忘却の花が囁く
自然魔法が社会全体を支える大陸ヴェルダンシアで、十七歳の少女ミラは常に人間よりも植物に囲まれていることが心地よかった。志望植物学者として、失われた珍しい草花を記録し、時間の彼方に消えた種を発見することを夢見ていた。しかし、その静かな日々は一つの森との出会いで一変する。ソーンウッド——周辺の村人たちから呪いがあると囁かれている禁忌の森だ。
科学的好奇心と、説明のつかない不思議な引力に駆られ、ミラは警告石を越えて森の奥へ進む。そこで彼女が発見したのは、時間に取り残された隠された空き地。その中心に咲いていたのは、ソウルハート・ブロッサム——成仏できない魂の断片を宿す伝説の花だった。ミラが震える手で花弁に触れた瞬間、魔力が爆発し、一人の青年が現れた。キーラン、十八歳。妖しく美しく、心に深い傷を抱える彼は、その森の守護者として縛り付けられていたのだ——理由さえも本人が覚えていない。
ミラとキーランの出会いは、ぎこちなく、そして電撃的だった。キーランは優しく魅力的だが、断片的な記憶と呪いは彼を危険な存在にしていた。しかしミラの目には、脅威ではなく一人の人間が映り、自分と同じくらい孤独な者が見え
忘却の花が囁く - 君が消えるたびに、数える
Miraがランプを消したのは夜明けの少し前だった。
テーブルの上には、三枚のノートが広げられたままになっている。一枚目は刈り手——Verdant Syndicateが抱える武装採取部隊——の装備記録。二枚目はThornwood内の魔力消費データ。三枚目は、その二つを重ね合わせた照合表だ。
計算自体は二時間で終わった。
Syndicateはソウルハート・グレイドの座標を、もう五十メートル以内まで絞り込んでいる。
残りの三時間は、その事実を受け入れるのに使った。
Miraは鉛筆を置いた。窓の外が、少しずつ明るくなっている。北東の方角。Thornwoodが、朝靄の中に黒く浮かんでいた。
Kieranを一人で放置できない。それだけだ。それだけの話だった——少なくとも、Miraはそう自分に言い聞かせた。
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ティンカーベル工房の裏口を叩いたのは、夜明けから一時間後のことだ。
「来ると思ってました!」
扉が開くより先に声がした。銀色のくしゃくしゃ頭が飛び出してきて、Miraの顔を見てニカッと笑う。明るい水色の瞳が、ランプの光よりも元気そうに輝いていた。左耳の小さな機械仕掛けのイヤーカフが、動くたびにカチカチと音を立てている。
「なんで分かったんですか」
「Syndicateのデータを徹夜で計算したら、絶対そういう顔になるから」
「……そういう顔って、どういう顔ですか」
「寝てないけど諦めてない顔。あと、今から森に行く顔」
Miraは返す言葉を選ぶのをやめた。
Rileyはすでに外套を着込んでいて、背中に大きな道具入れを担いでいた。その中から、筒状の機械を取り出して得意げに掲げた。
「これ、昨日の夜に作ったやつです。刈り手の探知器が発信してる周波数を逆算して、同じ波形を別方向に飛ばす——要するに、撹乱装置。向こうの探知器がどこにあるのか分からなくなる」
「原理は理解できます。精度は?」
「設計上は完璧です」
「設計上、という言葉が少し心配です」
「動かしてみないと分からないことってあるじゃないですか。科学的に」
「それは科学ではなく、楽観です」
でも歩き出したのはMiraの方が先だった。
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Thornwoodの外縁に着いたのは、朝の早い時間だ。
警告石の列——約三百年前に設置された、古代文字を刻んだ高さ二メートルの石柱——が、朝霧の中に等間隔で並んでいる。石の間を抜ける瞬間、首の後ろに走るあの感触。忌避魔法の残滓だ。もう怖くはない。
Rileyが撹乱装置の電源を入れた。カチッ、とスイッチが入る音。小さな針が振れ、緑のランプが点灯した。
「完璧。正常起動。あとはグレイドの近くに行って——」
二人は発光苔のルートを辿って、巨木の間を進んだ。地表に棘だらけの蔦が這っている。中層域に入ると空気が湿って重くなった。どこかでトゲネズミが走り去る気配がする。
グレイドまで、あと二十メートル。
Rileyの手の中で、撹乱装置が変な音を立て始めた。
「……あれ」
ブゥゥゥン、という低い共鳴音。針が振り切れた。緑のランプが赤に変わった。
「何が起きていますか」
「Soulheart Blossomの魔力と干渉してる。設計段階でそこまで想定して——」
光が、爆発した。
グレイドの方向から、白い光柱が空に向かって一瞬だけ伸びた。それは三秒も続かなかった。でも森の上を切り裂いて、確実に、広い範囲に向かって発光した。
「……設計上は完璧だったんですけど」
「辞書で完璧の定義を引き直してください」
笑いがこみ上げかけた。でも来なかった。
Miraの耳に、別の音が届いたから。
枝を踏む、複数の足音。等間隔で、訓練された動きで。グレイドの周囲、少なくとも四方向から。
Rileyが固まった。Miraも固まった。
「刈り手。四人」
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木々の間から、男たちが姿を見せた。
黒い外套、格子底の軍用ブーツ。腰に短剣、肩に採取用のワイヤーフック。刈り手——Syndicateの武装採取部隊——の標準装備だ。Miraはそれを一瞬で確認した。リーダーらしき男が、口元だけで笑っている。
その瞬間。
グレイドの中心から、別の気配が来た。
Kieranだ。
地面が揺れた。
太根が土を割って浮き上がった。棘蔦が壁のように立ち上がり、男たちの退路を塞ぐ。Miraの足元で発光苔が一斉に輝き、グレイドの空気が変わった。藍色の長髪が風で舞い、Kieranが地面から生えた根の上に立っている。左右で違う瞳の色——右の琥珀色と左の銀色——が、怒りとは少し違う種類の光で輝いていた。
「ここから先は通さない」
低くて静かな声だった。叫ぶよりずっと怖い種類の声だ。
刈り手たちが後退し始めた。根が追った。棘蔦が絡んだ。数秒の攻防の後、四人は踵を返して森の奥へ消えた。
Rileyが長く息を吐いた。
「……助かった」
Miraは動けなかった。
Kieranを見ていた。
彼の輪郭が、薄れていた。
完全に消えるのではない。でも、右腕の端が、光に透けるガラスのようになっている。胸の蔦紋様の光が、一瞬で半分以下に落ちた。根を操るたびに、棘蔦を動かすたびに、彼の実体が少しずつ薄くなっていく。
前に見たのは断片だった。今回は、連続した消滅の過程を、全部見ている。
Miraは心拍数を数えようとした。科学者のやり方で、感情を整理するために。
でも自分の声が震えていることに気づいて、止めた。
Kieranが根を引いた。棘蔦が土に戻った。彼が息を吐く——その息が、少しだけ薄い。輪郭が戻ってくる。ゆっくりと、ゆっくりと。
実体が戻りきった頃、Miraはグレイドの土に片膝をついて、Kieranの顔を下から覗き込んでいた。
研究者として観察している。そういう言い訳は、この距離では通用しない。自分でも分かっていた。
KieranがMiraの顔を見た。何か言いかけて、止まった。
「……大丈夫ですか」
「毎回その質問をするのが、君の癖だな」
「毎回消えかけるのが、あなたの癖だからです」
Rileyが装置の損傷具合を確認するふりをして、どこかよそを見ていた。
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刈り手たちは、革袋を一つ残して逃げていた。
Miraがそれを見つけたのは、Kieranが完全に実体を取り戻してから五分後のことだ。地面に落ちた革袋の中に、折り畳まれた書類が二枚入っていた。
一枚目は採取許可証——オルネス連合王国の紋章入り、Verdant Syndicateの名義、有効期限は六ヵ月後まで。フィロメラ共和国内では法的に無効な書類だ。
二枚目は、内部研究資料だった。
Miraは読んだ。
読み進めながら、手が止まった。
第七条。守護者——森の守護者(グローヴ・ウォーデン)——の魂共鳴を触媒として利用した、無限魔力抽出の臨床手順。具体的な方法。必要な設備のリスト。予想される抽出量の数値。
そして、余白に、鉛筆書きで書き足された二行。
*守護者番号:K-03。推定座標: グレイド中心点より北北東二十メートル。*
Miraは、以前自分がノートに書いた一行を思い出した。
*誰かが彼の消失を、予定している。*
あの時は恐れとして書いた。今は、他人の手書きで、現実として突きつけられていた。
「Miraさん?」
右手が、熱くなった。
熱い、というより、制御できない何かが溢れる感覚だ。体内の樹脈——植物魔法を発動する体内の魔力の通り道——が、怒りに引っ張られるように広がっていく。こんなことは初めてだった。呼吸を整えようとした。間に合わなかった。
グレイドの縁の植物が、一斉に伸び始めた。
三秒で三倍の高さになった。根が地面を割り、蔦が空に向かって伸びた。緑の壁が、周囲を囲むように立ち上がる。通常の三年生見習いには出せない規模の魔力放出だ。Miraは自分でも分かっていた。止められなかった。
Rileyが声を失っていた。
「……今のは、なに?」
Kieranが資料を一瞥した。余白の鉛筆書きを読んだ。少し間があった。
それから彼は、静かに言った。
「消えるのが僕の役目なら、それでいい」
自嘲だった。声に力がなかった。本気でそう思っているのか、それとも諦めているのか、Miraには判断がつかなかった。
その言葉が、Miraの中で何かを壊した。
「それでいい、って何ですか」
声が出た。今まで出したことのない大きさで。
Kieranが振り向いた。驚いた顔をしていた。
「あなたの魂を道具にさせない。そんな計画、通す気はありません。この資料は証拠にする。Syndicateの違法採取の証拠に、守護者への実験計画の証拠に——」
声が少し割れた。止まらなかった。
「あなたが消えることを、誰かの計画の中で、当たり前みたいに扱わせない」
Kieranは何も言わなかった。
ただ、Miraの顔を見ていた。
Rileyは、視線をどこに向ければいいか分からない顔で、装置の傷を指でなぞっていた。でも装置は見ていなかった。耳だけ、こちらに向いていた。
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怒りが落ち着くのに、少し時間がかかった。
グレイドの周囲に異常成長した植物が、静かに揺れている。Miraが右手を見た。手が少し震えていた。
Kieranが地面に座った。Miraもその近くに座った。Rileyは少し離れた岩の上で、装置を膝に置いたまま黙っていた。
三人が、それぞれの方向を見た。
Miraには、分かっていた。自分が今夜引き起こしたことが。
Syndicateの高感度探知器は、異常成長した植物の魔力痕跡を拾う。あの光柱に加えて、この暴発の跡が残る。明日以降、グレイドの座標は最短一日で特定される。今夜の行動が、逆にKieranの居場所を敵に教える材料になった。
計算が、頭の中で冷たく並んでいる。怒りの熱が引いた後に残るのは、いつも計算だ。
Rileyが、しばらく黙っていた後で、装置の中から小さな地図を取り出した。
「……資料の数値で計算しました。Syndicateが実際にグレイドに到達するまで、最短七十二時間、長くて五日ある」
Miraが顔を上げた。
Rileyの表情が、いつもの明るさとは少し違った。反省、という言葉では足りない何かがある。装置の失敗が事態の引き金を引いた。それを理解している顔だ。でも彼は今、問題を解こうとしている。感情より先に、計算を出してきた。
「七十二時間で何ができるか、考えられます」
Rileyの地図データと、自分の標本記録を統合すれば——Miraは頭の中で素早く数えた——森の内部に防衛できる地点が、少なくとも三箇所ある。Soulheart Blossomを守るための時間を、もう少し稼げる。
次の一手を口にしようとした、その時。
Kieranが、静かに言った。
「……僕が消えかけるのを、ちゃんと見ていたんだな」
問いかけではなかった。確認だった。
Miraは少し間を置いた。
「見ていました」
それだけ言った。それ以上は言わなかった。
でも何かが、二人の間を通り過ぎた。言葉よりも小さくて、言葉よりも重いものが。
Kieranが少しの間、Miraの顔を見た。それから視線を空に向けた。朝の光が、Thornwoodの巨木の隙間から差し込んでいる。
Rileyは三人でグレイドを出る道すがら、二人の間の空気を観察していた。装置の修理方法を考えているふりをしながら、実際はそれをほとんど考えていなかった。自分がこの三人の中で何の役割をしているのか、黙って考えていた。
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Thornwoodを出た後、Miraはブラムリッジ村への帰り道を一人で歩いた。
鞄の中に資料が入っている。証拠として使える。でもそれよりも先に、やるべきことがある。
ノートを出した。歩きながら、一行書いた。
*暴発の痕跡を消す方法、または敵より先に使う方法。*
ペンを止めた。
朝の光の中で、Thornwoodの緑が静かに揺れている。あの中に、彼の居場所がある。七十二時間が、始まっている。Noveliaとは?
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