BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る
血の味とともに、二十三歳の死を見た——。目を覚ましたアッシュ・リンクスの枕元には、見知らぬ東洋人青年の古い写真が一枚。「お前はまだ間に合う。バナナフィッシュを止めろ」——裏に残された言葉が、運命を変える鍵となる。親友ショーターの失踪、黒いスーツの男たち、街に囁かれる禁断の薬の噂。ハーレムのストリートキッズのボスが、自らの死の未来を斬り開くために動き出す。逆行×サスペンス×アクション、運命に抗う物語が今、幕を開ける。
BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る - 親友の血、初めての涙 ―戻れない夜―
血の匂いがする。
倉庫の空気は、黴と鉄錆と、そして別の何か——甘ったるい腐敗臭が混ざっていた。
アッシュ・リンクスは、剥き出しの鉄骨が天井を走る廃倉庫の中央で、足を止めた。黒いレザージャケットの下で、心臓がゆっくりと、しかし重く脈打っている。
ハーレム川沿いの倉庫街。コルシカ・マフィアの下部組織が使っていると睨んだ場所。
「英二、下がってろ」
声は低く、短い。振り返らない。
後ろに、奥村英二がいる。黒い髪に、大きな瞳。日本人のカメラマン助手。数日前にチャイナタウンで出会い、無理やりこの危険な場所までついてきた男だ。
「でも、アッシュ……」
「いいから下がれ。何があっても、俺の前に出るな」
英二の足音が、一歩、後ろに下がる。
倉庫は暗い。外の光は、高い位置にある小さな窓から、埃っぽい帯のように差し込むだけだ。床には古い木箱や鉄のドラム缶が散乱している。
アッシュは、ポケットの中でバタフライナイフの冷たい感触を確かめた。
——ここに、ショーターがいる。
情報は確かだった。チャイナタウンの東、コルシカの連中が使う倉庫。昨夜、黒い車が二台、ここに入っていった。
ショーター・ウォン。
チャイナタウンのストリートキッズのボス。少年刑務所時代からの、たった一人の親友。
気さくで、明るくて、馬鹿みたいに笑う男。
その男が、消えた。
黒いスーツの男たちに、連れ去られた。
「……ショーター」
アッシュは、名前を呼んだ。
返事はない。
代わりに、倉庫の奥から、微かな音が聞こえた。
衣擦れのような、小さな音。
アッシュの全身の神経が、一瞬で研ぎ澄まされる。
「奥だ。ついてこい。ただし、絶対に俺の影から出るな」
「わかった」
二人は、ゆっくりと進んだ。
足元の木片が、パキリと割れる。
音が、やけに大きく響く。
倉庫の奥。
積み上げられたコンテナの影。
そこに、人が立っていた。
逆光で、シルエットだけが見える。
背が高い。肩幅が広い。
——ショーター。
アッシュは、確信した。
「ショーター!無事か!」
アッシュは、一歩、前に出た。
その瞬間。
シルエットが、ゆらりと動いた。
ぎこちない。
まるで、糸の切れた操り人形のような、不自然な動き。
「アッシュ、あいつ、なんか変だ……!」
英二の声が、震えた。
アッシュも、感じていた。
——おかしい。
——あれは、ショーターの動きじゃない。
シルエットが、一歩、こちらに近づく。
光の中に、顔が入った。
アッシュは、呼吸を止めた。
ショーター・ウォン。
両サイドを剃り上げ、中央を紫に染めたモヒカン。左腕の龍の刺青。
間違いない。ショーターだ。
だが、その目が。
いつもの、人懐っこい黒い瞳が。
虚ろだった。
焦点が合っていない。瞳孔が、異常に開いている。
「……殺せ」
ショーターの唇が、動いた。
「え?」
「……殺せ。奥村、英二」
低い、うわごとのような声。
ショーターの手に、ナイフが握られていた。
刃渡り二十センチはある、軍用ナイフ。
アッシュの頭の中で、何かが弾けた。
——バナナフィッシュ。
無色無味の液体。投与された者は強い暗示にかかり、特定の行動を取るよう操られる。効果時間は約72時間。そして、使用のたびに知性が不可逆的に破壊されていく。
精神衛生センターで開発された、悪魔の薬。
「ショーター、俺だ。アッシュだ。わかるか」
アッシュは、両手を上げて、ゆっくりと前に出た。
「殺せ。奥村、英二」
ショーターは、アッシュを見ていない。
その虚ろな目は、アッシュの後ろにいる英二に、まっすぐ向けられていた。
「アッシュ、どういうことだ?あいつ、なんで俺の名前を……」
「下がってろ。こいつは、正気じゃない」
「正気じゃないって……」
「いいから下がれ!」
アッシュの怒鳴り声が、倉庫に響いた。
その瞬間、ショーターが動いた。
速い。
異常な速さだった。
アッシュの横を、風のようにすり抜ける。
「——っ!」
振り返る。
ショーターが、英二に襲いかかっていた。
「うわっ!」
英二が、とっさに身をかわす。
ナイフが、空を切る。
ヒュッ、という音。
「ショーター!やめろ!」
アッシュは、ショーターの背中に飛びついた。
腕を、首に回す。
絞め落とす。
——悪い。一瞬、気絶してもらう。
「ぐ……っ」
ショーターの体が、びくりと震えた。
だが、止まらない。
ショーターは、アッシュを背負ったまま、英二に向かって歩き出した。
——なんだ、この力。
アッシュは、自分の腕に力を込めた。
首を絞めている。普通なら、数秒で意識が飛ぶ。
なのに。
ショーターは、歩みを止めない。
「アッシュ!こいつ、全然効いてない!」
英二が、木箱の陰に逃げ込む。
ショーターは、木箱を蹴り飛ばした。
ガシャン!
木箱が、壁に叩きつけられて砕ける。
英二が、必死に走る。
「くそっ!なんなんだよ、こいつ!」
「英二、出口から外に出ろ!早く!」
アッシュは叫びながら、ショーターの体を引き倒そうとした。
体重をかける。
だが、ショーターはびくともしない。
薬物のせいだ。
バナナフィッシュは、被投与者の痛覚を麻痺させ、筋力のリミッターを外す。
人間の体は、普段は脳が力をセーブしている。
そのセーブが、外れている。
「……殺せ」
ショーターが、腕を振り回した。
アッシュの体が、吹っ飛ぶ。
ドン!
背中を、鉄骨に打ちつけた。
肺の中の空気が、全部、押し出される。
「アッシュ!」
英二の悲鳴。
視界が、揺れる。
アッシュは、歯を食いしばって立ち上がった。
口の中に、鉄の味。
「……ショーター。お前、本気で俺を殺す気か」
アッシュは、ナイフを抜いた。
バタフライナイフ。
刃渡り十センチの、小さな刃。
ショーターの持つ軍用ナイフとは、勝負にならない。
「殺せ。奥村、英二」
ショーターは、英二を追いかける。
英二は、倉庫の出口に向かって走っていた。
だが、足がもつれる。
転んだ。
「あっ……!」
英二が、床に倒れた。
ショーターが、その上に立つ。
ナイフを、振り上げる。
「やめろ!ショーター!そいつは英二だ!お前が守るべき人間だ!」
アッシュは、全速力で走った。
ショーターの腕に、飛びつく。
ナイフを持つ手を、両手で掴んだ。
「正気に戻れ!お前は、こんなことをする男じゃない!」
ショーターの腕を、押さえ込む。
力比べ。
アッシュの腕が、悲鳴を上げる。
——重い。
——こいつの腕は、こんなに重かったか。
ショーターの虚ろな目が、アッシュを見た。
「……アッシュ」
初めて、ショーターが、アッシュの名前を呼んだ。
「ショーター!わかるのか!俺だ!」
「……アッシュ……逃げろ……」
ショーターの顔が、苦痛に歪んだ。
「……俺は……俺は……」
ショーターの体が、ガタガタと震え始める。
「どうしたんだ、ショーター!?」
「……頭が……割れる……!」
ショーターが、叫んだ。
そして、再び、目が虚ろになった。
「……殺せ。奥村、英二」
——だめだ。
——もう、戻らない。
アッシュは、悟った。
バナナフィッシュの暗示は、投与者の言葉を「絶対の命令」として受け入れさせる。
ショーターは、今、「英二を殺す」という命令に支配されている。
その命令を解除する方法は、一つしかない。
「アッシュ!後ろ!」
英二の叫び。
ショーターが、アッシュの拘束を振りほどいた。
そして、英二に向かって、ナイフを突き出した。
——間に合わない。
アッシュの頭の中で、予知夢の映像がフラッシュバックした。
血まみれで倒れる英二。
冷たくなっていく手。
——あれは、予知夢だ。
——あれを、現実にするわけにはいかない。
アッシュは、動いた。
ショーターの背中に、回り込む。
左手で、ショーターの髪を掴む。
首を、後ろに反らせる。
剥き出しの、喉。
頸動脈が、薄い皮膚の下で脈打っている。
——ごめん。
アッシュは、バタフライナイフを、逆手に握り直した。
刃を、ショーターの首に当てる。
「……許せ、ショーター」
一閃。
ザシュッ。
生温かい液体が、アッシュの手に降りかかった。
真っ赤な血。
ショーターの体が、びくりと痙攣した。
ナイフが、床に落ちる。
カラン、と音がした。
「……あ……」
ショーターの口から、空気が漏れる。
膝が、折れた。
アッシュは、倒れ込むショーターの体を、抱きとめた。
「ショーター!」
ショーターの体を、床に横たえる。
首から、血が流れ出る。
止まらない。
アッシュの手が、真っ赤に染まっていく。
「……アッシュ……」
ショーターの唇が、かすかに動いた。
虚ろだった目が、ほんの一瞬、焦点を取り戻す。
「……サンキュー……アッシュ……」
ショーターが、笑った。
血に染まった顔で、それでも、優しく。
いつもの、あの、馬鹿みたいに明るい笑顔。
「喋るな!今、助ける!お前は死なない!死なせない!」
アッシュは、ショーターの首の傷口を、手で押さえた。
だが、血は、指の間から溢れ出てくる。
「……英二を……頼む……」
「お前が自分で守れ!俺は知らねえ!」
「……へへ……お前なら……大丈夫だ……」
ショーターの手が、アッシュの腕を、弱々しく掴んだ。
「……マジかよ……任せろって……」
ショーターは、最後に、そう呟いた。
そして、その手から、力が抜けた。
「ショーター?おい、ショーター!」
アッシュは、ショーターの体を揺さぶった。
返事はない。
ショーターの目は、開いたままだった。
だが、その目には、もう何も映っていない。
「……嘘だろ……おい……起きろよ……」
アッシュの声が、震えた。
「……お前、まだ、俺に借り、返してねえだろ……」
ショーターは、動かない。
「……ふざけんな……ふざけんなよ、ショーター……」
アッシュは、血まみれの手で、ショーターの体を抱きしめた。
「……悪いな……ショーター……」
小さな声。
誰にも聞こえない、消え入りそうな声。
アッシュは、ショーターの遺体を、そっと床に横たえた。
そして、立ち上がった。
手が、血で濡れている。
黒いレザージャケットも、シャツも、顔も、血まみれだった。
「……英二」
アッシュは、英二を見た。
英二は、床に座り込んだまま、震えていた。
顔色が、真っ青だ。
「……アッシュ……今の……」
「お前は何も見てない。何も聞いてない。何も話すな」
アッシュの声は、冷たかった。
「でも……」
「でも、じゃねえ。これは、俺がやったことだ。お前は、関係ない」
「関係ないわけないだろ!ショーターは、俺を殺そうとして、それで……」
「違う」
アッシュは、英二の言葉を遮った。
「ショーターは、お前を殺そうとしたんじゃない。バナナフィッシュに、そうさせられたんだ」
「バナナ……フィッシュ?」
「薬だ。人を操る薬。ショーターは、それで、お前を殺すように暗示をかけられてた」
「そんな……」
「だから、ショーターは悪くない。悪いのは、薬を打った連中だ。そして……」
アッシュは、一瞬、言葉を切った。
「……俺が殺した。それだけだ」
アッシュは、倉庫の出口に向かって歩き出した。
「待って、アッシュ!」
英二が、アッシュの後を追う。
「来るな!」
「来るに決まってるだろ!」
英二が、アッシュの手を掴んだ。
血まみれの、アッシュの手を。
「君のせいじゃない」
英二の声が、震えていた。
「君は、俺を守ったんだ。ショーターを止めて、俺を守ったんだ」
「……違う。俺は、親友を殺した」
「違わない!君は、俺の命を救った!それだけは、絶対に、真実だ!」
英二の手が、アッシュの手を、強く握った。
「……放せ」
「放さない」
英二の目が、アッシュをまっすぐ見ていた。
真っ直ぐな、大きな、黒い瞳。
アッシュは、その目を見返した。
——こいつは、なんで。
——なんで、こんな目で、俺を見るんだ。
——俺は、人殺しだ。
——親友を、自分の手で殺した。
——なのに、なんで。
アッシュの胸の奥で、何かが、音を立てて崩れた。
長い間、固く閉ざしていた何かが。
「……っ……」
アッシュの膝が、折れた。
その場に、崩れ落ちる。
「アッシュ!?」
アッシュは、血まみれの両手で、顔を覆った。
「……なんでだよ……」
声が、震える。
「……なんで、俺は、いつも、こうなんだ……」
肩が、震える。
「……守りたかった……ショーターを……守りたかったのに……」
涙が、溢れた。
血に染まった指の間から、涙が零れ落ちる。
「……俺は……また……失った……」
アッシュ・リンクスは、泣いていた。
英二の目の前で。
初めて、人前で、泣いていた。
「……アッシュ」
英二は、アッシュの隣に座った。
そして、震えるアッシュの肩を、そっと抱きしめた。
「……大丈夫だ。俺がいる」
英二の声は、優しかった。
「……お前に、何がわかる……」
「わからないよ。君の痛みも、苦しみも、俺にはわからない」
英二は、静かに言った。
「でも、君が泣いてることは、わかる。君が、今、すごく辛いってことは、わかる」
「……っ……」
「だから、今は、泣いていいんだ。俺の前では、泣いていい」
英二の腕が、アッシュの体を、強く包み込んだ。
アッシュは、抵抗しなかった。
抵抗する気力も、なかった。
アッシュは、英二の腕の中で、声を押し殺して泣いた。
子供のように。
声を殺して、泣いた。
倉庫の中に、アッシュの嗚咽だけが、小さく響いていた。
夜。
アッシュのアジト。
ハーレムの廃墟ビル二階。窓は板で塞がれ、外の光は、隙間から細く差し込むだけだ。
アッシュは、ベッドに腰掛けていた。
手の血は、もう洗い落とした。
だが、指の間に、まだ、血の感触が残っている気がする。
何度洗っても、落ちない。
英二は、アッシュの隣に座っていた。
無言だった。
何を話せばいいのか、わからないのだろう。
アッシュも、何も話さなかった。
話す言葉が、見つからなかった。
——ショーター。
——お前は、最後に、サンキューと言った。
——なんでだ。
——お前を殺したのは、俺なのに。
アッシュは、自分の手を見つめた。
白い手。
だが、その手は、もう、二度と、清くはない。
「英二」
アッシュは、口を開いた。
「ホテルに、帰れ」
「……でも」
「ここは、危険だ。お前がいるべき場所じゃない」
「危険なのは、君の周りだけじゃない。俺は、もう、とっくに巻き込まれてる」
英二の声は、静かだった。
「それに、俺は、君を一人にしない」
「……お前は、馬鹿だな」
「よく言われる」
英二が、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、アッシュの胸が、ちくりと痛んだ。
——こいつは、なんで、こんな時に笑えるんだ。
——なんで、俺なんかに、構うんだ。
アッシュは、立ち上がった。
「……わかった。ホテルまで送る」
「え?」
「送るだけだ。余計なことを考えるな」
アッシュは、黒いレザージャケットを羽織った。
「ありがとう」
英二も、立ち上がった。
二人は、アジトを出た。
外は、冷たい夜風が吹いていた。
星は見えない。
低い雲が、月を隠している。
ハーレムの通りは、人通りが少ない。
時折、遠くでサイレンが鳴る。
アッシュは、英二の少し前を歩いた。
英二は、黙って、アッシュの後ろを歩いた。
「……アッシュ」
英二が、声をかけた。
「あの薬のこと、もっと詳しく教えてくれないか」
「知らなくていい」
「知りたいんだ。君が何と戦ってるのか、知りたい」
アッシュは、足を止めた。
振り返らずに、言った。
「……バナナフィッシュ。人を操る薬だ。打たれたら、最後。知性が破壊されて、廃人になる。ショーターは、それで、お前を殺すように命令されてた」
「誰が、そんなことを」
「コルシカ・マフィアのボス、ディノ・ゴルツィネ。そして、その薬を開発してる、マンハッタン精神衛生センターの連中だ」
「精神衛生センターって……」
「表向きは、ただの病院だ。でも、地下には、お前が想像もできないようなことが行われてる」
アッシュは、歩き出した。
「……君は、その薬を、止めようとしてるのか」
「止める?違うな。ぶち壊すんだ」
アッシュの声には、静かな怒りが込められていた。
「……俺も、手伝う」
「お前には、無理だ」
「無理かどうかは、やってみないとわからない」
「死ぬぞ」
「君だって、死ぬかもしれない」
「俺は、死なない」
「俺だって、死なない」
英二の声は、真剣だった。
アッシュは、小さく息を吐いた。
「……馬鹿が移ったか」
英二のホテル、ホテル・アバロンが見えてきた。
マンハッタン中城の三つ星ホテル。
「ここまででいい。ありがとう、アッシュ」
「ああ。部屋に着いたら、鍵をかけろ。誰が来ても、開けるな」
「わかってる。……アッシュ」
英二が、アッシュの目を見た。
「また、会えるよな」
アッシュは、一瞬、言葉に詰まった。
「……ああ。またな」
アッシュは、背を向けて、歩き出した。
英二は、アッシュの背中を、見えなくなるまで見送った。
アッシュは、アジトに戻った。
ドアを開ける。
——誰かいる。
アッシュは、ポケットのナイフに手を伸ばした。
「やあ、アッシュ。久しぶりだね」
声がした。
部屋の奥。
窓辺に、一人の男が立っていた。
銀髪のショートヘア。整った髭。左頬の古い傷跡。
身長は、190センチを超えている。
ブランカ。
元KGB中佐。
アッシュの、元家庭教師。
「……ブランカ」
アッシュは、ナイフから手を離さなかった。
「警戒しなくていい。私は、君を殺しに来たわけじゃない」
ブランカは、ゆっくりと、アッシュに近づいた。
「なんで、ここに」
「ディノ・ゴルツィネが、君を呼んでいる」
ブランカの声は、穏やかだった。
「あの男に、会う気はない」
「そう言うと思った。だが、今回は、君に選択肢はない」
「どういう意味だ」
「次の標的は、あの東洋人の青年だ」
ブランカの言葉に、アッシュの体が、強張った。
「……英二だと?」
「奥村英二。日本人のカメラマン助手。君が、今、一番大切にしている人間だ」
ブランカは、アッシュの目を見た。
氷のような青灰色の瞳。
感情を読ませない、静かな目。
「……お前が、あの男の下に戻ったのか」
「戻った、というより、呼び戻された。私には、断れない理由があった」
「娘か」
ブランカは、答えなかった。
ただ、静かに、微笑んだ。
「君は、相変わらず鋭いね」
「……なぜ、お前が、俺を呼びに来た」
「君が、私の言うことなら聞くと思ったからだ」
「買いかぶりだ」
「そうかな。私は、君の才能を誰よりも高く評価している。そして、君の危うさも、誰よりも理解している」
ブランカは、アッシュの肩に、手を置いた。
「アッシュ。君は、今、大きな岐路に立っている。ディノに会うか、それとも、あの青年を危険にさらし続けるか」
「……脅しか」
「警告だ。私は、君に、死んでほしくない」
「俺は、死なない」
「……君が死ぬ未来を、私も見てしまったからだ」
ブランカの言葉に、アッシュは、目を見開いた。
「……なんだと?」
「正確には、夢だ。君が、血まみれで倒れている夢。そして、その隣で、あの東洋人の青年が泣いている夢」
ブランカの声は、静かだった。
「私は、夢を信じるタイプではない。だが、あの夢は、あまりにも現実的だった」
「……お前もか」
アッシュは、呟いた。
「君も、見たのか。自分の死を」
「……ああ。23歳で、死ぬ夢を、何度も見た」
「ふむ。興味深い」
ブランカは、顎に手を当てた。
「だが、だからこそ、君は、ディノに会うべきだ。運命を変えるためには、まず、敵の懐に飛び込むしかない」
「……お前の言う通りにすると思うか」
「思わない。だが、君は、賢い。あの青年を守るためには、どうすればいいか、もう答えを出しているはずだ」
ブランカは、アッシュの肩から手を離した。
「ディノは、三日後、パラッツォ・ゴルツィネで君を待っている。来るか来ないかは、君の自由だ」
ブランカは、ドアの方へ歩き出した。
「……ブランカ」
アッシュが、呼び止めた。
「お前は、どっちの味方だ」
ブランカは、振り返った。
「私は、君の味方だ。アッシュ。昔も、今も、これからも」
ブランカは、静かに微笑んで、ドアを開けた。
「それから、一つだけ忠告だ。あの青年を、あまり近くに置きすぎるな。君の弱点は、君自身が一番よく知っているはずだ」
ブランカは、それだけ言うと、闇の中に消えた。
アッシュは、しばらく、ドアを見つめていた。
——英二を、守る。
——そのためには、ディノに会うしかない。
アッシュは、拳を握りしめた。
翌朝。
英二は、ホテルの部屋で、アッシュから借りたジャケットを手に取った。
昨夜、アッシュが、寒いだろうと言って、貸してくれたものだ。
「……これ、返さないと」
英二は、ジャケットのポケットを探った。
何か、入っている。
紙切れ。
古い新聞の切り抜きと、一枚の写真。
英二は、それらを取り出した。
新聞の切り抜きは、黄ばんでいた。
日付は、1979年。
「……これは」
英二は、記事を読んだ。
——「コルシカ系マフィアのボス、ディノ・ゴルツィネ氏、養子を迎える」
記事には、一人の少年の写真が載っていた。
金髪。緑の瞳。
間違いない。
アッシュだ。
12歳の、アッシュ・リンクス。
記事には、こう書かれていた。
——「ゴルツィネ氏は、かねてより才能ある少年を後継者として育てる意向を示しており、今回の養子縁組もその一環と見られる。しかし、一部関係者の間では、ゴルツィネ氏と少年の関係が、単なる養子縁組を超えたものであるとの噂も囁かれている」
英二は、もう一枚の写真を見た。
そこには、12歳のアッシュが、ディノ・ゴルツィネに寄り添うように立っている姿が写っていた。
アッシュの顔は、無表情だった。
だが、その目は。
緑の瞳は、何かを、必死に押し殺しているように見えた。
英二の手が、震えた。
「……アッシュ……」
英二は、写真を、胸に抱きしめた。
——この男は、アッシュに、何をしたんだ。
——アッシュは、どんな思いで、この男の隣に立っていたんだ。
英二の目に、涙が浮かんだ。
「……俺は、何も知らなかった」
英二は、涙を拭って、立ち上がった。
「……アッシュに、会わないと」
英二は、ジャケットと新聞の切り抜きを抱えて、部屋を飛び出した。
アッシュのアジト。
英二は、ドアをノックした。
返事がない。
ドアを開ける。
部屋は、空だった。
「……アッシュ?」
英二は、部屋の中を見回した。
ベッドは、整えられていた。
机の上に、一枚の紙が置かれている。
英二は、それを手に取った。
走り書きのメモ。
——「もう俺に関わるな」
短い、一言。
英二は、メモを握りしめた。
「……ふざけるな」
英二は、部屋を飛び出した。
外は、雨が降り始めていた。
冷たい雨。
英二は、雨の中を走った。
ハーレムの通りを。
チャイナタウンを。
ダウンタウンを。
アッシュを探して、走った。
「アッシュ!」
英二は、叫んだ。
「どこにいるんだ!アッシュ!」
雨が、英二の体を打つ。
髪も、服も、ずぶ濡れだった。
「……俺は、君を、見捨てない」
英二は、雨に濡れた顔で、呟いた。
「……絶対に、見捨てない」
雨は、激しさを増していた。
ニューヨークの街を、冷たい雨が、洗い流していく。
英二は、雨の中、一人、立ち尽くした。
アッシュの姿は、どこにもなかった。
——それでも。
英二は、顔を上げた。
雨に濡れた顔で、真っ直ぐに、前を見た。
——必ず、見つける。
——そして、君を、守る。
英二は、雨の中を、歩き出した。
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