聖杯大戦、はじまりの日常
聖杯大戦の裏側で、今日も平和に料理が始まる――。
記憶を失い、番号だけを与えられたホムンクルスのジーク。地下の暗闇で目覚めた彼の前に現れたのは、黒のライダー・アストルフォだった。「今日からお前は俺の親友だ!」——根拠ゼロ、勢いだけのその宣言が、使い捨ての存在として造られた少年の運命を、静かに、そして騒がしく変えていく。
戦の前の奇妙な通達に従い、サーヴァントたちが厨房に集結。錬金術で超巨大鍋を生み出すアヴィケブロン、山で猪を仕留めてきたケイローン、無言で猪を解体するフランケンシュタイン。そして初めて包丁を握り、盛大に指を切るジーク。
「血が出るってことは、生きてるってことだよ!」
ドタバタに満ちた料理騒動の合間に、少年は初めて「名前」で呼ばれ、初めて「おいしい」を知り、初めて自分の名前を口にする。
これは、壮絶な聖杯大戦の幕が上がる直前——ほんの少しだけ、優しくて、少しだけ騒がしい、日常の始まりの物語。
聖杯大戦、はじまりの日常 - 目覚めと玉ねぎと、はじめての痛み
冷たい。
それが、ジークの最初の感覚だった。
背中に触れている石の床は氷のように冷たく、指先はかじかんで感覚が薄い。目を開けると、薄暗い天井があった。灰色の石が積み重なっていて、ところどころに黒いシミが広がっている。
(ここは……どこだ)
体を起こそうとして、うまく力が入らない。腕が震える。息が浅い。ほんの少し動いただけで、胸の奥が痛んだ。
ジークは自分の手を見た。
細い指。青白い肌。左手の甲には、赤い紋様が浮かんでいる。何の模様かはわからない。でも、それが自分の体の一部であることだけは、なぜか理解できた。
首筋に手をやる。そこには、小さな刻印があった。指でなぞると、わずかに盛り上がっている。何かの番号らしい。数字と文字の並び。自分が「モノ」である証拠のような気がして、ジークは手を離した。
天井のシミをじっと見る。
(これは、何の跡だろう)
考えても答えは出ない。そもそも、自分が何を知っていて、何を知らないのか、その境目すら曖昧だった。
わかるのは、ここが地下だということ。窓がなく、空気が湿っている。遠くから、水の滴る音が聞こえる。ポタン、ポタン、と規則正しいリズム。
ジークはもう一度、ゆっくりと体を起こした。腕が震える。息が切れる。それでも、壁に手をついて立ち上がった。
足が、がくがくする。
(歩けるか?)
一歩踏み出す。二歩目で、膝が折れた。
石の床に倒れ込む。痛い。膝を打った。痛い、という感覚を、ジークは初めて自覚した。
「……痛い」
声が出た。自分の声なのに、誰か別の人の声のように聞こえる。
その時だった。
「あーーー!いたいたいた!」
地下に、明るい声が響き渡った。
ジークが顔を上げると、石段の上から誰かが駆け下りてくる。ぴょんぴょんと跳ねるように、軽やかな足取りで。
ピンク色のふわふわした髪。琥珀色の瞳。小柄な体に、黒いライダー服。腰には細身の剣を帯びている。
「あー、よかった!見つけた見つけた!」
その人物はジークの目の前に立つと、にこーっと笑った。
「大丈夫?立てる?」
「……あなたは」
「俺はアストルフォ!黒のライダー!君、ホムンクルスでしょ?」
ホムンクルス。その言葉を聞いた瞬間、ジークの胸の奥がずきりと痛んだ。
(ああ、そうだ。俺は、ホムンクルスだ)
魔力供給源として造られた、使い捨ての存在。ユグドミレニア家が聖杯大戦のために用意した、消耗品。
ジークは思い出していた。暗い水槽。管に繋がれた体。何人もの自分と同じ顔が、並んで浮かんでいた。そして、自我に目覚めた恐怖。逃げ出した記憶。
「……なぜ、ここに」
「え?なんでって、君を探してたからだよ!」
「探して……?」
「だって君、いつの間にかいなくなってたんだもん!城の中、ぜーんぶ探し回っちゃった!あ、でもここ地下だから、ちょっと暗くて怖かったんだけどね!」
アストルフォはそう言って、ぺろっと舌を出した。
ジークは混乱していた。
(俺を探していた?なぜ?俺はただのホムンクルスで、逃げ出した裏切り者で……)
「ほら、手、掴まって!」
アストルフォが手を差し伸べてくる。小さい手だった。でも、とても温かそうに見えた。
ジークはためらいながら、その手を取った。
アストルフォはぐいっとジークを引き上げる。力が強い。小柄な体のどこにそんな力があるのかと思うほど。
「よし!じゃあ行こ!こんなジメジメしたとこ、早く出ようよ!」
「……行くって、どこへ」
「どこって、城の中だよ!君の部屋、用意してあるんだ!」
「俺の、部屋」
「そう!俺が勝手に決めた!君、今日から俺の親友だからね!」
親友。
その言葉の意味を、ジークはうまく飲み込めなかった。
親友。親しい友。友達。
自分と、この明るいライダーが?
「……なぜ」
「え?なんでって、なんで?」
「なぜ、俺を助けるのか。俺は、何の価値もないホムンクルスだ。魔力供給源として造られた、使い捨ての……」
「はい、ストップ!」
アストルフォはぴしゃりと言って、ジークの額を指でつついた。
「君、さっきから変なことばっかり言ってる!俺が君を助けたいから助けるの!それでいいでしょ!」
「でも」
「でもも、でもも、でもも、うるさい!難しいことはわかんないけど!俺は君が気に入ったから、君は今日から俺の親友!決定!」
ジークは何も言えなくなった。
アストルフォの論理は滅茶苦茶だ。理由になっていない。
でも、その滅茶苦茶さが、なぜか心地よかった。
「……わかった」
「よし!じゃあ行くよ!階段、気をつけてね!」
アストルフォはジークの手を引いたまま、石段を上っていく。ジークはその後ろを、よろよろとついていった。
足が震える。息が切れる。心臓が痛い。
でも、手を引かれている。温かい手。
それが、なぜだかとても、安心した。
城の一室に連れて行かれたジークは、窓から差し込む光に目を細めた。
眩しい。
地下にはなかった光。白くて、柔らかくて、温かい。
「ここが君の部屋!狭いけど我慢してね!」
部屋は本当に狭かった。ベッドが一つ、小さな机、椅子。窓には薄いカーテンがかかっている。
でも、地下の石の床と比べたら、天国のような場所だった。
ジークは窓に近づいて、外を見た。
ルーマニアの山々が、どこまでも続いている。深い緑の森。遠くに見える雪を被った山頂。青い空。白い雲。
「……きれいだ」
「でしょ!ここ、トゥリファス城って言うんだよ!ユグドミレニア家の本拠地!すっごく大きくて、迷子になっちゃうくらい!」
トゥリファス城。ユグドミレニア家。
その名前は、ジークの中に刻み込まれていた。造られた場所。飼われていた場所。逃げ出した場所。
「ねえ、君、名前は?」
「……名前」
ジークは首筋の刻印を指でなぞった。
「俺には、番号しかない。名前なんて……」
「えー!じゃあ今から決めようよ!俺が決めてあげる!」
「君が?」
「うん!えーっとねー……ジーク!ジークがいい!」
「ジーク」
「そう!なんか強そうでしょ!英雄っぽい!俺の親友にぴったり!」
ジークはその名前を、口の中で転がしてみた。
ジーク。
短い音。でも、とても力強い音。
「……ジーク」
「うん!ジーク!よろしくね、ジーク!」
アストルフォが笑う。その笑顔は、地下で見た時と同じように、とても明るかった。
ジークの胸が、ざわつく。
(名前を、呼ばれた)
生まれて初めて。誰かに、名前を呼ばれた。
番号でも、ホムンクルスでもなく、ジークという名前で。
「……よろしく」
ジークは小さく頷いた。
それからしばらくして、城の中にダーニックの通達が響き渡った。
『戦の前に、英気を養え。皆で料理を作れ』
意味がわからなかった。
「料理!?戦の前に料理!?」
「料理とは、何だ」
「料理は料理だよ!食べ物を作ること!美味しいやつ!ジーク、食べたことないの!?」
「……ない」
「じゃあちょうどいい!行こ!厨房はこっち!」
アストルフォに手を引かれて、ジークは城の中を歩いた。
トゥリファス城は、外から見るよりずっと広かった。石造りの廊下。壁に掛けられた古い絵画。ところどころに置かれた燭台。
「ここが厨房だよ!すっごい広いでしょ!」
厨房は、本当に広かった。200畳はあるんじゃないかと思う。
そして、そこにはすでに何人ものサーヴァントが集まっていた。
まず目に入ったのは、黒いローブをまとった長身の男。仮面をつけていて、表情は見えない。黒のキャスター、アヴィケブロンだ。
「……では、始めよう」
アヴィケブロンが両手を掲げる。すると、厨房の中央の床が光り始めた。
複雑な幾何学模様が浮かび上がり、光が渦を巻く。
「わあ!何あれ!」
「錬金術だ。物質の生成と変換を得意とする」
光が収まった時、そこには巨大な鍋があった。
いや、鍋というか、もはや浴槽である。大人が数人入れるサイズの、黒光りする超大型鍋。
「おっきい!」
「これで十分だろう。材料は……おや」
厨房の入り口に、もう一人のサーヴァントが立っていた。
ケイローン。黒のアーチャー。
長い黒髪を後ろで束ねた、落ち着いた雰囲気の男。背中には弓を背負い、肩には大きな猪を担いでいた。
「山で仕留めてきた。新鮮だ」
「猪!?本物!?すごい!大きい!」
「フランケンシュタインに解体を頼もう。彼女の怪力なら簡単だろう」
ジークは目を奪われていた。
(これが、サーヴァントの力)
巨大な鍋を一瞬で生み出す錬金術。山で猪を狩ってくる弓兵。
そして、ケイローンの言葉に応えるように現れた黒のバーサーカー、フランケンシュタインが、無言で猪を受け取ると、あっという間に解体していった。
骨を砕き、肉を切り分け、内臓を選別する。その手際は恐ろしいほど正確で、無駄がなかった。
「すごい……」
「でしょでしょ!サーヴァントってすごいんだよ!あ、でも俺も負けないからね!」
厨房は、一気に賑やかになった。
アヴィケブロンが錬金術で火を起こし、ケイローンが肉の下処理を指示する。フランケンシュタインは黙々と作業を続けている。
ジークはその光景を、ただ見ていた。
人間の営み。
食べるための準備。生きるための行為。
(俺も……何かしたい)
ジークは厨房の隅に積まれた野菜を見つけた。玉ねぎが山のように積まれている。
ジークは包丁を手に取った。
(これを切ればいいのか?)
玉ねぎをまな板に置く。包丁を振り上げる。
振り下ろす。
ザクッ。
「……!」
包丁が玉ねぎを外れて、自分の指を切った。
左の人差し指。深く切れている。赤い血が、ぷくりと膨らんで、滴り落ちた。
「あーー!ジーク!何してるの!」
アストルフォが飛んできた。
「血が出てる!血が!血が!」
「……血」
ジークは自分の指から流れる赤い液体を見つめた。
温かい。赤い。止まらない。
(これが、血)
(俺の中にも、血が流れている)
(でも、俺はホムンクルスで、消耗品で、いつか捨てられる存在で——)
「じっとしてて!今包帯持ってくるから!」
アストルフォは慌てて厨房を飛び出していった。
ジークは、指から流れる血を、ただ見ていた。
痛い。
でも、痛いということは、生きているということ。
(俺は、生きているのか?)
「持ってきた!ほら、手出して!」
アストルフォが戻ってきた。手には白い包帯。
「痛かった?大丈夫?」
「……痛い」
「そっか。痛いよね。切ったら痛いもんね。でも、血が出るってことは、生きてるってことだよ!」
血が出るってことは、生きてるってこと。
ジークはその言葉を、何度も心の中で繰り返した。
「ほら、巻くよ。じっとしてて」
アストルフォは慣れた手つきで包帯を巻いていく。
「あ、これでよし!痛くない?」
「……痛くない」
本当はまだ痛い。でも、包帯を巻いてもらったら、さっきより少しだけ痛みが和らいだ気がした。
「よかった!ジーク、包丁使ったことないの?」
「……ない」
「そっか!じゃあ俺が教えてあげる!玉ねぎはね、こうやって切るんだよ!」
アストルフォはジークの手を取って、包丁の持ち方を教えてくれた。
「指はこうやって丸めて、包丁の背を指の第二関節にくっつけるの。そしたら指切らないよ」
「……こうか」
「そうそう!上手い上手い!」
ジークはアストルフォの教え通りに、玉ねぎを切り始めた。
ゆっくり。慎重に。
玉ねぎが、薄い輪切りになっていく。
「できたできた!すごいじゃんジーク!」
「……すごいのか、これが」
「すごいよ!初めてでこんなに上手に切れるなんて、才能あるよ!」
才能。
その言葉が、ジークの胸にじわりと染み込んでいく。
(俺にも、できることがある)
消耗品でも、使い捨てでも、番号しかなくても。
玉ねぎを切ることくらいなら、できる。
「……ありがとう」
「え?何が?」
「教えてくれて。包帯も。……名前も」
「なーに言ってるの!親友なんだから当たり前でしょ!」
アストルフォはまた笑った。
その笑顔を見ていると、ジークの胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
夕食は、大広間で行われた。
巨大な鍋で煮込まれた猪のシチュー。焼きたてのパン。湯気の立つスープ。
ジークは生まれて初めて、料理というものを食べた。
「……おいしい」
「でしょ!ケイローンが狩ってきた猪だからね!最高でしょ!」
「……よく噛んで食べるといい。君は体が弱いようだから、栄養を取らなければならない」
「……ありがとう」
ジークはスプーンでシチューを口に運んだ。
温かい。
体の中に、熱が広がっていく。
(これが、食事)
(これが、生きるということ)
ジークはシチューを、ゆっくりと味わって食べた。
その夜。
ジークは夢を見た。
暗い水槽の中。緑色の液体。管に繋がれた、自分と同じ顔。
何十人ものホムンクルスが、浮かんでいる。
そして、一人、また一人と、消えていく。
水槽から引き上げられ、運ばれ、二度と戻ってこない。
(待って)
(行かないで)
(置いていかないで)
声にならない声。動かない体。
ジークは水槽の中で、ただ見ていることしかできなかった。
同胞が、次々と消えていく。
自分も、いつか消える。
使い捨ての、消耗品。
「……っ」
ジークは飛び起きた。
全身に冷や汗をかいている。心臓が激しく脈打っている。呼吸が荒い。
「……夢、か」
部屋は暗かった。窓から月明かりが差し込んでいる。
ジークはベッドの上で、膝を抱えた。
(消えていく。みんな、消えていく)
(俺も、いつか)
恐怖が、足元から這い上がってくる。
その時、枕元に何かあることに気づいた。
ジークは手を伸ばした。
小さな、木彫りの鳥。
手のひらに収まるサイズ。丁寧に彫られていて、羽の一枚一枚まで表現されている。
「……誰が」
部屋には誰もいない。
アストルフォが置いていったのだろうか。それとも、他の誰か。
ジークにはわからなかった。
でも、その木彫りの鳥を握りしめた時、不思議と心が落ち着いた。
(明日も、厨房に行ってみよう)
漠然とした決意が、胸の奥で芽生える。
玉ねぎを切る。包丁の使い方を覚える。料理を食べる。
それだけのこと。
でも、ジークにとっては、とても大きな一歩だった。
「……ジーク」
自分の名前を、呟いてみる。
アストルフォがくれた名前。
まだ、しっくりこない。
でも、悪くない。
ジークは木彫りの鳥を胸に抱いて、もう一度目を閉じた。
窓の外では、ルーマニアの山々が、静かに月明かりに照らされていた。Noveliaとは?
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