BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る
血の味とともに、二十三歳の死を見た——。目を覚ましたアッシュ・リンクスの枕元には、見知らぬ東洋人青年の古い写真が一枚。「お前はまだ間に合う。バナナフィッシュを止めろ」——裏に残された言葉が、運命を変える鍵となる。親友ショーターの失踪、黒いスーツの男たち、街に囁かれる禁断の薬の噂。ハーレムのストリートキッズのボスが、自らの死の未来を斬り開くために動き出す。逆行×サスペンス×アクション、運命に抗う物語が今、幕を開ける。
BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る - パラッツォの密約 ―兄の名を刻む被験者リスト―
血の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
アッシュ・リンクスは、ハーレムの廃墟ビル二階にあるアジトの窓辺に立っていた。板で塞がれた窓の隙間から、朝の光が細く差し込む。埃が、光の中でゆっくりと舞っていた。
ショーターを殺してから、二日。
右手の感覚が、まだ戻らない。ナイフを握った感触。頸動脈を切り裂いた時の、生温かい血の温度。あの感触だけが、指先にこびりついて離れない。
「眠れたかね」
声がした。振り返る。銀色の短い髪。整えられた髭。氷のような青灰色の瞳。百九十センチの巨体が、部屋の隅の椅子に座っていた。いつの間に入ってきたのか。気配すら感じさせなかった。
「見ての通りだ」
アッシュは、窓から離れた。黒いレザージャケットを手に取る。ポケットの中で、バタフライナイフの冷たい感触を確かめた。
「今日、ディノが君を待っている。パラッツォでね」
ブランカの声は、天気の話をするかのように穏やかだった。
「知っている。お前が昨日、そう言った」
「そうだった。だが、君の顔色が良くない。昨夜も眠れなかったようだ」
アッシュは答えなかった。眠れるわけがない。目を閉じれば、ショーターの虚ろな目が浮かぶ。「殺せ。奥村、英二」——あの声が、頭の中で繰り返される。
「行くぞ」
「待ちたまえ。一つだけ、言っておく」
ブランカが、ゆっくりと立ち上がった。その動きは、まるで大型の猫のようだった。
「感情を出すな。あの男は、君の揺らぎを餌にする」
アッシュは、ブランカの目を見た。青灰色の瞳は、何の感情も映していない。
「言われなくても分かってる」
「ならいい。行こうか」
二人は、アジトを出た。
ハーレムの朝は、騒がしい。路上では、すでに商人たちが店を開き、子供たちが走り回っている。ゴミの匂い。油の匂い。そして、遠くから聞こえるサイレンの音。
アッシュは、足早に歩いた。ブランカが、半歩後ろを歩く。
「お前は、あの男にどこまで話した」
「君が来ると伝えただけだ。他には何も」
「バナナフィッシュのことは」
「知らぬふりをしている。ディノは、私がどこまで知っているか、探りたがっている」
地下鉄の駅へ降りる。階段の匂い。鉄と、小便の臭いが混ざった、ニューヨークの地下の匂い。
電車に乗る。揺れる車内。アッシュは、窓の外を流れる暗闇を見ていた。
「精神衛生センターのことを、どこまで知っている」
ブランカは、少しだけ間を置いた。
「第7研究棟。地下3階に、資料室がある。バナナフィッシュの研究データが、そこに保管されている」
アッシュは、目を閉じた。
地下3階。資料室。兄の名前が、そこにある。
「警備は」
「センチネル・ガードの警備員が18名。夜間は6名に減る。巡回ルートは、正門から東側、裏口から西側。交代は深夜2時」
「詳しいな」
「仕事だからね。私は、君の家庭教師だった男だ。教え子のためなら、これくらいは調べる」
電車が、リトルイタリーの駅に着いた。
二人は、地上に出た。
リトルイタリー。狭い路地に、レストランや精肉店が並ぶ。トマトソースの匂い。ガーリックの匂い。イタリア語の看板。
モット・ストリートを歩く。やがて、一際大きな建物が見えてきた。
パラッツォ・ゴルツィネ。
5階建ての石造りの建物。1階はレストラン「ラ・コルシカ」として営業している。2階以上が、ゴルツィネ・ファミリーの本拠地。
「ここから先は、俺一人で行く」
「私も一緒に行こう。ディノは、私も呼んでいる」
アッシュは、ブランカを見た。
「あんた、あの男とどういう関係だ」
「雇い主と、雇われた男。それ以上でも、それ以下でもない。だが、君のことは、私が守る。昔と変わらずにね」
アッシュは、何も言わずに歩き出した。
パラッツォの入り口には、黒いスーツの男が二人立っていた。
「ディノ様がお待ちだ。こちらへ」
アッシュとブランカは、建物の中へ入った。
1階のレストランは、まだ開店前だった。テーブルの上には、白いクロスがかけられている。厨房からは、スープの匂いが漂ってくる。
階段を上る。2階。事務所。3階。執務室。
黒服の男が、重い木の扉をノックした。
「アッシュ様とブランカ様がお見えです」
「通しなさい」
扉の向こうから、低い声が聞こえた。
扉が開く。
執務室は、広かった。窓から、リトルイタリーの街並みが見える。壁には、古い絵画。床には、深紅の絨毯。部屋の中央に、大きなマホガニーの机。
そして、その向こうに。
ディノ・ゴルツィネが、立っていた。
白髪混じりの黒髪を後ろに撫でつけたオールバック。冷たい灰色の瞳。百八十五センチの長身。右手の甲には、古い火傷の跡。首には、金の十字架のペンダント。
「やあ、アッシュ。待っていたよ」
ディノが、微笑んだ。表向きは紳士的な笑み。だが、その灰色の瞳は、獲物を見つけた獣のように光っていた。
「呼んだのは、あんただ」
アッシュは、部屋の中央まで歩いた。ブランカは、入り口のそばに立ったままだった。
「そうだ。君に話がある。近くにおいで」
ディノが、手を差し伸べた。
アッシュは、動かなかった。
「ここで聞く」
「相変わらずだね。だが、私は君を抱きしめたい。二日も会えなかったのだから」
ディノが、ゆっくりと近づいてきた。
アッシュは、逃げなかった。逃げるわけにはいかない。ここで怯えを見せれば、ディノの思う壺だ。
ディノの腕が、アッシュの体を包み込んだ。
「戻ってきたね、私のアッシュ」
耳元で囁かれる声。古い香水の匂い。葉巻の匂い。アッシュの全身の毛が逆立つ。吐き気がこみ上げる。
だが、顔には出さない。
「あんたのものになった覚えはない」
アッシュは、冷たい声で言った。
「君は、私が育てた。私の後継者だ。誰が何と言おうと、君は私のものだよ」
「俺は、誰のものでもない」
アッシュは、ディノの腕を振りほどいた。
「ふふ。その反抗的な態度。たまらないね」
ディノは、笑った。だが、目は笑っていない。
「単刀直入に言う。バナナフィッシュの全データを寄越せ」
「ほう。君が、その薬に興味を持つとは」
「興味じゃない。取引だ。データを渡すなら、あんたの後継者として組織に戻ってやる」
ディノの目が、細くなった。
「君が、自ら戻ると言うのか」
「そう言ってる」
「なぜだ。君は、私を憎んでいるはずだ。この組織も、私のやっていることも」
「憎んでいる。だが、それとこれとは別だ。俺は、バナナフィッシュを止める。そのためには、データが必要だ」
「バナナフィッシュを、止める」
ディノは、アッシュの言葉を繰り返した。そして、ゆっくりと笑った。
「君は、私の作った薬を、私の手から奪おうというのか。面白い。実に面白い」
「面白がってる場合か。返事を聞かせろ」
「焦ることはない。君は、もう私の元へ戻ってきた。それで十分だ。データのことは、追々考えよう」
「今すぐだ。でなければ、この話はなかったことにする」
アッシュは、背を向けようとした。
「待ちなさい」
ディノの声が、鋭くなった。
「君が、そんなにバナナフィッシュに固執する理由は何だ。友人の死か?それとも、あの日本人の青年を守るためか」
アッシュの心臓が、一瞬、跳ねた。
英二。
「関係ない」
「関係あるだろう。君の大切な日本人の友人は、今、どこにいる。君は、彼を守るために、私の元へ来た。違うか」
ディノが、一歩、近づいた。
「英二には、手を出すな」
「出すも出さないも、君の出方次第だ。君が私の元にいる限り、彼には指一本触れない。約束しよう」
「信用できるか」
「私は、君に嘘をついたことがあるか」
アッシュは、ディノの目を見た。灰色の瞳。底の見えない、深い闇。
「データは、どこにある」
「精神衛生センターの、地下だ。第7研究棟の地下3階。そこに、すべての研究記録が保管されている」
ディノは、あっさりと場所を明かした。
アッシュは、内心で笑った。
——食いついた。
ディノは、アッシュがデータの在処を知らないと思っている。だから、情報を餌に、アッシュを自分の元に留めようとしている。
だが、アッシュは、すでにブランカから同じ情報を得ていた。
ディノが、アッシュに情報を渡すということは、アッシュがセンターに近づくことを、ある程度、許容しているということだ。
「地下3階の、どこだ」
「資料室だ。だが、簡単には入れない。警備が厳重でね」
「あんたなら、入れるんだろ」
「私なら、誰でも入れる。だが、君は、まだ私の後継者ではない。まずは、組織に戻って、私の信頼を得ることだ」
「信頼、ね」
「そうだ。君が、私の期待に応えてくれるなら、データのすべてを見せてやろう。あの薬の、すべてを」
ディノが、アッシュの頬に手を伸ばした。
アッシュは、その手を払った。
「触るな」
「君は、昔は、もっと素直だった」
「昔のことは、忘れた」
「私は、忘れていないよ。君が12歳で、私の前に現れたあの日から、すべてを覚えている」
ディノの声が、甘ったるいものに変わった。
「気持ち悪い」
「君は、そう言う。だが、私は、君を愛している。誰よりも深く」
「あんたのそれは、愛じゃない。所有欲だ」
「どちらでもいい。私にとっては、同じことだ」
ディノが、机の上の葉巻を手に取った。火をつける。煙が、部屋に広がった。
「今日は、帰りなさい。次の夜、また来るといい。その時に、君の答えを聞こう」
「答えは、もう出てる。データを寄越せ。それだけだ」
「君は、私の後継者として、どこまでやれるか。それを見せてからだ。焦ることはない。時間は、十分にある」
アッシュは、ディノを睨んだ。
「時間は、ない。英二が、狙われてる」
「私が、彼を狙っていると、誰が言った」
「お前の部下が、ショーターにバナナフィッシュを打った。次の標的は英二だ。そういうことだろ」
「ショーターは、私の指示ではない。だが、そうだね。あの薬の効果を試したかった者たちがいた。君の周りで、ね」
「誰だ」
「それを知りたければ、私の元に戻ることだ。すべてを教えよう」
ディノは、煙を吐き出した。
アッシュは、ディノの顔を、じっと見た。
——この男は、どこまで知っている。
——どこまで、俺を操ろうとしている。
「今日は、帰る。だが、次に来る時は、答えを持ってくる。あんたが後悔する答えをな」
アッシュは、背を向けて、部屋を出ようとした。
「アッシュ」
ディノの声が、背中に刺さる。
「君は、私のものだ。それを忘れるな」
アッシュは、振り返らなかった。
「俺は、誰のものでもない」
アッシュは、扉を開けて、部屋を出た。
ブランカが、無言で後を追う。
二人は、階段を下り、パラッツォを出た。
外の空気が、生温かかった。
「上出来だった。感情を、よく抑えた」
「褒めても何も出ない」
「褒めているわけではない。事実を言ったまでだ。だが、君は、かなり危険な橋を渡った。ディノは、君の目的に気づいているかもしれない」
「それでいい。あの男は、俺が何か企んでる方が、楽しめるタイプだ」
「そうかもしれない。だが、楽しみすぎて、君を壊すこともある」
「壊される前に、壊す」
アッシュは、ポケットの中で、ナイフを握った。
「マックス・ロボに連絡を取っておいた。今夜、会える」
「どこで」
「ハーレム・ドック。君のグループの集会場所だ。彼は、あそこを知っている」
「あんた、どこまで手を回してる」
「君のためだ。私は、君の家庭教師だった男だからね」
二人は、地下鉄の駅へ向かった。
夕方。ハーレム・ドック。
ハーレム川沿いの廃倉庫。広さ五百平米。床には古いコンテナが並び、隠し扉の先に武器庫がある。
アッシュとブランカが着いた時、すでに一人の男が待っていた。
マックス・ロボ。
元ニューヨーク市警。現在はフリージャーナリスト。アッシュの兄グリフィンの戦友であり、アッシュの良き理解者。
「アッシュ。無事か」
マックスが、アッシュの肩を掴んだ。
「見ての通りだ。マックス、時間がない。手短に話す」
「ああ。ブランカから、センターの地下ラボのことを聞いた。第7研究棟の地下3階。そこに、バナナフィッシュのデータがあるんだな」
「ディノの口から、直接、聞き出した。間違いない」
「だが、あそこは、センチネル・ガードの警備が厳重だ。正面からは、とても入れない」
「警備の配置と巡回時間は、私が調べてある。夜間は6名。交代は深夜2時。正面と裏口の二箇所に、常時2名ずつ。残り2名が、建物内を巡回している」
「ブランカ、君は、本気で、あそこに潜り込むつもりか」
「私が先導する。警備員の無力化は、私の仕事だ。君は、アッシュを資料室まで案内してほしい」
「資料室の場所は」
「地下3階の東側。階段を降りて、最初の廊下を右。突き当たりの部屋だ。鍵は、警備室にある」
「今夜、決行する」
「待て。危険すぎる。もう少し時間をかけて、準備を」
「時間がない。英二が、次の標的だ。あいつを守るためには、バナナフィッシュの正体を、一刻も早く掴まなきゃならない」
マックスは、アッシュの顔を、じっと見た。
「……わかった。俺も行く。グリフィンのためにも、この目で、真実を確かめたい」
「助かる」
その時、倉庫の入り口が、ギッと音を立てた。
アッシュは、ナイフに手をかけた。ブランカは、動かなかった。マックスは、銃を抜いた。
「誰だ」
入り口に、人影が立っていた。
逆光で、顔は見えない。
「マックスさん、俺です。奥村です」
英二だった。
アッシュの体が、固まった。
「英二……なんで、ここに」
英二は、倉庫の中へ入ってきた。その後ろに、もう一人。伊部俊一。英二の兄貴分で、プロカメラマン。
「アッシュのアジトに行ったんだ。でも、もぬけの殻で。伊部さんに頼んで、マックスさんの居場所を探してもらった」
「奥村くんが、どうしても君に会いたいって聞かなくてね。私も、君のことは心配していたから」
「ここは、お前が来る場所じゃない」
「そう言うと思った。でも、俺は、君に伝えたいことがある」
英二は、アッシュの目を、真っ直ぐに見た。
「君の過去のこと、知った。12歳の時に、ディノ・ゴルツィネに拾われて、男娼として利用されたって」
アッシュの顔から、血の気が引いた。
「……誰から聞いた」
「新聞の切り抜きを見つけたんだ。君のアジトで。古い記事だった。1979年の」
アッシュは、唇を噛んだ。
「だから何だ。俺の過去なんて、お前には関係ない」
「関係あるよ。俺は、君の友達だ」
「友達なんかじゃない。俺は、お前を巻き込みたくない。それだけだ」
「巻き込まれてるよ。もう、とっくに」
英二が、一歩、前に出た。
「君は、一人で全部背負おうとする。ショーターのことも、バナナフィッシュのことも、ディノのことも。でも、それじゃ、君が壊れちゃう」
「壊れてもいい。俺は、そういう人間だ」
「俺は、君に壊れてほしくない」
英二の声が、震えた。
「君は、一人じゃない。俺がいる。俺は、君を一人にしない」
アッシュは、英二の目を見た。
黒い瞳。まっすぐな光。
この男は、いつも、そうだ。
危険な場所に、無鉄砲に飛び込んでくる。
そして、俺の心の奥底に、土足で踏み込んでくる。
「……お前は、馬鹿だ」
「よく言われる」
英二が、少しだけ、笑った。
「奥村くん、君は、本当に、危険なことに首を突っ込みすぎだ。君は、カメラマン助手だ。戦う人間じゃない」
「伊部さん、俺は、カメラマン助手です。だから、真実を撮りたい。アッシュの孤独を、放っておけない。それだけです」
「君の気持ちは分かる。だが、命を懸けることじゃない」
「命を懸ける価値があると、俺は思ってます」
英二の声は、迷いがなかった。
マックスが、口を開いた。
「奥村くん。君の覚悟は、分かった。今夜、俺たちは、精神衛生センターに潜入する。君は、センター周辺で待機してほしい。何かあれば、連絡する」
「待機だけですか。俺も、中に入ります」
「ダメだ。お前は、素人だ。足手まといになる」
「足手まといにならないように、言われた通りに動く。お願いだ、アッシュ」
「ダメだ」
「アッシュ」
「絶対にダメだ。お前を、これ以上、危険に晒すわけにはいかない」
アッシュの声が、強くなった。
英二は、アッシュの目を見つめた。
「……分かった。待機する。でも、約束して。無事に戻ってくるって」
「約束は、できない。だが、死ぬつもりはない」
「それで十分だ」
英二は、アッシュの右手を、両手で包み込んだ。
温かい。
アッシュの指先の冷たさが、少しだけ、和らいだ。
「気をつけて。アッシュ」
「……ああ」
深夜。
精神衛生センター。
マンハッタン北部、ハーレムとワシントンハイツの境界。地上7階、地下3階の巨大な建物。周囲は、高さ4メートルのフェンスで囲まれている。
正門には、警備員が2名。
アッシュ、ブランカ、マックスの三人は、センターの東側のフェンスの前にいた。
「このフェンスの向こうに、第7研究棟がある。警備カメラは、この地点からは死角になる」
「行くぞ」
「待て。私が先に、警備員を無力化する。君たちは、私の合図があるまで、ここで待っていなさい」
ブランカは、フェンスを軽々と越えた。音もなく。
アッシュとマックスは、暗闇の中で、息を潜めて待った。
数分後。
「来なさい」
ブランカの声が、聞こえた。
二人は、フェンスを越えた。
第7研究棟の裏口。警備員が二人、倒れていた。意識はない。ブランカが、一瞬で仕留めたのだ。
「相変わらず、化け物みたいな強さだな」
「褒めても何も出ないよ。さあ、中へ」
三人は、裏口から建物の中へ入った。
薄暗い廊下。消毒液の匂い。静寂。
ブランカが先導する。足音は、まったく聞こえない。
階段を下りる。地下1階。地下2階。地下3階。
「ここだ。資料室は、東側の突き当たり。警備室の鍵が必要だ」
「警備室は、どこだ」
「この階の西側。私が行ってくる。君たちは、資料室の前で待っていなさい」
ブランカは、音もなく、西側へ消えた。
アッシュとマックスは、廊下を進んだ。
突き当たり。重い鉄の扉。
「ここが、資料室か」
「ああ。この扉の向こうに、グリフィンの記録がある」
アッシュの心臓が、早鐘を打つ。
兄。グリフィン・カーレンリース。
ベトナム戦争で、バナナフィッシュを投与され、廃人になった男。
アッシュの、たった一人の肉親。
「マックス。兄貴は、どんな男だった」
「優しい男だった。詩を愛して、戦争を憎んでいた。あの戦場で、彼だけが、人間らしくあろうとしていた」
「その兄貴を、あいつらは、薬で壊した」
「ああ。だから、俺は、真実を追ってきた。グリフィンのためにも」
ブランカが、戻ってきた。手に、鍵を持っている。
「開けるよ」
鍵が、錠に差し込まれる。
カチリ。
扉が、ゆっくりと開いた。
資料室。
壁一面に、書類棚。無数のファイル。研究記録。実験データ。
「探すぞ。被験者リストを」
三人は、棚を漁り始めた。
書類の山。数字の羅列。化学式。写真。
「あった。これだ」
マックスが、一冊のファイルを差し出した。
表紙には、こう書かれていた。
「BF-1985 初期被験者記録」
アッシュは、ファイルを受け取った。
手が、震える。
ページを開く。
被験者番号。氏名。年齢。投与日。投与量。経過観察。
最初のページ。
「被験者番号001」
「氏名:グリフィン・カーレンリース」
「年齢:15歳」
「投与日:1979年3月14日」
「投与量:BF-1985 10ml」
「経過:投与後、強い幻覚症状。その後、知性の著しい低下。人格崩壊。長期療養施設へ移送」
アッシュの視界が、揺れた。
兄の名前。
1979年。
15歳。
——兄は、15歳で、この薬の実験台にされた。
——最初の犠牲者。
——それを、ディノが、隠していた。
「……グリフィン」
アッシュの喉から、絞り出すような声が漏れた。
拳を、壁に叩きつける。
ドン。
音が、静かな資料室に響いた。
「アッシュ、落ち着け」
「落ち着いていられるか。あいつは、兄貴を、15歳の兄貴を、実験台にしたんだ。しかも、それを、俺には隠して、養子にして、後継者だと言って、あの男は——」
アッシュの声が、怒りで震えた。
その時。
「その名簿を見るのは、君が初めてじゃない」
声がした。
三人が、同時に振り返る。
資料室の扉が、開いていた。
そこに、ディノ・ゴルツィネが、立っていた。
後ろには、黒いスーツの護衛が、数人。
「ディノ……」
「やあ、アッシュ。まさか、本当にここまで来るとはね」
ディノが、ゆっくりと、部屋の中へ入ってきた。
「君が、私の元を訪れた時、違和感があった。君は、私にデータの在処を聞いた。だが、君の目は、すでに答えを知っている者の目だった」
「だから、俺たちを泳がせたのか」
「そうだ。君が、どこまで知っているのか、誰と動いているのか、すべてを見せてもらった。君は、私の期待を、はるかに超えてくれた」
ディノが、微笑んだ。
「その名簿を見るのは、君が初めてじゃない。だが、ここまで辿り着いたのは、君だけだ。私のアッシュ。私の最高傑作」
「最高傑作だと」
「そうだ。グリフィンは、私の失敗作だった。あの薬の初期段階で、彼の知性は、完全に壊れてしまった。だが、君は違う。君は、あの薬に頼らずとも、私の理想を体現できる。君こそが、私の後継者にふさわしい」
「兄貴を、失敗作だと」
アッシュの声が、低くなった。
「事実だ。彼は、あの薬に耐えられなかった。君の兄でありながら、君とは、器が違った」
「黙れ」
「怒るな。私は、君を評価している。君は、私の最高傑作になる。グリフィンの代わりに、私のすべてを継ぐのだ」
アッシュは、ナイフを抜いた。
刃が、暗い資料室で、冷たく光った。
「あんたを、殺す」
「今夜は、ここまでだ。次の夜、答えを聞かせてくれ。君が、私のものになるのか、それとも、私の敵になるのか」
ディノは、背を向けた。
「待て」
アッシュが、飛び出そうとした。
ブランカが、アッシュの腕を掴んだ。
「やめなさい。ここで戦えば、君たちは死ぬ。彼の護衛は、全員、ルピ・ネリだ」
「離せ」
「君の怒りは、分かる。だが、今は、退く時だ。データの一部は、すでに手に入れた。十分な成果だ」
ディノが、振り返った。
「ブランカ。君は、やはり、私の敵になるのか」
「私は、誰の敵でもない。ただ、教え子を守るだけだ」
「そうか。残念だよ。君は、有能だった」
「お互いにね」
ディノは、護衛と共に、資料室を去っていった。
足音が、遠ざかる。
静寂。
アッシュは、ナイフを握りしめたまま、立ち尽くしていた。
「アッシュ。行こう。データの一部は、俺が確保した」
マックスが、ファイルの一部を、ジャケットの内側にしまった。
「……ああ」
三人は、資料室を出た。
廊下を走る。階段を上る。裏口から外へ。
フェンスを越える。
センターの外。
英二が、待っていた。
「アッシュ!無事か!」
英二が、駆け寄ってきた。
「無事だ。データの一部も、手に入れた」
「良かった……本当に、良かった」
英二が、アッシュの肩を、ぎゅっと掴んだ。
「でも、ディノが、俺たちの動きを、全部、読んでた」
「え?」
「あの男は、俺がセンターに来ることを、最初から知っていた。泳がせてたんだ。俺たちの動きを、全部、見てた」
「つまり、今夜の潜入は、最初から、ディノの掌の上だったってことか」
「ああ。だが、それでも、成果はあった。兄貴が、バナナフィッシュの最初の被験者だってことが、はっきりした」
アッシュは、夜空を見上げた。
ニューヨークの空。星は、ほとんど見えない。
「次の夜、ディノが、答えを聞かせろと言った。あいつは、俺が、どんな答えを出すか、楽しみにしてる」
「アッシュ。君は、どうするつもりだ」
「決まってる。あいつを、倒す。兄貴の仇を取る。そして、バナナフィッシュを、この世界から消す」
「俺も、一緒に戦う」
「英二。お前は、巻き込まれてる。もう、逃げられない。それでも、いいのか」
「逃げるつもりは、最初からない」
英二の目は、まっすぐだった。
アッシュは、英二の目を見た。
黒い瞳。光。
——こいつは、いつも、そうだ。
——俺の暗闇に、光を差し込んでくる。
「……勝手にしろ」
アッシュは、そう言って、歩き出した。
英二が、隣を歩く。
ブランカとマックスが、後ろを歩く。
四人の影が、夜のニューヨークの街に、長く伸びていた。
アッシュは、ポケットの中で、ナイフを握った。
冷たい感触。
次の夜。
ディノとの決着。
その時まで、時間は、ない。
アッシュは、前を見た。
暗い街の向こうに、パラッツォ・ゴルツィネの灯りが、遠く見える。
あの灯りの下に、すべての真実がある。
兄の無念。
ショーターの死。
英二の命。
すべての決着を、つける。
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