聖杯大戦、はじまりの日常
聖杯大戦の裏側で、今日も平和に料理が始まる――。
記憶を失い、番号だけを与えられたホムンクルスのジーク。地下の暗闇で目覚めた彼の前に現れたのは、黒のライダー・アストルフォだった。「今日からお前は俺の親友だ!」——根拠ゼロ、勢いだけのその宣言が、使い捨ての存在として造られた少年の運命を、静かに、そして騒がしく変えていく。
戦の前の奇妙な通達に従い、サーヴァントたちが厨房に集結。錬金術で超巨大鍋を生み出すアヴィケブロン、山で猪を仕留めてきたケイローン、無言で猪を解体するフランケンシュタイン。そして初めて包丁を握り、盛大に指を切るジーク。
「血が出るってことは、生きてるってことだよ!」
ドタバタに満ちた料理騒動の合間に、少年は初めて「名前」で呼ばれ、初めて「おいしい」を知り、初めて自分の名前を口にする。
これは、壮絶な聖杯大戦の幕が上がる直前——ほんの少しだけ、優しくて、少しだけ騒がしい、日常の始まりの物語。
聖杯大戦、はじまりの日常 - 聖女と玉ねぎと、はじめての笑い
朝の光が、トゥリファス城の石壁を白く染めていた。
ジークは城の廊下を歩いていた。昨夜の夢のことを、まだ引きずっている。暗い水槽の中で、自分と同じ顔が次々と消えていく。あの光景が、瞼の裏に焼きついて離れない。
(夢だ。ただの夢だ)
そう自分に言い聞かせても、胸の奥がざわつく。ポケットの中には、朝起きたら枕元に置いてあった木彫りの鳥。昨晩と同じ場所に、同じように置かれていた。誰が置いているのかは、まだわからない。
「ジーク!おはよう!」
後ろから、弾むような声が飛んできた。
振り返ると、ピンク色のふわふわした髪が朝日を浴びてきらきらしている。琥珀色の瞳が、まっすぐにジークを見ていた。頭の小さな羽飾りが、ぴょこぴょこと揺れている。
「おはようございます、アストルフォ」
「今日も厨房だよ!みんな待ってる!早く早く!」
アストルフォはジークの手を掴むと、ぐいぐいと引っ張っていく。小柄な体のどこにそんな力があるのか、相変わらずわからない。ジークはされるがままに、廊下を小走りで進んだ。
厨房に着くと、すでに何人もの姿があった。
「おはよう、ジーク」
茶色の短髪をきっちり整えた青年が、穏やかな薄茶色の瞳でこちらを見た。カウレス・フォルヴェッジ・ユグドミレニア。黒のバーサーカーのマスターで、ジークの良き相談相手だ。右手の甲には、令呪の紋様が浮かんでいる。
「おはようございます、カウレスさん」
「また朝早いんだな。無理しなくていいのに」
「いえ、僕は……ここにいたいんです」
カウレスは少しだけ目を丸くして、それから苦笑した。
「まあ、いいか。今日もよろしく」
厨房の奥では、黒のキャスター、アヴィケブロンが何かを組み立てている。黒い仮面のような顔が、朝の光を受けて鈍く光る。彼は錬金術で巨大な鍋を創造した張本人だ。今はその鍋の調整をしているらしい。無言で、手際よく、何かを組み替えている。
その隣では、黒のアーチャー、ケイローンが昨日狩ってきた猪の残りを確認していた。長い髪を後ろで束ね、落ち着いた目で肉の状態を見ている。彼の指導で、昨日は料理が完成した。
そして、厨房の隅には黒のバーサーカーが立っていた。長い黒髪を垂らし、無表情でじっと鍋を見つめている。何を考えているのか、ジークにはわからない。でも、彼女がここにいることは、なぜか安心できた。
「さあて!今日は何作るのかなー!」
アストルフォが厨房中をぐるぐる回りながら叫ぶ。
「アストルフォ、走ると危ないよ」
「だいじょーぶだいじょーぶ!僕、ライダーだし!」
「ライダーと厨房の安全は関係ないだろ……」
カウレスのため息が聞こえた。ジークはそのやりとりを見ながら、昨日感じた温かさを思い出す。ここには、仲間がいる。自分を受け入れてくれる人たちがいる。
その時だった。
「——失礼します」
厨房の入り口に、一人の女性が立っていた。
金色の長い髪が、朝の光を受けて輝いている。澄んだ青色の瞳。白い装束に身を包み、手には聖旗を携えている。その姿は、まるで絵画から抜け出してきた聖女のようだった。
ジークは息を止めた。
(この人は……)
胸の奥で、何かが跳ねた。ドキン、と一度だけ。それが何なのか、ジークにはわからない。ただ、目が離せなかった。
「あ!ジャンヌだ!」
アストルフォがぴょんぴょん跳ねながら手を振る。
「……なぜ私がここに呼ばれたのか、今朝の通達を読んでようやく理解しましたわ」
ジャンヌ・ダルクは、ため息をつきながら厨房に入ってきた。
彼女こそ、聖杯大戦の審判役、ルーラー。七人のマスターと七騎のサーヴァントが聖杯を巡って争う大規模な魔術儀式を、公正に運営するために召喚された特別なサーヴァントだ。本来なら中立の立場を守り、どちらの陣営にも肩入れしないはずの存在。
そのルーラーが、なぜか黒の陣営の厨房に立っている。
「おはようございます、ジャンヌさん」
「おはようございます、カウレス。……それで、あの通達は本当なのかしら」
「ダーニック様からの命令でね。『戦の前に英気を養え。皆で料理を作れ』って」
「なぜ審判役の私が、黒の陣営の料理に参加しなければならないのかしら……」
「まあ、そう言うなよ。俺だってよくわかってないんだ」
「中立の立場というものを、もう少し尊重してほしいものですわ……」
ジャンヌはもう一度ため息をついた。
ジークは、その横顔をじっと見つめていた。
真剣な表情。困っているような、でもどこか諦めているような。そんな複雑な顔をしているのに、目はとてもきれいで、金色の髪は光を集めて輝いていた。
(きれいだ)
そう思った。
それが何を意味するのか、ジークにはまだわからない。でも、胸の奥がざわざわして、落ち着かない。
「あれ?ジーク、どうしたの?顔赤いよ?」
アストルフォがジークの顔を覗き込んできた。
「……え?赤い?」
「うん!すっごく赤い!熱でもあるんじゃない!?」
アストルフォがジークの額に手を当てる。ひんやりとした小さな手のひら。
「熱はないみたいだけど……なんで赤いの?」
「……わかりません」
ジークは正直に答えた。本当にわからないのだ。自分の体に何が起きているのか。胸の高鳴りも、顔が熱くなるのも、全部初めての感覚だった。
「なにそれ!おかしーの!」
アストルフォはけらけらと笑った。
その笑い声が、ジークの胸にじんわりと染み込んでいく。
「——あなた」
不意に、ジャンヌがジークに声をかけた。
「え?」
「あなた、ホムンクルスでしょう?」
ジークは一瞬、体が固くなった。
ホムンクルス。錬金術や魔術によって人工的に造られた人間。ユグドミレニア家が聖杯大戦のために用意した、魔力供給源。消耗品。使い捨ての存在。
「……はい。そうです」
声が、少し震えた。
ジャンヌはジークをじっと見つめた。その青い瞳は、まるでジークの心の奥まで見透かすようだった。
「戦うためだけに造られたのなら、なぜ料理なんてしているのかしらね」
その言葉は、静かだった。
でも、ジークの胸に深く、深く突き刺さった。
(なぜ、料理なんてしているのか)
答えられない。
自分が何のためにここにいるのか。何のために生きているのか。そんなことを、今まで考えたことがなかった。いや、考えることを避けていたのかもしれない。
「えー?料理は楽しいからだよ!」
アストルフォが間に入ってきた。
「……そう。楽しいから」
ジャンヌは少しだけ目を細めた。
「それなら、それでいいのかもしれないわね」
そう言って、ジャンヌはジークに小さく微笑んだ。
その微笑みを見た瞬間、ジークの胸の奥が、また跳ねた。
(この感覚は、なんだ)
(痛いわけでも、苦しいわけでもない)
(でも、すごく……変だ)
ジークは自分の胸に手を当てた。心臓が、いつもより速く動いている。
「ジーク、また顔赤い!」
「……すみません」
「なんで謝るの!おかしー!」
アストルフォがまた笑った。
ジャンヌはそんな二人を見て、くすりと笑った。
「仲がいいのね、あなたたち」
「当たり前だよ!ジークは僕の親友だもん!」
アストルフォがジークの肩に抱きついてきた。ふわふわの髪がジークの頬に触れる。
「ちょっと、アストルフォ、離れなさいよ」
「なんで?ジャンヌ、もしかして妬いてる?」
「なっ……なんで私が妬くのよ!」
ジャンヌの声が急に大きくなった。
「あはは!ジャンヌ、顔真っ赤!」
「赤くなってないわ!」
「なってるなってる!ジークより赤い!」
「もう!あなたって子は!」
ジャンヌが聖旗を振り上げる。アストルフォがぴょんと飛びのく。
「あははは!逃げろ逃げろ!」
「待ちなさい!」
厨房の中を、二人がぐるぐると追いかけっこし始めた。
カウレスが深いため息をついた。
「……朝から元気だな、あいつら」
「はい。でも、楽しそうです」
「まあな。……ジーク、お前、あの二人に挟まれて大変じゃないか?」
「大変……ですか?」
「いや、自覚ないならいいんだ」
カウレスは何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。
やがて、ジャンヌとアストルフォの追いかけっこは、ケイローンの一声で終わった。
「——騒ぐのは結構だが、調理の邪魔にならない場所でやれ」
ケイローンは猪の肉を切り分けながら、静かに言った。
「……すみません」
「ごめんなさい」
二人は同時に謝った。
「謝る必要はない。仲良くするのはいいことだ。ただ、包丁や火の近くで走るのは危ない」
「……はい」
「はーい!」
ケイローンは穏やかな目で二人を見て、また肉の処理に戻った。
ジークは、そんなやりとりを黙って見ていた。
(みんな、ちゃんと謝れる)
(間違えたら、謝る。それが普通のことなんだ)
ジークには、その「普通」が新鮮だった。
「——それで、私の仕事は何かしら」
ジャンヌがカウレスに尋ねた。
「ああ、それがさ……」
カウレスが言いにくそうに頭をかいた。
「ダーニック様から、ジャンヌさんに特別な業務があるって話で」
「特別な業務?」
「うん。その……黒のセイバーの髪を編んでほしいって」
「……は?」
ジャンヌの動きが止まった。
「黒のセイバー。ジークフリート。あいつの髪を、ジャンヌさんに編んでほしいんだと」
「な、なぜ私がそんなことを……!?」
「俺に聞かれても困るよ。ダーニック様の命令なんだ」
「審判役に髪結いをさせるなんて、正気なのかしら!?」
「正気かどうかは知らないけど、命令は命令だよ」
「……もう、仕方ないわね」
ジャンヌは大きなため息をついた。
「聖杯大戦のルールに則り、審判役として中立を保つために……いえ、これのどこが中立なのかしら」
「まあまあ。そう言うなって」
カウレスが苦笑いしながら、厨房の奥を指さした。
そこには、黒のセイバー、ジークフリートが椅子に座っていた。
銀色の長い髪。深い緑色の瞳。黒い鎧に身を包んだ、寡黙な剣士。彼もまた、ダーニックの命令でこの奇妙な親睦会に参加しているのだ。
「……すまない。迷惑をかける」
ジークフリートが静かに頭を下げた。
「いえ、あなたのせいではないわ。ダーニックの命令がおかしいだけよ」
「そう言ってくれると助かる」
ジャンヌはジークフリートの後ろに立つと、銀色の長い髪に指を通した。
「……本当に、なぜ私がこんなことを」
「あなたが一番上手だからよ、ってダーニック様が言ってた」
「そんな理由!?」
「知らないよ。俺は伝言係じゃないんだから」
「……もう、わかったわ。やればいいんでしょう、やれば」
ジャンヌは諦めたように、ジークフリートの髪を丁寧に編み始めた。
ジークはその様子を、じっと見つめていた。
ジャンヌの指が、銀色の髪をすくい、絡め、編み込んでいく。その動きは、驚くほど繊細で、優しかった。さっきまで怒っていたのが嘘のように、真剣な表情で、一束一束を丁寧に編んでいく。
(すごい)
(あんなに細かい作業を、あんなに丁寧に)
ジークは目を奪われた。
ジャンヌの横顔。金色の髪が、肩からこぼれ落ちる。青い瞳が、ジークフリートの髪だけを見つめている。
胸の奥が、またざわつく。
(この感覚は……なんだろう)
(目が離せない)
(もっと見ていたい)
ジークは自分がジャンヌを凝視していることに気づいていなかった。
「……ジーク?」
突然名前を呼ばれて、ジークはびくりとした。
「え?あ、はい」
「そんなに見つめられると、ちょっとやりにくいのだけど」
「……すみません」
ジークは慌てて目を逸らした。顔が熱い。
「ジーク、また顔赤い!ほんとに大丈夫?」
「……大丈夫です」
「うそだー!真っ赤だよ!」
「ちょっと、アストルフォ、からかわないの」
「からかってないよ!本当に赤いんだもん!」
「もう……あなたも大概ね」
ジャンヌはため息をつきながらも、口元が少し緩んでいた。
ジークはその表情を見て、また胸の奥が温かくなるのを感じた。
(なんだろう。この人の近くにいると、変な感じがする)
(嫌な感じじゃない。でも、落ち着かない)
ジークは自分の感情に名前をつけられないまま、黙って床を見つめた。
午後になると、厨房は一気に賑やかになった。
黒のアーチャー、ケイローンの指導のもと、猪料理の仕上げが始まった。巨大な鍋の中では、猪肉と野菜がぐつぐつと煮込まれている。湯気が厨房中に立ち込め、食欲をそそる匂いが漂っていた。
「ジーク、玉ねぎの薄切りに挑戦してみるか」
ケイローンがジークに包丁を差し出した。
「……はい。やってみたいです」
ジークは包丁を受け取った。昨日、指を切ってしまった包丁。でも、今日はもう怖くない。
「焦らなくていい。ゆっくりでいいから、正確に切れ」
「はい」
ジークは玉ねぎをまな板に置き、包丁を当てた。
ゆっくり。ゆっくり。
昨日アストルフォに教えてもらった持ち方。指を丸めて、刃の背に当てる。
トン。
薄く切れた。
トン。トン。
二枚、三枚。
「すごいすごい!ジーク、上手くなってる!」
アストルフォが横から覗き込んで叫ぶ。
「まだ、昨日よりは」
「十分だよ!才能あるって!」
「……ありがとうございます」
ジークの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その時だった。
「ううっ……目が……目がぁ……」
カウレスが玉ねぎを切りながら、涙を流していた。
「カウレス、大丈夫?すっごい泣いてる!」
「だって、玉ねぎが……目に染みるんだよ……」
「あははは!カウレス、顔ぐしゃぐしゃ!」
「笑うなよ!俺だって好きで泣いてるんじゃない!」
「だっておかしいんだもん!」
アストルフォが腹を抱えて笑っている。
ジークはその様子を見て、なんだか胸の奥がむずむずするのを感じた。
(これが、笑い)
(みんな、楽しそうだ)
ジークも笑ってみようとした。
口角を上げる。目を細める。
「……ふ」
変な声が出た。
「え?今の何?」
アストルフォがジークの顔を覗き込む。
「……笑おうとしたんです」
「笑おうとした!?今の!?」
「はい。うまくできませんでした」
「あはははは!なにそれ!変な顔!すっごい変な顔!」
アストルフォがまた大笑いした。
「ジーク、笑うってそうじゃないよ!こう!えへへ!って感じ!」
アストルフォが満面の笑みを見せる。
「……こう、ですか」
ジークは真似してみた。
口角を上げる。歯を見せる。目を細める。
「ぶはっ!なにそれ!こわい!すっごいこわい!」
「ジーク、無理しなくていいのよ……」
ジャンヌも笑っていた。
「お前、笑顔が下手すぎるだろ……」
カウレスも涙を拭きながら笑っている。
厨房中が、笑い声に包まれた。
ジークはその笑い声の真ん中に立っていた。
(みんなが笑ってる)
(僕のせいで?)
(僕が変な顔をしたから?)
(……悪くない)
ジークの口元が、また少しだけ緩んだ。
今度は、自分でもわかった。
これは、笑いの形だ。
「……ジーク」
ジャンヌがジークの顔を覗き込んだ。
「はい」
「今、ちょっと笑えてたわよ」
「……そうですか?」
「ええ。ほんの少しだけど、ちゃんと笑えてた」
ジャンヌの青い瞳が、優しく細められた。
ジークの胸の奥が、また温かくなった。
(この人の言うことは、なぜか信じられる)
(僕は、笑えていたのか)
(この人にそう言われると、なんだか嬉しい)
「……ありがとうございます」
「え?何が?」
「教えてくれて。僕が笑えているって」
「……どういたしまして」
ジャンヌが微笑んだ。
その微笑みが、朝日のようにジークの心を照らした。
やがて、料理が完成した。
大広間には、大きなテーブルが置かれ、その上に料理が並べられていく。猪のシチュー。焼きたてのパン。湯気の立つスープ。そして、カウレスが涙を流しながら切った玉ねぎがたっぷり入ったサラダ。
「わー!すっごい美味しそう!」
アストルフォがテーブルの周りを飛び跳ねている。
「アストルフォ、落ち着け。料理が冷めるだろ」
「だって!今日は僕も頑張ったんだよ!味見したし!」
「味見って……お前、鍋焦がしただろ」
「え!?あれは焦げじゃないよ!香ばしさだよ!」
「いや、どう見ても焦げだっただろ」
「うー……だって、ちょっと目を離しただけなんだもん……」
「まあ、食えないことはないからいいけど」
「でしょでしょ!僕の香ばしさが最高の隠し味なんだよ!」
「隠し味ってレベルじゃないけどな……」
カウレスがまたため息をついた。
その時、車椅子の音が聞こえた。
「——みんな、お疲れさま」
フィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニアが大広間に入ってきた。可憐な印象の少女。両足が不自由で、車椅子での生活を送っている。黒のアーチャーのマスターであり、ユグドミレニア家の後継者とされる才媛だ。
「姉さん!もう来て大丈夫なのか?」
「ええ。今日は調子がいいの。それより、あなた、また玉ねぎで泣いたんでしょう?」
「……なんでわかったんだよ」
「目が赤いもの。ふふ」
フィオレがくすくすと笑った。
「それで、料理は完成したの?」
「ああ、なんとか。アストルフォが鍋を焦がした以外はな」
「もう!その話は終わったでしょ!」
「ふふ。アストルフォらしいわね」
「フィオレまで笑うの……?」
「ごめんなさい。でも、あなたが元気でよかった」
フィオレは優しく微笑んだ。
ジークはフィオレの車椅子を押して、テーブルの席まで案内した。
「ありがとう、ジーク」
「いえ。どういたしまして」
「あなた、昨日より包丁が上手になったんですってね。カウレスから聞いたわ」
「まだ、全然です。でも、少しずつ」
「少しずつでいいのよ。私も、魔術の勉強は少しずつだもの」
フィオレの言葉は、ジークの心にすっと入ってきた。
(少しずつでいい)
(僕は、少しずつでいいのか)
(戦うためだけの存在じゃなくても、いいのか)
ジークは胸の奥で、何かがほどけていくのを感じた。
やがて、全員が席についた。
黒のキャスター、アヴィケブロンは無言でスープを味わっている。黒のアーチャー、ケイローンは穏やかな目で料理を口に運んでいる。黒のバーサーカーは、無表情のままシチューを一口食べて、首を傾げた。
「……バーサーカー、味見してどうだ?」
黒のバーサーカーは、もう一口食べて、また首を傾げた。
「……わかんないか。まあ、不味くはないってことだろ」
「美味しいに決まってるよ!僕の香ばしさが入ってるんだから!」
「だからその香ばしさってのが焦げだって」
「ちがうもん!」
「ふふ。二人とも、食べながら喧嘩しないの」
フィオレが笑いながら仲裁する。
ジークはシチューを一口食べた。
温かい。
猪肉の旨味が口の中に広がる。玉ねぎの甘み。スパイスの香り。
(おいしい)
(昨日よりも、おいしい)
(みんなで作ったからだろうか)
ジークはもう一口食べた。
「……おいしいです」
「でしょ!でしょ!最高でしょ!」
「はい。最高です」
ジークの口元が、また少し緩んだ。
その様子を、ジャンヌが隣で見ていた。
「……ジーク、ちゃんと笑えるようになってきたわね」
「……そうですか?」
「ええ。今、ちゃんと笑ってたわよ」
「……ありがとうございます」
「またお礼?あなた、本当に真面目ね」
「……すみません」
「謝る必要もないわ。……ふふ」
ジャンヌがくすくすと笑った。
ジークは、その笑い声を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(この人の笑い声は、心地いい)
(もっと聞いていたい)
(……僕は、どうしてこんなことを思うんだろう)
答えは出ない。
でも、悪い気はしなかった。
昼食が終わると、一同はそれぞれの持ち場に戻っていった。
カウレスはフィオレの車椅子を押して、部屋へ。アストルフォは「ちょっと探検してくる!」と城のどこかへ走っていった。ケイローンは残った食材の整理。アヴィケブロンは錬金術鍋の片付け。黒のバーサーカーは、無言で厨房の隅に立っていた。
ジークは大広間の窓辺に立っていた。
外の景色を見ている。ルーマニアの山々が、夕日に染まり始めている。
「——ジーク」
振り返ると、ジャンヌが立っていた。
「一人で何をしているの?」
「景色を見ていました。……きれいだな、と思って」
「ええ。ルーマニアの山々は、本当に美しいわ」
ジャンヌがジークの隣に立った。
二人で、夕日を見る。
「……あなたは、人間の営みに興味があるのね」
「……人間の、営み」
「料理を作ったり、髪を編んだり、笑い合ったり。そういう、普通の生活に」
「……はい。興味があります。僕は、そういうことを何も知らないから」
「そう。……実は、私もなの」
「ジャンヌさんも?」
「私は、霊体化できないの。だから、食事も睡眠も必要で。普通のサーヴァントとは違うのよ」
「……そうなんですか」
「ええ。審判役なのに、人間と同じようにお腹が空くし、眠くもなる。……少し、情けないでしょう?」
「いいえ。情けなくなんてありません」
ジークは即答した。
「……ジーク?」
「僕は、ジャンヌさんが人間と同じようにご飯を食べて、眠ることを、素敵だと思います」
「素敵……?」
「はい。僕は、そういう普通のことが、うらやましいです」
ジャンヌは、少しだけ驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。
「……あなたは、本当に不思議な人ね」
「……そうでしょうか」
「ええ。ホムンクルスとして造られて、戦うためだけの存在だと言われて。それなのに、料理を覚えて、笑い方を練習して。……戦うことだけが、あなたの役目じゃないのかもしれないわね」
その言葉は、ジークの胸の奥に、静かに落ちていった。
(戦うことだけが、僕の役目じゃない)
(それなら、僕は何のために)
(何のために、生きているんだろう)
答えは、まだ見つからない。
でも、その言葉は、ジークの心に確かに残った。
「……ありがとうございます」
「またお礼?あなた、本当に真面目なのね」
「……すみません」
「ふふ。謝らなくていいわ」
ジャンヌが笑った。
ジークも、つられて少し笑った。
夕日が、二人を金色に染めていた。
その夜。
ジークは夢を見た。
暗い水槽。緑色の液体。管に繋がれた、自分と同じ顔。
何十人ものホムンクルスが、浮かんでいる。
そして、一人、また一人と、消えていく。
水槽から引き上げられ、運ばれ、二度と戻ってこない。
(待って)
(行かないで)
(置いていかないで)
声にならない声。動かない体。
ジークは水槽の中で、ただ見ていることしかできなかった。
同胞が、次々と消えていく。
自分も、いつか消える。
使い捨ての、消耗品。
「……っ」
ジークは飛び起きた。
全身に冷や汗をかいている。心臓が激しく脈打っている。呼吸が荒い。
「……夢、か」
部屋は暗かった。窓から月明かりが差し込んでいる。
ジークはベッドの上で、膝を抱えた。
(消えていく。みんな、消えていく)
(僕も、いつか)
恐怖が、足元から這い上がってくる。
その時、枕元に何かあることに気づいた。
小さな、木彫りの鳥。
昨晩と同じ場所に、同じように置かれている。
ジークは手を伸ばして、その鳥を握りしめた。
木の温もりが、手のひらに伝わる。
(誰が置いているんだろう)
(アストルフォ?それとも、別の誰か?)
わからない。
でも、この鳥を握っていると、不思議と心が落ち着く。
(明日も、厨房に行こう)
(みんなと、料理をしよう)
(笑う練習も、続けよう)
ジークは木彫りの鳥を胸に抱いて、もう一度目を閉じた。
窓の外では、ルーマニアの山々が、静かに月明かりに照らされていた。
城の地下深くでは、ダーニック・プレストーン・ユグドミレニアが、禁断の儀式の準備を進めていた。
魂の融合。複数の魂を一つに統合し、強大な力を得る禁術。
彼はその最終段階に入っていた。
地下室に満ちる、異様な魔力の気配。
城の廊下を歩いていたアストルフォが、ふと足を止めた。
「……なんか、寒くない?」
アストルフォは自分の肩を抱いた。
誰も、その言葉の意味を理解していなかった。
夜の闇が、トゥリファス城を静かに包み込んでいく。
その闇の奥で、何かが、ゆっくりと動き始めていた。Noveliaとは?
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