BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る
血の味とともに、二十三歳の死を見た——。目を覚ましたアッシュ・リンクスの枕元には、見知らぬ東洋人青年の古い写真が一枚。「お前はまだ間に合う。バナナフィッシュを止めろ」——裏に残された言葉が、運命を変える鍵となる。親友ショーターの失踪、黒いスーツの男たち、街に囁かれる禁断の薬の噂。ハーレムのストリートキッズのボスが、自らの死の未来を斬り開くために動き出す。逆行×サスペンス×アクション、運命に抗う物語が今、幕を開ける。
BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る - 夜明けのニューヨーク ―消えない予知夢―
血の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
アッシュ・リンクスは、精神衛生センターの地下へ続く階段を降りていた。足音が、冷たいコンクリートの壁に反響する。一段、また一段。暗闇が深くなるたびに、空気が重くなる。
兄の名前が、被験者リストにあった。
グリフィン・リンクス。
バナナフィッシュの最初の犠牲者。
あのリストを見た瞬間の怒りが、まだ腹の底で燃えている。指先が、ポケットの中のバタフライナイフを探る。冷たい金属の感触。
「落ち着きたまえ、アッシュ」
後ろから声がした。銀色の短い髪。整えられた髭。氷のような青灰色の瞳。百九十センチの巨体。ブランカが、静かな足取りで階段を降りてくる。
「落ち着いてる」
「心拍数が上がっているよ。私には分かる」
アッシュは答えなかった。階段を降り続ける。
地下三階。
精神衛生センターの最深部。バナナフィッシュが生まれた場所。
鉄の扉が、行く手を塞いでいた。厚い鋼鉄。警備用のカードリーダーが壁に埋め込まれている。ブランカが、ポケットから一枚のカードを取り出した。
「これは借り物でね。すぐに返さなければならない」
「どこから盗んだ」
「借りた、と言っただろう。警備主任の男が、酒に弱くてね」
カードを差し込む。小さな電子音。ロックが外れる音。
ブランカが扉を押した。
鉄の扉が、ゆっくりと開く。
——地下三階。
そこは、病院の廊下のようだった。白い壁。蛍光灯の青白い光。消毒液の匂い。どこまでも続く、無機質な空間。
「この先に、ディノがいる」
「ああ」
二人は、廊下を進んだ。
足音だけが、静寂を破る。
やがて、廊下の突き当たりに、大きな両開きの扉が見えてきた。
扉の前に、黒いスーツの男たちが立っている。
四人。
全員が、肩にホルスターを吊っている。目つきが鋭い。元軍人か、傭兵上がりか。ゴルツィネ・ファミリーの暗殺者部隊——ルピ・ネリ。
アッシュは、足を止めなかった。
「そこをどけ」
男たちは、動かない。
「聞こえなかったか。どけと言った」
男の一人が、口を開いた。
「ボスは、お前だけを通せと。隣の男は、ここで待機だ」
アッシュは、ブランカを振り返った。
「ふむ。私は待機か。残念だね」
ブランカは、壁に背を預けた。
「行きたまえ。君の戦いだ」
アッシュは、前に向き直った。
「お前ら、あとで後悔するなよ」
男たちが、一斉に身構える。
アッシュは、両開きの扉を押し開けた。
——部屋の中。
そこは、巨大な実験室だった。
壁一面に並ぶ薬品棚。机の上に散乱する書類。部屋の中央には、無影灯に照らされた手術台。
そして、部屋の奥に、男が立っていた。
白髪混じりの黒髪を後ろに撫でつけたオールバック。冷たい灰色の瞳。百八十五センチの体を、仕立ての良いスーツで包んでいる。右手の甲には、古い火傷の跡。胸元で、金の十字架のペンダントが光る。
ディノ・ゴルツィネ。
コルシカ・マフィア、ゴルツィネ・ファミリーのボス。
アッシュを養子にし、後継者として育て、そして男娼として利用した男。
「よく来たね、アッシュ」
ディノの声は、芝居がかったように滑らかだった。
「呼んだのは、あんただ」
「そうだ。君と、最後の話がしたくてね」
ディノが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「君がここまで来るとは、正直、予想していなかったよ。あの夜、君が私の元を去ってから、君は随分と成長した」
「あんたのせいでな」
「そうだろうね。私が君を育てた。君の才能を見抜いたのも、私だ。君の美しさも、強さも、すべて私が磨いた」
ディノの目が、異様な熱を帯びる。
「気色悪いことを言うな」
「なぜだ。事実だろう。君は私のものだ。ずっと、そうだった。これからも、そうだ」
アッシュの指が、ナイフの柄を握りしめた。
「俺は、誰のものでもない」
「君は、そう思っているだけだ。君の体には、私が刻んだ傷が残っている。君の頭の中には、私が教えた知識が詰まっている。君は、私なしでは生きられない」
「試してみるか」
アッシュは、ナイフを抜いた。
刃渡り十センチのステンレス。無影灯の光を反射して、白く輝く。
ディノは、微笑んだ。
「いいね。その目だ。殺意に満ちた、美しい目。君の兄も、同じ目をしていたよ」
アッシュの呼吸が、一瞬、止まった。
「……グリフィンに、何をした」
「何をした? 私は、彼にチャンスを与えたんだ。バナナフィッシュの最初の被験者として、歴史に名を残すチャンスをね。だが、彼は失敗作だった。知性が破壊され、廃人になった。実に残念だったよ」
「失敗作だと」
アッシュの声が、低くなる。
「あんたは、兄貴を、実験台にした」
「実験台ではない。先駆者だ。彼の犠牲があったからこそ、バナナフィッシュは完成に近づいた。そして、君という最高傑作も生まれた」
「最高傑作だと」
「そうだ。君は、私の最高傑作だ。私が育てた、完璧な後継者。君の知性、君の戦闘力、君の美しさ。すべてが、私の理想だ」
ディノが、一歩、近づく。
「アッシュ。戻ってこい。今なら、すべてを許そう。君が犯した罪も、君が私に背いたことも。君が私の元に戻るなら、何もかも忘れてやる」
「忘れるだと」
アッシュは、笑った。
冷たい、笑み。
「あんたが忘れても、俺は忘れない。あんたにされたこと。兄貴にしたこと。ショーターにしたこと。全部、覚えてる。そして、今夜、その全部に、決着をつける」
ディノは、ため息をついた。
「残念だよ。君は、私の気持ちを理解できないのか。私は、君を愛しているんだ」
「愛だと。あんたのそれは、愛じゃない。執着だ。所有欲だ。気色悪い」
「何と呼ぼうと構わない。君は私のものだ。それは、変わらない」
ディノが、スーツの内側に手を入れた。
——銃。
シルバーのオートマチック。
「どうやら、話し合いでは分かり合えないようだね。残念だが、実力で決めようか」
アッシュは、ナイフを構えた。
「望むところだ」
——銃声。
ディノが撃った。
アッシュは、横に跳んだ。
弾丸が、壁にめり込む。コンクリートの破片が、飛び散る。
アッシュは、机の影に身を隠した。
「逃げるのかね、アッシュ。君らしくない」
「逃げてるんじゃない。距離を取ってるんだ」
アッシュは、机の上の書類を掴んで、投げた。
紙が、舞い散る。
ディノの視界を、一瞬、遮る。
その隙に、アッシュは机の影から飛び出した。
ナイフを逆手に持ち替え、低い姿勢で走る。
「甘いな」
ディノが、二発目を撃つ。
アッシュは、床を転がって回避した。
肩が、床にぶつかる。痛み。
でも、止まらない。
「あんたの撃ち方は、昔から変わってない。右に偏る癖がある」
「ほう。よく見ているね」
三発目。
アッシュは、薬品棚の影に滑り込んだ。
ガラスが割れる音。薬品が、床に散らばる。
「あんたに教わったんだよ。撃つ瞬間、右足に体重を乗せる癖。あんたは、いつも右に撃ち損じる」
「それでも、当たれば死ぬ。君のナイフより、私の銃の方が、射程が長い」
「射程なんて、関係ない。距離を詰めればいい」
アッシュは、薬品棚を蹴った。
棚が、倒れる。
薬品の瓶が、床に砕け散る。
アッシュは、その音に紛れて、走った。
ディノの背後に回り込む。
「——そこか」
ディノが振り向きざまに撃つ。
アッシュは、身を屈めた。
弾丸が、髪をかすめる。
——近い。
アッシュは、ナイフを突き出した。
ディノが、銃で受け止める。
金属音。
火花。
「あんたも、歳を取ったな。反応が、遅い」
「君が、速くなったんだよ。私が教えた時より、ずっと」
「あんたから、逃げるために、速くなった」
アッシュは、ナイフを引いて、もう一度突いた。
ディノの腕を、かする。
スーツの袖が裂け、血が滲む。
「……やるね」
ディノの目が、細くなる。
「だが、まだ足りない。君は、私を殺せるほど、強くはない」
ディノが、蹴りを放つ。
アッシュの脇腹に、衝撃。
体が、吹き飛ぶ。
床に、背中から落ちる。
「……っ」
呼吸が、乱れる。
「ほら、見たまえ。君は、まだ子供だ。私に敵うはずがない」
ディノが、銃口を向ける。
「さあ、終わりにしよう。君が私の元に戻るなら、今からでも遅くない」
アッシュは、床に手をついて、立ち上がろうとした。
その時。
——扉が、勢いよく開いた。
「動くな!」
男の声。
アッシュは、顔を上げた。
入り口に、二人の男が立っていた。
一人は、四十代半ばの、髭面の男。元軍人らしい、がっしりした体格。フリージャーナリストのマックス・ロボ。
もう一人は——。
「アッシュ!」
黒い髪。大きな瞳。東洋人の青年。
奥村英二。
カメラを、両手で構えている。
「英二……なんで、ここに」
「君を、一人にしなかったからだ」
英二の声は、震えていた。
でも、目は、まっすぐだった。
「ほう。奥村英二君か。噂には聞いていたよ。君が、アッシュの心を変えた男だね」
ディノが、英二に銃口を向ける。
「やめろ!」
アッシュが叫ぶ。
「君は、私のアッシュを、私から奪った。許せないな」
「英二に、手を出すな」
「どうする? 君が私の元に戻るなら、彼の命は助けてやろう」
アッシュは、歯を食いしばった。
その時。
英二が、カメラを構え直した。
「僕は、真実を撮る。君の戦いも、この場所の闇も。それが、僕にできることだ」
英二が、シャッターを切った。
——フラッシュ。
強烈な光が、部屋を満たす。
ディノが、目を眩ませた。
「なっ——」
もう一度。
——フラッシュ。
「くっ、目が——」
ディノが、顔を背ける。
その一瞬。
アッシュは、床を蹴って飛び出した。
ナイフが、ディノの手首を切り裂く。
銃が、床に落ちる。
「終わりだ、ディノ」
アッシュは、ディノの胸ぐらを掴んで、壁に押し付けた。
ナイフの刃を、ディノの喉元に当てる。
「動くな。動いたら、頸動脈を切る」
ディノは、目を細めた。
「……やはり、君は、私の最高傑作だ」
「黙れ」
「だが、君は、私を殺せない。君の手は、もう、血で汚れている。ショーター・ウォンの血でね」
アッシュの手が、震えた。
「……それは、あんたのせいだ」
「そうだ。私が、彼にバナナフィッシュを投与した。私が、彼に英二を殺すよう暗示をかけた。君は、私の作った悲劇の上で、親友を殺した。君は、私と同じだよ、アッシュ」
「違う!」
アッシュの声が、部屋に響く。
「俺は、あんたとは違う! 俺は、仲間を守るために戦ってる! あんたは、自分の欲望のために、人を壊してる! 一緒にするな!」
ディノは、笑った。
「そうやって、自分を正当化するんだね。でも、君の手は、もう血で汚れている。それは、消せない。君は、私の呪いから、逃れられない」
「あんたの呪いなんて、俺が全部、断ち切ってやる」
アッシュは、ナイフを、ディノの喉から離した。
「殺さない。あんたは、警察に、裁かれるべきだ。あんたの罪を、全部、世間に晒してやる。バナナフィッシュのことも、兄貴のことも、ショーターのことも。あんたのしてきたことを、全部、明るみに出してやる」
ディノの顔から、笑みが消えた。
「お前を殺すのは、私だけだと思っていた」
低い声。
「だが、そうではないようだ。お前は、私の手を離れ、私の知らない場所へ行く。それならば、いっそ——」
ディノの手が、ポケットに伸びた。
「アッシュ、気をつけて!」
英二の叫び。
アッシュは、ディノの手首を、もう一度、切り裂いた。
ディノが、うめく。
ポケットから、小さな注射器が落ちた。
無色透明の液体。
バナナフィッシュ。
「自殺する気か。それとも、俺に打つ気か」
「……どちらでも、良かった。お前と、一緒に、終われるなら」
ディノの声は、かすれていた。
「あんたと、一緒に終わる気はない。俺は、生きる。あんたの呪いを断ち切って、生きるんだ」
アッシュは、ディノを床に突き飛ばした。
ディノが、倒れる。
「……君は、変わったね。昔の君なら、私を殺していた。でも、今の君は、私を殺さない。それが、君の弱さだ」
「違う。これが、俺の強さだ」
アッシュは、振り返った。
「マックス。警察は、まだか」
「ああ、もうすぐだ。俺が、連絡を入れておいた。FBIも来る」
「FBIか。それは、手間をかけたね」
ディノは、床に倒れたまま、笑った。
「だが、無駄だよ。私を捕まえても、バナナフィッシュは、もう止まらない。私の組織は、私がいなくても、動き続ける。そして、次の犠牲者は——お前だ、アッシュ」
「何だと」
「お前の未来は、もう決まっている。お前を殺すのは、私ではない。だが、お前は、必ず死ぬ。私の手ではなくても、お前は、この世界で、死ぬ運命にある」
ディノの言葉は、不気味な響きを持っていた。
「黙れ。あんたの呪いなんて、信じるか」
「信じなくていい。だが、覚えておくといい。お前の未来は、私がもらう」
その時。
廊下から、複数の足音が聞こえた。
「警察だ。全員、動くな!」
武装した警官たちが、部屋になだれ込んでくる。
「ディノ・ゴルツィネ。お前を、殺人、麻薬取引、人身売買、その他の容疑で逮捕する」
ディノは、警官たちに取り押さえられた。
「アッシュ。また会おう。次に会う時は、もっと、面白い場所でね」
ディノは、連行されていった。
足音が、遠ざかる。
静寂。
アッシュは、立ち尽くしていた。
「アッシュ」
英二が、駆け寄ってくる。
「大丈夫か? 怪我は?」
英二の手が、アッシュの肩に触れる。
「……大丈夫だ。かすり傷だけだ」
「良かった。本当に、良かった」
英二の声が、震えている。
「お前こそ、なんで、ここに。危険だって、分かってたはずだ」
「分かってた。でも、君を、一人にできなかった。それだけだ」
英二の目は、まっすぐだった。
アッシュは、少しだけ、口元を緩めた。
「……バカだな、お前は」
「君に言われたくないよ」
英二も、少し笑った。
「ふむ。二人とも、無事で何よりだ」
ブランカが、部屋に入ってきた。
「外の護衛は、私が片付けておいた。君の言う通り、いい運動になったよ」
「ありがとう、ブランカ」
「礼には及ばない。私は、君の家庭教師だった男だ。教え子の晴れ舞台を、見届けるのが、私の役目だ」
ブランカは、穏やかに微笑んだ。
「それで、アッシュ。これから、どうする」
「まずは、バナナフィッシュのデータを、全部、公表する。マックスが、記者だからな。報道機関に、リークできる」
「ああ、任せてくれ。俺が、記事にする。このセンターで行われていたことを、全部、世間に晒してやる」
「それで、センターは、閉鎖に追い込まれる。バナナフィッシュの研究も、止まるはずだ」
「そううまくいくかね。ディノの言う通り、組織は、ボスがいなくても、動き続ける。研究も、別の場所で、続けられるかもしれない」
「それでも、やるしかない。止まるまで、何度でも、潰す」
ブランカは、アッシュの目を、じっと見た。
「君は、変わったね。昔の君なら、復讐だけを考えていた。でも、今の君は、守るために戦っている」
「……そうかもな」
「君は、強くなった。そして、弱くもなった。それが、いいことなのか、悪いことなのか、私には分からない。だが、一つだけ、言えることがある」
「何だ」
「君は、もう、一人じゃない」
ブランカの言葉。
アッシュは、英二を見た。
英二が、アッシュを見ていた。
「ああ。知ってる」
アッシュの声は、少しだけ、柔らかかった。
——夜明け。
精神衛生センターの外。
空が、白み始めていた。
ニューヨークの街に、朝が来る。
警察の車両が、センターの前に並んでいる。警官たちが、忙しく動き回る。報道陣も、集まり始めていた。
アッシュと英二は、センターから少し離れた場所に立っていた。
「朝だね」
「ああ」
「なんだか、長い夜だった。君と出会ってから、ずっと、長い夜が続いてる気がする」
「俺のせいだな」
「違うよ。君のせいじゃない。でも、君と一緒にいると、夜が長く感じるのは、本当だ」
英二が、空を見上げる。
「でも、朝は来る。どんなに長い夜でも、必ず、朝が来る。君と一緒なら、どんな夜も、乗り越えられる気がする」
アッシュは、英二の横顔を見た。
朝日が、英二の黒い髪を、金色に染めている。
「……お前は、強いな」
「え? 僕が? 君に比べたら、全然だよ」
「違う。お前は、俺にはない強さを持ってる。光だ。お前は、光だ」
「……君だって、光だよ。君の金髪は、太陽みたいだ」
英二が、アッシュの髪に、そっと触れた。
アッシュは、身を固くした。
でも、振り払わなかった。
「君の髪、朝日に透けると、本当にきれいだね」
「……やめろ。恥ずかしい」
「君が照れてるの、初めて見たかも」
「照れてない」
「顔、赤いよ」
「朝日のせいだ」
二人は、少しの間、黙って朝日を見ていた。
やがて、英二が口を開いた。
「アッシュ。僕、日本に帰らなきゃいけない日が、近づいてる」
アッシュの胸が、少し、痛んだ。
「……そうか」
「でも、また来るよ。写真を撮りに。君の写真も、いっぱい撮りたい」
「俺の写真なんて、撮ってどうする」
「君の写真は、世界で一番、価値があるよ。僕にとっては」
英二は、カメラを構えた。
「笑って」
「笑えない」
「じゃあ、そのままで。君は、そのままが、一番いい」
——シャッター音。
「……うん。いい写真だ」
英二が、ファインダーから顔を上げて、笑った。
「見せろ」
「現像してからね。楽しみにしてて」
「……ああ、待ってる」
アッシュは、小さく笑った。
心の奥で、何かが、ほどけていく。
ずっと張り詰めていたものが、少しだけ、緩む。
——これが、救われる、ということか。
アッシュは、そう思った。
「アッシュ」
ブランカが、近づいてきた。
「私は、そろそろ行くよ。カリブに、帰らなければならない」
「カリブか」
「ああ。私の娘が、待っている。君も、来ないか。カリブは、いいところだ。暖かい海と、静かな時間。君の傷を癒すには、最適の場所だ」
ブランカの声は、真剣だった。
「……悪いが、断る。俺には、まだ、やることがある」
「そうか。残念だ。だが、君らしい答えだ。君は、休むことを知らない。それが、君の強さであり、弱さでもある」
「分かってる。でも、今は、戦う時だ。バナナフィッシュを、完全に消すまで。ディノの組織を、全部、潰すまで。俺は、止まれない」
「君がそう決めたなら、私は、何も言うまい。だが、一つだけ、覚えておいてほしい」
「何だ」
「戦いが終わったら、君は、生き延びることを選ぶんだ。復讐でも、贖罪でもなく、ただ、生きることを。それが、君の本当の戦いだ」
ブランカは、アッシュの肩を、軽く叩いた。
「では、また会おう。アッシュ。君の未来に、幸運を」
ブランカは、背を向けて、歩き去った。
銀色の髪が、朝日の中で、白く輝く。
「……ありがとう、ブランカ」
アッシュは、小さく呟いた。
ブランカは、振り返らず、手を挙げた。
その背中が、人混みに消える。
「アッシュ。これから、どうするの?」
英二が、隣に立つ。
「まずは、ショーターの墓参りだ。それから、バナナフィッシュのデータを、全部、公表する。マックスが、手伝ってくれる」
「僕も、手伝うよ。何でも言って」
「お前は、日本に帰る準備をしろ。危険なことに、これ以上、巻き込めない」
「巻き込まれてるんじゃない。自分から、飛び込んでるんだ。君の隣に、いたいから」
英二の目は、真剣だった。
アッシュは、英二の目を見た。
黒い瞳。
光。
「……勝手にしろ」
「うん。勝手にするよ」
英二が、笑った。
アッシュも、少し、笑った。
朝日が、二人を照らしていた。
ニューヨークの朝。
新しい一日。
——でも。
アッシュは、知っていた。
これは、終わりじゃない。
ディノの言葉が、頭の隅で、繰り返される。
「次の犠牲者は、お前だ」
「お前の未来は、私がもらう」
——あの男は、まだ、何かを知っている。
バナナフィッシュの先に、何かがいる。
アッシュは、空を見上げた。
青い空。
でも、地平線の向こうに、暗い雲が見える。
嵐は、まだ、終わっていない。
——その夜。
アッシュは、ハーレムのアジトで、眠りについた。
疲れていた。
体も、心も。
でも、英二が隣にいる。
それだけで、安心して、眠れた。
——暗闇。
——静寂。
アッシュは、夢の中にいた。
白い光。
誰かが、自分を抱きしめている。
温かい腕。
でも、体は、動かない。
呼吸が、浅い。
胸の奥から、血が、溢れてくる。
痛くない。
ただ、冷たい。
視界が、ぼやける。
誰かが、自分を呼んでいる。
でも、声が、聞こえない。
ああ、これが、死ぬ、ということか。
二十三歳の、俺。
誰かの腕の中で、静かに、息を引き取る。
その時。
視界の端に、人影が映った。
長い、黒い髪。
白い肌。
整った顔立ち。
女のように、美しい男。
その男が、こちらを見て、笑っている。
冷たい、笑み。
男の唇が、動く。
「お前の未来は、私がもらう」
——。
アッシュは、飛び起きた。
心臓が、耳の奥で鳴っている。
全身に、汗。
呼吸が、浅い。
「……今のは」
アッシュは、周囲を見回した。
アジトの部屋。
窓から、朝の光が、差し込んでいる。
英二は、床に座ったまま、壁にもたれて眠っていた。
「……英二」
アッシュは、安堵の息を吐いた。
その時。
枕元に、何かが置かれていることに気づいた。
一枚の、写真。
アッシュは、それを手に取った。
モノクロの、古い写真。
そこに写っていたのは。
長い黒髪の、美青年。
夢の中で、笑っていた男。
アッシュは、写真を裏返した。
手書きの文字。
「お前の未来は、私がもらう」
アッシュの手が、震えた。
「……誰だ、こいつは」
アッシュは、写真を握りしめた。
紙が、くしゃりと音を立てる。
——終わっていない。
ディノは、逮捕された。
でも、これは、終わりじゃない。
新たな脅威が、すぐそこにいる。
アッシュは、眠っている英二を見た。
英二の寝顔は、穏やかだった。
「……守る。絶対に、守ってみせる」
アッシュは、写真を、ポケットにしまった。
窓の外。
ニューヨークの朝。
でも、アッシュの心は、暗い海の底に、沈んでいた。
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