チ。 ―星を継ぐ者―
星を識ることは、禁忌とされていた。
十五世紀、動かない大地を中心に天が回る——それが教会の定めた真理。下働きの少女ヨレンタは、けれど知ってしまった。母の遺した星語辞典の余白に、公認星図と実際の空との、ほんの僅かな「ずれ」を。
夜ごと屋根裏に忍び、窓枠の傷に星を重ねて記録を続ける三年間。知りたいという渇望だけが、冷たい石造りの屋敷での孤独を支えていた。
転機は、星読みの塔に貼り出された難問だった。「惑星の逆行運動を説明せよ」——誰も解けなかったその問題に、ヨレンタはたった半日で答えを導き出す。天動説を揺るがす、あまりに単純で、あまりに美しい答えを。
だが、差し出した解答を見た司祭は言った。「女の下働きが、こんな計算をできるはずがない」と。
禁忌に触れた少女の小さな一歩は、やがて世界の常識を揺るがす渦へと繋がっていく。星と星を継ぐ者の、恋と渇望と革命の物語。
チ。 ―星を継ぐ者― - 観測小屋のふたり ―― 星が結ぶ、不器用な夜
晩秋の夜風が、ピャスト伯の屋敷の裏手を抜けていく。木々の葉が乾いた音を立て、月のない空には星がびっしりと瞬いていた。
ヨレンタは、台所の勝手口から外に出た瞬間、冷たい空気に肩をすくめた。粗い羊毛の肩掛けをぎゅっと体に巻きつける。手には小さな布袋。中には、母の形見の星語辞典と、書きかけの計算用紙が入っている。
(こんな夜中に、本当に行くの?)
心の中で、もう一人の自分が囁く。女が、夜中に、男と二人きりで。それも、目を焼かれた異端の修道士と。もし誰かに見られたら、言い訳のしようがない。
でも、足は止まらなかった。
あの雨の夜、バデーニの手を握り返した瞬間から、ヨレンタの心は決まっていた。星の真理を知りたい。そのためなら、怖くても、踏み出さなければ。
「遅い」
突然、暗がりから声がした。
「ひゃっ」
ヨレンタは、変な声を上げて飛び上がった。心臓が、口から飛び出しそうなくらい跳ねる。
「な、な、なんでここに……」
声の主は、屋敷の裏手に続く石畳の脇に立っていた。長い木の棒を杖代わりにした、背の高い男。焦げ茶色の短髪は夜風に揺れ、無精髭を生やした顔が、星明かりにぼんやり浮かび上がる。白濁した両目。左頬から顎にかけて走る古い傷跡。
バデーニだった。
「君の足音は、屋敷の中でも特にうるさい。下働きのくせに、もっと静かに歩け」
バデーニは、ぶっきらぼうに言った。
「わ、私、うるさいですか……?」
ヨレンタは、自分の足音を思い返した。確かに、慌てて歩くと、下駄が石畳に当たってカツカツ音がする。
「ああ、うるさい。だが、その方が都合がいい。どこにいるか、すぐわかるからな」
バデーニは、そう言って、杖で地面を二度叩いた。
「ついて来い。観測小屋まで、案内しろ」
「案内、ですか? 私、場所を知りませんけど……」
「知らなくていい。私が知っている。君は、私が転ばないように、前を歩いて道を教えろ。石や木の根がある場所を、言葉で説明するんだ」
「え、ええと……わかりました」
ヨレンタは、バデーニの少し前を歩き始めた。
「あの、ここ、石が一つあります。右に寄ってください」
「右だな」
「次は、木の根が張っています。足を高く上げてください」
「承知した」
二人は、ゆっくりと、夜の裏道を進んだ。屋敷の裏手は、昼間は使用人が薪割りや洗濯に使う場所で、夜になると誰もいない。虫の声と、風の音だけが聞こえる。
「……あの、バデーニさん」
ヨレンタは、前を向いたまま、小さく言った。
「なんだ」
「観測小屋って、どこにあるんですか? 私、この屋敷に五年いますけど、聞いたことがありません」
「屋敷の北側、森の入り口近くにある。昔、先代のピャスト伯が、星読みの塔ができる前に使っていた小屋だ。今は誰も使っていない」
「誰も使っていない小屋を、どうしてバデーニさんが?」
「私が勝手に借りている。正確には、無断で使っている。あの小屋は、屋敷の敷地内だが、誰も管理していない。藪に埋もれていて、存在自体を忘れられている。異端の研究をするには、これ以上ない場所だ」
「無断で……借りている……」
ヨレンタは、少しだけ、この人の常識のなさに呆れた。でも、嫌な気はしなかった。むしろ、この人は、本当に星のことを一番に考えているんだ、と思った。
やがて、森の入り口近くまで来ると、藪の中に、ぽつんと小さな建物が見えた。
「あれか」
バデーニが、足を止めた。
「え? あれが観測小屋ですか?」
ヨレンタは、目を凝らした。
石造りの、小さな小屋だった。屋根は木の板で、ところどころ剥がれ落ちている。壁には蔦が這い、窓は一枚だけ。扉は、今にも外れそうに傾いていた。
(これが……観測小屋)
正直、廃屋だった。
「見た目は、この通りだ。だが、中は私が整えた。入るぞ」
バデーニは、杖で地面を探りながら、小屋の扉に手をかけた。
ギィ……
扉が、重い音を立てて開く。
中は、外よりもずっと暗かった。窓から差し込む星明かりだけが、かすかに床を照らしている。
「ロウソクを灯す。そこに、燭台があるはずだ」
バデーニが、指で入り口の右側を示した。
ヨレンタは、手探りで燭台を見つけ、火打ち石で火を灯した。
小さな炎が、小屋の中をゆっくりと照らし出す。
「……わあ」
ヨレンタは、思わず声を漏らした。
小屋の中には、木の机が一つと、椅子が二つ。壁には、何枚もの紙が貼られていた。星の位置を記した星図。数字がびっしりと書き込まれた計算表。そして、見たこともないような、精密な天体の軌道図。
「これは……全部、バデーニさんが?」
「ああ。ここを借りてから、毎晩、少しずつ運び込んだ。目が見えなくても、計算はできる。紙と炭があれば、星は描ける」
バデーニは、机の前の椅子に座った。
「座れ、ヨレンタ。今夜から、ここが君の研究室だ」
「研究室……」
ヨレンタは、その言葉を、噛みしめるように繰り返した。
(私の、研究室)
女の下働きの自分に、研究室。そんな場所が、この世界にあるなんて。
「……あの、本当に、私がここを使ってもいいんですか?」
ヨレンタは、椅子に座りながら、おそるおそる尋ねた。
「何を今さら。君の才能を、ここに埋もれさせる気はない。私の研究には、君の頭脳が必要だ。君が使うに決まっている」
バデーニは、そう言って、机の上の紙の束を手探りで探った。
「今日の観測対象は、惑星の逆行運動だ。知っているな」
「はい。惑星が、普段の動きと逆方向に、一時的に動いて見える現象です。星典教会の教えでは、惑星は天球の上を、神の定めた通りに動くので、逆行はありえないとされています。でも、実際には、観測すると逆行しているように見える。だから教会は、逆行運動を『神の試練』として、詳しく観測することを禁じています」
ヨレンタの口調が、自然と熱を帯びていた。
「……やはり、君は面白い」
バデーニの口元が、わずかに緩んだ。
「禁じられているからこそ、知りたくなる。それが、君の性分だな。私と同じだ」
「え、あ、その……すみません。つい、夢中になって」
ヨレンタは、恥ずかしくなって、俯いた。
「謝るな。ここでは、星の話を、誰に遠慮することもない。存分に語れ。君の計算を、私に見せてみろ」
バデーニが、手のひらを差し出した。
ヨレンタは、布袋から計算用紙を取り出した。
「はい。これが、私が昨夜までに計算した、木星の逆行運動の予測です」
「木星か。いいだろう。読んで聞かせろ」
「え? 読んで、聞かせるんですか?」
「目が見えないんだ。当然だろう」
「あ、そうですよね。すみません。ええと、まず、木星の合の位置から……」
ヨレンタは、計算用紙に書かれた数字を、一つずつ読み上げ始めた。
「……以上から、木星は、現在の位置から、約十二日後に逆行を開始し、約四十八日間、逆行を続けると予測します」
「なるほど。君の計算は、プトレマイオスの周転円モデルを基本にしているな。教会公認の計算式だ。だが、その予測は、甘い」
バデーニが、きっぱりと言った。
「甘い、ですか?」
「ああ。君の計算では、逆行開始の時期が、実際の観測よりも、二日ほど遅い。君は、周転円の半径を、教会の標準値で計算している。だが、実際の惑星の動きは、その標準値では説明できない。私の計算では、逆行開始は、あと十日だ」
「十日? そんなはずありません。私は、この三年間、毎晩木星を観測してきました。その観測記録に基づいて計算したんです。教会の星図とも、ほぼ一致しています。バデーニさんの計算こそ、間違っているんじゃないですか?」
ヨレンタは、つい、強い口調で反論していた。
(あ、やばい。年上の、しかも先生に、なんてことを)
でも、計算の話になると、止まらなかった。
「ほう。私の計算が間違っていると。面白い。ならば、その根拠を、私に示してみせろ」
バデーニの声は、怒っているようには聞こえなかった。むしろ、楽しんでいるような、挑発するような響きだった。
「根拠なら、あります。ここに、私の観測記録があります。この三年間、木星の位置を、毎晩、記録してきました。この記録を見れば、バデーニさんの計算が、実際の観測と合っていないことがわかります」
ヨレンタは、布袋から、別の紙の束を取り出した。
「読め」
「はい。ええと、まず、春分の日から数えて、最初の観測日は……」
ヨレンタは、観測記録を読み上げた。
日付、時刻、木星の位置。それを、淡々と、しかし正確に。
バデーニは、黙って聞いていた。時々、指で机を叩きながら、何かを計算しているようだった。
「……以上です。この記録から計算すると、木星の逆行開始は、やはり十二日後になります」
ヨレンタが言い終えると、バデーニは、しばらく沈黙した。
「……なるほど」
バデーニが、低く呟いた。
「君の観測記録は、正確だ。驚くほど正確だ。私の計算が、実際の観測とずれていることは、認めよう」
「え?」
ヨレンタは、拍子抜けした。
(この人、素直に認めるんだ)
もっと、プライドが高くて、自分の計算が間違っているなんて認めないと思っていた。
「だが、君の計算も、完全に正しいわけではない。君は、周転円モデルで計算しているが、そのモデル自体に、限界がある。君の観測記録の中に、その限界を示すデータが、すでに現れている」
バデーニが、机の上の紙の束から、一枚の紙を取り出した。
「これは、私が作った、新しい計算モデルだ。周転円モデルを捨て、惑星の軌道を、別の形で記述する。このモデルで計算すると、君の観測記録の、ここにある、わずかなずれを、説明できる」
「わずかなずれ……」
ヨレンタは、自分の観測記録を見た。確かに、計算値と観測値の間に、ごく小さなずれがあった。誤差として、無視していた。
「そのずれを、君は誤差として捨てた。だが、そのずれこそが、真実への入り口だ。計算が嘘をつくはずがない。観測が嘘をつくはずがない。ならば、ずれているのは、計算モデルの方だ」
バデーニの言葉に、ヨレンタは、はっとした。
(ずれているのは、モデルの方)
その考え方は、なかった。
「バデーニさんの、新しい計算モデル……見せてください」
ヨレンタは、身を乗り出した。
「ああ。だが、その前に、屋根を修理する。この小屋は、屋根に穴が開いていて、雨が降ると使い物にならない。君が来る前に、何度か雨に降られて、計算用紙が濡れたことがある」
バデーニは、立ち上がった。
「屋根の修理って、今からですか? 夜ですよ?」
「夜の方が都合がいい。誰にも見られないからな。君は、下で脚立を支えていろ」
バデーニは、小屋の隅に置いてあった、古い木の脚立を、手探りで立てた。
「え、ええ……わかりました」
ヨレンタは、脚立の下に回り、両手で支えた。
バデーニは、脚立に上がり、屋根の穴を塞ぐための板を、手に持った。
「位置を教えろ。穴は、どこだ」
「ええと、バデーニさんの、右手の上、少し左です。もう少し、右に寄ってください」
ヨレンタは、下から、バデーニの手の位置と、屋根の穴の位置を、言葉で伝えた。
「ここか」
バデーニが、板を穴に当てた。
「そうです! そこです!」
ヨレンタは、思わず大きな声を出した。
「うるさい。夜中だぞ」
「あ、すみません……」
ヨレンタは、口を押さえた。
バデーニは、板を固定するために、片手で板を押さえ、もう片方の手で、腰の道具袋から釘を取り出そうとした。
その時だった。
「ぐっ」
バデーニの体が、ぐらりと傾いた。
「え!?」
脚立が、バランスを崩した。バデーニが、釘を取り出そうとした拍子に、重心がずれたのだ。
「バデーニさん!」
ヨレンタは、とっさに手を伸ばした。
でも、脚立を支えていた手を離した瞬間、自分自身の足が、床の隙間に滑り込んだ。
「きゃっ!」
体が、後ろに倒れる。
(落ちる!)
床は石造りで、硬い。頭を打ったら、ただでは済まない。
そう思った瞬間だった。
「馬鹿者!」
バデーニの手が、ヨレンタの腕を、力強く掴んだ。
「え……?」
ヨレンタは、自分の腕を掴んでいるバデーニの手を見た。
骨張った、大きな手。目を焼かれた男の手。それが、ヨレンタの細い腕を、まるで万力のように、しっかりと掴んでいる。
「しっかりしろ。足を、床につけろ」
バデーニの声は、驚くほど落ち着いていた。
「は、はい……」
ヨレンタは、慌てて足を床につけた。
バデーニが、ゆっくりと、ヨレンタの体を引き起こす。
「……すまない。私がバランスを崩したばかりに、君を危険な目に遭わせた」
バデーニが、低く言った。
「い、いえ。私こそ、足を滑らせて……それより、バデーニさんは、大丈夫ですか? 脚立から落ちたりしていませんか?」
ヨレンタは、バデーニの体を、上から下まで見た。
「私は大丈夫だ。脚立にしがみついていたからな。それより、君は、どこか怪我をしていないか」
バデーニが、ヨレンタの腕を掴んだまま、心配そうに尋ねた。
「私は、大丈夫です。バデーニさんが、掴んでくれたので」
ヨレンタは、そう言って、バデーニの手を見た。
バデーニは、まだ、ヨレンタの腕を掴んでいた。
「……あの、バデーニさん。手、離してもらってもいいですか?」
ヨレンタが、小さく言うと、バデーニは、はっとしたように手を離した。
「あ、ああ。すまない」
バデーニが、わずかに動揺したように、顔を背けた。
(この人、こんな顔もするんだ)
ヨレンタは、バデーニの耳が、少し赤くなっているような気がした。
「……それで、バデーニさん。さっき、どうして、私の腕を、あんなに正確に掴めたんですか? 目が見えないのに」
ヨレンタは、さっきから不思議に思っていたことを、尋ねた。
「君の足音と、息の変化で分かった」
バデーニが、ぶっきらぼうに答えた。
「足音と、息の変化……?」
「ああ。君が足を滑らせた瞬間、床を蹴る音がした。それと同時に、君が、はっと息を呑む音が聞こえた。音の方向と、高さで、君の体が、どこに、どのように倒れようとしているか、分かった。それだけだ」
バデーニは、淡々と言った。
「それだけ、って……すごいです。目が見えないのに、音だけで、そこまで分かるなんて」
ヨレンタは、素直に感心した。
「目が見えないからこそ、音に敏感になった。それだけのことだ。君も、目を閉じて、しばらく生活してみれば、分かるようになる」
「目を閉じて、生活……想像しただけで、怖いです」
ヨレンタは、そう言って、自分の目を、そっと触った。
「怖いか。だが、慣れる。人間は、どんなことにも慣れる生き物だ。私が、その証拠だ」
バデーニの声は、静かだった。
「……バデーニさんは、強いですね」
ヨレンタは、ぽつりと言った。
「強くなどない。ただ、やるべきことがあるから、やっているだけだ。星の真理を知るまでは、死ねない。それだけだ」
バデーニは、そう言って、再び脚立に上がろうとした。
「あ、待ってください。私が、代わりに上がります。バデーニさんは、下で支えていてください」
ヨレンタは、バデーニの前に立った。
「君が? 危険だぞ」
「バデーニさんが上がるよりは、安全だと思います。私、目が見えますから。それに、私の方が、体が軽いですし」
「……わかった。だが、無理はするな。危ないと思ったら、すぐに降りろ」
バデーニが、脚立を支えた。
ヨレンタは、脚立に上がった。
「ええと、穴は……ここですね」
ヨレンタは、屋根の穴に、板を当てた。
「バデーニさん、釘をください」
「ああ」
バデーニが、手探りで釘を差し出した。
ヨレンタは、釘を受け取り、板を屋根に固定した。
「できました。これで、雨が漏ることはないと思います」
ヨレンタは、脚立から降りた。
「ご苦労だった。礼を言う」
「いえ。私がやりたくてやったことですから」
ヨレンタは、笑った。
(この人と、こうして、何かを作り上げるの、楽しい)
ヨレンタの胸の中に、小さな、温かいものが灯った。
それから、二人は、机に向かい合って座り、バデーニの新しい計算モデルについて、夜が更けるまで議論した。
「君の観測記録の、このずれ。これを、私のモデルで計算すると、こうなる。どうだ」
バデーニが、計算結果を、口頭で示した。
「……合ってる。私の観測記録と、ぴったり一致しています」
ヨレンタは、自分の観測記録と、バデーニの計算結果を、何度も見比べた。
「だろう。私のモデルは、正しい。だが、まだ完全ではない。このモデルでも、説明できない現象が、他にもある」
「説明できない現象……例えば、どんなですか?」
「例えば、火星の、ある時期の動きだ。私のモデルでは、火星の位置が、実際の観測よりも、わずかにずれる。そのずれは、木星の場合よりも、ずっと大きい。私は、そのずれの原因を、まだ説明できていない」
「火星の、ずれ……」
ヨレンタは、考え込んだ。
「私も、火星の観測記録なら、あります。三年分。それを見れば、何か分かるかもしれません」
「三年分? 君は、火星も観測していたのか」
バデーニの声が、少し高くなった。
「はい。木星と、火星と、金星を、毎晩、交代で観測していました。屋根裏の窓から、見える範囲ですけど」
「屋根裏の窓から、毎晩……君は、本当に、どれだけ星を見ているんだ」
バデーニが、呆れたように言った。
「え、ええと……毎晩です。星が見える限り、ずっと」
ヨレンタは、少し恥ずかしくなった。
「……君の観測記録を、すべて見せてくれ。火星の記録を、今すぐ、読み上げろ」
バデーニが、机に身を乗り出した。
「今すぐですか? 長いですよ?」
「構わん。時間は、いくらでもある。それに、君の記録を聞くのは、私にとって、最高の贅沢だ。目が見えない私にとって、君の声は、星そのものだ」
バデーニの言葉に、ヨレンタは、胸が、きゅっとなった。
(私の声が、星そのもの)
そんなことを、言われたのは、初めてだった。
「……わかりました。読みます。ええと、火星の観測記録、最初の日は……」
ヨレンタは、火星の観測記録を、読み上げ始めた。
バデーニは、目を閉じて、ヨレンタの声に、耳を傾けた。
時々、指で机を叩きながら、計算をしているようだった。
「……以上です。これで、三年分の火星の観測記録です」
ヨレンタが、読み終えた時には、ロウソクが、かなり短くなっていた。
「……素晴らしい」
バデーニが、深く、息を吐いた。
「君の観測記録には、私が欲しかったデータが、すべて揃っている。これなら、火星のずれの原因も、突き止められるかもしれない。いや、必ず突き止める」
バデーニの声は、興奮で、少し震えていた。
「本当ですか!?」
ヨレンタも、嬉しくなった。
「ああ。君の記録と、私のモデルを組み合わせれば、新しい道が開ける。間違いない」
バデーニは、確信に満ちた声で言った。
「じゃあ、今から、その計算を……」
「いや、今日は、もう遅い。夜明けが近い。君を、屋敷に帰さなければ。女中たちに、夜の外出を怪しまれるぞ」
バデーニが、窓の外を、顔で示した。
ヨレンタが窓の外を見ると、東の空が、うっすらと明るくなっていた。
「あ……本当だ。もう、朝ですね」
ヨレンタは、時の経つのを、全く感じていなかった。
「楽しい時間は、過ぎるのが早い。私も、久しぶりに、時間を忘れた」
バデーニが、わずかに笑った。
「……あの、バデーニさん。私、また、ここに来てもいいですか?」
ヨレンタは、おそるおそる尋ねた。
「当たり前だ。君は、もう、私の研究の同志だ。私と共に、星の真理を追う。そうだろう?」
「……はい」
ヨレンタは、こくりと頷いた。
「ならば、来い。毎晩、とは言わん。だが、できる限り、ここに来い。私の知識を、すべて、君に注ぐ。君の観測記録を、すべて、私に聞かせてくれ」
「……わかりました。私、もっと知りたいです。星のことを、もっと、もっと、知りたい」
ヨレンタは、自分の胸の奥から、言葉が溢れてくるのを感じた。
「いいだろう。その欲こそ、星の真理に、一番近いものだ」
バデーニが、満足そうに言った。
「……悪くない」
バデーニが、ぽつりと呟いた。
「え?」
「君の観測記録も、君の計算も、君の声も。悪くない。むしろ、私の研究に、これ以上なく必要なものだ」
バデーニは、照れくさそうに、顔を背けた。
ヨレンタは、その横顔を見て、胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。
(この人と、星を追いかけたい)
その気持ちが、確かな形になって、胸の中に灯った。
「……あの、バデーニさん。私、必ず、また来ます。明日も、明後日も、星が見える限り、ずっと」
ヨレンタは、立ち上がった。
「ああ。来い。待っている」
バデーニも、立ち上がった。
ヨレンタは、小屋の扉に手をかけた。
「それじゃあ、また、今夜」
「ああ」
ヨレンタは、小屋を出た。
外は、朝の光で、少しずつ明るくなっていた。空には、まだ、星が残っている。
(星が、動いてる……)
ヨレンタは、空を見上げた。
(計算が合わないはずがないの)
バデーニと出会って、世界が、変わり始めていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
同じ頃。
ピャスト伯の屋敷では、使用人頭のマルタが、自室で、一人、机に向かっていた。
部屋には、ロウソクが一本。その炎が、マルタの、皺の刻まれた顔を、下から照らし出している。
マルタは、羽根ペンを手に取り、インク壺に浸した。
「……まったく、気味の悪い」
マルタは、ぶつぶつと呟きながら、紙に文字を書き始めた。
『異端審問所 御中』
『ピャスト伯家使用人頭、マルタと申します。当家にて、看過できぬ異端の疑いを発見いたしました。下働きの女、ヨレンタ。この女、夜ごと、屋敷を抜け出し、目を焼かれた怪しげな修道士と密会しております。二人は、屋敷裏手の森の入り口にある、古い小屋に出入りしている模様。女は、以前より、女の身でありながら、星の観測などという、不届きな真似をしておりました。これは、神の定めたもうた秩序を乱す、由々しき事態にございます。つきましては、早急に、しかるべき調査をお願い申し上げます。』
マルタは、書き終えると、紙を丁寧に折りたたんだ。
「女のくせに、学問をかじって、気味が悪い。屋敷の秩序を乱す者は、排除しなければ」
マルタの口元が、歪んだ笑みを浮かべた。
「あの女が、異端審問所に引き出されれば、この屋敷も、少しは静かになる。まったく、とんだ厄介者を、屋敷に置いたものだ」
マルタは、折りたたんだ手紙を、封筒に入れ、封蝋で閉じた。
そして、その封筒を、机の引き出しに、しまい込んだ。
「明日の朝、下男に持たせて、審問所の下役に届けさせよう。それで、すべて、終わりだ」
ロウソクの炎が、ゆらりと揺れた。
マルタの顔に、深い影が落ちる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
さらに、同じ頃。
ピャスト伯は、自室の窓辺に立っていた。
年の頃は、六十を過ぎた頃だろうか。白髪交じりの髪を、きちんと後ろに撫でつけ、深い緑色のガウンを身に着けている。その姿は、長年、領地を治めてきた領主の威厳を、静かに漂わせていた。
ピャスト伯は、窓の外、屋敷の裏手の森の方向を、じっと見つめていた。
森の入り口近くの、藪の中に、小さな明かりが、揺れている。
(あれは、あの古い観測小屋か)
ピャスト伯は、かつて、自分がまだ若かった頃、あの小屋で、星を観測していた。
(あの小屋に、誰かがいる。それも、こんな夜更けに)
ピャスト伯の口元が、ふっと緩んだ。
「……最近、星がよく見えるようだな」
ピャスト伯は、誰にともなく、そう呟いた。
その声には、含み笑いのような、何かを知っている者の余裕があった。
「あの娘が、何をしているのか。あの修道士が、何を企んでいるのか。すべて、分かっている。だが、あえて、問いただすことは、すまい」
ピャスト伯は、窓から離れ、部屋の中央にある、大きな机に向かった。
机の上には、分厚い本が、何冊も積まれている。どれも、星に関する書物だった。
「私が人生を捧げた、完璧な天動説。それを、あの娘と、あの修道士が、覆そうとしている。……面白い。実に、面白いではないか」
ピャスト伯は、椅子に座り、本を一冊、手に取った。
「真理とは、何だ。私が追い求めてきたものは、本当に、真理なのか。それとも、ただの、古びた教義に過ぎないのか」
ピャスト伯は、本を開き、ページをめくった。
「答えは、まだ、分からん。だが、あの娘と、あの修道士が、何かを見つけようとしている。それだけは、確かだ。……見守るとしよう。私の、この目で、な」
ピャスト伯の部屋のロウソクが、静かに、燃え続けていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ヨレンタは、屋敷の勝手口から、こっそりと中に入った。
台所は、まだ誰も起きていない。
ヨレンタは、忍び足で、自分の部屋に向かった。
部屋に戻ると、窓から、朝の光が差し込んでいた。
ヨレンタは、窓辺に立って、空を見上げた。
東の空が、金色に染まっている。星は、もう、ほとんど見えなくなっていた。
でも、ヨレンタの心の中には、昨夜の星の光が、まだ、はっきりと残っていた。
(バデーニさんと、計算した。バデーニさんと、星の話をした。バデーニさんが、私の記録を、すごいと言ってくれた)
ヨレンタは、自分の腕を、そっと触った。
バデーニに、力強く掴まれた場所。
(あの手の強さ。あの声。あの、悪くない、って言葉)
胸の奥が、また、じわりと温かくなる。
(この気持ちは、なんだろう)
ヨレンタは、自分の胸に、手を当てた。
(星のことを、もっと知りたい。バデーニさんと、もっと、一緒に、星を追いかけたい)
ヨレンタは、目を閉じた。
(あたし、もっと、知りたい)
その欲が、ヨレンタの中で、炎のように、静かに、でも確かに、燃えていた。
ヨレンタは、小さく息をついた。
窓の外では、朝日が、屋敷の石壁を、黄金色に染め始めていた。Noveliaとは?
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