チ。 ―星を継ぐ者―
星を識ることは、禁忌とされていた。
十五世紀、動かない大地を中心に天が回る——それが教会の定めた真理。下働きの少女ヨレンタは、けれど知ってしまった。母の遺した星語辞典の余白に、公認星図と実際の空との、ほんの僅かな「ずれ」を。
夜ごと屋根裏に忍び、窓枠の傷に星を重ねて記録を続ける三年間。知りたいという渇望だけが、冷たい石造りの屋敷での孤独を支えていた。
転機は、星読みの塔に貼り出された難問だった。「惑星の逆行運動を説明せよ」——誰も解けなかったその問題に、ヨレンタはたった半日で答えを導き出す。天動説を揺るがす、あまりに単純で、あまりに美しい答えを。
だが、差し出した解答を見た司祭は言った。「女の下働きが、こんな計算をできるはずがない」と。
禁忌に触れた少女の小さな一歩は、やがて世界の常識を揺るがす渦へと繋がっていく。星と星を継ぐ者の、恋と渇望と革命の物語。
チ。 ―星を継ぐ者― - 護衛は星を見ない――三人目の夜と消えたノート
初冬の風が、観測小屋の隙間をひゅうと鳴らして通り抜けた。
ヨレンタは、小屋の壁に背を預けて座り込み、膝の上に開いた計算用紙をじっと見つめていた。指先がかじかんで、数字を書くのが少し遅くなる。それでも、計算を止める気にはなれなかった。
(木星の位置が、また少しずれてる)
星読みの塔が公認する星図と、実際の星の位置。そのずれは、観測を始めてから一ヶ月、はっきりと大きくなっていた。教会の教えでは、星は完璧な円を描いて地球の周りを回っているはず。でも、計算すればするほど、そうではないことが分かってしまう。
(これが、地動説の証拠になるかもしれない)
心臓の奥が、どくん、と熱くなる。怖い。でも、知りたい。この二つの気持ちが、いつも一緒にあった。
「ヨレンタ」
小屋の外から、低い声がした。
「は、はい」
ヨレンタは慌てて立ち上がり、木の扉を開けた。
外には、バデーニが立っていた。長い木の棒を杖代わりにして、白濁した両目を閉じている。焦げ茶色の短髪が風に乱れ、左頬から顎にかけての古い傷跡が、夕暮れの薄明かりの中でくっきりと浮かび上がっていた。
「遅くなった。入るぞ」
バデーニは、杖で地面を探りながら、小屋の中へ入ってきた。
「あの、バデーニさん。今日は、少し早いですね」
ヨレンタは、小屋の隅に置いてある木箱から、ロウソクを取り出しながら言った。
「ああ。今日は、もう一人、連れてきた」
「もう一人……?」
ヨレンタの手が、止まった。
(誰か、連れてくるなんて)
今まで、この小屋には、バデーニと二人きりで来ていた。夜の観測は、誰にも知られてはいけない秘密の行為。なのに、もう一人。
「心配するな。私が雇った護衛だ」
「護衛……?」
「ああ。最近、この森の近くで、不審な人影を見たという話を聞いた。私の目では、気配でしか分からん。君も、夜道を一人で歩かせるわけにはいかない。だから、民間警備組合から、若い代闘士を一人、雇うことにした」
バデーニは、そう言って、小屋の外に向かって声をかけた。
「入ってこい」
ぎし、と扉が軋んだ。
入ってきたのは、背の高い青年だった。
黒に近い焦げ茶の髪は無造作に伸び、寝癖がついたままだ。だが、その顔には、年齢よりもずっと深い影が刻まれている。琥珀色の瞳が、暗い小屋の中を、素早く、しかし無表情に走らせた。
右手の甲には、古い切り傷の跡。
そして、何より、その目。
暗がりの中でも、はっきりと光を捉えている。
(この人、目が……)
ヨレンタは、青年の目を見て、息を止めた。
「オクジーだ。民間警備組合の代闘士で、主に夜間の見張りを請け負っている。私の知人の紹介でな」
「……オクジーです」
オクジーは、ヨレンタを一瞥しただけで、すぐに視線を床に落とした。
「あ、えっと、私は、ヨレンタです。ここで、バデーニさんと、星の観測を……」
「知ってる」
オクジーは、ぶっきらぼうに言った。
「雇われる時に、聞いた。あんたが、星の計算をしてるって。それだけ分かってりゃ十分だ。俺は、外で見張ってる。中には入らない」
オクジーは、そう言うと、背を向けて小屋の外へ出て行こうとした。
「待て」
バデーニが、鋭い声で呼び止めた。
「何だ」
オクジーは、足を止めた。
「君には、見張りだけを頼むつもりはない。観測の補助もしてもらう」
「観測の補助……?」
オクジーの声に、わずかな戸惑いが混ざった。
「ああ。君の目は、暗闇でも星の位置を正確に捉えられると聞いた。私の目は見えん。ヨレンタの目は、計算には優れているが、暗い場所での観測は、まだ慣れていない。そこで、君の目を使う」
「……俺の目は、戦いのための目だ。星を見るための目じゃない」
オクジーは、低く言った。
「それでもだ。君の目は、この小屋で、今、最も正確な観測器具だ。文句は言わせん」
バデーニの声には、有無を言わせない強さがあった。
オクジーは、しばらく黙っていたが、やがて、小さくため息をついた。
「……分かった。ただし、俺は、星を見るのは、好きじゃない。それだけは、覚えておいてくれ」
オクジーは、そう言い残して、今度こそ、小屋の外へ出て行った。
小屋の中に、重い沈黙が残った。
「……あの、バデーニさん」
ヨレンタは、おそるおそる口を開いた。
「あの人、本当に、大丈夫なんでしょうか。なんだか、すごく、近寄りがたいというか……」
「あれでいい。あの男は、口数は少ないが、仕事は確実にこなす。それに、あの目だ。あの目は、この暗闇で、私の計算よりも正確な数値を出せるかもしれん」
バデーニは、ロウソクの火を指先で探りながら、ゆっくりと腰を下ろした。
「だが、一つ、気になることがある」
「何ですか?」
「あの男は、星を見るのを、病的に嫌っている。理由は知らんが、それが、観測の邪魔にならなければいいがな」
バデーニの言葉に、ヨレンタは、小屋の外を見た。
暗い森の中に、オクジーの背中が、ぼんやりと浮かんで見える。
(星を見るのが、嫌い)
ヨレンタには、それが、不思議でならなかった。
夜が、深くなっていった。
小屋の窓から見える空には、無数の星が、冷たい光を放っていた。
「では、始めるぞ。ヨレンタ、今日の木星の位置を、計算で出せ」
「はい。……ええと、昨日の観測データから、今日の木星は、乙女座の方向に、およそ、三度、進んでいるはずです」
ヨレンタは、計算用紙を見ながら、自信を持って答えた。
「三度、か。では、実際の空では、どうだ。オクジー、見えるか」
バデーニが、小屋の外に向かって声をかけた。
しばらくの沈黙。
「……見える」
オクジーの声が、暗闇から返ってきた。
「乙女座の、スピカの、上だ。角度は……三度と、四分。間違いない」
ヨレンタは、はっとした。
「三度と四分……! 私の計算では、三度と三分。ほぼ、ぴったりです」
ヨレンタは、驚きの声を上げた。
(すごい。この暗さで、しかも、一瞬で、あんな正確な数値を)
ヨレンタは、小屋の外のオクジーを見た。
オクジーは、空を見上げていない。地面を見ていた。
「オクジーさん。今、空を見ましたよね? なのに、どうして、そんなに正確な角度が分かるんですか?」
ヨレンタは、いてもたってもいられずに、小屋の外に出て、オクジーに近づいた。
「……目が、勝手に、見えるんだ。空を見なくても、星の位置が、頭の中に、浮かんでくる」
オクジーは、地面を見たまま、ぼそりと答えた。
「それって、すごいことです! 私、毎晩、何時間もかけて、星の位置を測って、計算してるのに。オクジーさんは、一瞬で、それより正確な答えを出してしまう」
ヨレンタの声は、興奮で、少し上ずっていた。
「……すごくなんか、ない。俺の目は、ただ、よく見えるだけだ。それ以外に、何の価値もない」
オクジーの声は、冷たかった。
「でも、その目が、今、バデーニさんの研究の役に立ってるんです。それって、すごく価値のあることだと思います」
ヨレンタは、オクジーの顔を、じっと見上げた。
オクジーは、一瞬だけ、ヨレンタの顔を見た。
琥珀色の瞳が、星明かりを反射して、きらりと光る。
「……あんた、変わってるな」
オクジーは、そう呟いて、また、地面に視線を落とした。
「私が、ですか?」
「ああ。普通の女は、こんな夜中に、男二人と、森の中で、星の計算なんて、しないだろ。それに、俺の目を、すごいって、本気で言う奴なんて、初めてだ」
オクジーの口調は、相変わらずぶっきらぼうだった。でも、ほんの少しだけ、トーンが柔らかくなった気がした。
「私、普通じゃないですから」
ヨレンタは、少しだけ笑った。
「……そうみたいだな」
オクジーは、小さく、鼻で笑った。
観測は、順調に進んだ。
バデーニが、計算式を口頭で伝える。
ヨレンタが、それを計算用紙に書き起こし、数値を導き出す。
オクジーが、暗闇の中から、実際の星の位置を、正確に読み上げる。
三人の役割が、噛み合っていた。
「……悪くない」
バデーニが、ぽつりと呟いた。
「何がですか?」
「この三人での観測だ。私一人では、計算に時間がかかりすぎる。ヨレンタ一人では、暗闇での観測に限界がある。だが、オクジーの目が加わったことで、観測の精度が、格段に上がった。……悪くない。いや、かなり良い」
バデーニの口元が、ほんの少し、緩んだ。
ヨレンタは、その言葉が、嬉しかった。
(バデーニさんが、褒めてる)
バデーニが、誰かを褒めるのは、珍しい。
それだけ、オクジーの目が、本当に優れているということだ。
「オクジーさん、聞こえましたか? バデーニさんが、かなり良いって」
ヨレンタは、小屋の外に向かって、声をかけた。
「……聞こえてたよ。でも、褒められたのは、俺の目であって、俺じゃない」
オクジーの声は、相変わらず、暗かった。
「目も、オクジーさんの一部です。同じことですよ」
「……違う。俺の目は、俺の意思とは関係なく、勝手に、物を見てる。俺は、ただ、それに従ってるだけだ。まるで、道具みたいに」
オクジーの声に、自嘲が混ざった。
ヨレンタは、何か言おうとして、言葉に詰まった。
(この人、どうして、そんなに、自分を否定するんだろう)
観測の休憩中。
ヨレンタとバデーニは、小屋の中で、星の話をしていた。
「火星の逆行運動についてですが、私は、地球と火星が、太陽の周りを回っていると仮定すると、逆行が、自然に説明できると思うんです」
ヨレンタは、目を輝かせて、バデーニに語りかけた。
「ああ。私も、同じ結論に達している。地球が、火星よりも内側の軌道を、速く回っているから、追い抜く瞬間に、火星が、逆に動いているように見える。天動説では、この逆行を説明するために、周転円という、複雑な仕組みが必要になるが、地動説なら、単純な楕円軌道で、すべて説明できる」
バデーニも、熱を帯びた声で、応じた。
「それに、金星の満ち欠けです! 金星が、満ち欠けするのは、金星が、太陽の周りを回っているから。地球を中心に回っているなら、金星は、常に、三日月型にしか見えないはずなんです」
「その通りだ。金星の満ち欠けは、地動説の、強力な証拠の一つだ。私の研究ノートにも、詳しく記してある」
「研究ノート……。私、バデーニさんの研究ノート、もっと読みたいです。前に、少しだけ見せてもらいましたけど、あの、惑星逆行の新解釈の部分が、すごく面白くて」
「ああ、今度、ゆっくり読ませてやる。あれは、私が星学院を卒業してすぐ、三年かけてまとめたものだ。地動説の証拠を、体系的に示した、最初の論文と言っていい」
バデーニの声は、誇らしげだった。
「……あんたたち、よく、そんなに星の話ができるな」
小屋の外から、オクジーの声がした。
「オクジーさんも、よかったら、中に入って、一緒に話しませんか?」
ヨレンタは、外に向かって誘った。
「……遠慮しとく。俺は、星の話は、よく分からん」
「でも、オクジーさんの目は、星を、誰よりも正確に見えるんですよ? きっと、星の話を聞いたら、もっと面白くなります」
ヨレンタは、食い下がった。
「……面白く、ならなくていい。俺は、空を見上げるのは、好きじゃない」
オクジーは、ぽつりと、そう言った。
ヨレンタは、小屋の外に出て、オクジーの隣に立った。
オクジーは、相変わらず、地面を見ていた。
「どうして、空を見上げるのが、好きじゃないんですか?」
ヨレンタは、静かに尋ねた。
「……子供の頃、神父に、教わったんだ。夜空が綺麗に見えるのは、俺たちが、汚れた地球の、底辺から見上げてるからだって」
オクジーの声は、小さく、震えていた。
「汚れた、地球の、底辺……」
「ああ。俺たちは、生まれながらに、罪を背負ってる。この世は、汚物で満ちてる。だから、空を見上げるな。星は、俺たちが、どれだけ汚い場所にいるかを、思い知らせるために、あるんだって。……そう、教わった」
オクジーは、ぎゅっと、拳を握りしめた。
「それ以来、俺は、空を見上げるのが、怖くなった。星を見ると、自分が、どれだけ汚い場所にいるかを、思い知らされる気がして。……だから、俺は、地面だけを見て、生きてきた」
オクジーの言葉は、重く、暗かった。
ヨレンタの胸が、きゅっと痛んだ。
(この人は、ずっと、そんな風に、自分を責めて生きてきたんだ)
「……それは、間違ってる」
突然、小屋の中から、バデーニの声がした。
バデーニは、杖を突きながら、小屋の外に出てきた。
「バデーニさん……」
「オクジー。君に、そんなことを教えた神父は、星を見る目を、曇らせた。いや、星を、見ようとしなかった。星は、汚れた地球から見上げるから、綺麗なのではない。星は、ただ、そこに在る。誰が見ようと、見まいと。君が、地面を見て生きようと、星は、変わらず、空に在る」
バデーニの声は、静かだが、力強かった。
「……星は、ただ、そこに在る」
オクジーは、バデーニの言葉を、繰り返した。
「ああ。星は、君の罪とは、何の関係もない。君が、汚れた底辺にいるかどうかも、星には、関係ない。星は、ただ、宇宙の法則に従って、動いている。それを、見るか、見ないかは、君の自由だ。だが、君の目は、その星を、誰よりも正確に見ることができる。それなら、見ないのは、もったいない」
バデーニは、そう言って、ヨレンタの方を向いた。
「ヨレンタ。君からも、言ってやれ」
「え……?」
「君の言葉で、この男に、星を見ることを、教えてやれ」
ヨレンタは、オクジーを見た。
オクジーは、地面を見たまま、動かない。
ヨレンタは、深呼吸をした。
そして、オクジーの手を、そっと、握った。
「……!」
オクジーが、びくりと、体を震わせた。
「オクジーさん。私、星を見るのが、大好きです。星を見ると、自分が、ちっぽけで、無力で、何もできないって、思い知らされます。でも、同時に、こんなに綺麗なものが、世界にはあるんだって、心の底から、感動します。星は、私に、知りたいって、思わせてくれる。もっと、知りたい。もっと、星のことを、理解したい。そう思わせてくれるんです」
ヨレンタの声は、震えていた。
「私は、女で、下働きで、学問なんて、許されてない。でも、星は、そんな私にも、平等に、光をくれます。星は、誰のことも、差別しない。だから、私、星が、好きなんです。……オクジーさん。一緒に、星を見てくれませんか。私と、バデーニさんと、三人で。あなたの目で、星の真実を、見つけてほしいんです」
ヨレンタは、オクジーの手を、強く握った。
オクジーは、しばらく、黙っていた。
長い、長い沈黙。
やがて、オクジーは、ゆっくりと、顔を上げた。
琥珀色の瞳が、夜空に向けられる。
「……すごいな」
オクジーは、ぽつりと、言った。
「今まで、地面ばかり見てたから、気づかなかった。空には、こんなに、たくさんの星が、あるんだな」
オクジーの目に、星の光が、映り込む。
「あの星、動いてる」
オクジーは、夜空の一点を、指差した。
「どれですか?」
「あの、北の空の、赤い星。あれは、今、ゆっくりと、西から東に、動いてる。……あれが、火星か?」
「そうです! あれが、火星です! オクジーさん、やっぱり、あなたの目は、すごい! 私の計算より、ずっと正確に、星の動きが見えるんですね」
ヨレンタは、嬉しそうに、笑った。
オクジーは、その笑顔を見て、一瞬、言葉を失った。
「……あんたの、計算の方が、すごいよ。俺の目は、ただ、見えるだけだ。でも、あんたは、その星が、なぜ、動くのかを、計算で、説明できる。……あんたの、その頭は、俺の目より、ずっと、価値がある」
オクジーは、そう言って、また、空を見上げた。
その頬を、一筋の涙が、伝っていた。
「オクジーさん……?」
ヨレンタは、驚いて、オクジーの顔を覗き込んだ。
「……何でもない。目に、ゴミが入っただけだ」
オクジーは、乱暴に、目をこすった。
でも、涙は、止まらなかった。
「……俺、今まで、空を見上げるのが、怖かった。星を見ると、自分の、汚さを、思い知らされる気がして。……でも、違った。星は、綺麗だ。ただ、純粋に、綺麗だ。……あんたが、教えてくれた。星は、誰のことも、差別しないって。……ありがとう、ヨレンタ」
オクジーは、震える声で、そう言った。
ヨレンタの胸の奥が、じわりと温かくなった。
「……こちらこそ、ありがとうございます。オクジーさんが、星を見てくれて、嬉しいです」
ヨレンタも、目を潤ませた。
「……悪くない」
バデーニが、小さく、呟いた。
「何がですか?」
「三人での観測だ。……悪くない。いや、かなり良い」
バデーニは、そう言って、口元を、ほんの少しだけ、緩めた。
観測を終え、三人で、小屋の中を片付けていた。
ヨレンタは、計算用紙を、布袋にしまい、ロウソクの火を消した。
「あれ、バデーニさん。あの、古い研究ノート、どこに置きましたっけ?」
ヨレンタは、小屋の隅に置かれた、小さな木箱を指差した。
「いつもの場所だ。あの木箱の中に、しまってあるはずだ」
バデーニは、杖で、木箱の位置を探りながら、答えた。
「あれ……? ないです」
ヨレンタは、木箱の中を、手で探った。
「ない? 何がだ」
「研究ノートです。あの、惑星逆行の新解釈と、地動説の証拠をまとめた、分厚いノート。ここに、しまってあったはずなんですけど……」
ヨレンタの声が、不安げに、揺れた。
「……何だと?」
バデーニの声が、低くなった。
バデーニは、杖を放り出し、木箱の前に、這うようにして近づいた。
両手で、木箱の中を、まさぐる。
「ない……ない……本当に、ない……!」
バデーニの手が、震えていた。
「あのノートは、私の、十年分の研究の結晶だ。地動説の証拠を、初めて、体系的にまとめた、決定的な資料。あれが、なければ、私の研究は、根底から、覆る」
バデーニの声は、恐怖と怒りで、震えていた。
「オクジー! 何か、見えるか! この小屋に、誰か、侵入した痕跡はないか!」
バデーニが、鋭く叫んだ。
オクジーは、素早く、小屋の中を、見回した。
琥珀色の瞳が、暗闇の中で、ぎらりと光る。
「……床に、足跡がある」
オクジーは、床を指差した。
「足跡……?」
「ああ。俺たち三人の足跡とは、別の、見知らぬ足跡だ。しかも、つま先が、小屋の内側から、外側に向かって、付いてる。……誰かが、この小屋から、何かを持って、出て行った」
オクジーの声は、冷静だった。
「外部の者が、侵入した……だと……」
バデーニの顔から、血の気が、引いていく。
「……あの野郎だ」
バデーニは、歯を食いしばった。
「あの野郎……?」
「私の、元、友人だ。かつて、私の研究成果を、奪い、教会に取り入った、あの男。あの男が、私のノートを、狙っている。……間違いない。あの男の仕業だ」
バデーニの声は、怒りと、悔しさで、震えていた。
「あの男は、私の研究を、また、奪うつもりだ。そして、今度は、それを、異端審問所に、密告する。……私を、完全に、消すために」
バデーニは、ぎり、と、唇を噛んだ。
唇から、血が、滲んだ。
「バデーニさん……」
ヨレンタは、バデーニの肩に、そっと、手を置いた。
「……すまない、ヨレンタ。君を、巻き込んでしまった。いや、最初から、巻き込むつもりだった。私の、この、執念に」
バデーニは、自嘲するように、笑った。
「巻き込まれて、なんか、いません。私は、自分の意志で、ここにいます。バデーニさんの、研究を、手伝いたいから。……だから、諦めないでください。ノートは、必ず、取り戻しましょう」
ヨレンタの声は、力強かった。
「……ああ。諦めるものか。あのノートは、私の、命だ。地動説の、証拠だ。絶対に、取り戻す」
バデーニは、深く、息を吐いた。
「オクジー。君の目で、足跡を、追えるか」
「……ああ。足跡は、森の北側に、続いてる。まだ、新しい。追えば、辿り着けるかもしれない」
オクジーは、小屋の外の、地面を、じっと見つめながら、答えた。
「よし。では、追うぞ。……待て、今は、夜明け前だ。足跡が、消える前に、追わねば」
バデーニは、杖を拾い上げ、立ち上がった。
「バデーニさん、私も、行きます」
「ああ。君も、来い。……オクジー、案内しろ」
「……分かった。でも、危険だ。相手が、ただの盗人とは、限らない」
オクジーは、腰に下げた、短剣に、手をやった。
「危険は、承知だ。それでも、行かねばならん。……私の、研究を、守るために」
バデーニの声は、決意に満ちていた。
三人は、夜明け前の、暗い森の中へ、足を踏み出した。
オクジーの目が、地面に残された、かすかな足跡を、追っていく。
ヨレンタは、バデーニの手を引き、木の根や石を、言葉で伝えながら、歩いた。
バデーニは、杖で地面を探りながら、ヨレンタの声を頼りに、前へ進んだ。
森の奥から、冷たい風が、吹きつけてきた。
風に混じって、かすかに、誰かの、気配がした。
「……いる」
オクジーが、足を止めた。
「前方、三十歩。木の陰に、一人。……いや、二人だ。一人は、荷物を持ってる。あれが、ノートか」
オクジーの声は、緊張で、硬くなっていた。
「二人……。あの男と、その、護衛か」
バデーニは、杖を握る手に、力を込めた。
「どうする? 正面から、行くか?」
「いや、待て。まだ、夜明け前だ。相手も、我々に、気づいていない。……オクジー、君の目で、あの二人の、正確な位置と、動きを、教えろ」
「……一人は、木の根元に、座ってる。もう一人は、立って、周囲を警戒してる。座ってる方の男が、胸に、分厚い本を、抱えてる。……あれだ」
オクジーは、暗闇の中で、はっきりと、相手の姿を、捉えていた。
「よし。では、オクジー。君は、あの、立っている方の男を、頼む。私とヨレンタは、座っている方の男から、ノートを、奪い返す」
「……分かった。でも、あんた、目が見えないだろ。大丈夫か?」
「心配するな。私には、計算がある。それに、ヨレンタが、私の目になる」
バデーニは、ヨレンタの手を、強く握った。
「ヨレンタ。私の、指示通りに、動け。いいな」
「はい」
ヨレンタは、緊張で、声が、裏返りそうになった。
「……行くぞ」
バデーニの、静かな、しかし、力強い声が、夜明け前の森に、響いた。
オクジーが、音もなく、木の陰から、飛び出した。
「なっ!?」
立っていた男が、驚きの声を上げた。
オクジーは、男の懐に、一瞬で、飛び込んだ。
「ぐあっ!」
オクジーの、鋭い、掌底が、男の鳩尾に、突き刺さる。
男は、くの字に折れて、地面に、崩れ落ちた。
「お、お前ら、何者だ!」
座っていた男が、慌てて、立ち上がった。
胸に、分厚いノートを、抱えている。
「……そのノートを、返してもらおう」
バデーニが、杖を突きながら、ゆっくりと、男の前に、進み出た。
「な、なんだ、お前は!? 目が……見えてないのか!?」
男は、バデーニの白濁した両目を見て、怯えた声を上げた。
「見えていない。だが、君の、その、浅い呼吸、震える手、そして、ノートを抱える、その、必死な力加減。すべて、私には、分かる。君は、今、恐怖している。そして、逃げ出したい。だが、そのノートを、手放すわけにはいかない。……そうだろう?」
バデーニの声は、冷たく、鋭かった。
「く、くそ……! これは、俺が、頼まれた仕事だ! あんたに、渡すわけには、いかない!」
男は、ノートを抱えたまま、後ずさりした。
「誰に、頼まれた?」
「言えるか! ……くっ、邪魔だ!」
男は、懐から、短剣を、取り出した。
「危ない! バデーニさん!」
ヨレンタは、悲鳴を上げた。
「ヨレンタ、右だ!」
バデーニが、鋭く叫んだ。
ヨレンタは、とっさに、バデーニの体を、右に、押した。
男の短剣が、バデーニの、左肩を、かすめた。
「ぐっ……」
バデーニの肩から、血が、滲んだ。
「バデーニさん!」
「……大丈夫だ。かすり傷だ。……それよりも、ヨレンタ。あの男の、左足が、木の根に、引っかかっている。今だ、押せ!」
「え……? はい!」
ヨレンタは、男の左足が、木の根に、引っかかっていることを、確認した。
そして、男の体を、思い切り、突き飛ばした。
「うわっ!」
男は、体勢を崩し、後ろに、倒れた。
抱えていたノートが、男の手から、離れて、地面に、落ちた。
「今だ、オクジー!」
「ああ!」
オクジーが、地面に落ちたノートを、素早く、拾い上げた。
「……確保した」
「よし。……では、その男に、聞きたいことがある」
バデーニは、倒れた男に、近づいた。
「誰に、頼まれた? 正直に、話せ。さもないと……」
バデーニの声は、氷のように、冷たかった。
「ひ、ひぃ……! ま、待ってくれ! 話す! 話すから! ……た、頼んだのは、教会の、お偉方に、顔が利くって、豪語してる、男だ。名前は……知らない。でも、あの男は、お前の、元、友人だって、言ってた。お前の、研究を、盗んだ、って。……だから、今度は、その、ノートを、盗んで、異端審問所に、売り渡すって」
男は、震えながら、すべてを、話した。
「……やはり、あの男か」
バデーニは、深く、息を吐いた。
「あの男は、私の、研究を、また、奪った。そして、今度は、それを、私を、殺すために、使う。……どこまで、卑劣なんだ、あの男は」
バデーニの声は、怒りと、悲しみで、震えていた。
「……バデーニさん。ノートは、無事です。私たちが、守りました」
ヨレンタは、バデーニの手を、そっと、握った。
「……ああ。すまない。……ありがとう、ヨレンタ。オクジー。……君たちが、いてくれて、よかった」
バデーニは、二人に、深く、頭を下げた。
「……礼は、いい。それより、この男たち、どうする?」
オクジーは、地面に倒れた、二人の男を、見下ろした。
「……放っておけ。殺す価値もない。だが、一つだけ、伝えておけ。……あの男に、伝えろ。次に、私の研究に、手を出したら、今度は、私が、あの男の、喉笛を、噛み切ってやる、と」
バデーニの声は、殺気に満ちていた。
「ひ、ひぃ……! わ、分かった! 伝える! 伝えるから!」
男は、這うようにして、森の奥へ、逃げていった。
夜明けが、近づいていた。
東の空が、うっすらと、白み始めている。
三人は、観測小屋へ、戻ってきた。
「……今日のところは、これで、解散だ。ヨレンタ、オクジー。本当に、助かった。……だが、これは、始まりに過ぎん。あの男は、必ず、また、動く。異端審問所も、動くかもしれん」
バデーニは、疲れた様子で、小屋の壁に、寄りかかった。
「……バデーニさん。私、決めました」
ヨレンタは、バデーニの前に、立った。
「何をだ」
「私は、もう、逃げません。星の真理を、知りたい。そのために、どんなに怖くても、どんなに苦しくても、戦います。バデーニさんと、オクジーさんと、三人で。……私、バデーニさんの、研究を、絶対に、守り抜きます」
ヨレンタの目は、まっすぐに、バデーニを見つめていた。
「……ヨレンタ」
バデーニは、ヨレンタの、その、強い意志を、感じ取った。
「……ああ。頼む。……私も、君を、守る。君の、その、才能を、この、暗い世界から、守り抜く。……きっと、それが、何かを知るということだ」
バデーニは、そう言って、ヨレンタの頭に、そっと、手を置いた。
ヨレンタの胸の奥が、じわりと、温かくなった。
「……俺も、いる。……俺の、この目が、あんたたちの、役に立つなら、……使ってくれ。……俺は、もう、地面だけを見て、生きるのは、やめる」
オクジーは、空を見上げた。
夜明けの空に、最後の星が、一つ、また一つと、消えていく。
「……あの星、動いてる」
オクジーは、消えゆく星を、目で追いながら、呟いた。
「ええ。星は、いつも、動いてる。……私たちも、動かなければ」
ヨレンタも、空を見上げた。
三人は、夜明けの空を、静かに、見上げていた。
しばらくして、ヨレンタは、観測小屋の、木箱の中を、整理していた。
「……あれ?」
ヨレンタの手が、止まった。
「どうした、ヨレンタ」
「……バデーニさん。この、木箱の底。……二重底になってます」
ヨレンタは、木箱の底を、指で、探った。
「二Noveliaとは?
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