BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る
血の味とともに、二十三歳の死を見た——。目を覚ましたアッシュ・リンクスの枕元には、見知らぬ東洋人青年の古い写真が一枚。「お前はまだ間に合う。バナナフィッシュを止めろ」——裏に残された言葉が、運命を変える鍵となる。親友ショーターの失踪、黒いスーツの男たち、街に囁かれる禁断の薬の噂。ハーレムのストリートキッズのボスが、自らの死の未来を斬り開くために動き出す。逆行×サスペンス×アクション、運命に抗う物語が今、幕を開ける。
BANANA FISH 逆行の光 — アッシュ・リンクス、運命を斬る - 雨のパラッツォ ―過去と標的、崩れゆく心―
血の匂いが、まだ手に残っている。
洗っても、洗っても、落ちない。
アッシュ・リンクスは、ハーレムの廃墟ビル二階にあるアジトの隅で、膝を抱えて座っていた。窓は板で塞がれ、外の光は細い隙間からしか入ってこない。埃っぽい空気。遠くで、救急車のサイレンがかすかに聞こえる。
ショーターを殺した。
この手で。
親友の首を、バタフライナイフで切り裂いた。
ショーターの血が、自分の腕の中で冷たくなっていく感触。あの感触が、まだ指先に残っている。何度手を洗っても、赤い色がこびりついているような気がして、アッシュは右手をじっと見つめた。
白い。
血の色は、もうない。
でも、感覚だけが、消えない。
「……ショーター」
声が、かすれた。
喉の奥が、乾いている。
アッシュは、壁に背中を預けた。天井を見上げる。ひび割れたコンクリート。そこから、蜘蛛の巣が垂れ下がっている。
あの倉庫での光景が、頭の中で何度も繰り返される。
虚ろな目。
「殺せ。奥村、英二」
あの声。
ショーターの声なのに、ショーターじゃなかった。バナナフィッシュ。無色無味の液体。人を操る悪魔の薬。精神衛生センターで開発された、狂気の産物。
あの薬が、ショーターを狂わせた。
そして、俺が、ショーターを殺した。
アッシュは、唇を噛んだ。血の味がする。
ドアが、ノックされた。
アッシュは、反応しなかった。
もう一度、ノック。
今度は、ドアが開く音。
「やあ、アッシュ。久しぶりだね」
低く、穏やかな声。
アッシュは、ゆっくりと顔を上げた。
入り口に、男が立っていた。
銀色の短い髪。整えられた髭。氷のような青灰色の瞳。身長は百九十センチを超える、大きな体。左頬には、古い傷跡が走っている。
ブランカ。
かつて、アッシュに戦闘技術を教えた家庭教師。元KGB中佐。この街で、アッシュが唯一、心を開きかけた男。
アッシュは、すぐには言葉を出せなかった。
ブランカは、ゆっくりと部屋に入ってきた。その足音は、まるで猫のように静かだ。
「外は雨が降りそうだ。この部屋は、相変わらず寒いね」
ブランカは、窓の隙間から差し込む光を見ながら言った。
「……何しに来た」
アッシュの声は、低く、乾いていた。
「君を迎えに来たんだよ。ディノが、君を呼んでいる」
その名前を聞いた瞬間、アッシュの全身の神経が、一気に研ぎ澄まされた。
ディノ・ゴルツィネ。
コルシカ・マフィア、ゴルツィネ・ファミリーのボス。アッシュを養子にし、後継者として育て、そして男娼として利用した男。
「あいつが、俺に何の用だ」
「話がしたいそうだ。君の、大切な友人のことについて」
ブランカは、穏やかな口調のまま言った。
「ショーターのことか」
「そうだ。そして、もう一人。奥村英二という青年についても」
英二。
その名前が、アッシュの胸の奥を、鋭く刺した。
「……英二が、どうした」
「彼が、バナナフィッシュの次の標的だ」
アッシュは、呼吸を止めた。
頭の中で、あの予知夢が蘇る。血まみれで倒れる英二。冷たくなっていく英二の手。あの夢が、現実になる。
「ショーターに投与されたバナナフィッシュは、ディノの指示によるものだ。そして、次の標的は、君の大切な日本人の友人だ。ディノは、君が自分から戻ってくるのを待っている」
ブランカの声は、まるで天気の話をするかのように、静かだった。
アッシュは、ゆっくりと立ち上がった。
「なぜ、お前がそれを知っている」
「私が、ディノに雇われたからだ」
アッシュの目が、鋭く細くなった。
「お前が、あいつのところに戻ったのか」
「戻った、というより、呼び戻された、と言った方が正確かね。私は、君を連れてくるように頼まれた」
「断る」
アッシュは、即答した。
「そう言うと思ったよ。だが、聞いてほしい。ショーターの死の真相を、君はまだ知らない。そして、英二君を守りたいなら、ディノと会うしかない」
「なぜ、お前が俺にそんなことを言う」
アッシュは、ブランカを睨んだ。
ブランカは、しばらくアッシュを見つめていた。その青灰色の瞳は、何の感情も映していない。
「君が死ぬ未来を、私も見てしまったからだ」
アッシュの体が、硬直した。
「……何だ、それは」
「夢だよ。君が見ているのと同じような、未来の夢。私は、君が血まみれで倒れる夢を見た。とても、静かな夢だった」
ブランカの声は、少しだけ、遠くを見ているようだった。
「私は、君を失いたくない。だから、君に生きてほしい。そのためには、ディノと会うのが最善だ。今は、逆らうべき時じゃない」
アッシュは、拳を握りしめた。
「お前の言う通りにすると思うか」
「思わないね。君は、昔から頑固だ。でも、今回は、君の感情ではなく、君の頭で考えてほしい。英二君を守るために、何が一番いいのかを」
アッシュは、黙った。
英二。
あの、真っ直ぐな瞳。
「君はなんでこんなところにいるんだ」
あの無鉄砲な問いかけ。
「君を一人にしない」
あの、頑固な言葉。
英二を守る。
そのためなら、何でもする。
「……わかった。会ってやる」
アッシュは、言った。
「賢明だね。では、行こうか。外に車を用意してある」
ブランカは、ドアの方へ歩き出した。
アッシュは、黒のレザージャケットを手に取った。ポケットの中に、バタフライナイフの冷たい感触を確かめる。
「ブランカ」
「なんだい」
「お前が、俺を裏切るなら、殺す」
アッシュの声は、氷のように冷たかった。
ブランカは、振り返って、少しだけ微笑んだ。
「君なら、そう言うと思っていたよ。安心しろ。私は、君の敵ではない」
二人は、廃墟ビルを出た。
外は、曇っていた。低い雲が垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな空。湿った風が、生ゴミと排気ガスの匂いを運んでくる。
路肩に、黒いセダンが停まっていた。
ブランカが、運転席に乗り込む。アッシュは、助手席のドアを開けた。
車は、ハーレムの通りを抜け、南へ向かった。
車窓から、ニューヨークの街が流れていく。ボロボロのアパート。落書きだらけの壁。路上に座り込む浮浪者。薬の売人。すべてが、灰色の空の下で、くすんで見えた。
「パラッツォ・ゴルツィネは、リトルイタリーのモット・ストリート沿いにある。表向きはレストランだが、実質は組織の本拠地だ。君も、よく知っているだろう」
ブランカが、ハンドルを握りながら言った。
「知っている」
アッシュは、窓の外を見たまま答えた。
あの場所には、二度と戻りたくなかった。
十二歳の時、ディノに拾われた。
才能がある。そう言われて、後継者として育てられた。
だが、実際は、違った。
ディノの、所有物。
男娼。
あの五年間は、地獄だった。
アッシュは、右手の甲にある古い切り傷の跡を、無意識に撫でた。
「嫌な場所に戻るのは、辛いだろう。だが、必要なことだ」
「お前は、俺の何を知っている」
「君が、あの家で何をされたか、知っているよ。ディノが、君をどう扱ったかも」
アッシュは、唇を噛んだ。
「なら、なぜ、俺をあいつに会わせる」
「君が、英二君を守るためだ。ディノは、君が戻れば、英二君には手を出さないと言っている。今は、その言葉に乗るしかない」
「あいつの言葉を、信じろと」
「信じる必要はない。ただ、時間を稼ぐんだ。君なら、それができるはずだ」
アッシュは、何も言わなかった。
車は、リトルイタリーに入った。
狭い路地。石畳の道。両側には、イタリア系のレストランや精肉店が並ぶ。看板には、イタリア語が書かれている。
やがて、一際大きな建物が見えてきた。
五階建て。重厚な石造り。一階には、レストラン「ラ・コルシカ」の看板がかかっている。
パラッツォ・ゴルツィネ。
アッシュの、悪夢の始まった場所。
車が、建物の裏手に停まった。
「着いたよ。中では、私が君の後ろにいる。何があっても、冷静に」
「わかっている」
二人は、車を降りた。
裏口から、建物に入る。
薄暗い廊下。石の壁。冷たい空気。
アッシュの心臓が、早鐘のように鳴っている。
嫌だ。
この場所に、足を踏み入れるのが、怖い。
でも、英二を守るためだ。
アッシュは、奥歯を噛みしめて、前を向いた。
廊下の突き当たりに、大きな木の扉。
ブランカが、扉をノックした。
「ディノ、アッシュを連れてきたよ」
中から、低い声が返ってきた。
「入れ」
扉が、開かれた。
広い執務室。
重厚な木の机。革張りの椅子。壁には、古い絵画が飾られている。窓からは、曇り空の光が差し込んでいる。
机の向こうに、男が座っていた。
白髪混じりの黒髪を、後ろに撫でつけている。冷たい灰色の瞳。身長は百八十五センチ。右手の甲には、古い火傷の跡。首には、金の十字架のペンダント。
ディノ・ゴルツィネ。
コルシカ・マフィアのボス。
アッシュの、養父。
そして、アッシュを地獄に落とした男。
ディノは、アッシュを見ると、ゆっくりと微笑んだ。
「よく来たね、アッシュ。私の可愛い息子」
その声は、上品で、芝居がかっていた。
「俺は、お前の息子じゃない」
アッシュは、冷たく言い放った。
「相変わらずだね。その反抗的な目。その気高さ。すべてが、私を惹きつける」
ディノは、椅子から立ち上がり、アッシュに近づいてきた。
アッシュは、一歩後ろに下がった。
「近づくな」
「怖がらなくていい。私は、君を傷つけたいわけではない。ただ、話がしたいだけだ」
「話なら、さっさとしろ」
「君は、ショーター・ウォンを殺した。違うか」
アッシュの体が、びくりと震えた。
「あれは、私の指示だ。ショーターにバナナフィッシュを投与したのは、私の命令によるものだ」
アッシュの視界が、赤く染まった。
「……お前が、ショーターを」
「そうだ。あれは、君へのメッセージだった。君が私から離れると、君の大切な人間が、どうなるか。それを教えてあげたかった」
ディノは、微笑んだまま言った。
「君の親友は、君の手で死んだ。君は、その血に濡れた手で、これからも生きていかなければならない。それは、辛いだろう。だから、私のところに戻ってきなさい。そうすれば、もう誰も傷つけなくて済む」
「……ふざけるな」
アッシュの声は、震えていた。
「私は、真剣だよ。アッシュ。君は、私のものだ。私が育てた。私が、君を一人前の男にした。君の才能は、私のものだ。君の人生は、私のものだ」
ディノの灰色の瞳が、異様な熱を帯びていた。
「奥村英二。あの日本人の青年。君が、あの男に心を許していることは、知っている。あの男を守りたいなら、組織に戻れ。後継者になれ。そうすれば、あの男には、指一本触れさせない」
アッシュは、ポケットからバタフライナイフを取り出した。
手首を返す。
カチッ。
刃が、開いた。
「俺は、誰のものでもない」
アッシュは、ナイフをディノの喉元に突きつけた。
刃先が、ディノの肌に触れる。
だが、ディノは、笑っていた。
「そうやって、刃を向ける君も、美しい。だが、君は、私を殺せない。私を殺せば、君は、この街で生きていけない。君の仲間も、英二も、全員、消される」
ディノの声は、まるで子守唄のように、優しかった。
「君は、私がいなければ生きていけない。十二歳の時から、ずっとそうだ。君の頭では、もう分かっているはずだ」
アッシュの手が、震える。
ナイフを持つ手が。
殺したい。
今すぐ、この男の喉を切り裂きたい。
でも、できない。
英二を守るためには、この男を殺すわけにはいかない。
アッシュは、奥歯を噛みしめた。
歯が、ギリギリと音を立てる。
「……英二に、手を出すな」
アッシュは、低く言った。
「もちろんだ。君が、私の言うことを聞くなら、ね」
ディノは、ナイフを突きつけられたまま、笑みを深くした。
「今日は、帰っていい。だが、三日以内に、答えを聞かせてくれ。私の、可愛いアッシュ」
アッシュは、ナイフを閉じた。
カチッ。
刃が、柄の中に消える。
「……覚えておけ。俺は、お前のものには、ならない」
アッシュは、背を向けた。
「君は、もう私のものだ。十二歳の時から、ずっとね」
ディノの声が、背中に突き刺さる。
アッシュは、振り返らずに、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、膝が、崩れそうになった。
壁に手をつく。
呼吸が、浅い。
心臓が、痛い。
「大丈夫かい」
ブランカが、後ろから声をかけた。
「……大丈夫なわけがない」
アッシュは、壁に手をついたまま、うつむいた。
「よく耐えた。君は、強いよ」
「強くなんかない。俺は、あいつに、何も言えなかった」
「君は、英二君を守るために、自分を殺した。それは、強さだよ」
ブランカの声は、静かだった。
「さあ、帰ろう。雨が降り始めた」
外に出ると、冷たい雨が降っていた。
大粒の雨が、アッシュの金髪を濡らす。
「アジトまで送るよ」
「……いや、一人で帰る」
「この雨の中をか」
「一人になりたい」
アッシュは、雨の中を歩き出した。
ブランカは、それ以上、追いかけなかった。
雨が、強くなる。
アッシュは、リトルイタリーの石畳を歩いた。
濡れた髪が、顔に張り付く。
レザージャケットが、水を吸って重い。
でも、そんなことは、どうでもよかった。
ショーターを殺した。
ディノの指示で、ショーターは狂わされた。
俺が、親友を殺した。
そして、英二が、次の標的。
俺が、英二を守らなければ。
でも、俺は、ディノに何もできなかった。
ナイフを突きつけただけ。
何も、変えられなかった。
アッシュは、歩き続けた。
雨が、街を洗い流していく。
一方、その頃。
奥村英二は、ハーレムのアッシュのアジトに向かっていた。
黒い髪は、雨に濡れて、額に張り付いている。大きな瞳は、不安と決意で揺れていた。
あの夜、倉庫で、ショーターが死んだ。
アッシュの手で。
アッシュは、泣いていた。
英二の目の前で、初めて、涙を流した。
あの涙が、英二の胸に、深く突き刺さっていた。
アッシュを、一人にしてはいけない。
そう思って、アジトに来た。
ドアをノックする。
返事がない。
「アッシュ、いるか」
返事がない。
英二は、ドアノブを回した。
鍵は、かかっていなかった。
「……入るぞ」
英二は、部屋の中に入った。
薄暗い部屋。
誰もいない。
「アッシュ……」
英二は、部屋の中を見回した。
ベッド。机。壁に貼られた地図。
机の上に、何かが置かれている。
英二は、近づいた。
古い、新聞の切り抜きだった。
黄ばんだ紙。
日付は、1979年。
「……これは」
英二は、記事を読んだ。
——「コルシカ系マフィアのボス、ディノ・ゴルツィネ氏、養子を迎える」
記事には、一人の少年の写真が載っていた。
金髪。緑の瞳。
アッシュだ。
十二歳の、アッシュ・リンクス。
記事には、こう書かれていた。
——「ゴルツィネ氏は、かねてより才能ある少年を後継者として育てる意向を示しており、今回の養子縁組もその一環と見られる。しかし、一部関係者の間では、ゴルツィネ氏と少年の関係が、単なる養子縁組を超えたものであるとの噂も囁かれている」
英二の手が、震えた。
「……男娼……」
英二の唇から、言葉が漏れた。
記事の続きには、もっと、具体的なことが書かれていた。
十二歳の少年が、ディノ・ゴルツィネに、性の対象として利用されていた、と。
英二は、新聞の切り抜きを、握りしめた。
「……アッシュ」
英二の目から、涙が溢れた。
——この男は、アッシュに、何をしたんだ。
——アッシュは、どんな思いで、生きてきたんだ。
英二は、涙を拭った。
「……アッシュに、会わないと」
英二は、新聞の切り抜きをポケットに入れ、部屋を飛び出した。
雨が、激しく降っている。
英二は、雨の中を走った。
ハーレムの通りを。
チャイナタウンを。
ダウンタウンを。
アッシュを探して。
「アッシュ!」
英二は、叫んだ。
「どこにいるんだ!アッシュ!」
雨が、英二の体を打つ。
髪も、服も、ずぶ濡れだ。
でも、走る。
アッシュを見つけるまで。
アッシュは、雨のダウンタウンを歩いていた。
どこを歩いているのか、自分でもわからなかった。
ただ、足が、勝手に動いている。
雨が、視界をぼやけさせる。
体が、冷たい。
でも、心の方が、もっと冷たい。
ショーター。
ごめん。
俺が、お前を殺した。
俺が、お前を守れなかった。
英二。
お前には、俺の過去を知られてしまった。
もう、お前に、合わせる顔がない。
お前の、あの真っ直ぐな瞳で、俺を見ないでほしい。
俺は、汚い。
十二歳の時から、ずっと。
ディノに、体を、心を、汚された。
そんな俺が、お前の隣にいていいはずがない。
俺が関わると、みんな死ぬ。
ショーターも。
英二も、きっと。
アッシュの足が、もつれた。
転んだ。
膝を、石畳に打つ。
痛い。
でも、立ち上がる気力が、ない。
アッシュは、雨に濡れた地面に、座り込んだ。
「……もう、嫌だ」
声が、震えた。
「……俺は、もう、誰も、失いたくない」
涙が、溢れた。
雨と混ざって、頬を伝う。
「……なのに、俺は、ショーターを……この手で……」
アッシュは、自分の右手を見つめた。
震えている。
あの手で、ショーターを殺した。
「……ごめん……ごめん……」
アッシュは、地面に額をこすりつけた。
雨が、容赦なく、アッシュを打つ。
冷たい。
孤独。
誰も、いない。
俺は、一人だ。
ずっと、一人だった。
これからも、一人だ。
その時。
雨の音が、少しだけ、変わった。
アッシュの頭上で、雨が、止まった。
いや、違う。
誰かが、傘を差し出している。
アッシュは、ゆっくりと顔を上げた。
そこに、立っていたのは。
奥村英二。
ずぶ濡れの、黒い髪。
大きな、真っ直ぐな瞳。
英二は、傘を差し出しながら、アッシュを見下ろしていた。
「……見つけた」
英二は、静かに言った。
「……英二……」
アッシュの声は、かすれていた。
「何してるんだ、こんな雨の中で」
英二は、アッシュの隣に、しゃがみ込んだ。
傘を、アッシュの方に傾ける。
英二の肩が、雨に濡れる。
「……お前には、関係ない」
アッシュは、顔を背けた。
「関係あるよ。俺は、君の友達だ」
「……友達なんかじゃない」
「そうか。でも、俺は、君を友達だと思ってる」
英二は、真っ直ぐにアッシュを見た。
「……俺の、過去を、知ったんだろ」
アッシュは、地面を見たまま言った。
「ああ、知った」
「なら、わかるだろ。俺は、汚い人間だ。お前が、近づいていい相手じゃない」
「汚くなんかない」
英二の声は、力強かった。
「君は、何も汚くない。君は、ただ、傷つけられただけだ。悪いのは、君を傷つけた奴らだ」
「……お前に、何がわかる」
「わからないよ。君の痛みは、君にしかわからない。でも、俺は、君の隣にいたい。君を、一人にしたくない」
英二は、アッシュの肩に、手を置いた。
温かい手。
「君は、一人じゃない」
その言葉が、アッシュの胸の奥に、深く、突き刺さった。
「……英二……」
アッシュの目から、再び、涙が溢れた。
「……俺は、ショーターを、殺したんだ……この手で……」
アッシュは、震える声で言った。
「……知ってる。でも、君は、ショーターを殺したくて殺したんじゃない。君は、ショーターに殺されそうになった俺を、守ったんだ」
「……でも、ショーターは、死んだ……俺のせいで……」
「ショーターを殺したのは、君じゃない。バナナフィッシュだ。あの薬を、ショーターに打った奴らだ」
英二は、アッシュの肩を、強く抱いた。
「君は、悪くない。君は、一人で、全部背負おうとしすぎだ。俺がいる。俺は、君の味方だ。何があっても、君のそばにいる」
アッシュは、英二の胸に、顔を埋めた。
英二の心臓の音が、聞こえる。
温かい。
雨の冷たさが、少しだけ、和らいだ。
「……俺は、お前を、守れるのか」
アッシュは、消え入りそうな声で言った。
「守れるよ。でも、守るのは、君だけの役目じゃない。俺も、君を守る。二人で、守るんだ」
英二は、アッシュの背中を、優しく叩いた。
「一緒に、ショーターの無念を晴らそう。あの薬の正体を、暴こう。そして、君を苦しめてきた奴らに、報いを受けさせよう」
アッシュは、何も言わなかった。
でも、小さく、頷いた。
英二は、アッシュの肩を抱いたまま、立ち上がった。
「立てるか」
「……ああ」
アッシュは、ゆっくりと立ち上がった。
膝が、まだ震えている。
英二は、アッシュの肩を支えながら、傘を差した。
「アジトに戻ろう。風邪をひく」
二人は、雨の中を、歩き出した。
肩を並べて。
一つの傘の下で。
雨は、まだ、降り続いていた。
でも、さっきより、少しだけ、雨音が優しく聞こえた。
アジトに戻ると、英二は、アッシュにタオルを渡した。
アッシュは、無言で、濡れた髪を拭いた。
「何か、温かいものを飲もう。ここに、何かあるか」
「……棚に、コーヒーがある。粉のやつだ」
「わかった。待ってて」
英二は、小さなキッチンで、湯を沸かし始めた。
アッシュは、ベッドに腰掛けて、英二の背中を見ていた。
英二は、慣れない手つきで、コーヒーを淹れている。
「はい、できた。熱いから、気をつけて」
英二が、マグカップを差し出した。
「……サンキュー」
アッシュは、マグカップを受け取った。
温かい。
両手で包むように持つ。
「君は、あの夢のことを、もっと話してくれないか。予知夢って、本当に見るのか」
英二は、アッシュの隣に座った。
「……ああ。見る。二十三歳で死ぬ夢。ショーターが死ぬ夢。お前が血まみれで倒れる夢。全部、見た。そして、全部、現実になった」
「……俺が、血まみれで倒れる夢もか」
「ああ。だから、お前を、守らなければならない」
「でも、君は、一人で守ろうとする。俺は、それが嫌だ。俺は、君の隣で、君と一緒に戦いたい」
英二は、アッシュの目を、真っ直ぐに見た。
アッシュは、少しだけ、視線をそらした。
「……お前は、危険なことに、首を突っ込みすぎる」
「君に言われたくないよ」
英二は、少しだけ、笑った。
アッシュも、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「今日は、俺がここにいる。君が眠るまで、そばにいる」
「……勝手にしろ」
アッシュは、ベッドに横になった。
疲れが、どっと押し寄せてくる。
英二は、ベッドの横の床に、座った。
「おやすみ、アッシュ」
「……おやすみ」
アッシュは、目を閉じた。
雨音が、子守唄のように、部屋に響いている。
英二の気配が、すぐそばにある。
それだけで、心が、少しだけ、軽くなる。
アッシュの意識は、ゆっくりと、暗い海に沈んでいった。
——暗闇。
——静寂。
アッシュは、夢の中にいた。
白い光。
誰かが、自分を抱きしめている。
温かい腕。
でも、体は、動かない。
呼吸が、浅い。
胸の奥から、血が、溢れてくる。
痛くない。
ただ、冷たい。
視界が、ぼやける。
誰かが、自分を呼んでいる。
でも、声が、聞こえない。
ああ、これが、死ぬ、ということか。
二十三歳の、俺。
誰かの腕の中で、静かに、息を引き取る。
その時。
視界の端に、人影が映った。
長い、黒い髪。
白い肌。
整った顔立ち。
女のように、美しい男。
その男が、こちらを見て、笑っている。
冷たい、笑み。
男の唇が、動く。
「お前の未来は、私がもらう」
アッシュは、飛び起きた。
心臓が、耳の奥で鳴っている。
全身に、汗。
呼吸が、浅い。
「……今のは」
アッシュは、周囲を見回した。
アジトの部屋。
雨音が、まだ聞こえる。
英二は、床に座ったまま、壁にもたれて眠っていた。
「……英二」
アッシュは、安堵の息を吐いた。
その時。
枕元に、何かが置かれていることに気づいた。
一枚の、写真。
アッシュは、それを手に取った。
モノクロの、古い写真。
そこに写っていたのは。
長い黒髪の、美青年。
夢の中で、笑っていた男。
アッシュは、写真を裏返した。
手書きの文字。
「お前の未来は、私がもらう」
アッシュの手が、震えた。
「……誰だ、こいつは」
アッシュは、写真を握りしめた。
雨は、まだ、降り続いていた。
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