チ。 ―星を継ぐ者―
星を識ることは、禁忌とされていた。
十五世紀、動かない大地を中心に天が回る——それが教会の定めた真理。下働きの少女ヨレンタは、けれど知ってしまった。母の遺した星語辞典の余白に、公認星図と実際の空との、ほんの僅かな「ずれ」を。
夜ごと屋根裏に忍び、窓枠の傷に星を重ねて記録を続ける三年間。知りたいという渇望だけが、冷たい石造りの屋敷での孤独を支えていた。
転機は、星読みの塔に貼り出された難問だった。「惑星の逆行運動を説明せよ」——誰も解けなかったその問題に、ヨレンタはたった半日で答えを導き出す。天動説を揺るがす、あまりに単純で、あまりに美しい答えを。
だが、差し出した解答を見た司祭は言った。「女の下働きが、こんな計算をできるはずがない」と。
禁忌に触れた少女の小さな一歩は、やがて世界の常識を揺るがす渦へと繋がっていく。星と星を継ぐ者の、恋と渇望と革命の物語。
チ。 ―星を継ぐ者― - 雨の訪れ人――天才が見た原石と、女が抱えた恐れ
晩秋の雨が、ピャスト伯の屋敷の石壁を濡らしていた。
空は朝から厚い雲に覆われ、昼前だというのに薄暗い。台所の窓から見える中庭の木々は、雨に打たれて枝を震わせていた。
ヨレンタは、大きな木桶に張った水で、山のような芋を洗っていた。指先が冷たくて、感覚がなくなってくる。亜麻色の前髪が湿気で頬に張りつくのを、何度も手の甲で払った。
(この雨、今日は止みそうにないわ)
そんなことを考えながら、泥のついた芋の皮をこそげ落とす。この仕事は嫌いじゃない。単純で、手を動かすことに集中できるから。でも、こうして黙々と働いていると、どうしても考えてしまう。
五日前のことを。
星読みの塔に、難問の解答を提出した。あの司祭たちの驚いた顔。女の下働きが、あんな問題を解いた。その事実は、もう消せない。
あれから毎日、ヨレンタは生きた心地がしなかった。噂はどう広がっているだろう。誰かが、自分を異端だと密告したりしないだろうか。
(でも、あの時の気持ちは、嘘じゃない)
もっと星を知りたい。もっと計算したい。あの塔の階段を上りながら感じた、胸の奥から込み上げてくるもの。それは、恐怖よりも強かった。
「ヨレンタ、芋はまだか!」
台所の奥から、マルタの鋭い声が飛んできた。五十代の女中頭は、太い腕を組んで、眉を吊り上げている。
「すみません、今終わります」
ヨレンタは慌てて手を動かした。マルタは、じろりとヨレンタを睨むと、鼻を鳴らして大鍋の方へ戻っていく。
この屋敷で、ヨレンタの立場は弱い。下働きの中でも一番若く、一番口をきかない。星を見ていることが知られてからは、余計に腫れ物扱いされた。女中たちは、ヨレンタの前でわざとらしく星の話をしては、くすくす笑う。
(気にしない。気にしたら負け)
ヨレンタは、心の中で何度も繰り返した。
その時だった。
「おい、誰か来たぞ」
若い下男が、勝手口から顔を出して言った。
「修道士だ。それも、ずいぶんみすぼらしい格好の」
台所の空気が、一瞬で変わった。修道士が屋敷を訪ねることは珍しくない。でも、こんな雨の日に、みすぼらしい格好で、勝手口から。
マルタが、怪訝な顔で窓の外を覗く。
「あんた、ちゃんと身分を確かめたのかい」
「それが、ピャスト伯様にお目通りを、って。星読みの塔のことで話があるとか」
星読みの塔。
ヨレンタの心臓が、どきりと跳ねた。
(星読みの塔のことで……?)
まさか。まさか、あの解答のことで?
「こんな雨の中を、ご苦労なこった。でも、あんな薄汚れた修道士を、屋敷に上げるわけにはいかないよ。追い返しておし」
マルタが、吐き捨てるように言った。
「それが、どうしても会わせろって、聞かないんです」
下男が、困った顔で言う。
「あの目、見ました?両目とも焼かれてるんです。なのに、こっちの気配が全部わかってるみたいで。気味が悪くて」
両目が、焼かれている。
ヨレンタの手が、止まった。
(目を焼かれた修道士……)
この世界で、目を焼かれる刑罰を受けるのは、どんな罪を犯した者だ。異端。星律異端の疑いをかけられた者。
「おい、ヨレンタ。何をぼさっとしてる。芋を鍋に入れておしまい」
マルタの声に、ヨレンタは我に返った。
「はい」
洗った芋を、大鍋に移す。湯気が顔に当たって、少しだけ温かい。
でも、心の中は、ざわざわと落ち着かなかった。
その時、勝手口の方から、声が聞こえた。
低くて、よく通る声。雨音に混じって、はっきりと耳に届く。
「私は、ピャスト伯家の台所にいる、ある人物に会いに来た」
台所にいた全員が、動きを止めた。
「星読みの塔に掲示された難問を、半日で解いたという娘に。彼女は、この屋敷で働いているはずだ」
ヨレンタの体が、硬直した。
(私に会いに……?)
「な、なんだって?」
マルタが、勝手口の方へ歩いていく。
「あんた、何を言ってるんだい。うちに、そんな娘はいないよ」
「嘘をつくな。この屋敷の使用人たちが、塔で騒ぎになったと話しているのを、私はこの耳で聞いた。女が難問を解いたと。彼女はどこにいる」
声の主が、勝手口の段差を、杖で探りながら上ってくる。
ヨレンタは、その姿を見た。
焦げ茶色の短髪は雨に濡れ、額に張りついている。無精髭が頬を覆い、左こめかみには古い火傷の跡。そして、両目。
白濁した、光のない目。
でも、その顔には、はっきりと意志があった。左頬から顎にかけて走る、古い決闘の傷跡。その傷が、この男がただの修道士ではないことを物語っている。
長い木の棒を杖代わりにして、ゆっくりと、しかし迷いなく、台所の中へ入ってくる。
「……君か」
男の顔が、ヨレンタの方を向いた。
目が見えないはずなのに、ヨレンタのいる場所を、正確に見つめている。
「君が、あの解答を書いた娘だな」
ヨレンタは、声が出せなかった。
「おい、あんた。勝手に上がり込むんじゃないよ!」
マルタが、男の前に立ちはだかる。
「ここはピャスト伯様の台所だ。あんたみたいな薄汚い修道士が、土足で入ってくる場所じゃない。それに、その目。あんた、異端の疑いをかけられた者だろ。うちには関わり合いになってもらいたくないんだ」
マルタの声は、嫌悪と恐怖で震えていた。
「異端の疑い、か」
男は、小さく笑った。
「私の目を焼いた者たちは、私の研究を『異端の疑い』と断じた。だが、私はこうして生きている。星の動きを、計算し続けながら」
男の言葉に、台所の空気が凍りついた。
星の動きを、計算する。修道士でありながら、星の研究をしている。それは、教会に逆らうも同然の行為だ。
「君の名は」
男が、ヨレンタに問いかけた。
「ヨレンタ、と申します」
ヨレンタは、ようやく声を絞り出した。
「ヨレンタ。いい名前だ。私はバデーニ。元星学院首席卒業生、現、辺境の修道院で燻っているただの修道士だ」
星学院。
その名前は、ヨレンタも知っていた。星典教会の最高学府。星読みになるための、唯一の学校。女性には入学が許されない、あの場所。
「星学院の……首席……」
「過去の話だ。今は、目を焼かれた落ちこぼれよ」
バデーニは、自嘲するように言った。
「あんた、何しに来たんだい。うちのヨレンタに、何の用だ」
マルタが、鋭く問い詰める。
「用は、ひとつだけだ」
バデーニは、白濁した目を、まっすぐにヨレンタへ向けた。
「あの解答は、偽物だ」
え、と、ヨレンタの口から息が漏れた。
「……偽物?」
「ああ。あの難問は、私が星読みの塔の掲示板に貼り出したものだ。天体の逆行運動に関する、星学院でも三年生以上でなければ解けない問題。それを、女の下働きが半日で解いた?笑わせる。どこかで答えを盗み見たか、誰かに手伝ってもらったに違いない」
バデーニの口調は、最初から最後まで傲慢だった。
「あの解答は、私が一人で書きました」
ヨレンタの声が、少しだけ強くなった。
「誰の助けも借りていません。あの難問は、逆行運動の周期を、三つの仮定に分けて計算すれば解けます。私は、それを順番に解いただけです」
「ほお。三つの仮定だと?」
バデーニの口元が、わずかに動いた。
「ならば、その場で証明してみせろ。私の前で、計算の過程を語れ」
「……ここで、ですか?」
「そうだ。ここで、だ」
ヨレンタは、周囲を見た。マルタと女中たちが、好奇と軽蔑の入り混じった目でこちらを見ている。下男たちも、手を止めて成り行きを見守っていた。
(ここで、計算を……?)
でも、バデーニの挑発的な口調に、ヨレンタの心の奥で、何かが燃え上がった。
悔しい。偽物だと言われて、黙っていられるほど、ヨレンタは大人じゃない。
「……わかりました。お聞かせします」
ヨレンタは、濡れた手をエプロンで拭くと、指先を空中に走らせた。
「まず、惑星の逆行運動は、天動説の円運動だけでは説明できません。そこで、星図には『周転円』という小さな円が描かれます。惑星は、大きな円の上を回りながら、さらに小さな円を描いて動く。この二重の円運動によって、逆行を説明しようとしているんです」
「続けろ」
バデーニが、低く促した。
「でも、この周転円の計算には、矛盾があります。惑星の明るさの変化が、周転円の大きさと合わない。だから、私は三つの仮定を立てました。一つ、惑星の軌道は完全な円ではない。二つ、地球は宇宙の中心から少しずれている。三つ、惑星の速度は一定ではない」
ヨレンタの声は、もう震えていなかった。
「この三つの仮定を使って、観測記録と照らし合わせながら計算すると、逆行運動の周期が、ほぼ正確に求められます。私が塔に提出した解答は、この計算を全部書いたものです」
台所に、沈黙が落ちた。
雨音だけが、しんしんと響く。
バデーニは、何も言わなかった。白濁した目で、ヨレンタの顔をじっと見つめている。その顔から、さっきまでの傲慢な表情が消えていた。
「……なるほど」
長い沈黙の後、バデーニが口を開いた。
「君は、私が想定していたよりも、はるかに深く計算を理解している」
「え……?」
「偽物だと言ったのは、試しだ。君が本当に自分の頭で考えたのか、誰かの受け売りなのかを見極めるためのな」
バデーニは、杖を床に置くと、ゆっくりと拍手をした。
「見事だ。あの難問を、女の下働きが、独学で、半日で解いた。しかも、周転円の矛盾にまで気づいている。君の才能は、本物だ」
ヨレンタは、何が起きているのか、一瞬理解できなかった。
(試し……?私を、試していたの?)
「君の才能は、ここに埋もれさせるには惜しい」
バデーニの声が、急に真剣なものに変わった。
「ヨレンタ。君は、星の真理を知りたいか」
星の真理。
その言葉に、ヨレンタの心臓が、大きく跳ねた。
「星の……真理」
「ああ。この世界の空が、本当はどう動いているのか。教会が教える天動説が、真実なのか。それとも、別の答えがあるのか。君は、知りたくはないか」
バデーニの声は、雨音を突き破るように、はっきりとヨレンタの耳に届いた。
「……それは」
ヨレンタの喉が、震えた。
知りたい。
そんなの、決まっている。三年前に星図のずれに気づいてから、ずっと知りたかった。教会の教えが、本当に正しいのか。それとも、自分が見つけたずれが、何かの真実に繋がっているのか。
でも。
「私、女ですから」
ヨレンタは、俯いた。
「女が、星の研究なんて。それに、星の真理を追うことは、異端になることです。星律禁令があります。地動説を唱えた者は、火刑に処される。私には、できません」
「才能に、性別は関係ない」
バデーニは、一言で切り捨てた。
「君が女だろうと、下働きだろうと、君の頭脳は本物だ。私が保証する。問題は、君がそれを使うか、使わないか。それだけだ」
「でも……」
「君は、知りたいと思っている。違うか」
バデーニの言葉に、ヨレンタは、何も言えなかった。
違わない。知りたい。ずっと、知りたかった。
「おい、あんた!」
その時、マルタが、割って入った。
「何を勝手なことを言ってるんだい!うちのヨレンタを、異端の研究に誘うなんて、とんでもない!この女は、うちの下働きなんだよ。星なんか見る必要はない。あんた、さっきから聞いてれば、星の動きを計算してるだの、地動説だの。そんな危ない話、うちの屋敷でしないでおくれ!」
マルタの顔は、恐怖で青ざめていた。
「そうだそうだ!」
「異端の修道士を、追い出せ!」
女中たちも、口々に騒ぎ始めた。
「この男は、異端審問所に突き出してやる!」
「ピャスト伯様に知らせるんだ!」
台所は、一気に騒然となった。
バデーニは、騒ぐ女中たちを、白濁した目でゆっくりと見渡した。
「騒ぐな。私は、君たちに用はない」
その声は、低く、冷たかった。
「ヨレンタ」
バデーニが、ヨレンタの耳元に、他の者には聞こえない声で囁いた。
「今夜、巡礼宿『白銀の星』に来い。宿の地下室で待っている。君が来るのを、私は待つ」
ヨレンタの肩が、びくりと震えた。
「来るか来ないかは、君の自由だ。だが、君の才能は、こんな台所で芋を洗うためにあるんじゃない。それは、私が保証する」
そう言うと、バデーニは、杖を拾い上げた。
「では、失礼する。……マルタと言ったな。君の作る羊肉の煮込みは、匂いだけでわかる。なかなかいい香辛料を使っている。今度、屋敷の外で会ったら、一杯奢ってくれ」
「な、何を言ってるんだい!」
マルタが、顔を真っ赤にして怒鳴った。
バデーニは、くつくつと笑いながら、勝手口から雨の中へ出ていった。
「おい、追いかけろ!」
「もう、あんな変人、二度と入れるんじゃないよ!」
女中たちの怒声が、雨音に混じる。
ヨレンタは、その場に立ち尽くしていた。
(今夜、白銀の星……)
心臓が、ばくばくと鳴っている。
「ヨレンタ、あんた!」
マルタが、詰め寄ってきた。
「あの男と、どういう関係だい!あんな異端者と、親しげに話して。あんた、まさか、あの男の仲間なんじゃないだろうね!」
「ち、違います。今日初めて会いました」
「嘘おっしゃい!あの男、あんたのことを、ずっと前から知ってるみたいな口ぶりだったよ。あんた、星読みの塔に、あんな問題を解いて出したんだって?あの男が言ってた。女のくせに、星の計算なんかして。気味が悪いったらないわ!」
マルタの怒鳴り声が、台所に響き渡る。
「あんた、もし異端の疑いなんかかけられたら、この屋敷の皆に迷惑がかかるんだよ。ピャスト伯様の顔に泥を塗る気かい。あんたみたいな女は、さっさと追い出してやるからね!」
ヨレンタは、唇を噛みしめた。
(違う。私は、ただ、星を知りたいだけ)
言いたいことは、たくさんあった。でも、言えなかった。言ったら、もっと酷いことになる。
「……すみませんでした」
ヨレンタは、深く頭を下げた。
「謝って済む問題じゃないよ。今夜は、夕食抜きだ。部屋で反省してな!」
マルタは、そう言い放つと、大鍋の方へ戻っていった。
女中たちが、ヨレンタを避けるように、距離を取る。
(また、だ)
ヨレンタは、静かに台所を出た。
雨の音が、石造りの廊下に響く。冷たい空気が、ヨレンタの熱くなった頬を冷やしていく。
(星を見て、何になるか)
マルタの言葉が、頭の中で繰り返される。
(女が星を見て、何になるか)
わかってる。この世界では、女が学問をすることは、許されていない。星の研究なんて、もってのほかだ。
でも。
(でも、あの人は、才能に性別は関係ないと言った)
バデーニの言葉が、胸の奥で、小さく光っている。
(私の才能は、本物だと)
生まれて初めて、誰かに、自分の才能を認められた。
それが、嬉しかった。
嬉しくて、胸が苦しかった。
夕方になっても、雨は止まなかった。
ヨレンタは、夕食抜きの罰を受けて、使用人部屋の自分の寝台に座っていた。部屋には誰もいない。皆、台所で夕食を取っている。
(白銀の星……)
バデーニの言葉が、頭から離れない。
(行くべきじゃない。行ったら、本当に異端の仲間になってしまう)
星律禁令。地動説を唱えた者は、破門され、財産を没収され、火刑に処される。約120年前の星律大審問では、30人の学者が処刑された。
(でも)
ヨレンタは、枕の下から、一冊の本を取り出した。
母の形見の星語辞典。革の表紙は擦り切れ、ページの端は黄ばんでいる。
ヨレンタは、その辞典を、ぎゅっと胸に抱きしめた。
(お母さん。私は、どうしたらいいの)
母は、七つのときに死んだ。熱病だった。残されたのは、この辞典だけ。
辞典の余白には、母の手による計算の走り書きが残されていた。星の角度。季節ごとの星の位置。惑星の動き。
(お母さんも、星を見ていた)
母は、教会公認の星図と、実際の星の位置を、比べていた。そして、そのずれを、計算していた。
(お母さんも、知りたかったんだ。星の真理を)
ヨレンタは、辞典を開いた。
母の走り書きが、雨の日の薄暗い光の中で、青黒いインクで浮かび上がる。
(この計算、まだ解けてない。お母さんが、最後まで解けなかった計算)
ヨレンタは、指先で、母の文字をなぞった。
(お母さん、私、知りたい。星の動きを、全部知りたい。お母さんが追いかけていたものを、私も追いかけたい)
その時、辞典のページの間から、一枚の紙片が、ひらりと落ちた。
「……え?」
ヨレンタは、その紙片を拾い上げた。
そこには、震えるような字で、こう書かれていた。
『白銀の星。地下室。待つ』
バデーニの字だ。
いつ、これを辞典に挟んだのか。さっきの騒動の最中に、ヨレンタのポケットにでも入れたのか。
ヨレンタの心臓が、また、大きく跳ねた。
(待っている。私を、待っている)
ヨレンタは、紙片を握りしめた。
(行こう)
心の奥底から、声が聞こえた。
(行って、話を聞こう。星の真理のことを。私の才能のことを)
恐怖は、まだある。女であることの怖さ。異端になることの怖さ。この世界で、知ることを許されない者として生きてきた、十五年分の怖さ。
でも、それよりも、知りたいという気持ちの方が、勝っていた。
ヨレンタは、寝台から立ち上がった。
古い星図のインク染みが残る左手首を、右手でぎゅっと握る。
(お母さん。行ってくる)
ヨレンタは、足音を殺して、使用人部屋を出た。
雨は、まだ降り続いていた。
ヨレンタは、裏口から外へ出た。冷たい雨が、すぐに全身を濡らす。髪から滴が落ち、頬を伝う。
(白銀の星は、街道沿い。屋敷から、徒歩で十五分)
ヨレンタは、走り出した。
ぬかるんだ道に、足を取られそうになる。それでも、走った。
(私は、知りたい)
雨の音が、世界を包み込む。
(星の動きを。この世界の真理を。お母さんが追いかけたものを)
胸の奥で、何かが、はっきりと燃え上がっていた。
(私は、知りたい)
街道に出ると、巡礼宿「白銀の星」の看板が見えた。雨に煙る木造二階建ての建物。一階の窓から、暖かな灯りが漏れている。
ヨレンタは、宿の裏手に回った。
バデーニは、地下室で待っていると言った。
(地下室の入り口は……)
ヨレンタは、宿の裏手の、積み上げられた薪の陰に、地面へ続く石段を見つけた。
(ここだ)
ヨレンタは、石段を下りた。
地下は、ひんやりとしていて、黴と古い木の匂いがした。
「来たか」
暗闇の中から、声がした。
ヨレンタは、足を止めた。
「……バデーニ様」
「様はやめろ。私は、ただの修道士だ」
小さな灯りが、ぽっと点った。
バデーニが、燭台に火を灯していた。その炎が、彼の顔を、下から照らし出す。
白濁した目。古い決闘の傷跡。濡れた短髪。
「君が来ると思っていた」
バデーニは、不敵に笑った。
「君は、来ないわけがない。君の目は、私と同じ目をしている。知りたいという欲に、取り憑かれた者の目だ」
ヨレンタは、何も言えなかった。
(この人に、全部見透かされている)
「さあ、座れ。濡れた体を温めろ」
バデーニは、地下室の隅にある木箱を、手で探って示した。
ヨレンタは、その木箱に腰を下ろした。
「では、改めて聞こう。ヨレンタ」
バデーニが、ヨレンタの方を向いた。
「君は、星の真理を知りたいか」
ヨレンタは、濡れた前髪の下から、バデーニを見た。
(知りたい)
心の奥底から、答えが溢れてくる。
「……知りたいです」
ヨレンタの声は、小さく、でも、はっきりとしていた。
「私は、星の動きを知りたい。教会の教えが、本当に正しいのか。それとも、私が見つけたずれが、何かの真実に繋がっているのか。知りたい。知りたくて、知りたくて、毎晩、星を見ずにいられないんです」
ヨレンタの声は、途中から、熱を帯びていた。
「でも、私は女で、下働きで、学問なんて許されていない。それでも、知りたい。お母さんが追いかけていた星の真理を、私も追いかけたい。……私、知りたいんです」
涙が、溢れていた。
雨に濡れた顔を、さらに涙が濡らす。
「……いい答えだ」
バデーニが、静かに言った。
「君のその欲こそ、私が探していたものだ。君は、私の研究の同志になりうる。いや、君こそが、私に欠けていたものを持っている」
バデーニは、ゆっくりと、ヨレンタに手を差し伸べた。
「ヨレンタ。私と共に、星の真理を追おう。地動説の証拠を、この手で掴むんだ」
地動説。
その言葉を、ヨレンタは、初めて、正面から受け止めた。
「……地動説」
「ああ。地球が動いているという説だ。教会は、これを最大の異端として弾圧している。だが、私は、計算上、この説が正しいと確信している。君の才能があれば、その証拠を、もっと強固にできる」
バデーニの声は、地下の暗闇の中で、驚くほどはっきりと響いた。
「君が、この手を取るなら、私は君に、私の持つすべての知識を注ぐ。星学院で学んだすべてを、私が独学で編み出したすべてを。君の才能は、必ず、星の真理に届く」
ヨレンタは、差し伸べられた手を見た。
骨張った、大きな手。目を焼かれ、左遷され、それでも星を追い続けた男の手。
(この手を取ったら、もう後戻りはできない)
異端の研究。火刑の恐怖。この世界のすべてに逆らうこと。
でも。
(それでも、知りたい)
ヨレンタは、震える手を、伸ばした。
そして、バデーニの手を、握った。
「……よろしくお願いします、バデーニ様」
「様はやめろと言っただろう」
バデーニは、笑った。
「これからは、同志だ。対等に、バデーニと呼べ」
「バデーニ……さん」
ヨレンタは、小さく呼んだ。
「それでいい」
バデーニは、ヨレンタの手を、強く握り返した。
「さあ、これから忙しくなるぞ。まずは、君の観測記録をすべて見せてもらう。それから、私の研究ノートを、君に託す」
「研究ノート……?」
「ああ。私が十年以上かけて蓄積した、天体観測の記録だ。地動説の証拠となりうる、決定的なデータを含んでいる。これを、君にも読んでもらう」
バデーニの声は、少年のように弾んでいた。
「計算が嘘をつくはずがない。君と私の計算が合わさった時、星の真理は、必ず姿を現す」
地下室の外では、雨が、まだ降り続いていた。
でも、ヨレンタの心の中は、不思議と温かかった。
(もう、一人じゃない)
星を追う仲間が、できた。
私の才能を、認めてくれる人が、できた。
ヨレンタは、握ったバデーニの手の温もりを、確かめるように、ぎゅっと握り返した。
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