忘却の花が囁く
自然魔法が社会全体を支える大陸ヴェルダンシアで、十七歳の少女ミラは常に人間よりも植物に囲まれていることが心地よかった。志望植物学者として、失われた珍しい草花を記録し、時間の彼方に消えた種を発見することを夢見ていた。しかし、その静かな日々は一つの森との出会いで一変する。ソーンウッド——周辺の村人たちから呪いがあると囁かれている禁忌の森だ。
科学的好奇心と、説明のつかない不思議な引力に駆られ、ミラは警告石を越えて森の奥へ進む。そこで彼女が発見したのは、時間に取り残された隠された空き地。その中心に咲いていたのは、ソウルハート・ブロッサム——成仏できない魂の断片を宿す伝説の花だった。ミラが震える手で花弁に触れた瞬間、魔力が爆発し、一人の青年が現れた。キーラン、十八歳。妖しく美しく、心に深い傷を抱える彼は、その森の守護者として縛り付けられていたのだ——理由さえも本人が覚えていない。
ミラとキーランの出会いは、ぎこちなく、そして電撃的だった。キーランは優しく魅力的だが、断片的な記憶と呪いは彼を危険な存在にしていた。しかしミラの目には、脅威ではなく一人の人間が映り、自分と同じくらい孤独な者が見え
忘却の花が囁く - 根の声、石の向こう
葉脈は嘘をつかない。
それだけは確かだった。
緑翼学府——フィロメラ共和国の首都カレイド・ヴェールの最上段に構えるこの国立の植物学校——の食堂は、昼をとうに過ぎた時刻でもまだ騒がしかった。石造りの壁を這う魔力蔦が橙色の光を静かに放ち、高い天井から吊るされたガラス球の中で発光苔がゆらゆらと息をしている。照明のためだけに生かされた植物たち——Miraはそれをいつも少し気の毒に思いながら、今日もその光の下で一人、標本ノートを広げていた。
「じゃあ、俺が土壌分析を担当して、ケリスが採取記録ね」
「それだと二人一組の班が三つ作れる。発表は来月の第二週だっけ?」
「そう。ドーラ先生が組み替え禁止って言ってたから、今日中に決めないと」
隣の机からそういった声が聞こえてくる。同期の三年生が四人、班分けの相談をしている。Miraは視線を上げ、その輪を横目で一瞬だけとらえてから、またページへ目を落とした。
タイミングは三回あった。
最初は声を掛けようとして、誰かがちょうど立ち上がって別の机へ行ってしまった。次は班の話が盛り上がり始めて、割り込む隙間が見えなかった。三回目は——正直なところ、理由がなかった。ただ、あの輪に入ることで何かが乱れるような気がした。
Miraはペンを走らせる。ブラムリッジ村の裏山で先週採取した、名前のわからない蔦植物の葉脈図だ。主脈から細かく枝分かれする二次脈の角度が、既知の蔦属とは微妙に違う。三属の特徴が混在しているように見える。こういう謎に向き合っている間だけ、自分の中の何かが正確に動いている気がする。
(植物は話しかけなくても答えてくれる)
そう思いながら、Miraは緑がかった白いリネンのブラウスの袖を少し折り上げた。左手首のあたり——透けるような蔦模様の薄い紋様がそこに浮かびあがっている。生まれた頃から消えない、これも名前のわからない何かだ。緑翼学府の教員に見せたことは一度もない。なんとなく、そうしてはいけない気がした。
胸元まである漆黒のショートボブが頬にかかる。Miraは片手でそれを耳にかけてから、スケッチの角度を変えた。翡翠色の瞳が、葉脈の分岐点を正確にとらえていく。細身だがしなやかな体が前傾みになる。茶色の革製ベストのポケットから予備のペンが転がり落ちて、床の上を小さく跳ねた。
「あっ」
Miraは席を立ち、ペンを拾った。立ち上がった拍子に隣の机の子と目が合う。向こうが少し笑いかける。Miraも反射的に口元を動かして、すぐにまた標本ノートへ視線を戻した。
(愛想がないとまた思われたかもしれない)
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎって、しかしページの葉脈図がそれをすうっとかき消す。この三叉の分岐——ここが面白い。既存の分類では説明がつかない。
学府の鐘が四回鳴る。
帰りの時刻だった。
---
ブラムリッジ村の夕暮れは早い。
カレイド・ヴェールから樹液機関——植物から採取した樹液を動力源とする蒸気駆動の機関装置——を積んだ乗合馬車で北東へ揺られること二時間弱、村の入り口に続く細い坂道を下ると、石畳の市場通りに出る。人口三百二十人ほどの小さな村にしては活気のある場所で、夕方になると農作業を終えた村人たちが顔を出し、たわいない話をしながら必要なものを買っていく。
Miraはその中を通り抜けていた。
黒のスラックスの裾に泥がはねたのを見て、帰ったら洗わないとと思う。標本ノートを抱えた腕に力が入る。今日の発見——三属混在の蔦植物——を早く自宅の標本室に持ち帰って、過去の記録と比較したかった。
「お嬢さん、ちょっといいかね」
声を掛けてきたのは、野菜の並んだ台の向こうに立つ老人だった。ガラント爺さんだ。Miraが子供の頃からこの場所で根菜類を売っている人で、日焼けで革のように固くなった顔に深い皺が刻まれている。
「はい」
「お前さんは学府の子じゃろ。植物に詳しいんだったな」
老人は台の上の野菜を一つ持ち上げた。カブだ。しかし——変だ。茎が黒ずんでいる。それも部分的にではなく、維管束に沿って。
Miraはノートを小脇に抱えなおして、近づいた。
「これ、隣の集落から来た人に分けてもらったんじゃ。同じ畑のカブが全部こうなってるって話でな」
「維管束が壊死してる」
Miraは思わず呟いた。指先でそっと茎の表面を触れる。水分が著しく失われている。ボタニカ——植物に宿る魔力を扱う体系であり、フィロメラ共和国の人々が日常的に用いる魔法の一形式——の影響を受けた植物の場合、樹脈——体内の魔力の通り道——に異常が起きると、このような状態になることがある。しかし……。
「原因は?」
「決まっておる」
ガラント爺さんはそう言って、ゆっくりと北東の方角を指差した。そちらには夕暮れに染まった森の黒い輪郭が見える。あの森の名前を、Miraはもちろん知っている。
Thornwood——ソーンウッド。禁忌の森。約三百年前、フィロメラ共和国の当局が全面立ち入り禁止とした場所だ。封鎖の経緯を記した公式文書は存在するが、肝心の「なぜ封鎖したのか」という真の理由だけが、どの記録からもきれいに削り取られている。森の周囲には警告石——忌避魔法を刻み込んだ石柱で、人を遠ざけるための結界装置——が約百二十基並んでいる。違反すれば禁固五年。「森に入った者は還らない」という伝承だけが村人の口から口へと受け継がれ、封鎖の真相は三百年ものあいだ謎のままだ。
「Thornwoodが怒っておる」
老人は確信を持った声でそう言った。周囲の村人が二、三人、黙って頷く。
Miraは唇を一度動かしてから、止めた。
(怒る、か)
森が怒る。植物が感情を持って農作物を枯らす。そういう説明が、Miraには受け入れがたかった。維管束の壊死には原因がある。土壌のミネラルバランスか、病原菌か、あるいは魔力植物特有の何らかの——
「科学的な根拠を探したほうが」
言いかけると、老人がMiraをまっすぐに見た。
「お前さんの標本帳には書いてない真実もある」
低く、静かな声だった。怒ってはいない。ただ——確信している声だ。
Miraは何も言えなかった。
老人は野菜の台に向き直り、別の客の相手を始めた。会話が終わった、ということだ。Miraは会釈をして、市場通りを歩き続けた。
石畳に自分の靴音が響く。
(標本帳には書いてない真実)
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
---
夜の十一時を過ぎていた。
ブラムリッジ村の外れ、Miraの自宅の裏庭にある小さな私設標本室——木造の作業小屋を改造した場所——で、Miraは緑翼学府の標本記録の複写をめくっていた。百八十九年の歴史を持つ学府が蓄積した植物データは膨大で、Miraが持ち出せるのはそのごく一部だ。しかしその一部の中にも、Thornwood周辺の生態系への言及がある。
「……維管束の異常性壊死。複数農村への連鎖的波及。観測年数、十七年」
Miraは一人で呟いた。
十七年前から記録がある。しかし原因についての記述は、どこも「不明」で終わっている。不明、不明、不明。この言葉が繰り返される時、科学者には二つの選択肢がある。諦めるか、調べるかだ。
Miraは標本室の壁に立てかけた発光植物の小瓶を取った。発光苔を密封したもので、懐中灯の代わりになる。緑翼学府三年生のMiraにとって、この道具はごく日常的なものだ。フィロメラの人口の六割がボタニカを日常的に使える。照明程度であれば、植物に触れ、体内の樹脈を三秒共鳴させれば発動する。もっとも、Miraが大規模な術を使えるわけではない。発光苔を活性化させる程度だ。
コートを羽織って、小屋の扉を開ける。
夜の外気が頬に当たった。
(……行くつもりか、私は)
北東の方角には、真っ暗な森の輪郭がある。月明かりの下で、木々の黒いシルエットが空に縁取られている。
Thornwood。
禁忌の森。禁固五年。
標本帳には書いてない真実。
Miraは一度だけ深呼吸して、歩き始めた。
---
警告石の列は、森の手前でしっかりと存在感を主張していた。
高さ二メートルほどの石柱が、等間隔に並んでいる。刻まれた古代文字は読み取れないが——緑翼学府でも解読は困難とされている——それらが微弱な忌避魔法を放っていることは感じ取れる。足の裏から、かすかに「近づくな」という信号が這い上がってくる。本能的な忌避感だ。
Miraは石柱の手前で立ち止まった。
五分間、そこに立っていた。
内側で何かが交渉している。足は「帰れ」と言い、頭は「でも維管束の壊死の原因を調べなければ近隣農村の被害が続く」と言い返す。足は「禁固五年」と言い、頭は「夜中だから誰も見ていない」と反論する。足は「いや本質的に違法は違法」と言い——頭が、そこで一つの論理を出してくる。
「調査することで被害を止められるなら、社会的に意義のある行為だ」
Miraは一人でそう声に出してみた。
我ながら、かなり苦しい。
でも頭が勝った。
石柱と石柱の間を、Miraはそっと通り抜けた。
足が踏み越えた瞬間、忌避感がすうっと消えた。意外なほど呆気なかった。Miraは一歩、また一歩と進んで、それから立ち止まり、深呼吸した。さあ恐怖を感じるぞと身構えた。
……感じた。確かに感じた。でも。
「ちょっと待って、これ」
Miraは足元を見た。苔だ。発光している苔が、森の地面を覆っている。緑でも青でも黄でもない、微妙な色の光だ。脈打つような間隔で明滅している——これは間欠発光型か、それとも単に外部刺激への応答型か。触れてみれば分かるかもしれない。Miraはしゃがみ込んで、標本ノートとペンを取り出した。
(私、今、禁忌の森に侵入したばかりじゃなかった?)
数秒後に自分でそのことに気づいて、一人で苦笑した。
危機感より分類問題が先に来る。これは性分の問題なのだと、長い付き合いで分かっている。
---
Thornwoodの外縁部は、想像していたより明るかった。
発光苔が地面を覆い、頭上の巨木の幹にも薄く光る菌類が帯のように走っている。Miraの小瓶の光を合わせると、スケッチができる程度の視界が確保できた。
最初の一ページ目が、十分もたたないうちに埋まった。
苔は三属の特徴を混在させている——それは学府でも昼間見た名前不明の蔦植物と似た傾向だ。意図的に交配されたとは考えにくい。自然界でこれほど複雑な混合が起きるとすれば、長期にわたる特殊な環境下か、あるいは——魔力的な干渉か。
花があった。
岩の割れ目から、小さな白い花が咲いている。今は秋の終わりだ。この種は夏に咲くはずの花だ。気温への応答を完全に無視している。Miraはその花の前でしゃがみ込み、ペンを走らせながら考え始めた。
(もしこの森の内部で、ボタニカの流れが——魔力の流れが——何らかの形で乱れているとしたら?)
植物の樹脈は魔力の通り道だ。フィロメラ全土の植物は、大地を走る魔力の流れと繋がっている。その流れが乱れれば、生態系に異常が出る。Thornwoodの内部の異常が、地中を通じて外部の農地まで連鎖していると仮定すれば——維管束の壊死が複数の農村で同時多発的に起きていることの説明がつく。
Miraはスケッチを続けた。
白い花の花弁の形状、雄しべの配置、葉の表面構造。データを集める。データを集めれば、やがて答えが出る。そう信じているから、科学は面白い。
ページが三枚目に入った頃、Miraは気づいた。
ここに来た当初にあった「怖い」という感覚が、完全に消えている。それはなぜかと考えて——要するに、面白い方が怖いより強かっただけだ、という結論に至った。これも性分の問題だ。
(でも、本当は)
Miraはペンを止めた。
(この枯死被害が続くなら、ブラムリッジ村も無関係でいられない。来年の蛍花祭の頃には、村の農地にまで広がるかもしれない。ガラント爺さんが怒るとか怒らないとかじゃなく、実際に生活が脅かされる)
最初に踏み出した動機は、純粋な知的好奇心だった。
しかし今は、それだけじゃない気がしていた。
---
スケッチに没頭していたMiraの集中が、突然、断ち切られた。
音ではなかった。
振動——と呼ぶのが一番近い。空気自体が揺れている。リズムがある。生物の呼吸に似た、規則正しい間隔。Miraはペンを止めて、顔を上げた。
森の奥の方向だ。
(樹脈共鳴?)
大型の植物が魔力を放出する際に、周囲の空気に共鳴が生じることがある。理論上あり得る現象だ。Miraはそう解釈しようとした。
……しようとした。
しかしその振動には、なぜか、輪郭があった。言語的な、構造を持つ、何かの。それは名前を呼ぶような形をしていた——正確には、Miraという名前の形をした振動だった。
(そんなわけがない)
理性がすぐに否定する。植物が名前を知るわけがない。樹脈共鳴が固有名詞の形をとるわけがない。これは過度の集中による一種の感覚過敏だ。暗い森の中で長時間一人でいれば、こういった錯覚は起きうる。
でも。
胸の内側が、その振動に答えようとしていた。
論理より一瞬早く、体が応じていた。左手首の蔦模様の紋様が、ほんのわずかに熱を持った——気がした。Miraはとっさにその手首を右手で押さえた。
静かだった。
風が木々の間を通り抜け、発光苔が揺れる。月明かりが葉の隙間から細く差し込む。Miraは立ち上がっていた。いつの間にか立ち上がっていた。スケッチブックを胸に抱え、森の奥を見つめている。
(行くべきじゃない)
そう思う。外縁部でも十分な発見があった。今日はここで引き返すべきだ。データを持ち帰って、緑翼学府の標本記録と照合して、次のステップを考える。それが正しい手順だ。
踵を返した。
その瞬間、声が来た。
---
声、と呼んでいいのかどうかわからない。
人の言語の輪郭を持っていた。でも人間の声帯が作れる音ではなかった。ひとつの音の中に、複数の音が重なっていた——倍音だ。弦楽器が倍音を含むように、その声は複数の周波数が同時に鳴っている。深く、透き通っていて、どこか遠いところから届いていた。
一語だけ。
Miraの耳に、一語だけ触れた。
意味がわからなかった。音は確かに届いたのに、それが何語なのか、何を意味するのか、判断する前に消えていた。
Miraは動けなかった。
スケッチブックを抱えたまま、ただ立っていた。心臓の鼓動を感じる。速い。でも怖いから速いのか、別の何かのせいで速いのか、自分で判断がつかなかった。
(……Miraという名を知る存在が、森の奥にいる)
理性がその命題を、恐る恐る検討し始める。
それが何か。幻聴ではないとすれば。樹脈共鳴の説明では足りないとすれば。
胸の奥で何かが静かに動いていた。それを適切な言葉で表現しようとして——できなかった。植物学の語彙には、この感覚に当てはまるものがない。分類できない。
初めてだ、とMiraは思った。
科学の言葉が追いつかない何かに、初めて直面している。
---
帰り道は、行きより長く感じた。
警告石の列を抜けて、草地に出て、村の灯りが見えてくる頃には、空の端が少しだけ明るくなり始めていた。もう夜明けが近い。Miraは自分がどれだけの時間を森の中にいたのか、はっきりとは把握できなかった。
標本室に戻って、椅子に座る。スケッチブックを机の上に置く。三枚のページが、今夜の記録だ。未知の苔、季節外れの花、葉脈の異常な分岐。
そして一語だけの、声。
(明日、学府の記録室に入れるよう申請する。Thornwoodに関する文書を全て当たる。三百年前の封鎖令の前後の記録も。植物学的なデータだけじゃなく、歴史的な記録も)
そう決める。
それと同時に、もう一度あの場所に行くという気持ちも、確かにあった。その二つは矛盾している。記録を調べてから行くべきか、先に行くべきか——どちらも捨てられないまま、両方を胸の中に抱えている。
罪悪感がある。違法行為をしたこと。
好奇心がある。あの生態系の謎について。
そして、名前を知られているという奇妙な感覚——それだけが他の二つと種類が違った。Miraが理解できる感情の語彙の外側にある何かで、名前が思い当たらない。
Miraはスケッチブックをそっと手のひらで押さえた。
窓の外で、鳥が一羽、鳴いた。夜明けを告げる声だ。発光苔の明かりが、ゆっくりと薄れていく。朝の光が少しずつ標本室に差し込んでくる。乾燥した植物の匂いと、ノートの紙の匂い。慣れ親しんだ場所の、慣れ親しんだ匂い。
でも今日、この場所から見える北東の方角には、もう少しだけ違う意味がある。
(標本帳には書いてない真実もある)
ガラント爺さんの言葉が、また頭の中で鳴った。
Miraは左手首の蔦模様をそっと見た。いつも通り、薄く浮かんでいる。
答えが欲しい、と思った。この紋様の意味も、森の声の意味も、枯死が続く理由も。
科学で説明できるものと、できないものが、どちらも同じ森の中にある気がした。そしてどちらも、等しく本当のことである気がした。
それが——初めて、確かにそう感じた瞬間だった。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。