BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る
血の味とともに、二十三歳の死を見た——。目を覚ましたアッシュ・リンクスの枕元には、見知らぬ東洋人青年の古い写真が一枚。「お前はまだ間に合う。バナナフィッシュを止めろ」——裏に残された言葉が、運命を変える鍵となる。親友ショーターの失踪、黒いスーツの男たち、街に囁かれる禁断の薬の噂。ハーレムのストリートキッズのボスが、自らの死の未来を斬り開くために動き出す。逆行×サスペンス×アクション、運命に抗う物語が今、幕を開ける。
BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る - チャイナタウンの出会い ―写真の青年―
血の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
アッシュ・リンクスは薄暗いアジトの窓辺に立っていた。ハーレムの廃墟ビル二階。窓は板で塞がれ、朝の光は隙間から細く差し込むだけだ。埃っぽい空気。遠くでサイレンが鳴っている。
ショーターが消えてから、三日が過ぎた。
「まだ何も見つからないのか」
声は低く、抑えられている。だが、その奥に焦りが滲んでいた。
「情報屋を全部当たった。でも、黒いスーツの連中の目撃情報は、チャイナタウンの外れで途切れてる」
痩せ型で背の低いボーンズが、壁の地図を指さした。赤いピンが数本、チャイナタウンの東側に集中している。
「倉庫街だ。あそこはコルシカの連中が仕切ってる。表向きは貿易会社の倉庫ってことになってるけど、中で何が行われてるかは誰も知らねえ」
黒短髪の大男、コングが腕を組んだ。その太い腕には、新しい擦り傷がいくつもあった。情報収集の過程で、危ない橋も渡ったのだろう。
アッシュは黙って地図を見つめた。
チャイナタウン。
ショーター・ウォンの縄張り。中国系ストリートキッズのボスで、アッシュにとって少年刑務所時代からの唯一の親友。気さくで、仲間想いで、馬鹿みたいに明るい男。
そいつが、黒いスーツの男たちに連れ去られた。
「……俺はチャイナタウンに行く」
アッシュは言った。
「お前らは引き続き、倉庫街の周辺を探れ。出入りする車の数、警備の位置、交代の時間。全部だ」
「わかった」
「任せろ、アッシュ」
二人が動き出す。
アッシュは黒のレザージャケットを羽織り、バタフライナイフをポケットに滑り込ませた。ジャケットの内側には、あの写真がある。東洋人の青年が写った、古いモノクロ写真。裏には「お前はまだ間に合う。バナナフィッシュを止めろ」という文字。
——あの写真の青年は、誰なんだ。
——なぜ、俺の枕元に置かれた。
——そして、ショーターの失踪と、何が関係している。
答えはない。
アッシュはドアを開けた。
外は曇っていた。低い雲が垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな空。湿った風が、生ゴミと排気ガスの匂いを運んでくる。
地下鉄の駅へ向かう。
ハーレムの通りは、朝から人で溢れていた。果物を売る露天商。段ボールに寝転ぶ浮浪者。派手なスプレーアートが描かれた壁。路上には注射針が落ちている。
ニューヨーク。1985年。
金と暴力がものを言う街。
地下鉄の改札を抜け、90セントを投入する。ホームに降りると、湿った熱気と小便の臭いが鼻を突いた。電車が来るまでの数分間、アッシュは壁にもたれて目を閉じた。
——ショーター。
——お前は、まだ生きているのか。
胸の奥が、じわりと冷たくなる。
あの予知夢。23歳で死ぬ自分。血の味。冷たくなる指先。そして、ショーターが死ぬ光景。
夢は、ただの夢じゃない。
あの写真が現れた夜から、アッシュは確信していた。これは警告だ。未来から届いた、何者かの警告。
電車が来た。
アッシュは乗り込み、ドアの近くに立った。車内は空いていた。スーツ姿の男が新聞を読み、若い女が化粧を直している。誰もアッシュを見ない。
金髪の少年。緑の瞳。左耳のピアス。
この街では、目立つ外見ほど危険を招く。だが、アッシュの周りには常に、近寄りがたい空気があった。触れたら切れる刃物のような、冷たいオーラ。
チャイナタウンに着いた。
駅を出ると、空気が変わった。漢字の看板。赤い提灯。焼き魚と醤油と漢方薬の匂い。狭い路地に、中華料理店や雑貨屋がひしめいている。
アッシュは歩いた。
路地を曲がり、細い道を抜ける。壁には漢字の落書き。ゴミ袋が積まれ、猫が一匹、アッシュをじっと見つめていた。
ショーターの縄張りは、この辺りだ。
いつもなら、どこかからショーターの笑い声が聞こえてくる。手下のガキどもが騒いで、中華料理店の姉ちゃんが怒鳴って。
今は、静かだった。
不気味なくらいに。
アッシュは足を止めた。
背中に視線を感じる。
振り返る。
誰もいない。
路地の奥に、黒い影が揺れた気がした。
「……気のせいか」
アッシュは小さく呟き、歩き出した。
——だが、気のせいじゃない。
——誰かが、俺を見ている。
その感覚は、アジトを出た時からずっと続いていた。
同じ頃。
チャイナタウンのメインストリート、モット・ストリート。
「英二、そっちの機材、もうちょっと右に寄せてくれないか」
「あ、はい。これでいいですか」
奥村英二は、三脚の位置を微調整した。
19歳。日本人。カメラマン助手。
大きな目。柔らかそうな黒い髪。童顔で、アメリカでは中学生に間違えられることもしばしばだ。身長は170センチちょっと。痩せ型だが、高校時代に棒高跳をやっていただけあって、体の線はしなやかだった。
「よし、いいぞ。今日はストリートの空気を撮りたい。あの路地の感じ、いいな。英二、ちょっと先に行って、人の流れを見ててくれ」
「え、僕がですか? カメラは……」
「お前もそろそろ、自分の目で被写体を探す練習をしろ。ほら、行った行った」
伊部俊一は、プロのカメラマンだ。40代前半。無精髭を生やし、いつもくたびれたシャツを着ている。ニューヨークのストリートを撮るために、英二を助手として連れてきた。
英二は、伊部のことを兄貴分として慕っていた。
「わかりました。じゃあ、ちょっと見てきます」
英二は路地へ入った。
古い建物。剥がれかけた看板。地面に落ちた野菜くず。猫が二匹、塀の上で毛づくろいをしている。
英二は、ポケットから小さなノートを取り出した。
——光の入り方。
——人の表情。
——この街の匂い。
感じたことを、メモする。
写真を撮る仕事を始めてから、英二には一つの癖ができた。目に映るものを、言葉に置き換える癖。光の角度、影の形、人の仕草。そうやって世界を観察することで、シャッターを切るべき瞬間が見えてくる。
——それにしても。
英二は、路地の奥に目を向けた。
この街には、子供が多かった。
いや、子供というより——ストリートキッズ。
10代前半の少年たちが、壁にもたれてタバコを吸っている。服は汚れ、靴は擦り切れている。目の下にはクマ。笑っているのに、目が笑っていない。
英二は、彼らにカメラを向けようとして、手を止めた。
(撮っていいのか?)
(彼らの生活を、勝手に切り取って、日本に持ち帰る。それは、正しいことなのか)
英二の胸に、小さな棘が刺さった。
高校時代、棒高跳の選手だった。インターハイ決勝で、右足首を断裂した。選手生命は、そこで終わった。
挫折した。
どん底まで落ちた。
だからこそ、他人の痛みが分かる。
彼らの目に宿る諦めの色が、痛いほど分かる。
「……っ」
英二は、ノートを閉じた。
——その時だった。
「おい、てめえ、ここは俺たちのシマだぞ!」
怒鳴り声。
英二が振り返ると、路地の向こうで、少年たちがにらみ合っていた。
二つのグループ。
片方は、さっきまで壁にもたれていたストリートキッズたち。もう片方は、別のグループ。全員、10代半ば。手にはバットや鉄パイプ。
縄張り争い。
ニューヨークのストリートでは、日常茶飯事だ。
「うるせえ! ここは俺たちが先に使ってたんだ!」
「知るか! お前らみたいな雑魚は出て行け!」
一触即発。
英二は、まずいと思った。
(早く、ここを離れないと)
足を後ろに引く。
だが、遅かった。
「やっちまえ!」
叫び声と同時に、少年たちがぶつかり合った。
鉄パイプが振り回される。拳が顔にめり込む。血が飛ぶ。悲鳴と怒号。路地が、一瞬で戦場に変わった。
英二は逃げようとした。
だが、背後から誰かにぶつかられ、バランスを崩した。
「うわっ!」
地面に倒れ込む。
その上を、少年たちが駆け抜けていく。誰かの足が、英二の背中を踏んだ。
「ぐっ……」
痛み。
起き上がろうとする。だが、乱闘の渦の中で、身動きが取れない。
——やばい。
——このままじゃ、巻き込まれる。
英二は、必死に頭を守った。
鉄パイプが、すぐ横の壁に叩きつけられる。ガキン、という金属音。火花が散る。
誰かが、英二の腕を踏んだ。
「ああっ!」
痛みに、声が漏れる。
——その時。
乱闘の中心に、一人の少年が割って入った。
金髪。
黒いレザージャケット。
深い緑色の瞳。
アッシュ・リンクス。
アッシュは、無言で歩いてきた。
その姿に、乱闘していた少年たちが気づく。
「あ……アッシュ……」
一人が、青ざめた。
アッシュの名は、ダウンタウンのストリートキッズなら誰でも知っている。17歳で、30人のグループを束ねるボス。IQ180の天才。射撃とナイフの達人。逆らったら終わり。
「お前ら、ここで何をしてる」
声は低く、冷たい。
周囲の空気が、一瞬で凍りついた。
「ち、違うんです! 先に仕掛けてきたのは、あいつらで……」
「聞いてない」
アッシュは、一歩踏み出した。
その動きだけで、少年たちが一斉に後ずさる。
「三秒で消えろ。消えないなら、全員病院送りだ」
少年たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
路地に、静けさが戻る。
アッシュは、地面に倒れている英二に目を向けた。
「……お前、何してんだ」
英二は、ゆっくりと顔を上げた。
目の前に、金髪の少年が立っている。
逆光で、顔がよく見えない。
だが、その緑の瞳だけが、異様に鋭く光っていた。
「あ……助けてくれたんですか」
英二は、そう言って、立ち上がった。
体のあちこちが痛む。服は汚れ、肘から血が出ている。
「別に。お前を助けたんじゃない。あいつらがうるさかっただけだ」
アッシュは、英二から視線を外した。
——東洋人。
——若い。
——大きな目。
アッシュの胸が、ドクン、と跳ねた。
この顔。
知っている。
写真。
枕元に落ちていた、あのモノクロ写真。
写っていた青年。
柔らかそうな黒い髪。大きな目。真っ直ぐな視線。
——まさか。
——あの写真の青年が、目の前にいる。
アッシュは、ジャケットの内ポケットに手をやった。写真の感触。
間違いない。
この男だ。
「大丈夫か? 君こそ、怪我はないか?」
英二が、アッシュに近づいた。
心配そうな顔。
無垢な瞳。
アッシュは、一瞬たじろいだ。
——なんだ、こいつ。
——さっきまで乱闘に巻き込まれて、地面に這いつくばってたくせに。
——なんで、俺の心配をしてる。
「……お前、日本語が喋れるのか」
アッシュは、英二の言葉を日本語で返した。
「えっ! 君、日本語が話せるの!?」
英二の目が、大きく見開かれた。
「少しな」
「すごい! 発音も完璧だ! ニューヨークで日本語を話せる人に会うなんて、思わなかった!」
英二が、嬉しそうに笑った。
その笑顔に、アッシュは戸惑った。
——なんで、こんなに無防備なんだ。
——俺が誰かも知らないのに。
「お前、一人でこんな場所をうろつくな。死にたいのか」
「死にたくはないよ。でも、仕事だから」
「仕事?」
「カメラマンの助手をしてるんだ。ストリートの写真を撮る取材で、ニューヨークに来てる。君みたいな人の写真も、撮らせてもらえたらいいなって思ってた」
英二は、そう言って、カメラを構えた。
「やめろ」
アッシュの声が、鋭くなった。
「俺を撮るな。消せ」
「え……でも、君の顔は、すごく絵になる。光の加減も、背景も、完璧だ」
「関係ない。撮るなと言ったら撮るな」
アッシュは、英二のカメラを手で押しのけた。
英二は、少し悲しそうな顔をした。
だが、カメラを下ろさない。
「……君の目、寂しそうだね」
英二が、静かに言った。
アッシュの動きが、止まった。
「強いのに、怖いのに、それなのに、すごく寂しそうな目をしてる。まるで、ずっと一人で戦ってきたみたいな」
英二の言葉が、アッシュの胸に突き刺さった。
——寂しそうな目。
——ずっと一人で戦ってきた。
違う。
俺は、一人なんかじゃない。
仲間がいる。ショーターがいる。
でも。
心の奥底で、誰かが囁く。
——本当にそうか?
——お前は、誰にも心を開けていない。
——お前は、ずっと一人だ。
「……余計なことを言うな」
アッシュは、英二に背を向けた。
「待って! 名前、教えてくれないか?」
英二が、声をかける。
アッシュは、振り返らなかった。
「お前には関係ない」
そう言って、歩き出す。
「僕は奥村英二! 日本から来たんだ! また会えるかな!」
英二の声が、路地に響く。
アッシュは、答えなかった。
ただ、足を止めそうになるのを、必死で堪えた。
——英二。
——あいつが、写真の青年。
——あいつが、俺の運命に関わる。
アッシュは、路地を曲がった。
英二の姿が見えなくなる。
それでも、英二の声は、しばらくアッシュの耳に残っていた。
「英二! 大丈夫か!?」
伊部が、血相を変えて駆け寄ってきた。
「あ、伊部さん。大丈夫です。ちょっと転んじゃいましたけど」
英二は、笑って見せた。
だが、その目は、まだ路地の奥を見つめていた。
「転んだ? その怪我、ただの転倒じゃないだろ。乱闘があったって聞いたぞ」
「巻き込まれちゃって。でも、助けてくれた人がいたんです。金髪の、すごく綺麗な目の少年が」
「金髪の少年?」
「ええ。まだ若いのに、すごく強くて。それに、日本語が上手で」
英二は、思い出していた。
あの緑の瞳。
冷たい光。
でも、その奥に、隠しきれない孤独。
——君の目、寂しそうだね。
——僕は、あんなことを言ってしまった。
——でも、本当に、そう見えたんだ。
「英二、お前、顔が赤いぞ。熱でもあるのか」
「えっ!? そ、そんなことないです!」
英二は、慌てて顔を隠した。
心臓が、ドキドキしている。
——なんで、こんなに気になるんだろう。
——名前も知らない、あの少年のこと。
英二は、空を見上げた。
曇り空。
雨が、降りそうだった。
その夜。
ハーレムのアジト。
アッシュは、ベッドに横たわっていた。
目を閉じる。
昼間の光景が、脳裏に浮かぶ。
——あの東洋人。
——奥村英二。
——写真の青年。
アッシュは、写真を取り出した。
暗闇の中で、モノクロの青年の顔が浮かび上がる。
間違いない。
昼間会った、あの男だ。
「……なんで、あいつが」
アッシュは呟いた。
写真の裏の文字。
——お前はまだ間に合う。バナナフィッシュを止めろ。
この写真は、警告だ。
あの青年が、何かの鍵を握っている。
——それとも。
——あいつ自身が、危険に巻き込まれるのか。
アッシュの胸に、嫌な予感が広がった。
ショーターの失踪。
写真の警告。
そして、あの青年との出会い。
全部が、繋がっている。
糸は、まだ見えない。
でも、確かに、何かが動き始めている。
アッシュは、写真を握りしめた。
「……俺は、もう失わない」
小さな声。
誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように。
——ショーターも。
——そして、あの青年も。
——俺が守る。
アッシュは、ゆっくりと目を閉じた。
疲れていた。
三日間、ほとんど眠っていない。
意識が、暗い海に沈んでいく。
——暗闇。
——血の匂い。
アッシュは、夢の中にいた。
見たことのない場所。
薄暗い倉庫。
鉄骨が剥き出しで、床はコンクリート。
誰かが、倒れている。
黒い髪。
大きな目。
——英二。
奥村英二が、血まみれで倒れていた。
腹から、赤い血が流れ出ている。
白いシャツが、真っ赤に染まっている。
「……英二!」
アッシュは、英二に駆け寄った。
英二の体を抱き起こす。
冷たい。
英二の手が、アッシュの手を握った。
「……アッシュ……」
英二の唇が、かすかに動く。
「喋るな! 今、助ける!」
アッシュは叫んだ。
だが、血は止まらない。
英二の命が、指の間から零れ落ちていく。
「……大丈夫……だから……」
英二が、微笑んだ。
血に染まった顔で、それでも、優しく。
「やめろ! 死ぬな! お前まで、俺の前から消えるな!」
アッシュの叫びが、倉庫に響く。
英二の手が、力なく落ちた。
「——っ!」
アッシュは、飛び起きた。
心臓が、耳の奥で鳴っている。
全身に汗。
呼吸が浅い。
「……夢か」
声が震えていた。
手を見る。
英二の血で染まったはずの手は、いつも通り、白く乾いていた。
——今のは、予知夢だ。
——あの青年が、血まみれで倒れる未来。
——俺が、その手を握っている。
アッシュは、写真を見つめた。
「……お前を、守れってことか」
写真の青年は、何も答えない。
ただ、真っ直ぐに、アッシュを見つめている。
アッシュは、写真を握りしめた。
「……分かった」
静かな声。
決意が、胸の奥で固まっていく。
ショーターを助ける。
そして、あの青年を守る。
二つの目的が、今、重なった。
アッシュは、ベッドから降りた。
窓の外は、まだ暗い。
雨が降り始めていた。
窓を塞ぐ板の隙間から、冷たい風が吹き込む。
アッシュは、黒いレザージャケットを手に取った。
「行くか」
誰に言うでもなく、呟いた。
コルシカ・マフィアの倉庫街。
ショーターが連れ去られた場所。
そこに、全ての答えがある。
アッシュは、バタフライナイフをポケットに入れた。
ドアを開ける。
外は、冷たい雨だった。
雨音が、街の音を消していく。
アッシュは、雨の中へ歩き出した。
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