聖杯大戦、はじまりの日常
聖杯大戦の裏側で、今日も平和に料理が始まる――。
記憶を失い、番号だけを与えられたホムンクルスのジーク。地下の暗闇で目覚めた彼の前に現れたのは、黒のライダー・アストルフォだった。「今日からお前は俺の親友だ!」——根拠ゼロ、勢いだけのその宣言が、使い捨ての存在として造られた少年の運命を、静かに、そして騒がしく変えていく。
戦の前の奇妙な通達に従い、サーヴァントたちが厨房に集結。錬金術で超巨大鍋を生み出すアヴィケブロン、山で猪を仕留めてきたケイローン、無言で猪を解体するフランケンシュタイン。そして初めて包丁を握り、盛大に指を切るジーク。
「血が出るってことは、生きてるってことだよ!」
ドタバタに満ちた料理騒動の合間に、少年は初めて「名前」で呼ばれ、初めて「おいしい」を知り、初めて自分の名前を口にする。
これは、壮絶な聖杯大戦の幕が上がる直前——ほんの少しだけ、優しくて、少しだけ騒がしい、日常の始まりの物語。
聖杯大戦、はじまりの日常 - 夜明けの城と、はじめての笑顔と、鳴り響く鐘
炎の匂いが、まだ残っていた。
朝日が、半壊したトゥリファス城の壁を、ゆっくりと照らしていく。焼け焦げた柱。砕けた石畳。空気には、昨日の戦いの熱と、血と、灰の匂いが混ざっていた。
中庭の片隅。
ジークは、自分の手のひらを見つめていた。泥と灰で汚れた指。折れた肋骨の痛みが、息をするたびに胸の奥で跳ねる。
(生きてる)
ただ、それだけのことが、不思議だった。
「……ジーク」
かすれた声。
ジークが顔を上げると、壁際に座り込んだアストルフォが、包帯だらけの体で笑っていた。ピンク色の髪は煤で汚れ、頭の羽飾りは半分折れている。それでも、琥珀色の瞳だけは、朝日を浴びてきらきらと光っていた。
「俺、生きてる!超生きてる!」
アストルフォは、両腕を空に突き上げた。
「あなた、重傷でしょう!大人しくしていなさい!」
白い装束を血と煤で汚したジャンヌが、アストルフォの肩を押さえる。金色の三つ編みが、朝風に揺れた。
「だって生きてるんだもん!嬉しいんだもん!」
「だからって、傷口が開いたらどうするの!私の治癒魔術は、もう限界なのよ!」
「えへへ、大丈夫だよ!僕はライダーだからね!馬に乗るより、生きてる方が得意なんだ!」
「な、何よそれ……もう、仕方ないわね」
ジャンヌが、大きなため息をつく。
ジークは、そのやり取りを、黙って見ていた。
(アストルフォは、すごいな)
昨日、あれだけの傷を負ったのに。
それでも、笑っている。
——ふと。
自分の口元が、わずかに緩んでいることに気づいた。
(あれ)
ジークは、自分の頬に手を当てた。
(僕、今、笑ったのか?)
あの時。
初めてアストルフォと会って、料理をして、みんなで食卓を囲んだ日。
うまく笑えなかった。
笑い方が、わからなかった。
なのに。
今、自然に、笑っていた。
「……ジーク?」
ジャンヌが、青い瞳をこちらに向ける。
「どうしたの?痛むの?」
「いえ……そうじゃなくて」
ジークは、もう一度、口元に触れた。
「僕、今、笑えてるみたいです」
ジャンヌが、きょとんとした顔をした。
「え?何それ!ジーク、何言ってるの?」
「だって、初めて会った時、僕はうまく笑えなかったから」
「あー!あの時の変な顔!すっごく面白かったよね!」
「あ、あれは……その、すみません」
「謝ることないよ!今のジーク、すっごくいい顔してる!」
アストルフォが、包帯を巻いた腕で、ジークの背中をばんばん叩く。
「ちょ、ちょっと、痛いです、アストルフォ」
「あ、ごめんごめん!でも、本当だよ!ジーク、ちゃんと笑えるようになったんだね!」
「……ええ、本当に」
ジャンヌが、柔らかく微笑んだ。
朝日を背にした聖女の笑顔が、とても眩しくて。
ジークは、胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます、ジャンヌさん」
「え?」
「あなたの言葉がなかったら、僕は、立ち上がれなかった」
ジークは、ジャンヌの青い瞳を、まっすぐに見つめた。
「僕が、僕の意志で立つことができたのは、ジャンヌさんが『あなたは自分で決めたのでしょう』と言ってくれたからです。あの言葉が、なかったら、僕はまだ、瓦礫の下で、うずくまっていた」
ジャンヌの頬が、すうっと赤くなった。
「わ、私は、審判として、当然のことをしただけよ」
「それでも、です」
「だから、その、そんなに真剣にお礼を言われると、困るというか……」
ジャンヌは、耳まで真っ赤にして、視線を泳がせた。
——その時。
ジャンヌの心の中で、もう一つの声がした。
『あらあら、素直じゃないわね』
(うるさいわね)
ジャンヌは、心の中で、レティシアの声に言い返した。
『彼、あんなに真剣に言ってるのに』
(だから、うるさいって言ってるの)
『ふふ、照れちゃって』
(ち、違うわ!これは、その、照れじゃなくて!)
『じゃあ何なの?』
(……もう、黙ってなさい)
ジャンヌは、心の中で、深いため息をついた。
「あれ?なんかいい雰囲気?」
アストルフォが、ひょいと二人の間に顔を突っ込んだ。
「ち、違うわよ!」
「えー?でも、ジャンヌ、顔真っ赤だよ?」
「だから、違うって言ってるでしょう!これは、朝日が眩しいだけで!」
「朝日は、ジークの後ろにあるけど?」
「……あ」
ジャンヌが、固まった。
「あはは!ジャンヌ、面白い!」
「も、もう、何でもいいでしょ!」
ジャンヌが、ぷいっと横を向く。
ジークは、そんな二人のやり取りを、また、自然に笑いながら見ていた。
(……ああ、これが、生きてるってことなのかな)
胸の奥が、温かい。
痛いのに。
体は、ぼろぼろなのに。
それでも、ここにいることが、嬉しい。
「……ジーク」
落ち着いた声。
振り返ると、茶色の短髪を整えたカウレスが、簡易の担架を押していた。薄茶色の瞳は、疲れの色を浮かべている。
「ちょっと、手伝ってくれないか。姉さんを、あっちの日陰まで運びたいんだ」
「もちろんです」
ジークは、折れた肋骨の痛みを堪えながら、担架の反対側に回った。
担架の上では、フィオレが、静かに横たわっていた。可憐な顔立ちは青白く、金色の髪が、朝風に揺れている。
「フィオレさん、大丈夫ですか」
「ええ……ありがとう、ジーク」
フィオレが、弱々しく微笑んだ。
「それに、カウレス。あなたも、無理しないで」
「姉さんこそ。俺のことは、気にしなくていいから」
「でも、あなた、一晩中、私のそばにいてくれたでしょう」
「当たり前だろ。姉さんが、あんな状態だったんだから」
カウレスは、ぶっきらぼうに言った。
でも、その手は、担架を支えるフィオレの手に、そっと触れていた。
「……カウレス」
フィオレが、小さく呟いた。
「私、ダーニック様の、最期の言葉を、ずっと考えていたの」
「ダーニックの?」
「ええ。『お前が、ユグドミレニアを率いよ』と。そう、おっしゃったの」
フィオレの声は、震えていた。
「私に、一族を率いる資格があるのかしら。私は、魔術師として、非情になり切れない。足も、動かない。それなのに……」
「姉さん」
カウレスが、フィオレの手を、強く握った。
「ダーニックが、そう言ったんだろ。なら、それでいいじゃないか」
「でも……」
「俺が、支える。姉さんの足の代わりに、車椅子を押す。俺は、魔術師としては、凡庸だ。でも、姉さんを支えることなら、誰にも負けない」
カウレスの声は、静かだった。
でも、その言葉には、確かな力があった。
「……カウレス」
フィオレの青い瞳から、涙がこぼれた。
「だから、姉さん。ユグドミレニアの、新しい長として、立ってくれ」
「……ええ」
フィオレは、涙をぬぐい、小さく頷いた。
「私、ユグドミレニアを、守るわ。ダーニック様の、最後の言葉に、応えるために」
朝日が、フィオレの金色の髪を、きらきらと照らした。
ジークは、その姿を、黙って見ていた。
(フィオレさんは、強いな)
自分の足で立てなくても。
魔術師として、非情になれなくても。
それでも、前に進もうとしている。
「……僕も、見習わないと」
「え?何か言った?」
「いえ。フィオレさんも、カウレスさんも、すごいなって」
「……別に、すごくないだろ。俺は、ただ、姉さんを支えるだけだ」
カウレスが、照れくさそうに、鼻の頭をかいた。
——その時。
「失礼します!」
中庭の入り口から、黒の陣営の使いの兵士が、駆け込んできた。
「何事だ?」
「こ、これを、ルーラー様に!」
兵士は、震える手で、一通の書状を差し出した。
「私に?」
ジャンヌが、書状を受け取る。
封を開け、中身を読む。
——次の瞬間。
ジャンヌの顔から、表情が消えた。
「……なるほど」
「ジャンヌさん、何と書いてあるんですか」
「……赤の陣営からよ。シロウ・コトミネから、正式な抗議書状が届いたわ」
「抗議……?」
「ダーニックの暴走を、私が止められなかった。それは、審判役としての職務怠慢であり、ルーラーとしての資格を問う、と」
「なっ……!」
ジークの中で、何かが、カッとなった。
「そんなの、おかしいです!あれは、ダーニックが、勝手にやったことだ!ジャンヌさんは、関係ない!審判は、関係ない!」
「ジーク、落ち着いて」
「落ち着いてなんかいられません!ジャンヌさんは、僕たちを守るために、あんなに、あんなに頑張ったのに!それを、職務怠慢だなんて、あんまりです!」
ジークの声は、震えていた。
拳を、ぎゅっと握りしめる。
折れた肋骨が、痛んだ。
でも、それ以上に、怒りが、胸を焼いた。
「……ジーク。ありがとう。あなたが、そんなに怒ってくれることが、嬉しいわ」
ジャンヌが、静かに言った。
「でも、これは、私の問題よ」
「……え?」
「審判として、ダーニックの暴走を止められなかった。それは、事実よ。たとえ、私の力が、及ばなかっただけだとしても、ね」
「私は、自分で決着をつける。赤の陣営と、話し合うわ」
「なら、僕も行きます!」
「……え?」
「ジャンヌさんが、一人で行くなら、僕も一緒に行く。僕は、ジャンヌさんを、一人で行かせたりしない」
「そ、それは……」
「お願いです。僕も、連れて行ってください」
ジークは、深く頭を下げた。
「……もう、仕方ないわね」
ジャンヌが、困ったように笑った。
「でも、その前に、あなたの体を、ちゃんと治してからよ」
「……はい」
ジークは、ほっと息を吐いた。
——遠くの丘。
朝靄の中、黒い神父服の男が、トゥリファス城を眺めていた。
シロウ・コトミネ。
「……ルーラーは、生き延びたか」
「ええ、あの聖女は、しぶといですからね。あなたの計画も、そう簡単には、うまくいかないようですよ」
赤のキャスター、シェイクスピアが、大げさに肩をすくめた。
「まあいい。次の機会を、待とう」
「おや?あなたにしては、随分と、のんきですね。てっきり、すぐにでも、ルーラーを排除しに行くのかと」
「焦りは、失敗を呼ぶ。それに、今回の書状で、ルーラーの立場は、確実に揺らいだ。あとは、時間が解決してくれる」
「ああ、なんて冷徹!なんて狡猾!あなたという男は、本当に、物語の登場人物らしくない!」
「物語は、私が書くものだ」
シロウの黒い瞳が、朝日を浴びて、冷たく光った。
「私は、登場人物ではない。作者だ」
「ふふ、これは、ますます、戯曲にしがいのある人物だ。あなたの書く物語、この私が、舞台にしてみせましょう」
シロウは、何も答えず、野営地へと、ゆっくりと歩き出した。
黒い背中が、朝靄に溶けていく。
——トゥリファス城。
中庭に戻ったジークは、ポケットに手を入れた。
指先に、木の感触。
取り出したのは、小さな木彫りの鳥だった。
「……ジーク、それ、何?」
「木彫りの鳥です。僕が、目覚めた日から、毎晩、枕元に置かれていたんです」
「毎晩?」
「はい。誰が置いたのか、わからなくて」
「え?それ、俺じゃないよ?」
「俺でもないぞ」
「私でも、ないわ」
フィオレが、遠くを見るような目で、呟いた。
「……それ、誰かが、あなたを励まそうとして、置いたんじゃないかしら」
「励まそうとして……?」
「ええ。あなたが、毎晩、その鳥を見て、少しでも、安心できるように」
ジークは、手のひらの上の、小さな木彫りの鳥を見つめた。
見えない誰かの、優しさ。
(僕は、一人じゃなかった)
(ずっと、誰かが、僕のことを、見ていてくれた)
胸の奥が、じわりと、温かくなった。
「……ありがとうございます」
ジークは、木彫りの鳥を、そっと握りしめた。
「僕、これから、どうすればいいのか、ずっと考えていました」
「……それで、答えは出たの?」
「はい」
ジークは、左手を見た。
手の甲に浮かぶ、竜告令呪の赤い紋様。
「僕は、戦えるようになりたい。守りたいものがあるから」
「……守りたいもの」
「みんなです。アストルフォも、カウレスさんも、フィオレさんも。そして、ジャンヌさんも」
「わ、私も?」
「はい。ジャンヌさんが、僕を守ってくれたから。今度は、僕が、ジャンヌさんを守りたい」
ジャンヌの頬が、また、赤くなった。
「……もう、あなたって、本当に、まっすぐなんだから」
「え?何か、変なことを言いましたか?」
「……何でもないわ」
ジャンヌは、金色の三つ編みを、くるくると指に巻き付けた。
「あー!また、いい雰囲気になってる!」
「なってないわよ!」
「なってるなってる!」
「なってないったら、なってないの!」
「あはは!ジャンヌ、怒ると、すっごく面白い顔になるね!」
「も、もう、知らない!」
ジャンヌが、真っ赤な顔で、ぷいっと横を向いた。
ジークは、その光景を、また、笑いながら見ていた。
(ああ、やっぱり、僕は、笑えるようになったんだ)
そのことが、とても、嬉しかった。
——その時。
ゴォォォォン……。
低く、長い、鐘の音が、トゥリファスの空に響き渡った。
「……鐘?」
ジークは、空を見上げた。
朝焼けの空。
燃えるような赤と、優しい青が、混ざり合っている。
ゴォォォォン……。
二度目の鐘。
どこまでも届くような、重い音。
「聖杯大戦の、開幕を告げる鐘だ」
「……始まるんだな」
「ええ」
フィオレが、静かに頷いた。
「よーし!頑張るぞー!」
アストルフォが、包帯だらけの拳を、空に突き上げた。
「だから、あなたは、大人しくしていなさい!」
「えー!だって、始まるんだよ!ワクワクしない?」
「……しないわ。私は、審判として、この戦いを、見届けなければならないんだから」
ジャンヌが、聖旗を、ぎゅっと握りしめた。
ゴォォォォン……。
三度目の鐘。
ジークは、空を見上げたまま、拳を握った。
左手の竜告令呪が、かすかに、熱を帯びる。
(同胞たちの声は、まだ、聞こえる)
(でも、今は、目の前の仲間を守りたい)
(その気持ちの方が、強い)
ジークは、ゆっくりと、息を吸った。
朝の空気が、肺の奥まで、染み込んでいく。
「……行こう、みんなで」
ジークの声は、静かだった。
でも、その声には、確かな決意が、込められていた。
朝日が、ジークの銀色の髪を、きらきらと照らした。
うまく笑えなかった自分が、今は、少しだけ、笑えている。
その小さな変化を、胸に。
ジークは、新たな戦いへと、一歩を踏み出した。Noveliaとは?
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