黒の魔眼から、黒い光が溢れ出した。
だが、それは破壊の光ではなかった。
静かで、温かく、それでいて、抗いがたい力を持った、純粋な願いの光。
「やめろ!その力は、心臓の再編機能を……!?」
黒い光が、アステリアの心臓へと流れ込む。
巨大な水晶が、悲鳴のような音を立てて震え始める。
「想定の範囲内ですわ。あなたの計画は、ここで終わりですの」
水晶に、亀裂が走った。
パキン、パキンと、音を立てて広がっていく。
「まさか……この心臓が……!?ありえん!古代魔導の最高傑作が、たかが一人の女の想いごときで……!」
「たかが一人の女の想いですって? あら、失礼なことを言いますわね。この想いは、わたくし一人のものではありませんの」
レミリアの脳裏に、祖母の笑顔が浮かぶ。シアンの忠誠が、レンの一途さが、影の庭の仲間たちの想いが、光となって心臓へ流れ込んでいく。
「やめろ……やめろぉぉぉ!!」
オルヴァンの体が、突然、黒い炎に包まれた。
「な、なんだ!?この炎は……!?ああ……あああああ!!」
「あなたが自らの魂を縛りつけた、古代の誓約魔法ですわ。心臓が崩壊すれば、その反動で、あなたの魂も滅びる。あなたは、自分の作った罠に、自分でかかったのよ」
オルヴァンの悲鳴が、地下空間に木霊する。
黒い炎が、彼の体を内側から焼き尽くしていく。
「こんな……こんなはずでは……!私は、世界を、正しい姿に……!ぐああああああ!!」
彼の体が、灰となって崩れ落ちた。
同時に、アステリアの心臓が、轟音と共に砕け散った。
「やばっ……!崩れるわ!逃げなきゃ……!」
天井から、巨大な石が落ちてくる。壁が崩れ、床が揺れる。
レミリアは、倒れたシアンに駆け寄り、彼の体を担ぎ上げた。
「レミリア、こちらだ!」
レンが、崩落する石の間を縫って、レミリアの手を引いた。
「シアンを……シアンを死なせないで……!」
「ああ。絶対に、三人で生きて帰る」
崩れゆく大聖堂の地下を、三人は駆け抜けた。
背後で、古代魔導の遺産が、千年の眠りから覚めた終焉の音を立てて崩れ去っていく。
———
地上に出た瞬間、冷たい夜風が、三人の頬を打った。
大聖堂の一部が、地響きと共に陥没する。
建国祭の夜会に集まっていた貴族たちが、悲鳴を上げて広場に飛び出してくる。
「な、なにが起きたの!?」
「大聖堂が……崩れたぞ!」
「誰か!誰か助けて!」
混乱のるつぼと化した広場。
その中で、レン・アルヴェンティアが、レミリアの手を取った。
「皆、聞いてくれ!」
彼の声が、広場に響き渡る。
王族の持つ威厳が、混乱を一瞬で静めた。
「今、大聖堂の地下で、国家転覆を企てた魔導師オルヴァン・セイグリッドが、古代魔導遺産を暴走させた。それを止めたのは、他ならぬ、この方だ」
レンが、レミリアの手を高く掲げた。
「レミリア・ロザリアン。彼女こそ、私の唯一の婚約者である。そして、この国の危機を救った、真の英雄だ!」
広場が、静まり返った。
貴族たちの顔に、驚愕と、畏怖と、そして、嫉妬が浮かぶ。
「レン王子が……ロザリアンの魔女を……?」
「婚約者だって……!?」
「あの女が……英雄……?」
レミリアは、レンの手を握り返した。
(これで、わたくしの断罪エンドは、完全に消えた)
彼女の胸に、静かな勝利の熱が広がっていく。
その時。
「嘘よ……嘘よ嘘よ嘘よ!あの女が英雄ですって!?ありえない!あの女は、私を陥れたのよ!私のレン王子を、奪ったのよ!」
ミアが、ボロボロの姿で広場に現れた。
可憐な聖女の面影はなく、髪は乱れ、ドレスは破れ、目は血走っている。
「ミア・セレスティア」
レミリアが、冷たい声で呼んだ。
「あなたには、オルヴァン・セイグリッドとの密通、学院祭での偽証、ヴェルンハイム放火への関与。すべての証拠が揃っていますわ。影の庭が、あなたの罪を、すべて暴きました」
レミリアが指を鳴らすと、影の庭の諜報員たちが、ミアを取り囲んだ。
「な、なに……!?証拠ですって!?そんなの、でっち上げよ!私は聖女候補なのよ!私に逆らうと、どうなるか……!」
「もう遅いですわ。あなたの聖女としての地位は、今夜限りで剥奪されます。あなたの人生の上がり口は、永遠に閉ざされましたの」
ミアの顔から、血の気が引いていく。
「いや……いやぁぁぁぁ!!私は……私は、レン王子の妃になるはずだったのに!この国の、頂点に立つはずだったのに!!」
彼女の叫びは、広場の喧騒に飲み込まれていった。
衛兵たちが、ミアの両腕を掴んで連行していく。
「離して!離してよ!私は聖女よ!神に選ばれた女なのよ!あんたたちなんか、平民の分際で……!」
ミアの言葉から、完全に可憐な令嬢の仮面が剥がれ落ちていた。
レミリアは、その姿を、冷たく見送った。
(これで、すべて終わった)
彼女は、担いだままのシアンを、そっと地面に下ろした。
「シアン。しっかりして。すぐに手当てをするわ」
シアンの腹部から、まだ血が流れている。彼の顔は青白く、呼吸も浅い。
「主様……ご無事で……何よりです……」
「何を言ってるの!あなたが死んだら、わたくしが困るのよ!絶対に、助けるわ!」
レミリアは、自らのドレスの裾を破り、シアンの傷口を圧迫した。
温かい血が、彼女の指を赤く染める。
「お願い……お願いだから、死なないで……!」
涙が、レミリアの頬を伝った。
悪役令嬢の仮面も、ロザリアンの魔女の威厳も、すべて脱ぎ捨てた、ただの二十歳の少女の涙。
「……主様の涙を、いただけるとは……本望でございます……」
シアンの口元が、微かに緩んだ。
「本望じゃない!あなたには、これからもずっと、わたくしの執事でいてもらうのよ!これは命令よ!死ぬことを許さないわ!」
レミリアは、癒しの魔法をシアンの傷口に注ぎ込んだ。
祖母の研究書で学んだ、古代魔導の治癒術。
「レミリア、僕も手伝う。聖騎士の治癒魔法なら、少しは役に立つはずだ」
レンが、シアンの反対側に膝をついた。
二人の魔力が、シアンの体を包み込む。
「……主様。レン王子。ありがとう、ございます……」
シアンの声は、かすれていたが、確かな意志が宿っていた。
「シアン。わたくし、あなたに、心から、ありがとうを言うわ」
レミリアは、シアンの冷たい手を握った。
「あなたがいてくれたから、わたくしは、ここまで来られた。あなたの忠誠が、あなたの命が、わたくしを支えてくれた。……ありがとう、シアン。本当に、ありがとう」
シアンの翡翠色の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「主様……そのお言葉だけで、私は……私は……!」
彼の声は、涙で震えていた。
「私は、主様のために生まれ、主様のために生きてまいりました。これからも、永遠に、主様の御側に。この命が尽きるまで、いえ、命が尽きてもなお、主様をお守りいたします」
「ええ。あなたの忠誠、確かに受け取ったわ。だから、これからも、わたくしの傍にいなさい」
レミリアは、シアンの手を握りしめたまま、空を見上げた。
建国祭の花火が、崩れかけた大聖堂の向こうで、音を立てて咲いていた。
———
春。
ヴェルンハイムの廃墟の傍らに、新しいロザリアン城の地鎮祭が行われていた。
焼け落ちた旧城の残骸はすでに取り払われ、整地された土地に、真新しい石が積まれていく。土の匂いが、春の陽気に混じって、柔らかく漂っていた。
レミリア・ロザリアンは、建設予定地の中央に立っていた。
腰まで届く黒髪が、春の陽射しを浴びて青みがかった光沢を放つ。右目は血のように深い赤、左目は夜闇を溶かした紫。その異色の双眸が、新しい城の礎石を見下ろしていた。
胸元では、銀の蝶のネックレスが、陽の光を受けて輝いている。
「おばあさま」
彼女は、ネックレスを外し、陽の光にかざした。
銀の蝶が、春の光を浴びて、まるで羽ばたくように瞬く。
「わたくしは、生きるために生まれたのよ。断罪されるためでも、処刑されるためでもない。この世界で、わたくし自身の物語を歩むために」
彼女の声は、穏やかで、しかし、揺るぎない強さを帯びていた。
「主様。リューベック港との鉄鉱石交易再開の使者が、明朝出立いたします。また、影の庭の正式な情報機関としての再編も、順調に進んでおります」
シアンが、レミリアの傍らに立っていた。
深い紫紺の髪を片側に流し、深い翡翠色の瞳でレミリアを見つめている。左眉の上の古い傷跡が、春の光の中で穏やかに見えた。
彼の腹部には、あの夜の傷の痕が、まだ残っている。
「ええ。交易再開は、わたくしの領地の生命線ですもの。影の庭の再編も、この国を守るために必要なこと。すべて、あなたに任せますわ」
「かしこまりました。主様の御心のままに」
シアンが、深く頭を下げた。
その口元には、あの夜から、ほんの少しだけ柔らかな笑みが浮かぶようになっていた。
「レミリア」
金の髪を春風に揺らして、レンが歩み寄ってくる。
「新しい城の完成が、今から待ち遠しいよ。君と、この領地で、これからの時間を過ごせるかと思うと」
彼の青い瞳が、レミリアだけを真っ直ぐに見つめている。
その熱は、あの夜から、少しも冷めていなかった。
「あなた、王子のくせに、いつまでわたくしの領地にいるつもりですの? 王都に帰らなくてよろしくて?」
「君がいる場所が、僕の帰る場所だ。王都に帰る必要など、どこにもない」
レミリアは、呆れたように息をついた。
「……重いですわね、相変わらず」
「ふふ。君にそう言われると、なぜか嬉しいよ」
レンが、爽やかに笑う。
その笑顔は、太陽のように明るく、しかし、やはりどこか危険な熱を宿していた。
レミリアは、そんなレンを横目に、建設現場を見渡した。
そこには、復興した影の庭の仲間たちがいた。
あの夜、ヴェルンハイムの焼失で失われた十五人の諜報員。彼らの名を刻んだ慰霊碑が、新しい城の敷地の一角に、静かに建てられていた。
「みんな。見ていて。わたくしは、この領地を、この国を、もっと良い場所にしてみせるわ。平民でも、貴族でも、誰もが自分の力で道を切り開ける世界に」
彼女は、銀の蝶を胸に当てた。
「おばあさま。あなたが守ろうとした世界を、わたくしが守るわ。あなたの想いを、わたくしが繋いでいくわ」
春の風が、レミリアの黒髪を優しく揺らした。
銀の蝶が、陽の光を浴びて、きらめく。
「さあ、二人とも。新しい城の設計図を見せるわ。わたくしの計算では、この城は、北東最大の堅牢さと美しさを誇ることになるのよ」
「楽しみだ。君の設計なら、きっと素晴らしい城になる」
「主様の御構想、心より拝見させていただきます」
レミリアは、二人を従えて、建設予定地を歩き出した。
足元の土は、春の陽気で温かく、柔らかかった。
(この土の上に、わたくしの新しい物語が建つ)
彼女のオッドアイが、まっすぐに前を見据えていた。
断罪エンドは、完全に回避された。
原作の筋書きは、打ち砕かれた。
黒幕は倒れ、聖女は失脚し、わたくしは、わたくし自身の物語を歩み始めた。
レミリア・ロザリアンは、春の陽射しの中を、堂々と歩いていく。
その胸元で、銀の蝶が、まるで祝福するように、静かに輝いていた。
(わたくしは、悪役令嬢のまま、この世界を変えていく。それが、わたくしの選んだ道)
風が、新しい城の建設地を吹き抜けていく。
それは、もう、冷たい北風ではなかった。
春の、暖かな、新しい命の風だった。Noveliaとは?
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