BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る
血の味とともに、二十三歳の死を見た——。目を覚ましたアッシュ・リンクスの枕元には、見知らぬ東洋人青年の古い写真が一枚。「お前はまだ間に合う。バナナフィッシュを止めろ」——裏に残された言葉が、運命を変える鍵となる。親友ショーターの失踪、黒いスーツの男たち、街に囁かれる禁断の薬の噂。ハーレムのストリートキッズのボスが、自らの死の未来を斬り開くために動き出す。逆行×サスペンス×アクション、運命に抗う物語が今、幕を開ける。
BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る - 倉庫街の銃声 ―踏み込むべきでない領域―
血の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
アッシュ・リンクスは薄暗いアジトの窓辺に立っていた。ハーレムの廃墟ビル二階。窓は板で塞がれ、朝の光は隙間から細く差し込むだけだ。埃っぽい空気。遠くでサイレンが鳴っている。
ショーターが消えてから、四日が過ぎた。
昨夜、また夢を見た。
英二が血まみれで倒れている夢。腹から赤い血が流れ出て、白いシャツが真っ赤に染まっていた。英二の手が、冷たくなっていく。あの感触が、まだ指先に残っている。
アッシュは右手を開いたり閉じたりした。
「ボーンズ、コング。倉庫街の情報は」
振り返らずに問う。
「ハーレム川沿いの倉庫群、コルシカの下部組織が使ってるって噂の場所が三つある。そのうち一番奥のやつが怪しい。昨日の夜、黒い車が二台入っていった」
痩せ型で背の低いボーンズが、壁の地図を指さした。赤いピンが、ハーレム川沿いの工業地帯に集中している。
「見張りは三人。交代は四時間おき。入り口は表と裏の二つ。窓は全部板で塞がれてる」
黒短髪の大男、コングが太い腕を組んだ。その手には、昨夜の張り込みでついたらしい新しい擦り傷がある。
アッシュは黙って地図を見つめた。
ハーレム川。
マンハッタンの東側を流れる川。その岸辺には、廃倉庫が立ち並んでいる。表向きは貿易会社の倉庫だが、中で何が行われているかは誰も知らない。警察も近づかない。危険な場所だ。
「俺は一人で行く」
アッシュは言った。
「一人は危険だ。俺たちも」
「お前らは外で待機しろ。何かあれば合図を送る。中に入るのは俺だけで十分だ」
アッシュの声には、有無を言わせない強さがあった。
ボーンズとコングは顔を見合わせた。
「……わかった。でも、無理はするなよ」
「ああ」
アッシュは黒のレザージャケットを羽織り、バタフライナイフをポケットに滑り込ませた。ジャケットの内側には、あの写真がある。東洋人の青年が写った、古いモノクロ写真。
——お前はまだ間に合う。バナナフィッシュを止めろ。
写真の青年。奥村英二。
チャイナタウンで出会った、日本人のカメラマン助手。
大きな目。柔らかい黒い髪。真っ直ぐな瞳。
そして、あの無鉄砲な問いかけ。
「君はなんでこんなところにいるんだ」
あの言葉が、アッシュの胸の奥でずっと引っかかっていた。
アッシュはドアを開けた。
外は曇っていた。低い雲が垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな空。湿った風が、生ゴミと排気ガスの匂いを運んでくる。
地下鉄の駅へ向かう。
ハーレムの通りは、朝から人で溢れていた。果物を売る露天商。段ボールに寝転ぶ浮浪者。派手なスプレーアートが描かれた壁。路上には注射針が落ちている。
ニューヨーク。1985年。
金と暴力がものを言う街。
地下鉄の改札を抜け、90セントを投入する。ホームに降りると、湿った熱気と小便の臭いが鼻を突いた。電車が来るまでの数分間、アッシュは壁にもたれて目を閉じた。
——ショーター。
——お前は、まだ生きているのか。
胸の奥が、じわりと冷たくなる。
あの予知夢。23歳で死ぬ自分。血の味。冷たくなる指先。そして、ショーターが死ぬ光景。
夢は、ただの夢じゃない。
あの写真が現れた夜から、アッシュは確信していた。これは警告だ。未来から届いた、何者かの警告。
電車が来た。
アッシュは乗り込み、ドアの近くに立った。車内は空いていた。スーツ姿の男が新聞を読み、若い女が化粧を直している。誰もアッシュを見ない。
金髪の少年。緑の瞳。左耳のピアス。
この街では、目立つ外見ほど危険を招く。だが、アッシュの周りには常に、近寄りがたい空気があった。触れたら切れる刃物のような、冷たいオーラ。
電車が、ハーレム川の近くの駅に着いた。
アッシュは降りた。
駅を出ると、空気が変わった。川の匂い。錆びた鉄と、油と、腐った水の匂い。人通りは少ない。
倉庫街が近い。
アッシュは歩いた。
路地を曲がり、細い道を抜ける。壁には落書き。ゴミ袋が積まれ、猫が一匹、アッシュをじっと見つめていた。
——誰かが、俺を見ている。
その感覚は、アジトを出た時からずっと続いていた。
アッシュは足を止めた。
振り返る。
誰もいない。
路地の奥に、黒い影が揺れた気がした。
「……気のせいか」
アッシュは小さく呟き、歩き出した。
同じ頃。
マンハッタン中城のホテル・アバロン。
奥村英二は、カメラのレンズを拭いていた。
「英二、今日の予定だが」
伊部俊一が、ベッドの上に広げた地図を見ながら言った。四十代前半の日本人カメラマン。無精髭を生やし、よれたシャツを着ている。英二の兄貴分であり、今回の取材の責任者だ。
「はい、午前中はチャイナタウンの市場を撮って、午後はダウンタウンのストリートの様子を」
英二は顔を上げた。
大きな目。柔らかい黒い髪。童顔。
日本人の大学生が、カメラマン助手としてニューヨークに来ている。英語は中級程度。だが、その目はいつも真っ直ぐで、何かをまっすぐに見つめようとする強さがあった。
「そうだな。ただ、昨日のこともある。あまり危ない場所には近づくなよ」
伊部の声に、心配そうな色が混じる。
昨日。チャイナタウンで、英二はストリートキッズの喧嘩に巻き込まれた。
間に入った金髪の少年が、英二を助けてくれた。
あの少年。
金髪で、緑の瞳で、年は自分より下に見えた。
なのに、あの場の空気を一瞬で支配していた。
「大丈夫か」
あの声。あの目。
英二は、あの少年のことが頭から離れなかった。
「伊部さん、あの、昨日の金髪の子のことなんですけど」
英二は言った。
「ああ、あの子か。どうした?」
「あの子、この辺りで有名な子なんですか? ストリートキッズのボスだって、誰かが言ってた気がして」
伊部は少し考えてから、口を開いた。
「アッシュ・リンクス。ニューヨークのダウンタウンを仕切るストリートキッズのボスだ。まだ十七歳だが、IQ180の天才だと言われている。警察も手を焼いているらしい。……英二、あの子には関わるな」
「関わるなって、なんでですか?」
「あの子は、この街で一番危険な場所に立っている。あの子の周りには、いつも危険がつきまとう。お前が巻き込まれたら、ただじゃ済まない」
伊部の声は、真剣だった。
英二は黙った。
危険。
確かに、あの少年の周りには、危険な空気があった。
でも、それだけじゃない。
あの少年の目には、もっと別の何かがあった。
寂しそうな、何かを諦めたような、それでいて、誰かに救ってほしいと叫んでいるような。
英二には、そう見えた。
「……俺、あの子にもう一度会いたいです」
英二は、静かに言った。
「英二!」
「伊部さん、お願いします。あの子、何か一人で抱え込んでる。放っておけないんです」
英二の目は、真っ直ぐだった。
伊部は、深いため息をついた。
「……お前は、本当に頑固だな」
「すみません」
「今日の取材が終わったら、少しだけだぞ。俺も一緒に行く」
「ありがとうございます!」
英二の顔が、ぱっと明るくなった。
午前中。
チャイナタウンの市場。
英二は伊部の指示で、市場の雑踏を撮影していた。
漢字の看板。赤い提灯。焼き魚と醤油と漢方薬の匂い。狭い路地に、中華料理店や雑貨屋がひしめいている。
「英二、あっちの屋台の親父さん、いい顔してるだろ。撮らせてもらえ」
「はい!」
英二はカメラを構えた。
ファインダー越しに、屋台の親父が笑っている。湯気が立つ鍋。積み上げられた野菜。客と親父の掛け合い。
シャッターを切る。
カシャッ。
その時、英二の視界の隅に、数人の少年たちが映った。
ストリートキッズだ。
年の頃は十代前半から半ば。汚れた服。鋭い目。路地の陰から、市場の人々をじっと観察している。
英二は、彼らにカメラを向けた。
——撮ってもいいのか。
迷いが生まれた。
彼らは、観光名所でも、珍しい動物でもない。
この街で、必死に生きている子供たちだ。
カメラを向けることが、彼らを傷つけることにならないか。
英二の指が、シャッターボタンの上で止まった。
「お兄さん、何撮ってるの?」
声をかけられた。
振り返ると、小柄な黒人の少年が立っていた。年の頃は十二、三歳。
「あ、えっと、市場の様子を」
英二は慌ててカメラを下ろした。
「ふーん。日本人? カメラマン?」
「カメラマン助手です」
「助手か。じゃあ、あんたも大変だな。この街でカメラ持って歩くのは、命がけだぜ」
少年は、大人びた口調で言った。
英二は、少年の目を見た。
鋭い目。でも、その奥に、まだ子供らしい好奇心が残っている。
「君は、この辺りの子?」
「まあな。俺たち、この辺りで暮らしてる。あんた、昨日チャイナタウンでアッシュに助けられた日本人だろ?」
「え、知ってるの?」
「知ってるも何も、あの場にいたからな。俺、アッシュの仲間のスキップって言うんだ」
スキップは、にっと笑った。
「君も、アッシュの仲間なの?」
「そうだよ。アッシュは俺たちのボスだ。すげえんだぜ。あの人についてれば、この街で生きていける」
スキップの声に、誇りが混じる。
「アッシュって、どんな人なの?」
英二は、自然と聞いていた。
「どんな人って……すげえ人だよ。頭が良くて、強くて、俺たちを守ってくれる。でも、たまにすげえ寂しそうな顔をするんだ。あの人、一人で全部抱え込もうとするから」
スキップの声が、少しだけ小さくなった。
「寂しそうな顔……」
英二の胸に、あの少年の顔が浮かんだ。
やっぱり。
あの目は、寂しさの色だったんだ。
「スキップ、アッシュは今どこにいるか知ってる?」
「さっき、倉庫街の方に行ったよ。一人で。危ないのに」
「倉庫街?」
「ハーレム川沿いの倉庫街。ショーターって人を探してるんだ。アッシュの親友で、チャイナタウンのボスだった人。四日前に、黒いスーツの男たちに連れ去られたんだ」
英二は、息を呑んだ。
親友が、連れ去られた。
あの少年は、一人で、その親友を探している。
「あの、倉庫街ってどこ?」
「え、行く気? やめた方がいいよ。あそこはコルシカの連中の縄張りだ。危険すぎる」
「でも、アッシュが一人で行ってるんだろ? 危ないじゃないか」
「アッシュは強いから大丈夫だよ。でも、あんたが行ったら足手まといになるだけだ」
スキップの言葉は、きつかった。
でも、英二は引かなかった。
「足手まといでもいい。俺、あの子を放っておけないんだ」
英二の目は、真っ直ぐだった。
スキップは、しばらく英二の顔を見つめていた。
「……変な人だな、あんた。アッシュに似てるよ。頑固で、人の話を聞かないところが」
スキップは、小さく笑った。
「倉庫街は、ここから東に歩いて二十分くらい。ハーレム川の岸辺だ。でも、本当に気をつけて。あそこには、普通の人間は近づかない」
「ありがとう、スキップ」
英二は、スキップに礼を言った。
「……あんた、アッシュに何かあったら、今度は俺が許さないからな」
スキップは、そう言って、路地の奥に消えていった。
英二は、カメラを握りしめた。
——アッシュ。
——今、行くから。
英二は、伊部の目を盗んで、取材の合間に倉庫街へ向かった。
「すみません、ちょっとトイレに」
そう言って、市場の雑踏に紛れた。
心臓が、ドキドキと鳴っている。
——俺、何やってるんだ。
——でも、行かなきゃ。
英二は、走った。
チャイナタウンの狭い路地を抜け、東へ。
空気が変わっていく。
賑やかな市場の喧騒が遠ざかり、代わりに、川の匂いと錆びた鉄の匂いが近づいてくる。
人通りが、どんどん少なくなっていく。
建物が、古びていく。
やがて、倉庫街が見えてきた。
ハーレム川沿いの工業地帯。
廃倉庫が立ち並び、窓は板で塞がれている。地面にはガラスの破片と錆びた釘が落ちている。
英二は、足を止めた。
——ここが、倉庫街。
——アッシュは、この中にいるのか。
英二は、周囲を見回した。
誰もいない。
風が、川の上を吹き抜けていく。
その時。
「お前、何してる」
低い声。
英二は、心臓が止まるかと思った。
振り返る。
そこに、アッシュが立っていた。
金髪。緑の瞳。黒いレザージャケット。
昨日と同じ、あの少年。
でも、昨日とは違う。
その目は、鋭く、冷たかった。
「あ、アッシュ!」
「なんでお前がここにいる。ここはお前みたいな奴が来る場所じゃない」
アッシュの声は、突き放すように冷たかった。
「スキップから聞いたんだ。君が一人で倉庫街に行ったって。危ないだろ」
「俺のことは放っておけ。お前には関係ない」
「関係あるよ。俺、君のことが心配なんだ」
英二は、真っ直ぐにアッシュを見た。
アッシュは、一瞬だけ、たじろいだ。
その無垢な瞳。
写真の青年と同じ、真っ直ぐな目。
「……帰れ。ここは危険だ。お前みたいな奴が来ていい場所じゃない」
「危険だからこそ、一人にできない。君は、なんでいつも一人で抱え込むんだ? なんで、誰にも頼らないんだ?」
英二の言葉が、アッシュの胸に突き刺さった。
——なんで、誰にも頼らないのか。
——頼れる相手なんて、いなかった。
——この街で、十七年間、一人で生きてきた。
アッシュは、唇を噛んだ。
「……お前に何が分かる。お前は、この街の何を知ってる。綺麗なホテルに泊まって、美味い飯を食って、安全な場所からカメラを向けてるだけの奴が、俺の何を理解できる」
アッシュの声に、棘があった。
英二は、それでも引かなかった。
「そうだよ。俺は、この街のことを何も知らない。君のことも、何も知らない。でも、君の目を見たら分かるんだ。君は、一人で苦しんでる。助けてほしいのに、助けてって言えないんだ」
英二の声は、震えていなかった。
真っ直ぐに、アッシュの心の奥を見つめていた。
アッシュは、言葉を失った。
——こいつは、なんなんだ。
——なんで、俺の心の奥を見透かすようなことを言う。
——なんで、俺は、こいつの前だと、いつものように振る舞えない。
アッシュの胸の奥で、何かが、小さく音を立てた。
「……カメラマンは、真実を撮るのが仕事だ。俺は、君の真実を見たい。君が、何と戦ってるのか、何を守ろうとしてるのか。それを、この目で確かめたい」
英二は、カメラを掲げた。
「……勝手にしろ。ただし、死んでも知らないぞ」
アッシュは、そう言って、歩き出した。
英二は、アッシュの後を追った。
倉庫街の奥。
ハーレム川沿いの一番奥にある倉庫。
アッシュは、倉庫の影に身を潜め、中の様子を窺った。
「あの倉庫だ。中に三人。下っ端だ。お前は、ここで待っていろ」
「でも、君一人で大丈夫なのか?」
「お前が来たら邪魔だ。ここで大人しくしてろ。動くなよ」
アッシュは、そう言うと、音もなく倉庫に近づいていった。
英二は、倉庫の影から、息を潜めて見守った。
心臓が、耳の奥で鳴っている。
手のひらに、汗が滲む。
アッシュは、倉庫の裏口に回り込んだ。
ドアに耳を当て、中の音を探る。
男たちの話し声。笑い声。酒瓶が倒れる音。
アッシュは、バタフライナイフを取り出した。
くるり、と回す。
刃が、曇り空の下で、鈍く光った。
——行く。
アッシュは、ドアを蹴り開けた。
ガンッ!
「な、なんだ!?」
男たちが、一斉に振り返る。
三人。
テーブルを囲んで、酒を飲んでいた。
アッシュは、迷わなかった。
最初の一人に、一直線に駆け寄る。
「うわっ!」
男が、椅子から立ち上がろうとした瞬間。
アッシュのナイフが、男の手首を切り裂いた。
ザシュッ。
「ぎゃあっ!」
男が、悲鳴を上げる。
血が、飛び散った。
二番目の男が、ポケットからナイフを取り出した。
「てめえ、このガキが!」
男が、ナイフを振り回す。
アッシュは、身をかわし、男の脇腹に膝を叩き込んだ。
ゴッ。
「ぐえっ!」
男が、前かがみになった。
アッシュは、男の後頭部に肘を落とした。
ドゴッ。
男が、床に崩れ落ちた。
三番目の男が、逃げ出そうとした。
アッシュは、足を払った。
男が、派手に転んだ。
「ひっ、た、助けてくれ!」
男が、悲鳴を上げた。
アッシュは、男の胸ぐらを掴み、壁に叩きつけた。
ドンッ。
「騒ぐな。次に声を上げたら、その喉を切り裂く」
アッシュの声は、氷のように冷たかった。
男は、ガタガタと震え出した。
英二は、倉庫の外から、その光景を呆然と見ていた。
——アッシュが、戦ってる。
——人が、血を流して倒れてる。
——これが、この街の現実。
英二の手が、震えた。
カメラを構えることもできない。
ただ、見ていることしかできなかった。
倉庫の中。
アッシュは、三人の男を縛り上げ、壁際に並ばせた。
手際が良すぎる。
まるで、何度も同じことをしてきたかのように。
「聞く。四日前、チャイナタウンで、中国系の男を連れ去ったのは、お前たちか」
アッシュは、男たちを見下ろした。
「し、知らねえ!」
「嘘をつくな。お前たちの車が、チャイナタウンの外れで目撃されている。黒い車。コルシカの下部組織の車だ」
アッシュの声は、静かだった。
でも、その静けさが、かえって怖い。
「ほ、本当に知らねえんだ! 俺たちは、ただの下っ端で……」
アッシュは、男の指を一本、掴んだ。
「次に嘘をついたら、この指を折る。その次は、もう一本。お前が本当のことを話すまで、止めない」
アッシュの緑の瞳が、冷たく光った。
男の顔から、血の気が引いていく。
「わ、分かった! 話す! あの中国系の坊主は、俺たちが連れてきた! でも、上の指示で、すぐに別の場所に移されたんだ!」
男が、叫んだ。
「どこに移した」
「し、知らねえ! 本当に知らねえんだ! 俺たちは、ただ、あの坊主に『例のブツ』を打って、車に乗せるように言われただけで……」
「例のブツ」
アッシュの声が、低くなった。
「た、頼む! 殺さないでくれ! 俺たちは、本当に下っ端なんだ!」
男が、泣き出した。
アッシュは、男たちを見下ろした。
——例のブツ。
——ショーターに、何かを投与した。
——バナナフィッシュ。
アッシュの脳裏に、写真の裏の文字が浮かんだ。
——お前はまだ間に合う。バナナフィッシュを止めろ。
「その『例のブツ』は、どこから来た。誰がお前たちに渡した」
アッシュは、男の顔を覗き込んだ。
「そ、それは……上の連中が……精神衛生センターから……」
男の言葉が、途中で止まった。
——精神衛生センター。
——マンハッタン精神衛生センター。
——あそこが、バナナフィッシュの開発場所。
アッシュの頭の中で、ピースが、かちりと音を立てて嵌まった。
その時。
倉庫の外から、複数の足音が聞こえた。
アッシュは、即座に反応した。
「伏せろ!」
英二に向かって叫ぶ。
その瞬間。
パァン!
銃声が、倉庫街に響き渡った。
銃弾が、倉庫の壁を貫いた。
コンクリートの破片が、飛び散る。
「うわっ!」
英二は、反射的に身を低くした。
心臓が、激しく脈打っている。
呼吸が、浅くなる。
——何が起きてる?
——銃? 誰かが、撃ってる?
英二の頭が、真っ白になった。
「動くな! そこに隠れていろ!」
アッシュの声が、飛んでくる。
アッシュは、倉庫の中から、外の様子を窺った。
黒いスーツの男たち。
五人。
全員、拳銃を持っている。
——ルピ・ネリ。
——ゴルツィネの暗殺者部隊。
アッシュは、舌打ちした。
——待ち伏せか。
——最初から、俺が来ることを知っていた。
アッシュは、倉庫の中の資材を盾にした。
鉄パイプの束。木箱。古い機械。
「英二、頭を下げてろ。絶対に動くな」
アッシュは、低い声で言った。
「で、でも、君は……」
「俺のことはいい。お前は、自分の身を守ることだけ考えろ」
アッシュは、そう言うと、倉庫の入り口に向かって走った。
パァン! パァン!
銃声が、連続して響く。
アッシュは、ジグザグに走り、銃弾をかわした。
「あのガキを撃て! 逃がすな!」
男たちの怒号。
アッシュは、倉庫の外に飛び出した。
そして、近くにあったドラム缶の影に身を隠した。
パァン!
ドラム缶に、銃弾が当たる。
ガンッ!
金属音。
アッシュは、ポケットからバタフライナイフを取り出した。
——五人。
——全員、銃を持っている。
——こっちは、ナイフだけ。
——不利だ。
でも、アッシュの頭は、冷えていた。
IQ180の頭脳が、瞬時に戦況を分析する。
敵の位置。遮蔽物の配置。風向き。銃声の間隔。
全部、頭に入っている。
アッシュは、ドラム缶の影から飛び出した。
「そこだ!」
男が、銃を向ける。
でも、アッシュの方が、一瞬早かった。
アッシュは、地面に転がっていた空き瓶を蹴り上げた。
瓶が、男の顔に直撃した。
ガシャン!
「ぐあっ!」
男が、顔を押さえてよろめく。
その隙に、アッシュは、男の手首を切り裂いた。
ザシュッ。
「ぎゃあっ!」
男の銃が、地面に落ちた。
アッシュは、その銃を拾い上げた。
——シグザウアーP226。
——装弾数十五発。
アッシュは、即座に安全装置を外し、構えた。
パァン!
アッシュの放った銃弾が、二人目の男の肩を撃ち抜いた。
「ぐああっ!」
男が、倒れる。
「くそっ、ガキのくせに!」
三人目の男が、アッシュに向かって連射した。
パァン! パァン! パァン!
アッシュは、倉庫の壁を蹴って、横に跳んだ。
銃弾が、アッシュのいた場所を通過する。
アッシュは、着地と同時に、三人目の男の足を撃った。
パァン。
「うわあっ!」
男が、膝をつく。
四人目の男が、倉庫の中に逃げ込もうとした。
——英二がいる。
アッシュの心臓が、跳ねた。
「させるか!」
アッシュは、全力で走った。
男の背中に、飛びかかる。
二人は、もつれ合って、倉庫の中に転がり込んだ。
「アッシュ!」
英二の声。
アッシュは、男の腕を捻り上げ、銃を奪い取った。
そして、男のこめかみに、銃口を押し当てた。
「動くな。動いたら、頭を吹き飛ばす」
男は、完全に動きを止めた。
残りの男たちも、倉庫の外で動きを止めた。
アッシュは、男を盾にして、倉庫の入り口に立った。
「お前たちのボスは、俺を殺せと命じたのか? それとも、生きたまま連れて行けと?」
アッシュの声は、冷静だった。
「黙れ、ガキが……」
「答えろ。でなければ、こいつの頭を撃ち抜く」
アッシュは、人質の男のこめかみに、銃口を強く押し当てた。
「や、やめろ! ボスは、お前を生きたまま連れて来いと言った! 殺すなとは言われてないが、できれば生きたまま……」
男が、白状した。
「そうか。なら、お前たちは、俺を撃てない。俺が死ねば、お前たちもボスに殺されるからな」
アッシュは、口元を歪めた。
「くそっ……」
男たちが、戸惑い始めた。
アッシュは、その隙を逃さなかった。
人質の男を、思い切り突き飛ばした。
男が、外の男たちにぶつかる。
「うわっ!」
男たちが、もつれ合って倒れた。
アッシュは、英二の手を掴んだ。
「走れ!」
「え、でも……」
「走れって言ってるんだ!」
アッシュは、英二の手を強く引いた。
二人は、倉庫の裏口から飛び出した。
後ろから、銃声が追いかけてくる。
パァン! パァン!
銃弾が、足元の地面を抉る。
「アッシュ、足が……」
英二の足が、もつれた。
恐怖で、体が言うことを聞かない。
「しっかりしろ! 死にたくなければ、走れ!」
アッシュは、英二の腕を肩に回し、半ば引きずるように走った。
倉庫の間を縫って、路地に入る。
狭い路地。
ゴミ袋が積まれ、段ボールが散乱している。
アッシュは、英二を路地の奥に押し込んだ。
「ここで、じっとしていろ。俺が合図するまで、動くな」
「アッシュ、君は……」
「俺は、あいつらを片付ける。お前は、ここで待っていろ」
「そんな、一人で……」
「お前がいても、足手まといになるだけだ。……頼むから、死ぬなよ」
アッシュは、英二の肩を、強く握った。
その手が、わずかに震えていた。
英二は、アッシュの目を見た。
緑の瞳。
その奥に、恐怖と、覚悟と、そして、ほんの少しの、優しさがあった。
「……分かった。でも、絶対に、戻ってきてくれよ」
英二は、強く言った。
「ああ」
アッシュは、短く答えると、路地を駆け出した。
英二は、路地の奥で、息を潜めた。
心臓が、うるさいほど鳴っている。
手が、震える。
足が、震える。
——アッシュ。
——無事でいて。
——お願いだから。
英二は、目を閉じて、祈った。
路地の外。
アッシュは、黒スーツの男たちと対峙していた。
残り三人。
全員、銃を構えている。
「観念しろ、ガキ。お前を殺せとは言われてないが、腕の一本くらいなら、問題ないだろう」
男が、銃を向ける。
「やってみろよ。お前たちのボスは、俺に何をされるか分かってるのか? 俺が指一本失えば、お前たちの命はないぞ」
アッシュは、笑った。
冷たい笑み。
「黙れ!」
男が、引き金を引いた。
パァン!
アッシュは、身を翻した。
銃弾が、髪をかすめる。
アッシュは、地面を蹴った。
低い姿勢で、男たちの懐に飛び込む。
「なっ!」
男が、反応できない。
アッシュは、男の手首を掴み、捻り上げた。
ゴキッ。
「ぐああっ!」
男の悲鳴。
骨が折れる音。
アッシュは、男の銃を奪い取り、残りの二人に向けて発砲した。
パァン! パァン!
二人の男の足を、正確に撃ち抜いた。
「うわっ!」
「ぎゃっ!」
男たちが、倒れた。
アッシュは、三人の男たちを見下ろした。
息が、上がっている。
肩で息をしながら、それでも、アッシュの目は、冷たかった。
「お前たちのボスに伝えろ。ショーター・ウォンに手を出したことを、後悔させてやる、とな」
アッシュは、そう言うと、路地に戻った。
英二が、震えながら待っていた。
「アッシュ! 大丈夫か!?」
英二が、アッシュに駆け寄る。
「ああ。平気だ。……行くぞ」
アッシュは、英二の手を引いて、倉庫街を後にした。
倉庫街を抜け、大通りに出た。
人通りが、少しずつ増えてくる。
アッシュは、英二の手を離した。
「……もう来るな。次は、守れる保証がない」
アッシュは、背を向けたまま言った。
「嫌だね」
英二の声が、アッシュの背中に突き刺さった。
「なに?」
アッシュが、振り返る。
「君を一人にしないって決めたんだ。君が何と言おうと、俺は君のそばにいる。君が、何と戦ってるのか、俺はまだ何も知らない。でも、君が一人で苦しんでるのに、俺だけ安全な場所にいるなんて、できない」
英二の目は、真っ直ぐだった。
涙が、滲んでいる。
でも、その声は、力強かった。
「……お前は、馬鹿だな」
アッシュは、小さく呟いた。
「馬鹿で結構。俺は、君の友達になりたいんだ」
英二は、アッシュに手を差し出した。
「友達……」
アッシュは、その手を見つめた。
——友達。
——俺に、友達ができるのか。
——ショーター以外に。
アッシュの胸の奥で、何かが、熱くなった。
「……勝手にしろ」
アッシュは、英二の手を取らずに、背を向けた。
でも、その歩みは、さっきよりも、少しだけ遅かった。
英二は、アッシュの背中を見つめながら、小さく笑った。
「またね、アッシュ」
英二の声は、アッシュの背中に、優しく届いた。
その夜。
アッシュは、アジトに戻った。
ボーンズとコングが、心配そうに待っていた。
「アッシュ! 大丈夫か!? 血が出てる!」
ボーンズが、アッシュの腕の傷に気づいた。
「かすり傷だ。それより、水と包帯を」
アッシュは、椅子に座った。
コングが、水と包帯を持ってきた。
アッシュは、ジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくった。
左腕に、銃弾がかすめた傷。
血が、にじんでいる。
「消毒するぞ。染みNoveliaとは?
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