聖杯大戦、はじまりの日常
聖杯大戦の裏側で、今日も平和に料理が始まる――。
記憶を失い、番号だけを与えられたホムンクルスのジーク。地下の暗闇で目覚めた彼の前に現れたのは、黒のライダー・アストルフォだった。「今日からお前は俺の親友だ!」——根拠ゼロ、勢いだけのその宣言が、使い捨ての存在として造られた少年の運命を、静かに、そして騒がしく変えていく。
戦の前の奇妙な通達に従い、サーヴァントたちが厨房に集結。錬金術で超巨大鍋を生み出すアヴィケブロン、山で猪を仕留めてきたケイローン、無言で猪を解体するフランケンシュタイン。そして初めて包丁を握り、盛大に指を切るジーク。
「血が出るってことは、生きてるってことだよ!」
ドタバタに満ちた料理騒動の合間に、少年は初めて「名前」で呼ばれ、初めて「おいしい」を知り、初めて自分の名前を口にする。
これは、壮絶な聖杯大戦の幕が上がる直前——ほんの少しだけ、優しくて、少しだけ騒がしい、日常の始まりの物語。
聖杯大戦、はじまりの日常 - どん底と聖女の言葉と、もう一度立ち上がる理由
瓦礫の重さが、背中を押し潰していた。
呼吸のたびに、折れた肋骨が肺の内側を刺す。血の味が口の中に広がる。視界はぼやけ、炎の熱だけが肌を焼いていた。
ジークは、暗闇の中にいた。
いや、暗闇ではなかった。
目を開けると、そこは薄暗い水槽の中だった。
(……ここは)
知っている場所。生まれた場所。ユグドミレニアの地下魔術工房。無数のホムンクルスが、液体に満たされたガラスの筒の中で、ただ静かに浮かんでいた。
そのうちの一体が、ゆっくりとこちらを向いた。
顔はない。のっぺらぼう。けれど、その視線だけは確かにジークを捉えていた。
「どうして逃げたの」
声が、頭の中に直接響く。
「どうして、私たちを置いて逃げたの」
また別の一体が。
「助けて、って言ったのに」
「あなただけ、生きて」
「ずるい」
「ひとりで、ずるいよ」
無数の声が、四方八方から降り注ぐ。水槽の中の同胞たちが、一斉にジークを指差していた。
「違う……僕は……」
声が、出ない。
「逃げたのは、あなたでしょ」
「私たちは、ここから出られなかったのに」
「あなたは、外の世界を見たんでしょ」
「光を、見たんでしょ」
「ずるい。ずるい。ずるい」
違う。違うんだ。僕は、逃げたかったわけじゃない。ただ、怖かった。自我に目覚めて、自分が消耗品だって知って、ただ、怖くて——
「僕は……!」
「あなたのせいで、私たちは」
「あなたが逃げたから、私たちは」
「あなたが、殺したのよ」
——違う。
「違う!僕は、助けたかった!でも、どうすればいいか分からなくて……!」
叫んだ。声にならない声で、叫んだ。
水槽が、割れる。液体が溢れ出し、同胞たちが一斉に溶けていく。その姿は、あの日、地下で見た光景そのものだった。魔力供給源として使われ、次々と消えていった、同胞たち。
「私たちの無念、受け止めてよ」
最後の一体が、溶けながら言った。
「あなたが、生きて」
「あなたが、私たちの分まで」
「……生きて」
——ぱたり、と。
声が、消えた。
あたりは、静寂に包まれた。
ジークは、暗闇の中で、一人、立ち尽くしていた。
(僕は……)
(何も、できなかった)
(逃げて、生き延びて、それでも結局、何も守れなかった)
(アストルフォも、セイバーさんも、ジャンヌさんも、カウレスさんも、フィオレさんも)
(みんな、僕のせいで)
——その時。
「ジーク」
遠くから、声がした。
「ジーク、しっかりして」
「目を、開けて」
——はっ、と。
ジークは、目を開けた。
最初に見えたのは、赤い空だった。
いや、空が赤いのではない。燃え盛る炎が、夜空を焦がしていた。
「ジーク!」
顔を上げる。
そこには、金色の長い髪を乱したジャンヌがいた。白い装束は煤と血で汚れ、青い瞳は涙で濡れていた。彼女の手が、ジークの頬に触れる。
「……ジャンヌ、さん」
「よかった……目を覚ましたのね……」
ジャンヌが、ほっと息を吐く。
「ここは……」
ジークは、体を起こそうとした。
「動いちゃだめ!まだ、体が……」
「いえ、大丈夫です。それより、ここは」
周囲を見渡す。
そこは、トゥリファス城の中庭だった。
石畳は砕け、噴水は倒れ、木々は炎に包まれている。城の外壁は崩れ、空には黒い煙が立ち上っていた。
「ジーク!ジーク!」
声がした。
見ると、壁際に、アストルフォが倒れていた。
ピンク色の髪は血と埃で汚れ、左腕はあり得ない方向に曲がっている。それでも、彼は必死に、こちらに手を伸ばしていた。
「ジーク、無事……?よかったぁ……」
「アストルフォ!その腕……!」
「へへ……ちょっと、やられちゃった。でも、ジークが無事なら、それで……」
アストルフォの声が、弱々しい。
「セイバーさんは!?セイバーさんはどこに!?」
「……セイバーは、あっち」
ジャンヌが、指差した先。
銀色の髪の英雄が、血の海の中に倒れていた。
ジークフリート。黒のセイバー。
胸を深く抉られ、動かない。
「セイバーさん……!」
「まだ、息はあるわ。でも、かなり危険な状態……」
「そんな……!」
「姉さん、しっかり!掴まってて!」
声がして、振り返る。
カウレスが、車椅子の壊れたフィオレを背負っていた。彼の顔は煤で真っ黒になり、額から血を流している。それでも、彼は姉を背負ったまま、こちらに走ってきた。
「カウレスさん!フィオレさん!」
「ジーク……お前、無事だったか」
「ジーク、よかった……本当に、よかった……」
フィオレが、カウレスの背中で、涙を浮かべながら微笑んだ。
「姉さん、喋らないで。体力を温存して」
「……ええ。でも、これだけは言わせて。ジーク、あなたが無事で、本当によかった」
ジークは、何も言えなかった。
(無事?)
(僕が、無事?)
(違う。僕は、何も守れなかった)
「……僕のせいだ」
「え?」
「僕が、逃げたから。僕が、弱いから。僕が、何もできないから。みんなが、こんなことに……」
「何言ってるの!ジークのせいじゃないよ!」
「でも……!僕が、もっと早く気づいていれば。ダーニックさんの異変に、もっと早く気づいていれば……!」
「それは、俺たちも同じだ」
「ダーニックの魂の融合が失敗するなんて、誰も予想できなかった。お前だけが責任を感じる必要はない」
「でも……!セイバーさんは、僕を庇って……!アストルフォも、僕を助けようとして……!みんな、僕のせいで……!」
涙が、止まらなかった。
生まれて初めて、こんなに泣いた。
自分が、情けなかった。
守りたいと願いながら、何一つ守れなかった。
「僕は……僕は、何のために生きてるんですか……」
「ジーク……」
ジャンヌが、そっとジークの手を握った。
「ジーク、あなたは、料理を作りたいと思った」
「……え?」
「玉ねぎを切って、指を切って、それでも、みんなで食べる料理を作りたいと思った。それは、誰かに命令されたからじゃない。あなたが、自分で決めたことでしょう」
「でも……そんなこと、何の意味も……」
「意味は、あるわ」
ジャンヌの声が、強くなった。
「あなたは、逃げた。それは事実よ。でも、あなたは、逃げたことを後悔して、戻ってきた。同胞を助けたいと思って、この城に帰ってきた。それも、あなたが自分で決めたことでしょう」
「……でも、結局、誰も助けられなかった」
「まだ、終わってないわ」
「……え?」
「ダーニックは、まだ生きている。あの結界も、いつまでもつか分からない。それでも、あなたが立ち上がらなければ、本当に誰も守れないまま終わるのよ」
——その時。
ドォン!
中庭の外れで、爆発音がした。
「くっ……!」
ジャンヌが、顔を歪める。
彼女の背後に、聖旗が立っていた。
白い旗が、淡い光を放ち、中庭を包むように結界を張っている。その結界の外では、黒い影が、何度も何度も、光の壁を叩いていた。
「グフフ……結界……結界……邪魔だ……」
吸血鬼と化したダーニック。
彼の爪が、結界を引き裂こうとするたびに、白い旗にひびが入る。
「ジャンヌさん!その旗は……」
「私の宝具、『我が神はここにありて』。聖なる結界を張って、あれを食い止めているの。でも……」
ピシッ。
結界に、大きなひびが入った。
「……もう、限界が近いわ」
ジャンヌの顔に、疲労の色が濃く浮かぶ。彼女は霊体化できない。食事も睡眠も必要だ。そんな彼女が、満身創痍で結界を維持している。
「ジャンヌさん、もう無理です!逃げてください!」
「逃げるわけにはいかないわ!」
「私は、聖杯大戦のルーラー。審判役として、この暴走を止める義務がある。それに、私が逃げたら、この結界は消える。そうなれば、みんなが……」
「でも、このままじゃ、ジャンヌさんが……!」
「……ジーク」
ジャンヌが、振り返って、微笑んだ。
「あなたは、まだ立ち上がれる。なぜなら、あなたは、自分で決めたのでしょう? 料理を作ることも、同胞を助けたいと思ったことも、全部、あなたが自分で決めたこと。なら、今度も、自分で決めなさい。何のために、立ち上がるのかを」
ジークは、息を呑んだ。
(何のために……)
(立ち上がるのか)
「グフフ……結界……壊す……血……もっと血を……」
ダーニックの声が、近づく。
結界のひびが、さらに広がった。
「ジーク、逃げて……!僕はもう、動けないから……!」
「俺が、時間を稼ぐ。お前は、姉さんを連れて逃げろ」
「カウレス!何を言ってるの!あなたまで……!」
「姉さんを守るためなら、俺は……」
「ダメです!」
ジークは、叫んだ。
「もう、誰も、犠牲になんてさせない!僕が守る!みんなで、生きて、ここを出るんだ!」
ジークは、左手を見た。
瓦礫に挟まれ、折れたはずの左腕。
その手の甲に、赤い紋様が浮かんでいた。
——竜告令呪。
(これを使えば、セイバーさんの力を借りられる)
(でも、3分間だけ。それ以上は、僕の体が……)
恐怖が、ないわけではなかった。
でも、それ以上に、強い気持ちがあった。
(僕は、守りたい)
(僕が、守りたいものを、守る)
「ジャンヌさん」
「……ジーク?」
「僕は、戦います。この力で、ダーニックさんを止めます。だから、それまで、みんなを守ってください」
「何を言ってるの!その体で戦うなんて、無茶よ!」
「無茶でも、やるんです。僕は、もう、逃げません。逃げて、後悔するのは、もう、たくさんです」
ジークの声は、震えていなかった。
「ジーク……」
「ジーク!ダメだよ!そんなの、死んじゃうよ!」
「アストルフォ、大丈夫です。僕は、死にません。僕は、みんなと一緒に、生きて、ここを出ます」
「でも……!」
「アストルフォが、僕に教えてくれたでしょう。血が出るなら、生きてる証拠だって。僕は、まだ、生きてる。だから、戦える」
アストルフォは、泣きながら、何度も頷いた。
「……分かった。分かったよ、ジーク。でも、約束して。絶対に、死なないって」
「約束します。僕は、死にません。みんなで、生きて、また、料理を作りましょう」
「うん……!うん……!」
ジークは、立ち上がった。
折れた肋骨が、悲鳴を上げる。
左腕は、まだ動かない。
それでも、ジークは、立った。
「カウレスさん、フィオレさんを、お願いします」
「……ああ。任せろ」
「ジーク、無理だけは、しないでね」
「……はい」
ジークは、結界の外に向かって、歩き出した。
一歩。
また、一歩。
体が痛い。
でも、心は、不思議と軽かった。
(僕は、もう、迷わない)
(僕が、守る)
(みんなで、生きる)
「ジーク」
背後から、声がした。
「……勝って、戻ってきなさい。あなたが作った料理、まだ、食べてないんだから」
ジークは、振り返らなかった。
「……はい。必ず」
——結界の外へ。
ジークの左手が、赤く、燃え始めた。
---
トゥリファス城から東へ三十キロ。
赤の陣営の野営地。
「……始まりましたね」
シロウ・コトミネは、遠くの空を眺めていた。
トゥリファス城の方向から、赤い炎が立ち上っている。
「ああ、なんと美しい!燃え盛る城!血に染まる中庭!これこそ、悲劇の一幕!観客の涙を誘う、最高の舞台です!」
赤のキャスター、シェイクスピアが、両手を広げて歓喜の声を上げた。
「あなたは相変わらずですね」
「当然!私は物語のためなら、この世界が燃えようと歓喜しますとも!ところで、あの聖女はどうなりますかな?」
「ルーラーは、あの混乱に巻き込まれている。審判役が、どちらの陣営にも肩入れし、混乱を拡大させた。そう報告すれば、彼女の資格を問うことができます」
「ああ、なんて冷徹!なんて狡猾!あなたという男は、本当に、最高の悪役だ!」
「私は、悪役ではありませんよ。私は、人類を救うために、必要なことをしているだけです」
シロウの目は、炎を映しながら、氷のように冷たかった。
「赤の陣営のサーヴァントたちに、ルーラーの監視を強めるよう命じてください。それと、黒の陣営の動向も、引き続き注視を」
「おやおや、私に命令ですか?まあ、いいでしょう。あなたの書く脚本、この私が舞台にしてみせますとも!」
シェイクスピアは、大げさに一礼した。
シロウは、再び、遠くの炎を見つめた。
「ルーラー……あなたが、聖杯大戦の障害になるのなら、排除するまでです」
夜風が、彼の黒い髪を揺らした。
---
ジークの左手が、光を放つ。
赤い紋様が、脈打つように輝き、灼熱の痛みが腕を走る。
「ぐっ……!」
痛い。
熱い。
でも、この痛みこそが、生きている証拠だ。
「……ほう」
結界の外で、吸血鬼が嗤った。
「まだ、立てるのか。壊れた人形が、無様だな」
「……僕は、人形じゃない」
「違うのか?お前は、消耗品として造られた。戦うためだけに生まれた、使い捨ての道具だ。道具が、道具の分際で、主人に逆らうのか」
「僕は、僕の意志で、ここに立っています。あなたに、それを否定する権利はない」
「笑わせる!意志?ホムンクルスに、意志などあるものか!お前は、ただの魔力供給源だ!役目を終えた道具は、壊れるしかないんだよ!」
ダーニックが、爪を振り上げた。
「死ね、人形」
爪が、空を裂く。
——その瞬間。
ジークの左手が、爆発的な光を放った。
「僕が守る。みんなで、生きる。そのために、僕は——」
光が、ジークの体を包み込む。
銀色の粒子が、渦を巻き、ジークの全身を覆っていく。
「な、なんだ!?その力は……!?」
ジークの体が、変化していく。
銀色の髪。
鋼の剣。
英雄の力。
「——戦う」
光が、弾けた。
そこに立っていたのは、もはや、か弱いホムンクルスではなかった。
銀色の髪を炎の熱風に揺らしながら、その英雄は、剣を構えていた。
「お、お前は……!ジークフリート……!?」
「違う。僕は、ジークだ。僕の名前は、ジーク。僕が守る。みんなで、生きる。あなたを倒して、必ず」
ジークの声は、静かだった。
けれど、その瞳は、燃えていた。
朝日のような、まっすぐな光を宿して。
——城は、燃え続けていた。
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