悪役令嬢の下剋上。
私は乙女ゲーム『ロザリアン・クロニクル』の世界に、悪役令嬢ミア・ロザリアンとして転生してしまった。ゲームでは断罪されて処刑される、クソみたいな役どころだ。でも、私はこの世界のルールも、攻略対象たちの弱点も、全部知っている。頭を使えば、バッドエンドは回避できる。
最初は静かに生きるつもりだった。でも、待って、平民のままじゃ何もできない。だから前世の知識と策謀を駆使して、王立学園で首席を奪い、貴族たちを蹂躙し、辺境伯にまでのし上がった。人々は震え上がった。彼らは私を『ロザリアンの魔女』と呼んだ。最高の気分だった。
そんなある日、執事のシアンが現れた。「お嬢様、私はあなたに仕えるために生まれてきました」と、女神を崇拝するような献身の眼差しで私を見つめてきた。こいつはイカれている。どんなに冷たく接しても、どんなに残酷な命令を下しても、喜んで従う。ある夜、私が眠るベッドの傍らに立っているのを見て、本気で殺そうかと考えた。でも便利だから、置いておく。
そしてレン王子。ゲームでは爽やかな攻略対象だったのに、こいつも壊れている。「あなたを見た瞬間から、私の目には他の誰も映らない」と、皆の前で告白
悪役令嬢の下剋上。 - 王都の夜会 ― 聖女と王子と、主の知らない執事の顔 ―
王都アルヴェンティアの城壁が、夕暮れの空を背にそびえていた。高さ十五メートルはあろうかという白亜の壁は、西日に照らされて淡い薔薇色に染まり、その威容は見る者すべての足を止めさせる。中央王国最大の都市、人口四十五万。大陸の政治と文化の中心。そして、あの乙女ゲーム『ロザリアン・クロニクル』の断罪イベントが行われる、運命の舞台。
レミリア・ロザリアンは馬車の窓から、その巨大な城壁をじっと見上げていた。腰まで届く艶やかな黒髪が、車窓から差し込む光を受けて青みがかった光沢を放つ。右目は血のように深い赤、左目は夜闇を溶かした紫。その異色の双眸が、遠くに見える王宮の尖塔を捉えていた。
「……来たわね。ここが、すべての始まりの場所」
彼女の声は、馬車の車輪の音に紛れて、ほとんど聞こえないほど小さかった。だが、その小さな声には、二十年間抱え続けてきた覚悟と、ほんのわずかな緊張が込められていた。
向かいの席に座るシアン・クロフォードが、深い翡翠色の瞳を静かに伏せた。深い紫紺の髪を片側に流した端正な顔立ち。黒の執事服を完璧に着こなし、左眉の上にある小さな古い傷跡が、夕日に照らされてかすかに浮かび上がる。彼は白手袋に包まれた指先で、膝の上に置いた書類の束を整えながら、穏やかな声で応じた。
「お嬢様。王都アルヴェンティアでございます。ロザリアン家別邸までは、あと半時ほどで到着いたします」
レミリアは窓の外に視線を向けたまま、小さく頷いた。城壁の内側には、無数の家々の屋根が連なり、遠くに大聖堂の大きなドームが見える。王立学院の尖塔も、その向こうにそびえていた。
(この街で、私は断罪される運命だった。ゲームの中ではね)
彼女は胸元の銀の蝶のネックレスに、そっと指を触れた。祖母の形見。冷たい銀の感触が、高鳴り始めた心をわずかに落ち着かせてくれる。
この世界は、彼女が前世で没頭した乙女ゲーム『ロザリアン・クロニクル』を原作としている。だが、彼女が七歳で転生してから十三年が経った今、この世界は既にゲームの筋書きから大きく外れ始めていた。レミリアは平民上がりの悪役令嬢として、原作では十八歳で断罪され処刑される運命だった。しかし彼女は、前世の知識と戦略眼を駆使して小男爵領を北東最大の辺境伯領へと押し上げ、『ロザリアンの魔女』として大陸にその名を轟かせるまでに成り上がった。
断罪イベントの時期は、とうに過ぎた。だが、油断はできない。影の庭——彼女が独自に築いた諜報組織——からの報告によれば、王立学院では既に原作のヒロインである聖女候補ミア・セレスティアが、レン王子と親密にしているという。
(原作通りなら、一年後の新年の晩餐会で婚約破棄。そして、処刑。……そんな結末、絶対に迎えない)
レミリアは窓枠に手を置き、流れゆく王都の風景を目に焼き付けた。石畳の大通り、行き交う馬車、華やかな看板を掲げる商店。平民たちが忙しなく歩き、貴族の馬車が彼らを追い抜いていく。この街のすべてが、彼女の運命を賭けた戦場になる。
「シアン。明日の夜会では、絶対に私の側を離れないで」
レミリアは窓の外を見たまま、静かに命じた。
「かしこまりました。お嬢様の御側を、片時も離れません」
シアンは完璧な執事の微笑みを浮かべて応じた。その声には一片の淀みもなく、恭しさだけが満ちている。だが、彼の内面は違った。
(主様が、あの夜会で出会うであろう、愚かな男ども。貴族の若造どもが、主様を値踏みするような目で見る。その一人ひとりの顔を、この手で引き裂いてやりたい)
シアンの心の奥底で、どす黒い感情が渦を巻いていた。レミリアへの絶対的な忠誠心。それは彼の存在理由そのものであり、同時に、彼女に近づくすべての他者への激しい嫉妬と殺意の源泉でもあった。彼はそれを、完璧な笑顔の下に、深く深く沈める。
馬車は王都の中央を貫く大通りを進み、貴族街の一角にあるロザリアン家別邸へと向かっていた。
──翌晩。
王宮の大広間は、無数の魔導灯の光に照らされ、昼間のような明るさに満ちていた。高い天井には金箔の装飾が施され、壁には歴代国王の肖像画が並ぶ。広間の中央には、色とりどりのドレスを身にまとった貴族令嬢たちが集い、その周囲を、剣帯を腰に下げた貴族子弟たちが取り囲んでいた。
王立学院入学前夜の歓迎夜会。大陸最高峰の教育機関に入学を許された若者たちが、王宮に招かれる晴れの場である。学院では毎年、首席を決める試験が行われ、首席を取った者は貴族社会での発言権を得る。それゆえ、この夜会は単なる社交の場ではなく、入学前から始まる激しい競争の、最初の戦場でもあった。
大広間の扉が開き、レミリアが姿を現した瞬間、場の空気が変わった。
深紅のドレスに身を包み、黒髪を高い位置で結い上げた彼女の姿は、この華やかな夜会の中でも異彩を放っていた。右目は血のように深い赤、左目は夜闇を溶かした紫。そのオッドアイが、広間を見渡す。彼女が一歩踏み出すたびに、周囲の貴族たちが言葉を止め、視線を向ける。
「……あれが、ロザリアンの魔女」
「平民上がりの分際で、辺境伯だなんて。どんな手を使ったのかしら」
聞こえよがしな囁きが、あちこちから聞こえてくる。レミリアはそれを、まるで風の音のように聞き流した。むしろ、その程度の反応は想定の範囲内だ。彼女は背筋を伸ばし、冷ややかな微笑みを浮かべたまま、広間の中央へと進んだ。
その後ろを、シアンが静かに歩く。彼は一歩下がった位置で、レミリアの周囲に集まる視線を、無表情のまま観察していた。
(主様を見るな。その汚らわしい目で、主様を視界に入れるな)
彼の内心は、既に殺意で満ちていた。だが、表向きは完璧な執事の顔を崩さない。
レミリアが広間の中央に差し掛かった時、一人の少女が、人垣をかき分けるようにして彼女の前に現れた。
桃色がかったピンクのふわふわした巻き髪。澄み切った水色の瞳。百人に一人が振り返る愛らしい美貌。笑顔にすると右頬にえくぼができる、可憐な少女。白と淡い桃色を基調とした聖女候補の礼装を身にまとい、その姿はまるで、光の女神セレスティアの祝福を受けたかのように輝いていた。
ミア・セレスティア。セレスティア聖王国から派遣された平民出身の聖女候補であり、原作『ロザリアン・クロニクル』のヒロイン。レン王子の正規ルート相手。そして、レミリアを断罪へと追い込む、最大の恋敵。
「まあ、あなたがレミリア様ですの? お噂はかねがね、伺っておりますわ」
ミアは両手を胸の前で組み、無邪気な笑顔を浮かべてレミリアに近づいた。その声は鈴を転がすように愛らしく、周囲の貴族子弟たちが思わず微笑む。
「わたくし、セレスティア聖王国より参りました、ミア・セレスティアと申します。これから王立学院でご一緒させていただくことになりますの。どうぞ、よろしくお願いいたしますわ」
彼女は深々と礼をした。その仕草は、聖女候補としての訓練を積んだ者のそれで、一分の隙もない。
レミリアは、その笑顔を正面から見据えた。
(この女。表向きは完璧な聖女。でも、目が笑っていない)
ミアの水色の瞳の奥に、一瞬、鋭い光が走った。それは、レミリアの美貌と才気に対する、激しい敵意と嫉妬。ほんの一瞬の出来事だったが、レミリアの眼はそれを見逃さなかった。
(前世のゲームで、さんざん見てきた顔だわ。ミア・セレスティア。表向きは聖女、実は腹黒い野心家。レン王子を人生の上がり口と定めて、手段を選ばない女)
レミリアは、ゆっくりと口元をほころばせた。冷たい微笑み。彼女の右目が、魔導灯の光を受けて、かすかに赤く発光する。
「あら、ご丁寧にありがとう。わたくしはレミリア・ロザリアン。ロザリアン辺境伯領の主ですわ。ミア様こそ、聖女候補としてのお噂は、北東の辺境にまで届いておりますのよ」
レミリアは、ミアの言葉に負けず劣らず優雅に応じた。二人の間に、静かな緊張が走る。
ミアは、その笑顔を一瞬も崩さなかった。だが、心の中では舌打ちをしていた。
(は? 何こいつ。平民上がりのくせに、聖女候補の私にタメ口きいてるんだけど。頭が良すぎて恐ろしい女。こんなのが学院に来たら、私の計画が台無しになる)
ミアは内心の苛立ちを完璧に隠し、周囲の貴族子弟たちに向かって、声を潜めて言った。
「……ねえ、ご存知? レミリア様って、元々は平民だったんですって。それなのに、あんなに堂々としていらっしゃるなんて、素敵ですわね。……あ、でも、平民上がりの魔女って、皆さん言っているみたいですけど、わたくしは信じていませんのよ。だって、そんな噂、根も葉もないことでしょう?」
彼女は、まるでレミリアを擁護するかのような口調で、しかし確実に『平民上がりの魔女』という言葉を、周囲の貴族子弟たちの耳に植え付けた。巧妙なやり方だった。
貴族子弟たちが、ざわざわと囁き始める。
「平民上がりが、この夜会に? 身の程知らずにもほどがある」
「でも、ロザリアンの魔女って呼ばれてるほどの実力者らしいぜ。逆らわない方がいいんじゃないか?」
レミリアは、その囁きの数々を、静かに聞き流した。むしろ、この状況こそが、彼女の計算のうちだった。
(あえて噂を否定しない。否定すればするほど、噂は強くなる。それよりも、堂々と振る舞うことで、下級貴族たちの関心を引く。あの子たちは、上級貴族に虐げられて育ってきた。平民上がりの私が、上級貴族の嫌がらせを受け流す姿は、彼らの共感を呼ぶはず)
レミリアの読みは、すぐに的中した。広間の片隅で、数人の下級貴族の子弟たちが、レミリアの姿をじっと見つめている。その目には、好奇心と、わずかな期待が宿っていた。
その時だった。
大広間の扉が、再び大きく開かれた。
先触れの声が響く。
「第一王子、レン・アルヴェンティア殿下のおなーりー」
広間中の空気が、一瞬で張り詰めた。すべての視線が、扉へと向けられる。
現れたのは、太陽の光を集めたような金色の髪を持つ、一人の青年だった。澄み切った空のような青い瞳。誰もが振り返る完璧な美青年。微笑むと右頬に深いえくぼができる。左耳には小さな銀のピアス——母后の形見。身長は百八十五センチ。白と金を基調とした王族の礼装が、彼の姿を一層神々しく見せていた。
レン・アルヴェンティア。中央王国アルヴェンティアの第一王子。原作『ロザリアン・クロニクル』の正規攻略対象であり、本来のヒーロー。
だが、レミリアは知っていた。この世界のレン王子は、原作の爽やかで一途な王子とは、似ても似つかない存在になり果てていることを。
レンは大広間に入るなり、真っ直ぐに、レミリアだけを見た。
彼の青い瞳が、レミリアの姿を捉えた瞬間、その瞳に、異様な熱が宿った。
周囲の貴族たちが、息を呑む。レン王子が、誰を見ているのか。その視線の先にいるのが、平民上がりの辺境伯令嬢であることに、誰もが気づいた。
レンは、ゆっくりと、レミリアに向かって歩き出した。群衆が自然と道を開ける。その歩みは、まるで運命に導かれるかのように、迷いがなかった。
レミリアのすぐ前に立つと、レンは、深く、息を吐いた。
「……やっと、会えた」
その声は、広間にいる誰にも聞こえないほどの小さな囁きだった。だが、レミリアの耳には、はっきりと届いた。
レンの青い瞳が、レミリアのオッドアイを、じっと見つめる。その瞳には、原作には存在しない、異常なほどの独占欲と、重い執着が宿っていた。
(なに、この目。ゲームのレン王子は、こんな目をしていなかった。爽やかで、誠実で、一途で。でも、今のこの目は——まるで、獲物を狙う獣みたい)
レミリアは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。だが、同時に、彼女の頭脳は冷静に回転していた。
(これは好機。王子の婚約者候補としての立場を盤石にするためには、彼の関心を引くことが必要。この異常な執着を、逆手に取る)
レミリアは、優雅にカーテシーをした。
「お初にお目にかかります、レン殿下。ロザリアン辺境伯領より参りました、レミリア・ロザリアンと申します」
レンは、その礼を見つめながら、微かに笑った。
「知っているよ。君のことは、ずっと前から。……レミリア」
彼は、レミリアの名前を、まるで宝物のように、ゆっくりと呼んだ。
「……殿下、わたくしのことをご存じで?」
レンは、一歩、レミリアに近づいた。二人の距離が、一メートルもなくなる。
「知っている。君が、七歳の時に、初めて領地改革を始めたことも。八歳で、ヴェルンハイム地下遺跡を探索したことも。十歳で、獣人傭兵部隊を組織したことも。……僕は、君のすべてを知っている」
レミリアの心臓が、跳ねた。
(八歳の時の遺跡探索。あれは、ごく限られた者しか知らないはず。それを、なぜ、この王子が……)
レンの青い瞳は、レミリアを捉えて離さない。その瞳の奥には、狂気にも似た、一途な光があった。
「君のことを、八年前から、ずっと見ていた。君は、僕の運命の人だ」
広間中が、静まり返った。
第一王子が、平民上がりの辺境伯令嬢に、公然と『運命の人』と告げた。この瞬間、レミリア・ロザリアンという存在は、王都の社交界において、誰も無視できない存在になった。
ミアは、その光景を、人垣の向こうから見つめていた。
(何、あの女。王子様が、あんな目で、あんな声で、あんなこと言ってる。ありえない。王子様は、私のものなのに。私が、苦労して、ここまで取り入ってきたのに)
ミアの水色の瞳が、一瞬、毒蛇のように冷たく光った。彼女は、自分の爪が手のひらに食い込むほど、拳を握りしめていた。
レンは、レミリアに手を差し伸べた。
「一曲、踊ってくれないか。君と話がしたい」
レミリアは、一瞬だけ迷った。だが、断る理由はない。むしろ、これは願ってもない機会だ。
「光栄に存じますわ、殿下」
彼女は、レンの手に、自分の手を重ねた。
その瞬間、広間の片隅で、シアンの翡翠色の瞳が、鋭く光った。
(主様に、触れるな。その手を、切り落としてやる)
シアンは、完璧な執事の微笑みを浮かべたまま、静かに拳を握りしめた。白手袋の下で、指が骨が鳴るほどに強く握られる。彼の内心は、レン王子への激しい殺意で、真っ黒に染まっていた。
だが、彼は動かなかった。レミリアが、自らレンの手を取った。主様の意思を、妨げることはできない。
(主様が望むなら、私は耐える。どれほど、この胸が張り裂けそうでも)
シアンは、静かに目を閉じた。
音楽が始まった。
レンとレミリアは、広間の中央で、ワルツを踊り始めた。
レンのリードは、完璧だった。彼の手は、レミリアの背中に、優しく、しかし確実に置かれている。二人の息が、触れ合うほどの距離。
「レミリア。君は、僕のことを、どう思う?」
レンが、レミリアの耳元で囁いた。その声は、低く、熱を帯びていた。
レミリアは、踊りながら、冷静に答えた。
「殿下は、民に愛される、立派な王子様だと存じておりますわ」
レンは、微かに笑った。
「違う。そうじゃない。僕は、君に、どう思われているかを聞いている」
彼の青い瞳が、レミリアのオッドアイを、真っ直ぐに見つめる。
(重い。この王子、一挙手一投足が、重すぎる)
レミリアは、内心でため息をついた。だが、彼女は動じなかった。
「わたくしは、まだ殿下のことを、よく存じ上げませんわ。これから、王立学院で、少しずつお近づきになれればと思っておりますの」
これは、計算だった。『まだ知らない』と言うことで、彼の興味を引き、追わせる。
レンの目が、一層、熱を帯びた。
「そうだね。これから、いくらでも知ればいい。君は、これからずっと、僕の側にいるんだから」
レミリアの胸が、不覚にも、高鳴った。
(なに、この感じ。ゲームのレン王子は、もっと爽やかで、軽やかだった。でも、今のこの人は、言葉の一つ一つが、鎖みたいに、私に絡みついてくる)
彼女は、心臓の鼓動を、必死に押し殺した。
(これは、恋じゃない。警戒心。そう、警戒心よ。原作にないイレギュラー。この王子の異常な執着は、何かがおかしい。原因を突き止めなければ)
曲が終わった。
二人は、広間の中央で、向かい合った。
レンは、レミリアの手を、離さなかった。
「少し、外の空気を吸わないか。庭園が、綺麗なんだ」
レミリアは、わずかに目を細めた。二人きりになる。危険な誘いだ。だが、彼の真意を探るには、絶好の機会でもある。
「ええ、喜んで」
二人は、広間を出て、王宮の庭園へと向かった。
その後ろ姿を、シアンが、無表情で見送る。
(主様が、あの男と、二人きりで。……主様が、私の知らない場所で、あの男の手に触れられている)
シアンの翡翠色の瞳が、魔導灯の光を反射して、不気味に輝いた。彼は、静かに、二人の後を追った。
──王宮庭園。
月明かりが、白いバラの咲き乱れる庭園を、青白く照らしていた。噴水の水音が、静かな夜に響く。遠くから、夜会の音楽が、かすかに聞こえてくる。
レンとレミリアは、噴水のそばのベンチに、並んで座っていた。
沈黙が、流れる。
先に口を開いたのは、レンだった。
「レミリア。君は、なぜ、そんなに強いんだ」
レミリアは、噴水の水面を見つめながら答えた。
「強くなければ、生きていけませんでしたから」
レンは、ゆっくりと、レミリアの手を取った。
彼の手は、温かく、そして、かすかに震えていた。
「僕は、君を、誰にも渡さない。王位も、何もかも、捨てて構わない」
レミリアは、息を呑んだ。
(この人は、本気で言ってる。王位を捨てる? 第一王子が? そんなことを、簡単に口にするなんて)
彼女は、レンの手を、そっと振りほどこうとした。だが、レンは、彼女の手を、強く握りしめた。
「君は、僕のものだ。……そうだろう?」
その言葉には、問いかけの形をとりながら、有無を言わせない強さがあった。
レミリアは、深呼吸をした。
「殿下。わたくしは、まだ、あなたの婚約者ではありませんわ。そんな言葉を、軽々しく口になさるものではありません」
彼女の声は、静かだったが、鋭い刃のような冷たさがあった。
レンは、その言葉を聞いて、微かに笑った。
「軽々しく? 僕は、君に対して、軽々しいことなど、一度も言ったことはない」
彼は、レミリアの手を、自分の唇に、そっと近づけた。
その時だった。
「王子様。主様に、あまり近づかれますと、私、何をしでかすか、わかりませんので」
静かな、しかし、凍りつくような声が、庭園に響いた。
レンとレミリアが、同時に振り返る。
そこには、月明かりの下に立つ、シアンの姿があった。彼は、完璧な執事の微笑みを浮かべていた。だが、その笑顔の下に、抑えきれない殺意が、渦巻いているのが、レミリアにも、レンにも、はっきりと感じ取れた。
レンは、レミリアの手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「君こそ、彼女の執事という立場を、弁えたまえ。主人の恋路を邪魔するなど、使用人として、失格ではないか?」
レンの青い瞳が、冷たく光る。
シアンは、一歩も引かなかった。
「お嬢様は、私の主様でございます。主様に近づく、あらゆる危険から、お守りするのが、私の使命。たとえ、それが、王族であろうとも」
二人の間で、火花が散る。
レミリアは、その光景を、呆然と見つめていた。
(なに、この二人。私を挟んで、殺気を飛ばし合ってる。……というか、シアン。あんた、いつからそこにいたのよ。空気を読みなさいよ、空気を)
彼女は、こめかみを押さえた。
「……二人とも、わたくしの目の前で、何をやっているのかしら。みっともないわよ」
レミリアの一言で、二人の殺気が、わずかに和らいだ。
レンは、レミリアに向き直り、優雅に一礼した。
「失礼。君を驚かせてしまったね。……また、学院で会おう。レミリア」
彼は、そう言うと、庭園を後にした。
レミリアは、深く息を吐いた。
「シアン。あんた、何を考えてるの。王子に、あんなことを言うなんて」
シアンは、レミリアの前に跪いた。
「申し訳ございません、お嬢様。ですが、あの男は、お嬢様に対して、あまりにも無礼でした。お嬢様の御手に、勝手に触れるなど、万死に値します」
レミリアは、シアンの頭を、ぽんと叩いた。
「……あのね、あれは、私が許したの。婚約者候補として、王子の関心を引く必要があるのよ。あんたが、いちいち殺気を飛ばしてたら、私の計画が台無しになるでしょ」
シアンは、顔を上げた。
「お嬢様の計画は、私の命よりも重い。ですが、あの男が、お嬢様に触れるのを、私は、黙って見ていることができません」
レミリアは、その翡翠色の瞳を見下ろした。
(この執事、本当に、私のことになると、周りが見えなくなるのね。……でも、その忠誠心は、ありがたい。いや、ありがたすぎて、ちょっと怖いわ)
彼女は、小さく笑った。
「……分かったわ。でも、次からは、私の指示なしに、勝手なことはしないで。いいわね?」
「かしこまりました。お嬢様の御心のままに」
シアンは、深々と頭を下げた。
──夜会の終盤。
レミリアが広間に戻ると、ミアが、レンの袖を引いているのが見えた。
「王子様、ご挨拶がまだですわ。わたくし、王子様とお話ししたくて、ずっとお待ちしておりましたの」
ミアは、レンの腕に、自分の腕を絡ませるようにして、親しげに振る舞った。
レンは、微かに眉をひそめたが、王子としての礼儀上、それを振りほどくことはしなかった。
「ああ、ミア嬢。すまない。少し、庭園に出ていた」
ミアは、レミリアの姿を見つけると、わざとらしく、声を張り上げた。
「あら、レミリア様。ちょうどよかったですわ。ねえ、王子様。レミリア様って、平民上がりの魔女と噂されていますけれど、わたくし、そんなの気にしませんの。だって、レミリア様は、きっと何か企んでいらっしゃるのでしょう? それくらい、有能でなければ、辺境伯なんて、なれませんものね」
彼女は、完璧な聖女の笑顔のまま、穏やかな口調で、毒を吐いた。
広間の空気が、静かに凍りつく。
レミリアは、その挑発を、正面から受け止めた。
(なるほど。これが、原作のヒロインの本質。表向きは聖女、中身は毒蛇。……でも、そんな浅い挑発で、私が動揺するとでも思ってるのかしら)
レミリアは、ゆっくりと、ミアに近づいた。
「ミア様こそ、聖女の仮面を、大切になさってくださいませ。その仮面が、剥がれてしまわないように」
レミリアの声は、氷のように冷たかった。
ミアの笑顔が、一瞬、引きつった。
(こいつ、私のことを、どこまで知ってるの? 仮面が剥がれる? 私の本性を、見抜いてるってこと?)
ミアの水色の瞳が、冷たく光る。二人の間に、目に見えない火花が散った。
レンは、その二人のやり取りを、静かに見つめていた。
「ミア嬢。レミリアを、侮辱するのは、やめてもらおうか。彼女は、僕の、大切な人だ」
レンの声は、低く、威厳に満ちていた。
ミアは、その言葉に、一瞬、顔を強張らせた。だが、すぐに、可憐な笑顔を取り戻した。
「まあ、王子様。わたくし、侮辱なんてしておりませんわ。レミリア様を、尊敬しておりますの。本当ですのよ?」
彼女は、レンの腕に、さらに強く、自分の腕を絡ませた。
レミリアは、その光景を、冷ややかな目で見つめていた。
(ミア・セレスティア。この女こそ、原作の断罪ルートの鍵を握る人物。彼女が、レン王子を手に入れるために、私を陥れようとする。……でも、私は、前世の知識で、彼女の手の内を、すべて知っている)
レミリアは、静かに、微笑んだ。
(ゲームの通りに進むと思うなよ。ミア・セレスティア。お前の企みは、すべて、私が打ち砕いてやる)
夜会は、そうして、静かに、しかし確実に、不穏な空気を孕みながら、幕を閉じた。
──ロザリアン家別邸。
レミリアは、自室のソファに深く腰を下ろし、天井を見上げていた。
(疲れた。夜会って、戦場よりも疲れるわ。特に、あの王子と、あの聖女。二人とも、私の予想を遥かに超えて、面倒くさい)
彼女は、深紅のドレスを脱ぎ捨て、ゆったりとした部屋着に着替えていた。
コンコン、と、扉がノックされる。
「お嬢様。影の庭より、緊急の報告が届いております」
シアンの声が、扉の向こうから聞こえた。
「入って」
シアンが、静かに入室する。彼の手には、一枚の羊皮紙が握られていた。
「先ほど、王都に潜伏しております諜報員より、緊急の連絡が。お読みになりますか?」
レミリアは、頷いた。
シアンは、羊皮紙を、レミリアに手渡した。
レミリアは、それを広げ、月明かりの下で、内容を読んだ。
『王都アルヴェンティアにて、原作ゲームには存在しない謎の組織が、古代魔導文明の遺産を探して暗躍している形跡あり。彼らは、『黒の魔眼』の存在を異常に注視している。さらに、この組織は、王立学院の有力貴族子弟、および王宮の一部の廷臣に、浸透している可能性が高い』
レミリアの指が、羊皮紙を握りしめた。
「……黒の魔眼を、狙っている?」
彼女の左目、夜闇を溶かした紫の瞳が、微かに光った。
黒の魔眼。八歳の時に、ヴェルンハイム地下遺跡で覚醒した、彼女の最大の秘密。闇属性魔法の威力を三倍に高め、相手の魔力を見ることができる、極めて稀な才能。だが、それは同時に、彼女を危険に晒すものでもある。
(この世界に、黒の魔眼のことを知っている者など、ごく僅か。シアンと、私の側近数人だけ。なのに、なぜ、謎の組織が、その存在に気づいている?)
レミリアは、羊皮紙を、燭台の火に近づけた。
炎が、羊皮紙を、ゆっくりと燃やしていく。
「シアン。この報告、他に誰が見た?」
「私と、報告書を運んだ諜報員のみでございます」
レミリアは、燃え尽きていく羊皮紙を見つめながら、静かに言った。
「……原作の断罪エンド。あれは、ゲームの筋書きじゃない。黒幕によって、仕組まれていた可能性がある。私を処刑することで、黒の魔眼を、手に入れようとしているのかもしれない」
彼女の声は、冷たく、しかし、どこか興奮を帯びていた。
(謎が、深まった。でも、同時に、道も見えた。この黒幕を暴くことが、断罪エンドを回避する、唯一の方法)
レミリアは、立ち上がった。
「シアン。明日の入学式から、すべてが始まるわ。恋の鞘当てと、陰謀の影。どちらも、私の手で、打ち砕いてみせる」
シアンは、レミリアの傍らに、静かに歩み寄った。
「お嬢様。私は、どこまでも、お供いたします。たとえ、この身が、闇に呑まれようとも」
彼は、レミリアの手を、そっと取った。
レミリアは、その手を、振りほどかなかった。
「……ありがとう、シアン。あんたがいてくれるなら、百人力よ」
シアンの翡翠色の瞳が、月明かりを受けて、甘い光を宿した。
(主様が、私に、ありがとうと。……この言葉だけで、私は、この先、どんな地獄でも耐えられる)
彼は、レミリアの手を、恭しく、自分の額に押し当てた。
夜は、静かに、更けていった。
王都アルヴェンティアの空に、無数の星が輝く。その星々の下で、恋の鞘当てと、陰謀の影が、音もなく動き始めていた。Noveliaとは?
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